本日でフィニッシュ!!

機能分化した社会ではマスコミを補うネットの役割が典型的なように、もはや我々のコミットが無いとまともに動かない仕組みに変わっている。その事にずっと我々は気付かずにいた。気付かなくても上手く社会が回っていた。しかし冷戦体制崩壊以降、この枠組みが壊れて来ている。役人がそれを補って来たわけですが、その役人システムも誰も信用していない。

しかしだからと言って、その穴埋めを行なう役人システムを破壊してしまえば、その穴はそのまま投げ出されたままになる。だから役人の問題の背後には我々のコミットメントの無さというのがあるわけで、法と実体の乖離にしろ、法と法の乖離にしろ、我々が問題意識を持たなきゃ、民意が反映される事などあり得ない。

勝手に役人が解釈して適応するのが気に食わないというのなら、我々が解釈を与えて民意で動かさなければ立法は出来ない。法の解釈は裁判所に任せるとしても、そもそも実体から乖離している法律をどんなに守ろうが解釈しようが意味がない。

官僚制度を擁護するつもりは毛頭ありません。官僚制度というのは古来まともに機能したためしは無い。必ず腐敗して国家を食い潰す。それが官僚制度です。家産官僚制の時代は言うに及ばず、近代の依法官僚制であっても厳しく法で縛るという事をしないと、日本の官僚制度のように主権者気取りでやりたい放題になってしまう。

古来中国には「清官三代」という言葉があるくらいで、金に執着の無い清い人間でも、地方官になって赴任すれば、在職中に得た利益で孫の代まで楽に暮らせるということわざがある。清の高宗乾隆帝時代、権力をほしいままにした役人が、後の嘉慶帝によって自殺を命じられた際に没収されたその役人の財産は8億両、当時の清の国家予算の10年分に匹敵し、ルイ14世の私有財産の40倍の相当するなんて話があります。

驚くべき話だなんて思ったら大間違いです。現に日本の官僚制度というのは我々が選択する国会議員によって決められる予算よりも、遥かに膨大且つ不透明な予算を抱えて、それを好き勝手に使っている。それらは我々の税金であるにもかかわらずです。これらの利益が独立法人やファミリー企業群で回っている。アンタッチャブルな仕組みです。その仕組みを変えようとすれば検察にパクられて、マスコミから叩かれるのだから、出口すらありません。絶望的な話です。

昔から家産官僚制にしろ依法官僚制にしろ放っておけば必ず腐敗するものと相場は決まっています。例外は無い。したがって彼らは悪であると考えて対策を練らないと、絶対に使いこなすなんて事は出来ない。素朴に信用なんてしたら絶対にロクな事が無い。必ずそれが国家が滅ぶ引き金を引いている。

これを機能させる為に参考になるのが古来中国の官僚制度です。中国の官僚制度は清国が滅ぶまで2000年以上続いた。もちろん王朝の交代があったので、そうすれば官僚も一新する。それが続いた原因だと見る事も出来ますが、それでも300年くらい続く王朝も珍しくなかったわけで、日本が依法官僚制でありながら100年ちょっとでもうボロボロ(というか一回すでに戦争に負けて壊滅状態になり、再復興をはたすも経済的には前大戦の敗戦並の大打撃となったバブル崩壊、そして今と、100年ちょっとの間に何度も国民を絶望に叩き込んでいる、この原因の大きな部分を占めているのが、いずれも官僚制の問題)、国家存亡の危機に陥っているのから考えれば、300年近く続くのが普通にあったというだけでも、そこに何らかの理由があったと見るべきでしょう。

なぜかと言うと、中国の官僚制度には、常にカウンターパートが存在していたからです。それが絶えず監視し、腐敗堕落していると糾弾するような仕組みになっていた。だから続いた。初期のライバル達は貴族です。中国の皇帝というのは結局実力で上り詰めた人物ですので、貴族にしてみれば皇帝といっても所詮どこの馬の骨ともしれないという風に見ていた。皇帝にとってこの貴族達というのは厄介です。その貴族以外から人材を登用して思うままに使うという目的で官僚制度というのは始まった。

官僚とは元々皇帝が貴族達を治める為の仕組みだったのです。もちろん貴族もそんな事はお見通し。官僚達のあら探しをする。官僚達も貴族に対して敵対心を持つ。こういう牽制の仕組みが初期の頃は機能していた。

ところが唐王朝が滅びて五代の戦乱が起こると貴族が消えて行く。宋の時代になると完全に消える。宦官がそのライバルとなる。中国では古来から宦官の害がありました。彼らが政治に口を出し、それによって起こった政変は数しれない。にもかかわらずなぜ宦官なんて必要だったのかと言えば、官僚のカウンターパートとして機能していたからです。この両者の仲の悪さは半端じゃない。その牽制によって腐敗の歯止めになっていた。

それともう一つが御史台という官僚の汚職を捜査する機関です。この機関の権力は日本の暗黒裁判なんて比べ物になりません。この御史台の長官である御史大夫に告発されると、自動的に有罪と決まる。そして御史大夫の告発を受けた官僚は、皇帝から毒入りの菓子をいただき黙って食って死ぬ。疑いを持たれた時点で官僚は潔く死ぬものと決まっていた。疑わしきは罰す。死刑率100%です。

ここまで徹底的に取り締まったって、結局長くても300年かそこらしか王朝は続かない。理由はいずれも官僚の腐敗が原因の一因を作っている。歴代の王朝は全て滅んでいる。これだけ取り締まっているにもかかわらず、脅しているにもかかわらずです。それを考えれば日本の官僚が腐るのなんてニュートン力学並に自明な話です。リンゴは地面に落ちる。自浄作用なんて絶対に働くわけがない。そんな事では上手く行くわけが無い仕組みなのです。日本の江戸時代がなぜ250年も続いたのかと言えば、切腹やお家断絶という厳しいサンクションがあったからでしょう。

しかし近代国家を営む為には、官僚制を機能させないと上手く行かないし、これだけ複雑化してしまえば、優秀な人間じゃないと務まらない。誰にでも出来るというものではない。だけどいかにエリート教育を受けたと言っても、所詮答えのある問題に対して驚くべき能力を発揮するという意味でしか無く、経験した事の無い事態に対しては恐ろしく無力であり役に立たない。偏差値教育では発想力や創造力までは教育出来ません。

近代化という目標があって、そのモデルが欧米にある時代というのは、答えがあるのでやり方もわかる。しかしこれからの日本の舵取りというのは近代は成熟期に入り人口減少、超高齢化とかつてどこの国も経験した事の無いような、答えのわからない舵取りを必要とする。そうなると益々お任せ意識では上手く行くわけが無い。

可能性のある方法は一つ。我々が主権を行使し、政治家を選び官僚をコントロールする。それがダメなら拒否権を行使する。その繰り返しを繰り返すしか方法が無い。政治家なんて選べる奴がいないという問題はありますが、とにかく主権がどこにあるのか都度都度思い知らせ続ける。これしか腐敗を防止する方法は無いのです。官僚だって頑張っているなんて事を間違っても思っちゃマズい。彼らはそういう存在だという事を深く認識して、その上で使うしかないのです。

本当はマスコミがカウンターパートとなって情報開示し、我々が主権を行使すればいいのですが、マスコミと権力は一枚岩、我々が主権を放棄している。これでは腐ってくれと土下座しているようなものです。疑わしきは有罪、死刑率100%でも腐敗する。カウンターパートが厳しく牽制しても、国家を滅ぼす要因を作り出す。にもかかわらず情報は隠蔽され、法律を好きなように作り解釈し、カウンターパートも無ければ、罰さえ受けないどころか、問題点も全く是正されもしないのですから、滅びの道をアクセル全開で突っ走っているようなものです。マスコミには全く期待は出来ませんので、我々が選択するしか無いのです。

国民すべてが彼らのようなエキスパートになるなんてのは出来るわけが無い。なので、いくら危険な代物だと言っても、ある程度任せないと国も機能しない。必要不可欠だけど、ちゃんとコントロール出来ないと、国家を食い潰す魔物に変じる。何とも厄介で困ってしまいます。先ずはその事を知らないと何も始まりません。

立憲主義や民主主義というのは正直言えば戦後のそれは相当怪しいものだったとは思います。何せある時期以降、自民党がずっと支配して来たわけだから、民主主義なのかと言えば疑問が残る。機能していたとは言えないかもしれない。だけど、少なくとも民主主義という制度によって国家を運営していたのは確かでしょう。岸信介なんかが退陣に追い込まれたのなどを見ても、民主主義が機能していたと言える(安倍晋三が祭り上げられたときに岸の孫だと騒がれたわけですが、岸というのはどちらかと言えば民主主義の敵というのがかつてのコンセンサスだったはずなのに、その事が何やら救世主とか、サラブレットであるかのように持ち上げる。近衛文麿になるぞって感じでした。案の定サラブレットでも何でも無く、ただの我が儘でしかもバカなお坊ちゃんでしかなかった)。

しかしこれもロッキード事件の時に、特捜の暴走による適正手続きを無視した暗黒裁判、それを翼賛する民意とマスコミの暴走と、本当はすでに民主主義と立憲主義をかなぐり捨てる方向性に舵を切っている。その頃から積もりに積もったツケが、今溢れ出しているとも言えるかもしれません。

それに戦前の民意の暴走によって失敗するという事を少なくとも学習していたので、どこかでネタとして民主主義や立憲主義を機能させていると思わせる事が大切だと、ある時期までの統治権力は思っていたのかもしれません。素朴に民主主義や立憲主義を機能させると、民主主義は民主主義を掘り崩し、立憲主義であるが故に暴走に歯止めがかからないという事態を経験しているわけですから。要するにマキャベリ、マックス・ウェーバー、カール・シュミット的な、民主主義や立憲主義を守る事が意味があるような社会を護持する事が、統治権力の責務であると。

まあこれは褒め過ぎだと思いますけれど、何せアメリカというのがいて、冷戦体制というのがあったのが、一番の原因かもしれません。経済が発展している時というのは、問題点があっても社会が上手く回っているので気にならない。

しかしこの民主主義や立憲主義を機能させていると思わせるという事を忘れ、民主主義や立憲主義を堂々と踏み越えるような振る舞いがどんどん度を超して来る。守る為というよりも、積極的に踏み越える事によって政局に勝ち、権益を護持するという、手段が目的化する。

マスコミに対してもそうです。マスコミの骨を抜いたのは田中角栄ですが、マスコミも本当に自由にさせておくと、ろくな啓蒙をしないのである時期まではむしろマスコミを機能させる為に国家があえて骨を抜いていたと言えるかもしれない。田中を失脚させたのはマスコミのバッシングによって国民が拳を振り上げていたわけですから。

田中の弟子筋に当たる竹下だって総理として政治家としての評価はどうかと思いますけれど、リクルート事件でメッタクソにマスコミにバッシングされても、訴えようとする側近に、権力者はそういう事をするものではないとたしなめていたと言います。

しかしこの骨を抜かれたマスコミを、次第に頭の悪い権力者達が、エサをちらつかせて利用するような振る舞いが段々酷くなっているように見える。地デジ対応の補助金バラマキがエコだなんて話になる。日枝とかナベツネなんかが政府の審議会に入って安心安全社会とか議論しちゃっている。とんでもない話です。

本当は暴走させない為に骨を抜いたのに、むしろ骨を抜いている事を逆手に取って、翼賛の暴走を煽るようにアメとムチをちらつかせけしかける。これは今に始まった事ではなくて、大なり小なり昔から権力者達は利用して来たと見る事は出来ますが、最近の権力者にしろ、ステークホルダーにしろ、いちじるしく劣化していて、しかもその事に多くの人が気付いているので、やり方があまりにも露骨で稚拙すぎます。もう少し巧みさというのがかつてはあったように思えます。

それにちょっと叩かれるとすぐに訴えるだの名誉毀損だのって話になる。権力者であるという自覚が薄れている。これは結構最近特に酷くなっているように思えます。安倍晋三なんかがいい例です。企業の経営者もこればっかり。

それに大手マスメディアの調査報道に対するモチベーションは殆ど無くなっているように感じます。そんな事よりも利権を守った方が合理的だという事でしょうか。昔からそういう部分はあったと思いますが、ここ最近はそれも露骨で稚拙になっているように思える。骨のあるジャーナリストというのは、記者クラブを開放しようが、大手メディアの独占構造が壊れようが、能力がある人は競争しても生き残れるでしょうから、別にそんなの気にしてないでしょうけれど、その能力の無い、談合メディアにぶら下がっている人々にとっては競争より利権となるのはまあ行動原理としてはムカつきますが合理的だとは言えます。

いずれにせよ大きな転換としては冷戦体制が崩壊した事によって、世界の構造が変化し、何とか誤摩化しがきいていたシステムの問題点が可視化されて来てしまったという事が一番の原因ではあると思います。そこに対応出来ていない。

もちろんこれは我々受け取る側の解釈の問題も生じます。以前のエントリーで、田原総一朗と筑紫哲也を比較して、自分は田原の報道の方がフェアだと思うという事を書いた事があります。もちろん素晴らしいという意味ではなくて、どちらがマシかという意味で。今のテレビという箱の中で少なくともジャーナリズムを謳っている人間の中ではまともな報道ではないか?と。

これは違和感を感じる人もいっぱいいると思いますが、要するにもの凄く大雑把に乱暴に言うと、前者が選択肢を見せる事を重視するのと、後者は正解を見せる事を重視するという差があるのではないか?という事を書きました。

当然我々は選択肢を見せられると恐れおののく、気に食わない選択肢まで見せられるのでムカついたりもする。しかし答えを教えてもらうと、なるほどと納得してそうだそうだと思う。したがって前者は忌み嫌われ、論点がバラバラのまま投げ出され迷う。後者はその答えが嫌いな人はとことん嫌いますが、それが心地いい人にはもの凄く安心感を与えてくれる。物事を好きか嫌いかというレベルに単純化されてしまい、分断をブーストさせてしまう。少なくても後者を大好きという人はいますが、前者を大好き、彼の言論が信じられるという人は非常に稀でしょう。みんな前者の事はレベルの違いこそあれ、あんまり快く思っていない人が殆どだと思います。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、何がしたいのかわからない。しかしその事が重要なのではないか?と感じるのです。それが選択肢を見せているという事に繋がっている。

迷うというのは答えがわからないからですが、好きか嫌いかを決定出来るのは答えを見せられるからです。自分で答えを見つけなさいと投げられている分だけ、前者の方がフェアではないか?と書いたわけですが、当然後者の方が心地いい人からすると、何を言ってんだよ?という不満がある。

選択するには選択肢を見せてくれればよくて、答えは我々が決める事です。しかし答えがわからないので不安になるという心境が、答えを見せねばならないというマスメディアの暴走を生み出す事と直結するのではないのか?という風に思うわけです。

今のマスコミというのはだいたいロッキード事件あたりを境にして、選択肢を見せるという手法よりも、答えを見せるという手法に舵を切っているように思えます。公正中立な報道を謳って一応両論並記させていたりはしますが、これはどちらも報じていないというスタンスと殆ど変わらない。ある時はこっちへ深く、ある時はあっちへ深くという風に見せるほうが、論点に隠れている問題の本質をえぐり出すにはその方が適している。しかし両論並記のどちらも浅く逃げ道を残しての誤摩化しか、答えを見せる、こればっかりです。そして常に権力に媚びている。

ロッキードの時に検察のデュープロセスを問題にした論者は少なくとも表舞台の大手マスメディアからは、ことごとく抹殺されている。このとき徹底的に検察の肩を持って権力のケツを舐めて田中を糾弾した論者達は逆に残っています。代表的な例で言えば立花隆なんかがそうでしょう。筑紫哲也もそうだった。

この際、田中の肩を持っていると言われて世論からもマスコミからもクソミソに攻撃された人々というのは、田中が金を貰っているかどうかなんて言う問題はどうでもいいというかそれはそうかもしれないけれど、検察が暴走している方が問題だと言っていた。田中を擁護するというよりも、権力が主権を侵害しているという事を問題にしていた。それに対して、田中を攻撃していた人達というのは、そういう人達を田中を擁護する頭のおかしい無知な連中と決めつけて攻撃する。自分はどう考えても後者の方が無知だと思いますが、世論もマスコミもそうはならなかった。徹底的に田中は血祭りに上げられて、田中を擁護していると指をさされた人達もボロクソに叩かれた。

要するに国民が自ら選択肢を拒み、答えを評価して民主主義や立憲主義は自殺する。この時のマスメディアも一見、元総理大臣という権力に抗っているポーズはとりましたが、要するに三木総理のケツを舐める検察、そのケツを舐めるマスメディア、そのケツを舐める国民という権力に媚びるケツ舐め連鎖でしかない。これは今の小沢秘書問題と全く同じ構図です。かろうじて当時よりはネットの普及によって世論がそこまでは検察翼賛になっていませんが。

マスコミの行動原理というのは一貫していて、その都度その都度、強者に媚び、長いものにまかれ、どこかに悪者を設定して徹底的に叩く。その強者が世論であったり、政府であったり、アメリカ政府であったり、連合国であったり、被害者感情であったり、自民党であったり、民主党であったり、検察だったりと、そのとき一番の勝ち馬に乗っかってお祭り騒ぎをする。叩かれる悪者達は、田中であり、小沢であり、北朝鮮であり、戦前の日本であり、また戦後の日本でもあり、特定の政治家でもあり、加害者であり、バンドワゴン現象によって徹底的に血祭りに上げる。そいつが強者であるかのように煽られて、みんなでクソミソに叩く。権力と一体になって叩く。強きを助け弱きをくじく、タケちゃんマン(古)的行動原理です。そういう奴が結局のさばっているのが今の大手マスコミと言える。

何か問題があった場合、なんらかの権力を使ってそれを叩くという事そのものは相手が強大であれば仕方がない部分はもちろんあります。しかしその暴力性に常に敏感になっておかないと、今度は加害者側に変じてしまう。だから自分達がよってたつ権力や世論をその都度脱構築して、常にズラしていく必要がある。しかしそんな事をやっているマスコミは無い。ガス抜きとしてポーズはとりますが、この暴力性は野放し状態です。だいたい言う事は決まっている。

自分は特捜は別に無くしても構わないと思う。だけどマスコミというか、ジャーナリズムが機能しなくなるという事は絶対にあってはならない事だと思う。特捜が無くなったって検察が無くなるわけじゃない。警察もいるし、政治家の疑獄であれば、ジャーナリズムが機能して情報を開示し、我々がそれを吟味して、選挙で決断を下す。という流れが正常に作動すれば、特捜なんていなくたって別にどうって事は無い。

政治家だって情報がキチンと開示されていれば、我々が選択出来るわけですから、失敗は付きまといますが、学びのチャンスとして生かす事が出来れば、それも民主主義のコスト、その選択の権利を捨てなければ希望は無くならない。

しかしジャーナリズムが無くなるとすると、これは情報がキチンと開示されなくなる。つまり隠そうと思えばいくらでも国家が隠蔽して、その疑いを誰も指摘しなかったら、主権が我々にあったって選択出来ません。半ばそうなっていますが、これだけは絶対に回避しなければならない。

ジェファーソンの言葉で、「情報は民主主義の貨幣である」という言葉があります。情報が無ければ民主主義は駆動しない。そして「新聞のない政府と政府のない新聞のどちらかを選べと言われたら、私は迷わず後者を選択するであろう」という言葉もあります。これを引き合いに出して、よくマスコミ関係者なんかがジャーナリズムの価値を言うのですが、これは前述の言葉と同じで、情報開示の切実さの話を言っているのであって、ジャーナリズムそのものや新聞、マスコミ自体に価値があると言っているのではない。

我々が政府を選択したり吟味する為には情報が無ければ出来ない。情報があって問題を認識出来るから政治家を選んで、問題に対処してもらう。情報が無ければ問題の認識も出来ないし、あっても共有出来ない。政府がいても対処させられない。処方箋を何にどうやって打つべきか、またそれが適切かどうかもわからなければ、選択もしようがない。だから政府よりも情報が先ず優先的に重要視されているわけです。政府が無くても情報さえ共有されれば、何らかの対処法を考える事は出来るでしょう。しかし情報が無ければ、政府があっても機能しない。民主主義国家としては致命的な状況になる。その事が大問題だからこういう言葉が残っている。

マスコミが情報をいい加減に政府と結託して流すようになったら民主主義なんて機能しない。この国は完全にそういう状況に陥っている。マスコミの機能がネット上へと外部化されていると書きました。本当は旧来のマスコミが情報を適切に流してくれれば何の問題も無いわけですが、そうもいかない時代になってしまった以上、我々がそれをどうやって補うのかが、これからの社会の重要な課題なのでしょう。

この話題はこれにてEND!!