前回の続きです。

本当はこう思っているけれど、例えば共同体の共通前提に従って、ここは話を合わせておこうという振る舞いもそれほど必要ではなくなっている。みんなの共通前提提供の為の今までのマスコミ的なあり方が必要なくなっている。俺にとって気持ちがいい報道じゃないというだけの話で、俺にとってが昔はもう少し範囲が広くて、俺達だったりしたわけです。年齢や性別、職業、収入、住んでいる場所・・・・・・いろいろな共通前提があった。

今は同じ年齢で同じ性別で同じような職業で、同じような収入で、同じような場所に住んでいたとしても、10人いても同じ価値観を共有出来る人がいるとは限らない。優先順位が人によって全然違うし、ものの見方も変わっている。だからネット上のような物理現実に縛られず、年齢、性別、職業、収入に縛られない人間関係をみんなが求めている。そうでもしないと共感が無いからです。だからこれだけ普及する。

今ドラマで人気が出るのはだいたい学園ものだと言います。なぜかと言えば、学校に行っていたという共通前提だけは老若男女かろうじて残っているからです。あとは死をフックにしたお涙頂戴。これは誰でも死ぬからです。まわりの誰かが死ぬと想像すれば誰でも悲しい。バラエティ的なバカを笑うというのもそうで、バカをバカだと思うのは万人共通の価値感です。それにバカだっていいんだもんという風に思いたいというのもある。そういうものしか共感が無くなっている。だからこそ共感を求めて彷徨っている。こういう状況で、万人が満足するようなものを提供しなきゃならないという重荷は物理的に無理な話で、ドラマとかバラエティならまだしも、政治的なものであったり、要するに報道が担って来たものではこれだけ複雑分化した社会では絶対に無理。分化するしか道はない。

それは何を意味するのかというと、昔は法と政治が一緒くたになっていても上手く回っていたのは、我々がそれを信頼していたからです。だけどある時からそれが信頼出来なくなる。そして実際に問題も顕在化している。そういう社会の変化による要望に応えて、法と政治が分化する。これをマスコミのレベルで考えると何を示すのかと言うと、従来のマスコミと今のマスコミで何が変わっているのかと言えば、別に何も変わっちゃいない。だけど昔はそれが機能しているように感じていたとすれば、それは我々がマスコミをある程度信頼していたからです。嘘捏造は昔からのお家芸ですし、翼賛報道もポピュリズムも昔から得意中の得意。

しかし我々はマスコミを信用しなくなった。そういう人が相対的に増えた。テレビや新聞を見なくとも選択肢が増えたという変化によるのかもしれないし、いろいろ理由はあるだろうけれど、昔は100%信用していたわけじゃないにしろ、それほど酷い事はやらない「はず」だと思っていた。信頼をしていた。それが我々の自明性に書き込まれていた。だけど社会の変化によってその自明性が崩れ、マスコミを信用出来なくなった。だからブログやネット上でのコミュニケーションがその穴埋め作用と、マスコミ批判のブログだったり、ネット上でのコミュニケーションだったりが必要となる。しかしそれが何によって支えられているのかを忘れてはマズい。

見方を変えると、マスコミを本気にするというのとバカにするというのは、いずれにせよマスコミを前提にしていると見る事も出来る。本気で信じている人なんていないかもしれないけれど、マスコミなんて嘘ばかりじゃないか、こんな報道をしやがって、あんな報道をしやがって、こんなバカな番組を作りやがってと、例えば自民党支持者にしろ、民主党支持者にしろ、この部分だけは共感可能性がある。という事は要するにマスコミをネタにしてバカにするという風に変わっただけで、共通前提をマスコミが提示していると見る事も出来るし、その共通のネタで盛り上がるという意味では、何も変わっていないようにも見える。マスコミがインチキであるという事をみんなで信頼している。ネットやブログが補完する事によって。その複合体が社会の変化に対応したマスコミの分化と言えるのかもしれない。

そして既存のマスコミの独占構造が壊れて、オルタナティブが出て来たからと言っても、今よりもマシになるかどうかはわからない。マシになるかどうかはわからないけれど、変わる可能性があるというだけです。オルタナティブと言っても、例えばこのアメブロのニュース欄の見出しを見れば中身を読まなくても読む価値があるかどうかは人によってそれぞれですが、とてもじゃないけれど、報道の代わりが務まるような類いのものではありません。オルタナティブと言っても、そういうものが人気を得る場合だってあるわけですから、むしろ劣化するかもしれない。

重要なのはそのポジションが入れ替わるという意味での変化があるだけで、マシになるかどうかはわからない。それも全体的な構図で見れば独占構造が消えてもどこかが勝ち優位にたち、どこかが相対的に負けて劣位にたつ事になるわけで、問題そのものが解決するわけではない。解決出来るとしても競争による一定の淘汰が必要ですから、それには時間がかかるでしょう。

そして競争による淘汰が起これば、勝った所は総取りできるので、独占構造と帰結は同じになります。しょうもないメディアが人気を博して勝ち組になってしまえば、もっと酷い事になるかもしれません。なので常に流動化を維持していかないとどの道腐敗はします。それは流動化をただ押し進めるだけでは優勝劣敗になるので、流動化を健全に保つ為にはある程度の管理と市民によるコミットメントが必要になる。市場の原理と同じです。短期的に見れば変化と言っても既存のマスコミに対するルサンチマンが晴れるという意味しか無い。だから信頼を担保する為に分化して外部化が起こっているのでしょう。従来のマスメディアよりもネット上での言論で情報を吟味している人がもの凄く増えた。ネット上の一部の人たちによる市民性やリテラシーが広がっている。

実際インターネットメディアというのは動画配信サービスなんかをみてもどこもかしこも厳しい状況のようで、GYAOが大赤字でがヤフー動画と統合なんて話もあるし、ヤフー動画自体もあんまり儲かっているようではない。YOU TUBE本体もそれとは比較にならないような大赤字だし、ニコ動も赤字。活字のニュースの配信も実際は大手マスコミがただで流しているから、それをただで流せる。旧来のビジネスモデルの上にオルタナティブも乗っかっているから、現状のネット環境を我々はエンジョイ出来るわけで、そういう意味で分化していると言ってもこの複合体がマスメディアのシフトチェンジした形と言える。

その複合体の一部分である旧来のマスコミだけを問題にしても、旧来のマスコミが旧来のマスコミであってくれるから現状のシステムが回っていると言える。この中、もしくは外部からでも、いずれにせよ流動化が起こって中身が入れ替わったとしても、つまり旧来のマスコミが何らかの形に変化したとしても、全体の大枠での複合体で捉えると何も変わらない可能性は十分あり得る。

旧来のマスコミの構造が壊れれば、当然情報は有料化する可能性が高いので、旧来のマスコミの権益構造がいずれ崩れるのは確実であったとしても、無理矢理しかも急激に壊してしまえば痛い目に合うのは無料で情報をエンジョイしている我々なわけで、複合体としてのマスコミシステムもバランスを失う。だから批判も流動化も当然必要なんですが、旧来のマスコミを叩き潰すという意味ではなくて、システムを正常に作動させる。変化させるとしてもその変化が社会を掘り崩すまで急激に舵を切らないような、システムが正常に作動しなくなるような舵の切り方はしないような感覚がないと、政治や経済や法の執行や様々な分野のシステムに影響を与えて、破壊してしまう可能性がある。

秩序の維持と言うと、犯罪を無くすとか、問題を解決するとか、そういう風に思いがちなんですが、社会の秩序と考えるとき、しかもその主題を犯罪と捉えると、犯罪をゼロにするという事を優先させるよりも、ある一定よりも低い状態に保つという事を優先させて考えないと社会は上手く機能しません。犯罪撲滅と言いますが、本当の意味で犯罪を撲滅するというのは実現不可能な命題です。おそらく歴史上一度も実現された事は無いでしょうし、未来永劫実現もされないでしょう。

犯罪の撲滅を目指して徹底的に取り締まるとか、重罰化によって脅し、ガチガチに監視するとか、そういう事までやってまで秩序を維持するという事を勘違いすると、信頼の穴埋めという補完の意味を越えてしまって、より我々の自明性や自由な領域を破壊する事になりますので、いったんそういう風にしてしまうと、退却不可能な監視社会になってしまう。またそこまで徹底的に取り締まらないと秩序が保たれていないのだとすると、自明性は跡形も無く破壊され尽くしている事になるので、誰も信用出来ない、いつ抜け駆けされるかわからない、常に合意が必要で、満足に外食も出来なくなる。電車にも乗れないし、大丈夫なはずだと思えなくなる。

だから肝腎なのは信頼の穴埋めであって、信頼を掘り崩すまで社会が変化しないようにしないと痛い目に合うのは結局我々になります。犯罪撲滅と言ったような均衡的な秩序維持ではなく、社会の変化に対応しつつ開放系の定常的な秩序維持が重要になる。犯罪をある一定の割合以上は増やさないような。

常に危険だと言えば危険にさらされて入るけれど、そういう事をする奴はまさかいないだろうと思って、合意や監視をスキップしながら社会を営まないと、コストばかりが高くつく。そんな時間もない。非効率になります。いちいち何か食品をスーパーから買って来て、それを検査機関でチェックして、なんて事をやる社会は治安がいい社会であってもまともな社会とは言えません。そしたらその検査機関も信用する為に、外部の第三者機関が、みたいな感じでどこまでいっても穴埋め出来ない。もうすでにそういう社会になるつつありますけれど。

それに社会をむやみに変化させると、必ず意図しない帰結によって自滅するというパターンがある。現代社会はどの道かつてのようなわけにはいかず、必ず社会は変化し続ける。日々変わっています。その事によって常に意図しない帰結が生まれている。もう複雑になりすぎて何が原因かもそう簡単にわからない時代になっちゃった。なんだかよくわからないけど上手く回っているものというのは、システムがそれで上手く作動しているから上手く回っている。そういう自明性が壊れると、それを補うのは簡単な話じゃありません。コストもかかる。

犯罪が起こったり問題が起こったりする事そのものではなく、人が生きていれば病気になるように、それはある程度避けられないものでもある。人が病気になっても治療する手段があったり、病院に誰もが行けたりと、それを手当てする手段があれば社会は上手く回るのと同じで、一定数犯罪が起こっても、それがキチンと取り締まりがあって、適正手続きに基づいた裁判が執行されて、その事によって罰が与えられ、被害にあったご家族の感情的な救済が社会やまわりの人々によってなされ、と言ったように、犯罪が起こってもそれがキチンと処理される仕組みが整っていればシステムは正常に作動する。

これがある一定の数より増えるとか、キチンと処理されないという状態になる事が秩序維持にとって重要な問題で、そういう場合はシステムが正常に作動していないわけだから、何かしらの問題がある。何かしらの問題がある事に気付いて是正出来るのであれば、それもある意味健全であると言える(もちろん日本は健全とは言えないと思いますよ。日本のシステムが正常に作動していないのは、犯罪が一定の数より増えているからという問題よりも、むしろ犯罪が激減しているのに、激減しているという事を国民が知ると、役所の権益も減っちゃうので、減っているという事は言わないで、あたかも増えているかのような錯覚をさせ、それを利用して更に無理矢理減らそうと、もしくは減らしているポーズをとる為に、システムをいじくり回している。だから自明性や信頼は益々破壊されてコストは増え、社会は益々疲弊するという悪循環が起こっている。右手でマッチポンプ的にエントロピー増大にむしろ加担して、左手でエントロピー縮減の縫策を打つ、犯罪という問題を例題的に上げましたが、これはあらゆる分野のあらゆる事に言える事かもしれません)。

そこでマスコミの後付け的な「本来あるべき姿」の話に戻りますが、マスコミは市民社会を護持するため、秩序維持の役割、権力の監視、ということを言う時に、我々はマスコミそのものに、啓蒙とエントロピー増大による秩序の乱れという相反する作用があるにもかかわらず、均衡的な複雑性の縮減、秩序維持の意味も込めて期待してしまっている部分があるのではないかと思えます。でありながら徹底した情報公開も望んでいる。マスコミが何かを報じて、それが何らかの手段によって是正されるのなら、それはシステムが正常に作動していると言えます。つまり複雑性の縮減や秩序維持はマスコミの仕事ではない。秩序が乱れているとすればそれはシステムが正常に作動していないからです。

マスコミが犯罪を報じて、それでシステムが作動し、信頼回復をはたせれば何の問題も無い。マスコミが嘘捏造を行なったとしても、もちろん道義的責任は生じると思いますが、それをネットが糾弾してインチキが白日の下にさらされて、例えば広告主が撤退するなんて話もあったりしますから、マスコミがそれによってサンクションを受ければ、もしくは競争によって淘汰が起こって入れ替えがあれば、それはそれでシステムとしては正常に作動している。

つまりマスコミは本来出来もしない、秩序維持、市民社会護持という役割まで担っていると勝手に勘違いしているのか、我々が期待しているのか、いずれにせよそういう不可能な目的を果たそうとするから、複雑性の縮減の為に嘘捏造をしたり、悪者を徹底的に叩いたり、エントロピーの増大を防ぐ為に、難しい問題を深く突っ込まなかったり、下らないと我々が感じる事しか報じる事が出来なくなっているようにも見える。秩序維持は彼らの仕事ではないし、市民社会を護持するのは市民の役目です。マスコミは単なる道具に過ぎない。

肝腎なのはエントロピーを増やさないのではなくて、マスコミが情報開示してエントロピーが増大しても、システムの定常的な秩序維持によってそれを常に打ち消す事が出来れば何の問題も無い。だから本当はそこを問題にしないと意味がない。

マスコミ自体がシステムの作動を妨げているのであれば、当然それは問題です。独占構造や無駄な高コスト構造なんかはまさにそうでしょう。社会全体のシステムというのは、政治システムだけが機能しても上手く行かず、経済システムだけが機能しても上手く行かない。法システム、科学システム、宗教システムと、相互に前提を供給し合い、影響を受け、秩序を保つ相互依存関係にあるのが社会というシステムです。それが正常に機能する事によって、秩序も維持される。エントロピーも定常に保たれる。

マスコミの対応も、機能不全を起こしているように見えますし、実際にそういう部分は間違いなくあるでしょう。だけど社会はマスコミだけを問題にしても上手く回らない。おそらく様々な政治、経済、法と、あらゆるシステムが機能不全を起こしてシステムを作動させているので、その機能不全のシステムで秩序を維持しようとするから、余計歪みが出ているように感じる。

機械というのは部分部分から組み立てる事が出来ます。その部分だけを取り外して、修理する事も出来る。だけど人体とか有機体というのは部分部分をかき集めても全体にはなりません。脳だけを取り外して修理するという事も出来ない。相互に干渉し合っていて、どこかが機能不全を起こすと全体のシステムが狂って来る。社会というシステムもこれと同じです。

近代以前は政治と法や政治と経済と言ったように、未分化で特権階級が牛耳っていてもそれで社会は回っていた。しかし近代化による社会の変化が起こると、自明性が崩れ信頼の前提が脅かされてしまいます。そうすると、システムの秩序維持の為に機能分化をはたすことによって信頼の穴埋め作用を行なう。機能分化した上で、相互に前提を供給しあう相互依存関係に移行する。

日本は一応機能分化しているので近代化していると外形的には見る事が出来ます。しかし政治と法が癒着し、政治と経済も癒着している。政治と宗教も一致している。と、実情はとてもじゃありませんが機能分化しているとは思えない。しかしこの場合機能分化していないという事を問題にするよりも、機能分化していないのに上手く行っていたのはなぜ?という事を考えた方がいいかもしれない。それは答えは簡単。それでも信頼があって社会が回っていたからです。なぜ問題になったのか?信頼が壊れてそれで社会が回らなくなった、社会が変化しているからです。

日本の近代化というのは、市民から沸き上がって起こったものではなく、下級とは言え武士という特権階級が起こした上からの変化です(サムライジャパンとかちょっと前に騒いでましたけれど、武士は全人口の7%に過ぎません。サムライの国だったというよりサムライがいた国であって、殆どがそれ以外の人達だった。本当は百姓ジャパンの方が日本の全体性という意味で言えば的確でしょう。まあサムライの方が格好よく聞こえるのかもしれませんが)。戦後の再近代化もアメリカが上から変化させた。問題があるから機能分化したわけでは元々無い。だからそれが形骸化するのも必然です。問題が認識出来ていなかったのですから。

マスコミも何も変わっちゃいない。政治家もそう、役人も。そして我々も。社会が変わったから機能していないだけ。したがって処方箋は単純な話で、空洞化した信頼を穴埋めすればよし。政治システムと法システムと経済システムと宗教システムと、それぞれ分化させればよい。マスコミはマスコミの役割、市民は市民の役割と分化すればよい。社会の変化は元には戻らないのだから、道徳だの伝統だのを叫んでもどうにもなりません。こういう事を叫んでオナっている連中は下半身をさらしているのと同じです。実質的な効果は何もないと断言出来ます。したがってこういうバカを徹底的にバカにしましょう。

問題が認識出来るようになったというのは重要な話で、認識出来なけりゃ変化も出来っこない。そこで、これを逆回転させる為にはシンプルに原則に立ち返って考える必要があるという問題に移ります。問題がわかっていて、この国は我々が主権者なんですから、本当は簡単な話です。

機能分化は制度的には整っている。問題は制度があるにもかかわらず、中身がそれについて行けていない。未分化な社会、近代以前の中身のままである事が問題な訳です。制度が整っていない、もしくはそれを整える手段が無いというのなら、分厚い壁が阻んでいると言う事になるわけですが、そういう障害は本当は取り除かれている。取り除かれているのに、我々のマインドがそこに適応していないが為に、やりたい放題にしている連中がいるわけです。機能分化した社会に我々が対応すればいいだけの話なのです。

法と法以外の問題をキチンと峻別出来ないとか、政治が全く機能していないのに、どこの政党を選ぶかでもめていたり、金を稼がないと食って行けないのに、経済の問題に鈍感だったり、物事の優先順位を考えなかったり、ノドンが実戦配備されていて核弾頭も搭載出来る状態かもしれないのに、日本には破片が落ちるかもしれないという比較的どうでもいい話のテポドンにお祭り騒ぎをしたり、それに対してMDなんかが効果があると、まるで迎撃出来るかのように思っていたり、勘違いを正して、対応すればいいだけなのです。

つづく!!