普段クソ映画を単独でエントリーにして、けなすという事は、一度やった事はありますが、基本的に時間もないので、そんな無駄な事は書かないようにしておるのですが、最近観たクソ映画があまりにも絶賛系が多くて、随分自分の感性は人と違うのだなと痛感しております。
最近レンタルして踏んでしまった地雷があまりにも酷かったのに、結構みんな面白いと言っているクソ映画。この映画を観てよかったとか言っている人は、映画を観た事あんのかよ?と思ってしまうくらいの、K(けー)・U(ユー)・S(エス)・O(オー)・クソ映画でした。そんな事もありまして、今日は久しぶりにクソ映画を徹底的にボロクソにけなす事にしますお題は「ホノカアボーイ」。
尚この作品に感動された方にこそ、読んでもらいたいのはやまやまですが、多分不愉快になる恐れもありますので、その事は最初に書いておきます。自分は変人ですので、変人の戯言だと思ってくださって結構です。それとネタバレ含みますので、もしこのクソ映画を本当に観るのを楽しみにしている人がいるのなら、ご注意くださいませ。それではおっぱじめます。
邦画にはある法則があります。それはテレビ局主動の映画は地雷の可能性が高い。今まで観て来たもののそのほとんどがクソと言える。その中でも、亀山千広が関わるもので面白い映画を観たためしがない。ことごとくクソ。これはあくまで自分の個人的な感覚なので違和感を感じる人も多いかもしれません。というかこの人が作る映画はそれなりにヒットもしますし、感動した!!とか言ってる人も多いので、どちらかと言うと自分の感覚の方が普通じゃないのかもしれない。
これ結構評価が高いのですが、自分的に言うとつまらないの一言です。一見雰囲気とか、奇麗な景色とか、人との触れ合いとか、登場人物のユーモアとか、おいしそうな料理?とか、何となく面白げな記号を集めて来てはいるのですが、根底に流れている構造が腐っているので、全く心に響かない。気持ち悪い感動げなだけの腐った台詞まわし。良い事言おうという気持ち悪さ全開。全く面白くもクソもない鼻持ちならないユーモア、まさしくご都合主義の感動げなだけの腐りきった映画です。
これに感動するとか言っている人は何を見てそう思うのか?理解出来ません。最近観た映画の中で一番酷かったクソ映画は「少年メリケンサック」これは構造が腐っているだけでなくて、観ていてムカつく。考え方とか物語の落としどころが本当腐っていて、害悪ですらあると思う。ギャグもことごとくつまらなくて、何となくギャグを自分で言いながら笑っちゃっている感じで、「これ面白いでしょ、うふふ」みたいな気持ち悪さ。この映画は観ていてムカつくので最悪でしたが、それよりはマシだけど、それに次ぐつまらなさでした。途中で「もうどうでもいいいよ」って感じ。
こういう面白げな雰囲気を持つ映画というのは、一発でクソ映画だとわかる映画に比べて始末に悪い。間違って観ちゃうからです。それにこういうのを観て映画ファンを気取る人も増やす事になる。だから徹底的にけなします。許せん!!
まず無駄な場面が多すぎる。冒頭、蒼井優が登場するくだりの場面は丸ごと不必要で、蒼井優を出す為だけに無駄な場面が付け足された感じ。冒頭垂れ流される説明的主人公のモノローグで説明している事をわざわざビジュアルにしてみせる。観ている人間をなめている。後に出てくる深津絵里の場面もそう。有名人をちょい役で出すために、わざわざどうでもいい話を付け足す。無駄。
蒼井優も深津絵里も好きですし、女優さん達には罪は無いのですが、本当観ていて不愉快です。特に蒼井優の映画は結構あたりが多いので、好きなんですけれど、正直邪魔でした。クソ映画に出ていると、せっかく好きな俳優なのに嫌いになりそうになる。少年メリケンサックの宮崎あおいも、好きだったのにアレでかなりムカついて、嫌いになりそうでした。まあ女優さんには罪は無いのですが。
だいたい始まってすぐ主人公のいい事言おう的なモノローグや説明で嫌な予感はしていたのですが、予感はすぐに的中。奇麗な景色をやたら無駄にこれみよがしに、自慢げに映し出す。これなら景色の写真集でも観ていた方が楽しい。
気持ち悪いばばあの家のおしゃれげなキッチンとか、主人公が働いてるおしゃれげな映画館とか、単なる記号として寄せ集めているだけで、作り手の「こういうのかっこいいでしょ?」とか、「こういうのおしゃれでしょ?」みたいな、こんな感じのものを入れてくとウケるんだよ。みたいな記号の寄せ集めがうざったくて吐き気がする。
本筋の話は主人公とババアの触れ合いが軸になっているのだけれど、これが最初っから最後まで徹頭徹尾、ご都合主義もいいところでいい加減にしてくれよって感じです。だいたいあんなババアがいたら気持ち悪い。行動がいちいちわざとらしくて気持ち悪いし、しゃべり方も気持ちが悪い。というかストローで飲み物を人の頭にかけたり、輪ゴムのピストルで人を撃ったり、初対面の人間に何してんの?あんた?ぶっ飛ばすぞババア。あのテレビが横になっている演出とか、観ているとむかっ腹がたってくる。
例えば主人公とババアが糸電話で家の二階どうしをつないでしゃべる場面があるのだけれど、まず糸電話という記号が何となく、見え見えの気持ち悪い、小賢しいダサイ演出だという事を脇に置いても、いきなり、ちょっと離れた家の二階どうしが繋がっている。どうやって糸引っ張ったんだよ?って突っ込みを入れたくなるも、それも脇に置いておくと、これが作品中最後の最後まで全く生かされず、最後の伏線の無理矢理な回収で出てくるのですが、この場面が本当吐き気がする。
途中で死ぬエロジジイもそうだし、ババアもそうだけど、死んだ後、幽霊なのか妄想なのか、主人公の前に現れる。その幽霊との会話で主人公がある決断を下したり、何かを納得したりするのですが、本当に幽霊だという設定なら、もう何も言う事も無いくらいバカらしい話ですけれど、妄想でそういう錯覚を観て勝手に納得しているのなら、それお前の勝手な妄想だから、って話で、妄想でご都合主義的に納得して、ああいい話だったなみたいな展開になる。本当死ね!!
亀山モデルで言えば「UDON」というご都合主義のクソ映画でも、勝手に妄想で納得して、いっさい成長する事も学ぶ事も無くハッピーエンドみたいな吐き気がするような展開がありましたが、最近の日本映画はこの病気が蔓延っている。勝手な妄想に甘えて、その甘さに気づかされて学ぶならともかく、それで何となく上手くいっちゃって、良かった良かったって展開が多すぎる。良くねえよ!!少年メリケンサックなんかも、こういう構造があった。根底から発想が腐っている。
痛みが全く描かれず、全部ご都合主義的に話が進む。人が都合よく病気になり、人が都合よく死ぬ。にもかかわらず痛みも葛藤も無い。痛みを感じているげな場面だけで、妄想で納得し、良い話だったみたいなオチになる。最低です。いい加減にしろよ。
ババアの目が見えなくなるご都合主義的な展開は百歩譲ってまあ良いとしよう。映画ですし。だけどその設定が全く生かされない。主人公が日本にいつかは帰らなきゃならない。だけど、世話になっているバアさんの目が見えなくなっちゃった。これを放っては行けない。ここの葛藤を真剣に描かないでどうすんだよ。一番映画的においしい設定なのに。
主人公はまだ若いし、老人だらけの町で自分探しをしている状態から、いつか現実に向き合う日が来る。日本に帰り、自分の居場所で現実を生きていかねばならない。途中で床屋のババアにもそんなような説教をされる。そこを真剣に描いていればもっと良い映画になる可能性はあるのに、そこが全く描かれず、都合良く目が見えなくなったババアが死ぬ。「ホノカアの風になった」だって。ありがとう的な主人公の納得。死んでありがとうなんだろ、要するに。そういう風に描いちゃってるよ。
断っておきますがこういう雰囲気の映画は嫌いじゃない。だから観てるのだし、亀山モデルだって気づいたのは見終わってから(というか冒頭、電通とフジテレビのロゴが出て来たのでいやな予感がしたら的中でした。)です。だけどこういう面白そうなものを記号的に寄せ集めて、感動げな話を作れば客は喜ぶんだよ的な腐った根性が見え見えの映画と、本当に面白い映画というのは決定的に違う。最近の邦画にはこの「げな感動」が多すぎる。これは一種の病です。
バカなテレビ番組観てテレビ局主動のクソ映画に感動している輩がいっぱいいるので、需要があるんだろうけれど、こんなもので感動しているから、世の中コミュニケーション不全が蔓延り、様々な問題を引き起こしていると知れ。
登場人物しか街に出てこない、こういう抽象化された映画は一種のファンタジーなので、それ自体はまあ一つの描き方としてはありだと思う。というかそういう作品は上手く描けばカルト的な人気を得る事が出来るし、実際にそういう名作は多い。
だけど途中でウザイ観光客が出て来たり、ジジイの埋葬の場面で、メインキャスト以外の人が出てきたり、残された痴呆のバアさんが出て来たりと、ファンタジーとして描こうとしているのか?それとも現実的な物語として描こうとしているのか、どっち付かずで、悪いところだけを合わせ技的にしてしまっている。
現実として描くのだったら幽霊出すなよって話ですし、痴呆のバアさんが取り残されてしまった痛みみたいなものをちゃんと回収しろよ。ファンタジーとして描くのだったら、現実的な物語なのか?と作り手が自らファンタジーをぶっ壊すような展開は入れなくていいよ。ファンタジーを壊しておいて、現実の問題は回収せずに、ファンタジーに逃げる。最悪の作りです。必然性も無く都合よく話が展開し、いっさい痛みにも向き合う事無く、勝手に良い想い出みたいにオチる。
この映画が面白いと思った人、世の中には良い映画はいっぱいあるので、こんな構造の腐った映画に騙されてんじゃねえよ。と思ってしまう。のんびりとかまったりとか、一種のノスタルジーブームの腐った構造や、自然っていいよねという感じの、似非スローライフとか、似非エコロジーを記号的に組み入れ腐臭を放つ構造で描かれているこの映画は、のんびりでもまったりでもなくて、単に退屈なだけのテレビの旅行番組と同じ。だったらテレビでやれって話で、映画なめんじゃねえよ。
例えばファンタジーと現実の狭間での葛藤をきちんと描くのだったら、ギレルモ・デルトロ監督の「パンズラビリンス」という最高の映画があります。この監督の最近の映画「ヘルボーイ2・ゴールデンアーミー」も最高の映画でしたけれど(中身は全く別物ですが)、この「パンズラビリンス」と言う映画を例にとるとわかりやすい。
これは第二次大戦下でのヨーロッパ、ある少女の身に起こるダークファンタジーですが、現実世界はナチスの陰、大戦の悲惨な現実が少女の現実を浸食している。その中で少女は現実の痛みからの逃げ場として、ファンタジー世界に逃げ込む。徹底的な弱者であり、現実に向き合うような力も無いのですから、現実の痛みは少女にはあまりにも過酷すぎる。大人達はその少女の痛みにやさしくない。
最終的には少女は現実的な物語の中で徹底的に絶望に陥り、ファンタジーに逃げ込む。それが幻か?それとも本当にファンタジー世界に行けたのか?救いか?絶望か?これは見る側の解釈に委ねられているのですが、現実とファンタジーの狭間を上手く描ききって、最後は号泣せずにはいられない。子供向けの童話「マッチ売りの少女」の再解釈映画とも取れる。
わかりやすいところで行けば、おっさん版「パンズラビリンス」のミッキーローク主演「レスラー」なんかもそうだったでしょう。プロレスというファンタジーの中でしか生きられない主人公が、そのファンタジー世界への断念を迫られる。現実に向き合うものの、現実世界は主人公の居場所がどこにも無く、あまりにも過酷。それを過酷だと感じる主人公の甘えも、その状況を作り出したのも、全部主人公の自業自得、愚かさ故の事だという事までキッチリ描いて、最後には行き場の無くなった主人公がプロレスというファンタジー世界に帰っていく。
その先は希望なのか?それとも絶望なのか?観ている我々に判断は委ねられ、一瞬の輝きを取り戻して物語は切れ味鋭く終わる。
これに老人と若者の触れ合いをプラスすれば、これは見終わった後身動き一つ取れなかった、クリント・イーストウッドの「グラントリノ」なんかもそうでしょう。これは痛みをしっかりと描いて、優しさと希望を見せてくれる。突っ込みどころは多いけれど、イーストウッド信者の自分としては満点の出来でした。それに比べて老人と若者の触れ合いの話なのに、何なんだこのクソ映画?
結構古い映画ですが「ダンサーインザダーク」なんかも現実の厳しさを突きつけられた主人公が、ミュージカルというファンタジー世界に逃げ込む。そこにしか彼女を肯定してくれる世界は無い。厳しい現実に負けそうになると、ファンタジーが彼女を救う。
しかし最後にファンタジーに逃げ込む事の出来ないような、どうにもならない現実を突きつけられたとき、はじめて現実世界で主人公が歌う。その歌声は現実世界をほんのちょっとだけ震わせて、彼女の生を鳴らす。ギリギリのどん底状態で現実に向き合った痛々しさ故に、その声は希望を奏でる。しかし現実は容赦なく彼女を絶望に叩き込む。だからこそその希望が深く胸に突き刺さる。
主人公の妄想的な独りよがりでの納得を説得的に描くならば、アニメ作品の97年版エヴァンゲリオンのラストでの梯子外しみたいな図式的なものも必要だろうし、自然の美しさを描くのなら、あんまり好きじゃないけれど、ショーン・ペンの監督作である「イントゥ・ザ・ワイルド」的な美しい大自然を描きつつ、その裏側にある、あるとき突然牙を剥いて襲いかかる、自然の驚異を描いてこそじゃねえのかよ。
この映画も独りよがり的な納得ファンタジーに幻想を抱いていた主人公が、その幻想が単なる幻想だったと後悔し、時すでに遅しという所まで描いている。物語自体は青臭くて終始、バカか?こいつ?と突っ込みどころ満載の、物語の趣旨とは違い、不遜かもしれませんが笑いながら観ちゃいましたが、主人公の自分探しと人との触れ合いの切実さという意味で言えば、このホノカアボーイというクソ映画よりは何億倍もマシに描いている。
奇麗な景色をただきれいに描くだけだったら、そんなの素人に毛の生えた程度の写真家だって取れる。奇麗な景色の裏側にある獰猛さとか、神秘とか、この世のある摂理が見えてしまっているのではないか?とか、観てはいけないものを観ているのではないか?とか、そういう事まで描いてこそのプロの映画ではないのか?
逆になんでもない日常の風景、日常の様々な場所を、ああこんなに素敵な空間なんだ、と気づかせるようなところまで描いてこそが映画ではないのか?またなんでもない日常の風景のほんのわずかな裂け目から、時々垣間見えるグロテスクさを描くとか、いくらでも映画的なやり方はあるだろう。
こういう雰囲気だけを「げな」だけ取り入れたクソ映画を観て、普通の映画(要するにハリウッド的な大作映画なんか)とは違った味があるよね的に映画好きを気取って騙されてるそこのあんた!!ちゃんと映画を観ましょう。退屈とのんびりをはき違えちゃもったいない。
また極端にファンタジーとして抽象化された世界を描くのだったら、大林宣彦作品のような良いお手本もあるし、これはジャンルは全く違うけれど、大好きな映画監督、ジョニートー作品で、昨年の「エグザイル絆」なんてのもありましたが、これなんかは極限まで抽象化された世界観で、誰も町の人が出てこない、主人公の男達と敵対する集団だけが、男の友情とか、ホモソーシャル的な絆を、ひたすら甘美に、かっこわるいのがかっこいいというところまで描いて、最後の最後までそのファンタジー世界に浸れる人にとってはケチのつけようが無い完璧な作品でした。腐女子は必見の映画でしょう。
奇麗なホノカアの風景と、そこで繰り広げられる抽象化されたおとぎ話として描くのだったら、もっと徹底しろ。現実の痛みに向き合っているフリはいらねえよ。
蒼井優は好きなのでフォローしておくと、昨年の映画で「百万円と苦虫女」と言う映画がありましたが、この作品なんかは途中でガッカリするかとハラハラしましたが、最終的にはなかなか良い映画でした。突っ込みどころは多いのですが、蒼井優が素晴らしかった。
海とか山とかも描いているし、景色の切り取り方も奇麗だった。それと対照的な田舎独特の人間関係のめんどくささの対比も良かった。めんどくさいけど、そのめんどくささのありがたみと、本当にうんざりするめんどくささの対比、田舎の景色と、最初に住んでいた団地の風景や町並み、最終的に主人公がたどり着く、どこにでもある普通の町の普通な風景の対比。こういうのが上手く生かされる。
日常に着地する痛さとか、人間関係上のめんどくささや厄介さから逃げていた主人公が、やっぱり逃れられない人間関係上のめんどくささに巻き込まれ、だけど、その人間関係のめんどくささこそが痛いけれど、切実だという気付きまで描いて、森山未来と最後に抱き合って愛を確かめ合う予定調和的ラストではなく(こうなりそうでハラハラした)、おんな寅さんへと成長した主人公が笑顔で肩で風をきって去っていく。ダサくてイケてない間の悪い女の子が、しっかりと大人の女へと成長する姿を描いている。
と書き出すときりがないのですが、現実とファンタジーの狭間を描いて観せるという手法は、この「ホノカアボーイ」みたいな甘っちょろい手法じゃ描く事は出来ない。醜悪どころか害にしかならない。一番過酷な描き方を必要とするジャンルであり、そこを描かなければこの設定は生かされない。そこを描く気がないなら、こんなものは映画にする必要は無い写真で十分。こんなものにつきあうほど暇じゃねえんだよ。そして音楽もそうで、わざとらしい雰囲気だけの音楽、途中から繰り返される主題歌にうんざりでした。
古いところで言えばテレビ番組ですけれど、同じフジテレビの「北の国から」なんかも、一種のファンタジーと現実の狭間を描いている。このテレビシリーズなんかは、そもそも西武グループ総帥で有罪になった堤義明氏と倉本聰は麻布中高の同級生。北海道の札幌プリンスホテルが札幌オリンピックの集客を見込んで事業が進み、その後、富良野プリンスホテルも出来る。その観光として利用する為に、北海道を舞台にしたドラマを全面バックアップして倉本が「北の国から」を作り上げる。構造としては腐臭の漂う構造を抱えている。
もちろんテレビドラマですので、話もご都合主義だし、突っ込みどころは満載だけど、この映画に比べたら、自然も人との触れ合いも、ファンタジーとしての富良野美しさも、自然がある瞬間に見せる人智を超えた獰猛さも、そこに生命が存在するという圧倒的な自然の神秘も、現実に直面する様々な葛藤も、この映画と比べたら、何億倍もキッチリ描いている。だからあれだけ名作だとみんなが褒めそやす。それに比べたら、表面的な記号との戯れを何の引っかかりも学びも無いまま、ご都合主義的に信じれば良い事がある的な展開のこの映画は吐き気がする。
それにこの「北の国から」というのは、結構今の日本の映像作品には悪い影響を多々与えていて、非常に罪作りな作品だと言えるところがある。例えばこの作品の特徴的なところの一つに、純君のモノローグ的説明というのがある。純君独特の言い回しで、時に涙を誘うような事を言う。倉本聡作品にはありがちな部分なんですが、多分これの悪影響を受けている作品が多いと思う。モノローグ的説明をグダグダ言いながら、感動げないい事言おう、泣かせよう的なクズ作品の出発点として影響を与えちゃっている。
だけど、「北の国から」自体には罪は無いし、この作品の良さの一つでもあると思う。実際それがこの作品の感動的なところでもあるのだろうし。だけどこの手法は気をつけないと危険です。全部台詞で説明しちゃっているのだから、小説とか漫画なら描写として必要かもしれませんけれど、映像作品としては結構禁じ手だと思う。北の国からは演出が良かったというのもあるのだろうし、テレビドラマだからというのもあるのでしょうけれど、これを感動げなだけで、真似ちゃうからクソ映画まみれになっている。使うなとは言いませんけれど、使い方には気をつけないと、いっぺんで覚めちゃう。
例えば先ほど書いた「グラントリノ」なんかは穴があると書きましたけれど、その一つに主人公の独り言が多い。イーストウッドはそういうところがあって、話をさくさく進める為に、物語の本筋とは関係ないところは台詞で説明しちゃうところがある。だけどそこは突っ込みどころでもあるのだけれど、それこそが彼の映画の愛すべき部分でもあって、魅力にすらなっちゃっている。だから使い方次第なのですけれど、記号的な寄せ集めクズ作品ではそういう魅力を出せるわけも無く、不愉快にしか感じない。「ホノカアボーイ」のそれも全く不愉快でしかなかった。観てる人間をバカにすんなよ。
あえて地雷を踏みたい人は別ですけれど、全くおススメ出来ないので観ない方が懸命です。まあ娯楽ですから、人の感じ方はそれぞれですし、これを観て感動出来る人が感動してよい気持ちになること自体に罪は無い。
だけどこういう映画に感動している人が増えている、という事と、日本映画の質がどんどん下がっているという事は共犯関係にありますし、日本の社会の様々な構造問題の根幹にも、こういうご都合主義に侵された人が多すぎるところにも問題があると思う。感動げな作品でコントロールされるという事は、メディアの情報操作にこれだけ引っかかっているたわけ者が多い事ともリンクしている。娯楽だから良いじゃないか、と言い切る事も出来ないところもある。個人の実存レベルのホメオスタシス維持であれば勝手に観りゃいいと思いますけれど、現実社会を脅かしている一つの癌だとも言えると思う。
それとこういう広告的な映画自体を否定するつもりも無い。儲からなきゃ映画を撮りたくたって誰もスポンサーにはなってくれないでしょうし、スポンサーが無きゃ作品は作れませんから、北の国からのような構造を抱えていたって、それがみんなに愛される作品で、良い作品であればいっこうに構わない。だけど、何の為に映画を撮るのか?という事をはき違えちゃ駄目でしょう。単なる金儲けなら別の商売もあるんだし、映像を撮る目的が金儲け第一になっちゃいすぎると、本末転倒です。特にテレビ局主動のクソ映画は、この本末転倒が多すぎます。
良い映画には絶賛を、クソ映画には死を。本日はこれにて。
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最近レンタルして踏んでしまった地雷があまりにも酷かったのに、結構みんな面白いと言っているクソ映画。この映画を観てよかったとか言っている人は、映画を観た事あんのかよ?と思ってしまうくらいの、K(けー)・U(ユー)・S(エス)・O(オー)・クソ映画でした。そんな事もありまして、今日は久しぶりにクソ映画を徹底的にボロクソにけなす事にしますお題は「ホノカアボーイ」。
尚この作品に感動された方にこそ、読んでもらいたいのはやまやまですが、多分不愉快になる恐れもありますので、その事は最初に書いておきます。自分は変人ですので、変人の戯言だと思ってくださって結構です。それとネタバレ含みますので、もしこのクソ映画を本当に観るのを楽しみにしている人がいるのなら、ご注意くださいませ。それではおっぱじめます。
邦画にはある法則があります。それはテレビ局主動の映画は地雷の可能性が高い。今まで観て来たもののそのほとんどがクソと言える。その中でも、亀山千広が関わるもので面白い映画を観たためしがない。ことごとくクソ。これはあくまで自分の個人的な感覚なので違和感を感じる人も多いかもしれません。というかこの人が作る映画はそれなりにヒットもしますし、感動した!!とか言ってる人も多いので、どちらかと言うと自分の感覚の方が普通じゃないのかもしれない。
これ結構評価が高いのですが、自分的に言うとつまらないの一言です。一見雰囲気とか、奇麗な景色とか、人との触れ合いとか、登場人物のユーモアとか、おいしそうな料理?とか、何となく面白げな記号を集めて来てはいるのですが、根底に流れている構造が腐っているので、全く心に響かない。気持ち悪い感動げなだけの腐った台詞まわし。良い事言おうという気持ち悪さ全開。全く面白くもクソもない鼻持ちならないユーモア、まさしくご都合主義の感動げなだけの腐りきった映画です。
これに感動するとか言っている人は何を見てそう思うのか?理解出来ません。最近観た映画の中で一番酷かったクソ映画は「少年メリケンサック」これは構造が腐っているだけでなくて、観ていてムカつく。考え方とか物語の落としどころが本当腐っていて、害悪ですらあると思う。ギャグもことごとくつまらなくて、何となくギャグを自分で言いながら笑っちゃっている感じで、「これ面白いでしょ、うふふ」みたいな気持ち悪さ。この映画は観ていてムカつくので最悪でしたが、それよりはマシだけど、それに次ぐつまらなさでした。途中で「もうどうでもいいいよ」って感じ。
こういう面白げな雰囲気を持つ映画というのは、一発でクソ映画だとわかる映画に比べて始末に悪い。間違って観ちゃうからです。それにこういうのを観て映画ファンを気取る人も増やす事になる。だから徹底的にけなします。許せん!!
まず無駄な場面が多すぎる。冒頭、蒼井優が登場するくだりの場面は丸ごと不必要で、蒼井優を出す為だけに無駄な場面が付け足された感じ。冒頭垂れ流される説明的主人公のモノローグで説明している事をわざわざビジュアルにしてみせる。観ている人間をなめている。後に出てくる深津絵里の場面もそう。有名人をちょい役で出すために、わざわざどうでもいい話を付け足す。無駄。
蒼井優も深津絵里も好きですし、女優さん達には罪は無いのですが、本当観ていて不愉快です。特に蒼井優の映画は結構あたりが多いので、好きなんですけれど、正直邪魔でした。クソ映画に出ていると、せっかく好きな俳優なのに嫌いになりそうになる。少年メリケンサックの宮崎あおいも、好きだったのにアレでかなりムカついて、嫌いになりそうでした。まあ女優さんには罪は無いのですが。
だいたい始まってすぐ主人公のいい事言おう的なモノローグや説明で嫌な予感はしていたのですが、予感はすぐに的中。奇麗な景色をやたら無駄にこれみよがしに、自慢げに映し出す。これなら景色の写真集でも観ていた方が楽しい。
気持ち悪いばばあの家のおしゃれげなキッチンとか、主人公が働いてるおしゃれげな映画館とか、単なる記号として寄せ集めているだけで、作り手の「こういうのかっこいいでしょ?」とか、「こういうのおしゃれでしょ?」みたいな、こんな感じのものを入れてくとウケるんだよ。みたいな記号の寄せ集めがうざったくて吐き気がする。
本筋の話は主人公とババアの触れ合いが軸になっているのだけれど、これが最初っから最後まで徹頭徹尾、ご都合主義もいいところでいい加減にしてくれよって感じです。だいたいあんなババアがいたら気持ち悪い。行動がいちいちわざとらしくて気持ち悪いし、しゃべり方も気持ちが悪い。というかストローで飲み物を人の頭にかけたり、輪ゴムのピストルで人を撃ったり、初対面の人間に何してんの?あんた?ぶっ飛ばすぞババア。あのテレビが横になっている演出とか、観ているとむかっ腹がたってくる。
例えば主人公とババアが糸電話で家の二階どうしをつないでしゃべる場面があるのだけれど、まず糸電話という記号が何となく、見え見えの気持ち悪い、小賢しいダサイ演出だという事を脇に置いても、いきなり、ちょっと離れた家の二階どうしが繋がっている。どうやって糸引っ張ったんだよ?って突っ込みを入れたくなるも、それも脇に置いておくと、これが作品中最後の最後まで全く生かされず、最後の伏線の無理矢理な回収で出てくるのですが、この場面が本当吐き気がする。
途中で死ぬエロジジイもそうだし、ババアもそうだけど、死んだ後、幽霊なのか妄想なのか、主人公の前に現れる。その幽霊との会話で主人公がある決断を下したり、何かを納得したりするのですが、本当に幽霊だという設定なら、もう何も言う事も無いくらいバカらしい話ですけれど、妄想でそういう錯覚を観て勝手に納得しているのなら、それお前の勝手な妄想だから、って話で、妄想でご都合主義的に納得して、ああいい話だったなみたいな展開になる。本当死ね!!
亀山モデルで言えば「UDON」というご都合主義のクソ映画でも、勝手に妄想で納得して、いっさい成長する事も学ぶ事も無くハッピーエンドみたいな吐き気がするような展開がありましたが、最近の日本映画はこの病気が蔓延っている。勝手な妄想に甘えて、その甘さに気づかされて学ぶならともかく、それで何となく上手くいっちゃって、良かった良かったって展開が多すぎる。良くねえよ!!少年メリケンサックなんかも、こういう構造があった。根底から発想が腐っている。
痛みが全く描かれず、全部ご都合主義的に話が進む。人が都合よく病気になり、人が都合よく死ぬ。にもかかわらず痛みも葛藤も無い。痛みを感じているげな場面だけで、妄想で納得し、良い話だったみたいなオチになる。最低です。いい加減にしろよ。
ババアの目が見えなくなるご都合主義的な展開は百歩譲ってまあ良いとしよう。映画ですし。だけどその設定が全く生かされない。主人公が日本にいつかは帰らなきゃならない。だけど、世話になっているバアさんの目が見えなくなっちゃった。これを放っては行けない。ここの葛藤を真剣に描かないでどうすんだよ。一番映画的においしい設定なのに。
主人公はまだ若いし、老人だらけの町で自分探しをしている状態から、いつか現実に向き合う日が来る。日本に帰り、自分の居場所で現実を生きていかねばならない。途中で床屋のババアにもそんなような説教をされる。そこを真剣に描いていればもっと良い映画になる可能性はあるのに、そこが全く描かれず、都合良く目が見えなくなったババアが死ぬ。「ホノカアの風になった」だって。ありがとう的な主人公の納得。死んでありがとうなんだろ、要するに。そういう風に描いちゃってるよ。
断っておきますがこういう雰囲気の映画は嫌いじゃない。だから観てるのだし、亀山モデルだって気づいたのは見終わってから(というか冒頭、電通とフジテレビのロゴが出て来たのでいやな予感がしたら的中でした。)です。だけどこういう面白そうなものを記号的に寄せ集めて、感動げな話を作れば客は喜ぶんだよ的な腐った根性が見え見えの映画と、本当に面白い映画というのは決定的に違う。最近の邦画にはこの「げな感動」が多すぎる。これは一種の病です。
バカなテレビ番組観てテレビ局主動のクソ映画に感動している輩がいっぱいいるので、需要があるんだろうけれど、こんなもので感動しているから、世の中コミュニケーション不全が蔓延り、様々な問題を引き起こしていると知れ。
登場人物しか街に出てこない、こういう抽象化された映画は一種のファンタジーなので、それ自体はまあ一つの描き方としてはありだと思う。というかそういう作品は上手く描けばカルト的な人気を得る事が出来るし、実際にそういう名作は多い。
だけど途中でウザイ観光客が出て来たり、ジジイの埋葬の場面で、メインキャスト以外の人が出てきたり、残された痴呆のバアさんが出て来たりと、ファンタジーとして描こうとしているのか?それとも現実的な物語として描こうとしているのか、どっち付かずで、悪いところだけを合わせ技的にしてしまっている。
現実として描くのだったら幽霊出すなよって話ですし、痴呆のバアさんが取り残されてしまった痛みみたいなものをちゃんと回収しろよ。ファンタジーとして描くのだったら、現実的な物語なのか?と作り手が自らファンタジーをぶっ壊すような展開は入れなくていいよ。ファンタジーを壊しておいて、現実の問題は回収せずに、ファンタジーに逃げる。最悪の作りです。必然性も無く都合よく話が展開し、いっさい痛みにも向き合う事無く、勝手に良い想い出みたいにオチる。
この映画が面白いと思った人、世の中には良い映画はいっぱいあるので、こんな構造の腐った映画に騙されてんじゃねえよ。と思ってしまう。のんびりとかまったりとか、一種のノスタルジーブームの腐った構造や、自然っていいよねという感じの、似非スローライフとか、似非エコロジーを記号的に組み入れ腐臭を放つ構造で描かれているこの映画は、のんびりでもまったりでもなくて、単に退屈なだけのテレビの旅行番組と同じ。だったらテレビでやれって話で、映画なめんじゃねえよ。
例えばファンタジーと現実の狭間での葛藤をきちんと描くのだったら、ギレルモ・デルトロ監督の「パンズラビリンス」という最高の映画があります。この監督の最近の映画「ヘルボーイ2・ゴールデンアーミー」も最高の映画でしたけれど(中身は全く別物ですが)、この「パンズラビリンス」と言う映画を例にとるとわかりやすい。
これは第二次大戦下でのヨーロッパ、ある少女の身に起こるダークファンタジーですが、現実世界はナチスの陰、大戦の悲惨な現実が少女の現実を浸食している。その中で少女は現実の痛みからの逃げ場として、ファンタジー世界に逃げ込む。徹底的な弱者であり、現実に向き合うような力も無いのですから、現実の痛みは少女にはあまりにも過酷すぎる。大人達はその少女の痛みにやさしくない。
最終的には少女は現実的な物語の中で徹底的に絶望に陥り、ファンタジーに逃げ込む。それが幻か?それとも本当にファンタジー世界に行けたのか?救いか?絶望か?これは見る側の解釈に委ねられているのですが、現実とファンタジーの狭間を上手く描ききって、最後は号泣せずにはいられない。子供向けの童話「マッチ売りの少女」の再解釈映画とも取れる。
わかりやすいところで行けば、おっさん版「パンズラビリンス」のミッキーローク主演「レスラー」なんかもそうだったでしょう。プロレスというファンタジーの中でしか生きられない主人公が、そのファンタジー世界への断念を迫られる。現実に向き合うものの、現実世界は主人公の居場所がどこにも無く、あまりにも過酷。それを過酷だと感じる主人公の甘えも、その状況を作り出したのも、全部主人公の自業自得、愚かさ故の事だという事までキッチリ描いて、最後には行き場の無くなった主人公がプロレスというファンタジー世界に帰っていく。
その先は希望なのか?それとも絶望なのか?観ている我々に判断は委ねられ、一瞬の輝きを取り戻して物語は切れ味鋭く終わる。
これに老人と若者の触れ合いをプラスすれば、これは見終わった後身動き一つ取れなかった、クリント・イーストウッドの「グラントリノ」なんかもそうでしょう。これは痛みをしっかりと描いて、優しさと希望を見せてくれる。突っ込みどころは多いけれど、イーストウッド信者の自分としては満点の出来でした。それに比べて老人と若者の触れ合いの話なのに、何なんだこのクソ映画?
結構古い映画ですが「ダンサーインザダーク」なんかも現実の厳しさを突きつけられた主人公が、ミュージカルというファンタジー世界に逃げ込む。そこにしか彼女を肯定してくれる世界は無い。厳しい現実に負けそうになると、ファンタジーが彼女を救う。
しかし最後にファンタジーに逃げ込む事の出来ないような、どうにもならない現実を突きつけられたとき、はじめて現実世界で主人公が歌う。その歌声は現実世界をほんのちょっとだけ震わせて、彼女の生を鳴らす。ギリギリのどん底状態で現実に向き合った痛々しさ故に、その声は希望を奏でる。しかし現実は容赦なく彼女を絶望に叩き込む。だからこそその希望が深く胸に突き刺さる。
主人公の妄想的な独りよがりでの納得を説得的に描くならば、アニメ作品の97年版エヴァンゲリオンのラストでの梯子外しみたいな図式的なものも必要だろうし、自然の美しさを描くのなら、あんまり好きじゃないけれど、ショーン・ペンの監督作である「イントゥ・ザ・ワイルド」的な美しい大自然を描きつつ、その裏側にある、あるとき突然牙を剥いて襲いかかる、自然の驚異を描いてこそじゃねえのかよ。
この映画も独りよがり的な納得ファンタジーに幻想を抱いていた主人公が、その幻想が単なる幻想だったと後悔し、時すでに遅しという所まで描いている。物語自体は青臭くて終始、バカか?こいつ?と突っ込みどころ満載の、物語の趣旨とは違い、不遜かもしれませんが笑いながら観ちゃいましたが、主人公の自分探しと人との触れ合いの切実さという意味で言えば、このホノカアボーイというクソ映画よりは何億倍もマシに描いている。
奇麗な景色をただきれいに描くだけだったら、そんなの素人に毛の生えた程度の写真家だって取れる。奇麗な景色の裏側にある獰猛さとか、神秘とか、この世のある摂理が見えてしまっているのではないか?とか、観てはいけないものを観ているのではないか?とか、そういう事まで描いてこそのプロの映画ではないのか?
逆になんでもない日常の風景、日常の様々な場所を、ああこんなに素敵な空間なんだ、と気づかせるようなところまで描いてこそが映画ではないのか?またなんでもない日常の風景のほんのわずかな裂け目から、時々垣間見えるグロテスクさを描くとか、いくらでも映画的なやり方はあるだろう。
こういう雰囲気だけを「げな」だけ取り入れたクソ映画を観て、普通の映画(要するにハリウッド的な大作映画なんか)とは違った味があるよね的に映画好きを気取って騙されてるそこのあんた!!ちゃんと映画を観ましょう。退屈とのんびりをはき違えちゃもったいない。
また極端にファンタジーとして抽象化された世界を描くのだったら、大林宣彦作品のような良いお手本もあるし、これはジャンルは全く違うけれど、大好きな映画監督、ジョニートー作品で、昨年の「エグザイル絆」なんてのもありましたが、これなんかは極限まで抽象化された世界観で、誰も町の人が出てこない、主人公の男達と敵対する集団だけが、男の友情とか、ホモソーシャル的な絆を、ひたすら甘美に、かっこわるいのがかっこいいというところまで描いて、最後の最後までそのファンタジー世界に浸れる人にとってはケチのつけようが無い完璧な作品でした。腐女子は必見の映画でしょう。
奇麗なホノカアの風景と、そこで繰り広げられる抽象化されたおとぎ話として描くのだったら、もっと徹底しろ。現実の痛みに向き合っているフリはいらねえよ。
蒼井優は好きなのでフォローしておくと、昨年の映画で「百万円と苦虫女」と言う映画がありましたが、この作品なんかは途中でガッカリするかとハラハラしましたが、最終的にはなかなか良い映画でした。突っ込みどころは多いのですが、蒼井優が素晴らしかった。
海とか山とかも描いているし、景色の切り取り方も奇麗だった。それと対照的な田舎独特の人間関係のめんどくささの対比も良かった。めんどくさいけど、そのめんどくささのありがたみと、本当にうんざりするめんどくささの対比、田舎の景色と、最初に住んでいた団地の風景や町並み、最終的に主人公がたどり着く、どこにでもある普通の町の普通な風景の対比。こういうのが上手く生かされる。
日常に着地する痛さとか、人間関係上のめんどくささや厄介さから逃げていた主人公が、やっぱり逃れられない人間関係上のめんどくささに巻き込まれ、だけど、その人間関係のめんどくささこそが痛いけれど、切実だという気付きまで描いて、森山未来と最後に抱き合って愛を確かめ合う予定調和的ラストではなく(こうなりそうでハラハラした)、おんな寅さんへと成長した主人公が笑顔で肩で風をきって去っていく。ダサくてイケてない間の悪い女の子が、しっかりと大人の女へと成長する姿を描いている。
と書き出すときりがないのですが、現実とファンタジーの狭間を描いて観せるという手法は、この「ホノカアボーイ」みたいな甘っちょろい手法じゃ描く事は出来ない。醜悪どころか害にしかならない。一番過酷な描き方を必要とするジャンルであり、そこを描かなければこの設定は生かされない。そこを描く気がないなら、こんなものは映画にする必要は無い写真で十分。こんなものにつきあうほど暇じゃねえんだよ。そして音楽もそうで、わざとらしい雰囲気だけの音楽、途中から繰り返される主題歌にうんざりでした。
古いところで言えばテレビ番組ですけれど、同じフジテレビの「北の国から」なんかも、一種のファンタジーと現実の狭間を描いている。このテレビシリーズなんかは、そもそも西武グループ総帥で有罪になった堤義明氏と倉本聰は麻布中高の同級生。北海道の札幌プリンスホテルが札幌オリンピックの集客を見込んで事業が進み、その後、富良野プリンスホテルも出来る。その観光として利用する為に、北海道を舞台にしたドラマを全面バックアップして倉本が「北の国から」を作り上げる。構造としては腐臭の漂う構造を抱えている。
もちろんテレビドラマですので、話もご都合主義だし、突っ込みどころは満載だけど、この映画に比べたら、自然も人との触れ合いも、ファンタジーとしての富良野美しさも、自然がある瞬間に見せる人智を超えた獰猛さも、そこに生命が存在するという圧倒的な自然の神秘も、現実に直面する様々な葛藤も、この映画と比べたら、何億倍もキッチリ描いている。だからあれだけ名作だとみんなが褒めそやす。それに比べたら、表面的な記号との戯れを何の引っかかりも学びも無いまま、ご都合主義的に信じれば良い事がある的な展開のこの映画は吐き気がする。
それにこの「北の国から」というのは、結構今の日本の映像作品には悪い影響を多々与えていて、非常に罪作りな作品だと言えるところがある。例えばこの作品の特徴的なところの一つに、純君のモノローグ的説明というのがある。純君独特の言い回しで、時に涙を誘うような事を言う。倉本聡作品にはありがちな部分なんですが、多分これの悪影響を受けている作品が多いと思う。モノローグ的説明をグダグダ言いながら、感動げないい事言おう、泣かせよう的なクズ作品の出発点として影響を与えちゃっている。
だけど、「北の国から」自体には罪は無いし、この作品の良さの一つでもあると思う。実際それがこの作品の感動的なところでもあるのだろうし。だけどこの手法は気をつけないと危険です。全部台詞で説明しちゃっているのだから、小説とか漫画なら描写として必要かもしれませんけれど、映像作品としては結構禁じ手だと思う。北の国からは演出が良かったというのもあるのだろうし、テレビドラマだからというのもあるのでしょうけれど、これを感動げなだけで、真似ちゃうからクソ映画まみれになっている。使うなとは言いませんけれど、使い方には気をつけないと、いっぺんで覚めちゃう。
例えば先ほど書いた「グラントリノ」なんかは穴があると書きましたけれど、その一つに主人公の独り言が多い。イーストウッドはそういうところがあって、話をさくさく進める為に、物語の本筋とは関係ないところは台詞で説明しちゃうところがある。だけどそこは突っ込みどころでもあるのだけれど、それこそが彼の映画の愛すべき部分でもあって、魅力にすらなっちゃっている。だから使い方次第なのですけれど、記号的な寄せ集めクズ作品ではそういう魅力を出せるわけも無く、不愉快にしか感じない。「ホノカアボーイ」のそれも全く不愉快でしかなかった。観てる人間をバカにすんなよ。
あえて地雷を踏みたい人は別ですけれど、全くおススメ出来ないので観ない方が懸命です。まあ娯楽ですから、人の感じ方はそれぞれですし、これを観て感動出来る人が感動してよい気持ちになること自体に罪は無い。
だけどこういう映画に感動している人が増えている、という事と、日本映画の質がどんどん下がっているという事は共犯関係にありますし、日本の社会の様々な構造問題の根幹にも、こういうご都合主義に侵された人が多すぎるところにも問題があると思う。感動げな作品でコントロールされるという事は、メディアの情報操作にこれだけ引っかかっているたわけ者が多い事ともリンクしている。娯楽だから良いじゃないか、と言い切る事も出来ないところもある。個人の実存レベルのホメオスタシス維持であれば勝手に観りゃいいと思いますけれど、現実社会を脅かしている一つの癌だとも言えると思う。
それとこういう広告的な映画自体を否定するつもりも無い。儲からなきゃ映画を撮りたくたって誰もスポンサーにはなってくれないでしょうし、スポンサーが無きゃ作品は作れませんから、北の国からのような構造を抱えていたって、それがみんなに愛される作品で、良い作品であればいっこうに構わない。だけど、何の為に映画を撮るのか?という事をはき違えちゃ駄目でしょう。単なる金儲けなら別の商売もあるんだし、映像を撮る目的が金儲け第一になっちゃいすぎると、本末転倒です。特にテレビ局主動のクソ映画は、この本末転倒が多すぎます。
良い映画には絶賛を、クソ映画には死を。本日はこれにて。
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