主要メディアの民主党政権に対するバッシングは一応落ち着きを見せ始めたように感じます。例えばCO2の-25%という削減目標に対して、最初の抵抗から考えると随分トーンが弱まっているように。これらは何を意味するのか?

温暖化防止はいい事だから、マスコミも協力しましょうなんていう話でない事は想像がつきます。記者クラブ体制を擁護するかのような姿勢を見せた鳩山内閣を支持する事が、マスコミの既得権益を護持出来るという事で、急にバッシングのトーンが弱まったのと同様に、温暖化対策の方向性についても、何らかの妥協、既得権益のとっては骨抜きが起こっているのではないか?と普通の感覚を持った常識人であれば疑ってしまうでしょう。

すでに日経新聞ですら、全肯定ってわけではありませんが、かなりポジティブな記事を見かけるようになりました。科学記者クラブとか、環境記者クラブから上がってくる情報ならともかく、経済記者クラブから上がってくる記事や社説にまでポジティブなところが出て来ているという事を、素直に受け止めてよかったよかったと呑気に構えていると痛いめに合うというのがこれまで繰り返されて来たパターンですので、その辺の構造の変化は何を意味しているのか?少しその辺から書いて行く事にします。その前に少し前提話を整理して行きます。

最初の段階で鳩山首相がCO2-25%削減を打ち出したとき、経産省の次官がそれは無理だという発言をする。経済成長の妨げになると。国民の負担が増えると脅す。政府の方針を勝手に官僚がねじ曲げようとした。この振る舞いは議院内閣制の制度を採用している国であれば基本的にクビです。

この同じ日に環境省の次官も会見をしていて、こっちは世界的な枠組みとしての最低のラインを表明したに過ぎず、当たり前の事だし、これは良い事だと会見した。どっちの言葉が大手メディアに載るのかというと、環境省の会見は無視、経産省の恣意的な試算とネガティブなコメントを、マスコミは大々的に取り上げ、ネガティブキャンペーンに利用する。

それ以前から総選挙の際も、選挙期間でありながら、民主党の掲げる中期目標に対して、経産省の試算をもとにしたネガティブキャンペーンが大々的に新聞紙面を踊っていた。この数字が既成事実となって政治家は身動きが取れなくなり、国民の意思は国会に届かなくなる。

前々回書いた役人の勝手な会見を禁止するという話も、こういう事を勝手にやらせない為に必要な措置でもある。それをマスコミと役人はつぶそうと邪魔をする。自民党が機能不全を起こしていた理由の一つも、この官僚のコントロールが強固だったからです。国民不在の利権の草狩り場として利用されてしまう。

それは国民の意思が国会に届けば正しい事が行われるから重要なわけではなく、ハンドルを握っている連中が責任を取らなくて済む仕組みだから問題なのです。当然責任が無ければ痛みも感じないわけだからブレーキも破綻するまで踏めない。前大戦から延々と是正出来ない構造です。

政府の決定というのは国民の負託を受けている。これはたとえ間違った決定だとしても、基本的に官僚ごときが、それに反対する資格は無い。もちろんクビ覚悟で正しいと思う事を言うくらいの気概のある人間であれば、それは官僚としては不適切でも、専門家としては望ましい事かもしれませんが、仕組みとしてはそういうものであるしかない。勝手な振る舞いは許してはマズい。

勝手に官僚が政府の決定をねじ曲げる事を許してしまえば、それがまさに日本の構造問題を形作って来た。だから国民が間違った選択をしているとしても、自分達の選択は失敗だったと気付かなければいつまでたっても市民政治は根付かない。

今の政治に必要な事は正しさではなく、いかにして合意を調達するのか?という事です。80年代から言われて来た、正統性の困難がいっそう深刻になって来たこの日本で、どのようにして国民の合意を得る事が出来るのか?という問題をクリアーしないと何も話は進まない。

今のグローバル化した、情報が瞬時に共有される時代に、何が正しい事なのか?誰も言えなくなっている。俺はわかっている的な事を言う輩はいますけれど、それがどんなに正しくても、合意調達とは無関係な時代になっている。そもそも官僚の言う正しさなんてものは実際に政策は失敗だらけ、責任も取らず、延々と利権を貪り国民にツケをまわし続け、日本中のほとんどの人が信じていない。

したがって数多ある正しさの中から、必ず恣意的に優先順位をつけざるを得ないので必ず梯子外しが始まる。優先順位をつけた瞬間にそれはあるポジションから見た視点でしか無く、恣意的であるしか無いので、絶えず正統性は揺らぎ、合意調達は困難にならざるを得ない。それに対処するには境界線を常に見直し、ひき直し続けて行くしか無い。そういう民主制の困難さを自覚した上でドライブさせないと、これこそは絶対と言う理念や利権の柱にすがって排除しあう不毛な構造を繰り返すしかなくなる。これこそは絶対というのは、単にその人から見た世界の見え方でしかないという事を自覚しないと、市民政治なんて100年経っても不可能です。

これは誰しも人間である以上わかる限界ですが、誰にも先の事はわからない。何を行えばどんな副作用が生じるのか、正確に理解している人間は多分この世に存在しない。神様がいれば可能かもしれませんが、そんな事はとっくに科学が不可能を証明している。そういう時代に俺の言う事は正しい的な事を競い合っても無意味な状況に陥っている。中央集権型の巧みな人間がコントロールする時代ではない。分散型のアーキテクチャーによって保険をかけておかないと、全体で沈没するリスクを抱える事になる。というかすでにかなりの段階までこの国は沈没している。

小沢環境大臣が炭素税の導入を言っています(自分は炭素税が一番しっくりくるような気がします)。これはあたかも増税であるかのようなミスリードをあえてメディアは流しますが、税収ニュートラルであって、環境という口実を使い租税システムの全体の組み替えの話です。増える分は何かで減らす。なので無駄なものに税が使われている現状を見直して、環境に配慮した税体系に組み替える大きな意味がある。簡単に言えば二酸化炭素の排出量が多い人にとっては増税になるけれど、少ない人にとっては減税になる。全体としての税収は変わらない。なので減らすインセンティブを埋め込むのに重要な措置でもある。一般の家庭にはあまり関係のない話です。

これを増税のごとく煽って国民感情を利用しようとしているのは、企業がそれを負担したくないからです。バカマスコミはそれを煽る。本当に国民にとって不公正な姿が見えたら、容赦なく批判するのはいいと思いますけれど、今の段階でそうであるかのような言い方はミスリードです。

民主党の政策は、バブル崩壊以降の非効率の是正や、グローバル化対応の政策が主な柱になっている。

グローバル化以前であれば、確かに企業というのは国民生活と密接なつながりがあったので、大企業を優遇する事が、すなわち国民生活を裕福にして来た。

しかしグローバル化が進み、企業は海外へと進出した結果、企業を優遇しても、富を海外に移転してしまい、ダイレクトに国民が恩恵を受ける事が出来なくなっている。ちょっと前まで大企業が至上最高益を叩き出したなんて騒いでいたけれど、実際に国内の景気は悪いまま、国民も景気の良さを実感する事など出来なかった。これはもうすでに企業を優遇しても、国民生活に直結していない事を意味している。

なので企業優遇から個人優遇へと再分配の仕組みを変える必要がある。それが民主党の政策の骨格にあります。その為に予算の組み替えによって優先順位をつけ直す必要がある。これを従来型の大きな政府と同じであるかのような批判は現段階では的を射ていない。少なくとも自民党や役人達のやり口を誰も信用しなくなっちゃていたのだから、一度今までの権益の配置を見直す必要がある。そうしないと合意が調達出来ない。

もちろんただ企業を締め上げて、富を吸い出させるだけでは、企業は外に逃げていくので、環境対応の負担を強いる代わりに、法人税率を引き下げるとか、国民に富を還元する事によって、優遇されるようなインセンティブメカニズムを構築する事は重要でしょう。

だけど企業が国際社会の競争で勝ち残る為には、どうしたって日本の従来型の雇用慣行や、賃金を維持する事は難しくなる。だから企業からの再配分を期待するのではなく、企業は企業で国際競争をしてもらって、直接国民に配分する事によって、内需を増やし消費を刺激して行く方向性を取る必要がある(もちろんそれをしたからと言って景気がすぐに回復するとか、そういう事を言いたいのではありません。個人に配分したらそこから先は自己責任になりますので、不合理は沢山生じるでしょう)。

この路線から脱線した場合に徹底的に叩くのは重要でしょうけれど、今の段階での批判というのは、この路線に行かせまいとするこれまで分配を受けて優遇されて来た連中のデマゴギーの声の方が圧倒的に大きい。

-25%削減に対してもそうです。マスコミがきちんと調査報道をして批判するのなら一向に構わないけれど、まるで電事連の既得権益を守る為に言っているかのような経産省の物言いを、同じく電事連というか、電力会社が最大のスポンサーであるバカマスコミが提灯報道をして、国民の負担が増えるかのような錯覚をさせ、それに国民がコントロールされてしまう。

記者クラブを利用し政府の決定を勝手に役人と番記者が結託して変えようとする行為は、国民の意思が政治に反映出来ない構造を継続させる事になる。繰り返しますが、国民の意思が政治に反映させるという事が正しいから言っているのではない。間違う可能性は十分ある。というか間違うに決まっている。

だけどそこまで引き受けてこそ民主主義というものです。我々の決定によって政府の方針を変化させる事が出来るという事が重要なのです。政策を誤るかどうかよりも、我々の意思によって政府をコントロール出来るかどうかの方がどう考えても優先順位で言えば上です。これは前にも言いましたが、民主主義は絶対に間違う。だけどそれを正す事も民主的決定によって可能であるという事が尊いのです。

それにこの中期目標に反対している声というのは、国民生活や国民負担を思っての事ではないわけで、今までは政府が何もやらないことの防波堤となっていたのが、悪名高い自主行動計画。自主行動計画があるから政府は規制を入れるなと、経産省と結託した財界が出していた。麻生の中期目標と同時に、この自主行動計画を延長しようと財界は画策していた。電力会社なんかは2010年に達成する目標を、そのまま2020年まで横ばい。要するに経済界はこのまま何もしなくていい。だから国は何も規制を導入するな。規制をするなら一般家庭や運輸だけにしろ、と言っている。そもそもアンタッチャブルなプロテクションを構築して国民負担を増やせと言っておきながら、よく経済が悪化するとか言えるもんです。

民主党の数値目標に反発して、国民一人一人に負担がのしかかるとか官報メディアはほざいていましたが、ハナっから国民に負担を押し付けるスキームが政界と役人と財界とゴキブリメディアが結託して進んでいたわけで、国民負担を押し付けて企業が逃げ切り、役人が肥え太り、政治家にキックバックが入っていくようなスキームだったわけです。民主党の数値目標があろうがなかろうが、そういう風になっていた。

エネルギー政策というのは一国だけ孤立して行う事は出来ないし、特に日本の場合は現状のエネルギー政策というのは輸入に頼らないと回らないわけで、そういう状況下で孤立してしまえば、いずれ手痛いサンクションを受ける事になる。だから遅いか早いかだけで、国際的な枠組みはどの道受け入れざるを得ない。それをステークホルダーもわかっているから、尚更なんとかして逃げ切ろうとしている連中が牛耳って未来にツケを残そうと必死になっている。これは敗走中の帝国陸軍と全く同じ図式。この図式が最終的に止まったのは原爆を落とされて、決定的な敗戦を迎えるまでブレーキが踏めなかった。電事連とそれをプロテクトする役人やマスコミの図式はそれと全く同じで、本当に回復不能な原発事故でも起こらない限り、自浄作用は絶対に期待出来ない。

財界は本当は一枚岩ではなく、環境適応についてのきちんとした共通認識は無い。電力や鉄鋼と言った大反対している連中の声の大きさに引っ張られて反対の声が上がってくる。

グローバルにビジネスを展開しているような企業は本当は国内でそれで良くたって海外では通用しないし、新興国にポイ捨てしているようでは、日本ではバカマスコミが報じないから通用するかもしれないけれど、国際的には避難の対象になりかねない。だから本音を言えば経団連の中だって、環境適応した方がカネになると思っている人だっているはず。実際にそういう声も出てはいる。

しかし当面経営者として自分がいる間は逃げ切れるという根拠の無い逃げ切り世代にとっての合理性によって、空気を読んで一枚岩になっている。ここにくさびを打ち込まないと、海外から突っ込まれる弱みを抱え続ける事になる。

古い世界観で頭の中身を変えようともしない連中が、古い世界観のままの産業構造を維持しようとしていて、鉄鋼はある程度グローバル化に取り込まれているので見込みもあるけれど、電力会社はどうにもならない。原子力と石炭原理主義でそこにしがみつき、とにかく安定供給という大義名分を掲げ、ガチガチの既得権益で身動きが取れなくなっている。

経産省は元々は原子力中心の技官と、市場原理主義中心の事務官で出来上がっていた。90年代はその中で市場原理主義の事務官の力学が増していて、97年頃から電力の自由化、解体を迫ったりしていたので牽制になっていた。一方電力会社の中もそれに抗うだけでなく、二つに割れて新しい方向性と守る方向性に分かれていた。

それが2001年エンロンの崩壊があって、その煽りを食って日本の電力自由化の力学が急激にしぼんで閉じてしまう。2001年というとちょうど小泉が首相になった年で、あの人確か、改革だの自由化だの規制緩和だのと言ってましたよね。ちょうどその頃、実はこういった既得権益護持の力学が強まって、事実上小泉自民党はそれを許し、表面上のインチキ構造改革やインチキ郵政民営化でポーズだけとり、それを国民が支持していた。皮肉な事にそのもとでは、ここで一端電力の自由化解体は頓挫する。

その後2004年、六ヶ所再処理工場を巡って再び経産省が割れる。六ヶ所再処理工場はあまりにもナンセンスだという事で、経産省だけでなく電力会社も二つに割れて改革派が食い止めようとする。結果はアンシャンレジームの勝ち。マスコミなんかを筆頭にして市場原理主義の弊害が叫ばれていた背後では、何を守っていたのかと言えば、こういう腐った構造が護持されていた。

それ以降、電力会社と経産省は益々一枚岩になり、まさに既得権益でガチガチに固めて身動きが取れない、暗黒の構造にシフトする。事実上解体自由化を唱えていた人達はパージされてしまう。既得権益のバカ大将である当時の甘利大臣なんかに対してイエスマンばかりが主要なポストを占め、不透明性を高め、権益護持、原子力推進、環境政策軽視の方向性へと突っ走る。

日本の電力会社というのは先進国では異例なレベルでの独占企業(韓国や中国よりも強固な独占構造を持っている)であるにもかかわらず、なぜかテレビのCMなんかがばんばん流れて宣伝している。要するに独占構造を守り、利権をプロテクトする為に同じく独占企業であるテレビや新聞を買収し、マスコミを買収している。

一方広告収入の激減によってマスコミはどこも経営が苦しい状況で、産経や毎日なんかはつぶれかかっている。日経まで赤字に転落している(まあ高コスト構造を是正すりゃいいだろと思うのですが)。そんな状況で最大のスポンサーにとってネガティブな情報なんて出てくるわけが無い。

なので民主党の打ち出した中期目標に対する批判の力学は誰が言っているのかを気をつけて見なければ危ない。それは国民の生活を守るとか、未来の借金を減らすとか、そういう意味で言っているのではない場合の方が、現状の仕組みの中ではむしろ多いと見る方が妥当です。

電事連なんかが使うロジックに、顧客へのエネルギーの安定供給というの言い方があります。柏崎刈羽原発の顛末を見れば明らかなように、地震によって一斉に800万キロワットの電力が失われて、首都圏をあわや停電という状況を作り出し、他の原発も耐震設計は古い、しかも偽装しているからいざとなったら止めざるを得ないところもいっぱいある。巨大電源で中央集中的に供給するというのは裏を返すとそれが止まったらお終いというリスクを抱えている。今が安全で、中期目標を導入すると顧客への安定供給が乱れるかのような言い草ははっきり言ってお笑いぐさです。

実際に柏崎刈羽原発のような事態が起こったり、耐震偽装やことごとく活断層の上にわざと作っているのか?と思えるような原発の乱開発。実際には温暖化ガスの排出量が昨年で90年比+9.2%まで増えている。既得権を守れなさそうになってくると、ドタバタでボロクソに骨に抜きにされた、経産省の利権バリバリのインチキな固定価格買い取り制度を導入しようとしたり、安心安全、安定供給、エコ、こういうインチキなお題目を掲げ、そのもとでいかにして利権を漁るのかという事ばかりをやっている連中が作るフィクションを現実がどんどん食い破っている

石炭火力が90年からひたすら増え続けていて、福島県の小名浜に石炭火力をGOサインをかける、横浜の磯子でも60万キロワットの石炭火力、経産省と結託して、まだまだ新規の石炭火力の計画がある。+9.2%でこんな事をやっている。

これは何度も書いている事で、とりあえず繰り返しておきますが、自分は基本的に温暖化説にもCO2犯人説にも、現状の環境問題に対する対応にしても、全部信じちゃいません。というか嘘だと思っている。それに排出権取引なんて制度も絶対よからぬ帰結をもたらすとも思っている。だから人類にとって生きやすい環境を整えるという意味での、公害を減らすとか、空気や水をきれいにするための山林保護であるとか、食の安全を確保する為の環境保護であるとかなら悪い事だとは思いませんし、それに繋がるのならCO2犯人説が仮に嘘であっても、まあそれはそれでしょうがないとは思いますが、排出権取引というのはキャップを儲けるという意味では悪い話ではないのでしょうけれど、確実に権利を売り買いする事によって暴走の危険性をはらみますし、またたかられるのがオチではないかって気もする。なので問題は山積しているのですけれど、だけど、その事と国際交渉上の枠組みへのコミットメントは別の話だと思っています。

まず一つは予防原則という観点の、後からやっぱり温暖化は本当だったというパターンになってからではどうにもならないという本当の意味での危機よりも、予防原則という煽りによって起こる帰結の問題の方が大きいと思います。これは外交問題という部分もあるけれど、内政問題に直結する。食料自給率や安保の問題とも似ているのですが、簡単に言えば環境問題を使って例えば国民負担が増えるとか、国際社会から叩かれているとか、いろいろな脅しとして利用されてしまう側面がある。これはエネルギーの安全保障にも繋がるので、原子力の正統性も調達するでしょう。そういう煽りや恐れを利用して、そこに権益の楔が打ち込まれる。そういう構造をずっとこの国は野放しにして来た。

食料自給率なんかと同じで、例えば自給率が低いという脅しによって、もしくは食の安心安全という脅しによって、様々な権益が生まれ、その分捕り合戦に利用されてしまう。アメリカ軍がいないと北朝鮮の脅威が!!と言われると、国民も恐ろしいので、そういう脅しをたてにして様々な権益を潜り込まされてしまい、気付いたら誰も責任を取らず、環境は改善される事も無く、食料自給率はより下がり、北朝鮮はまんまと核兵器を手にしちゃう。みたいな図式の繰り返しです。そのツケは国民が払う事になる。

だから嘘だとか本当だとかそういう事とは別のレイヤーとして、実際にそのフィクションをネタにして、様々な情報操作や利権の草狩り場になってしまう状況の方がたちが悪い。

現状のエネルギー政策や、今まで取られて来た環境軽視の方向性というのは、それが合理的だからというよりも、要するに利権であるわけで、利権の配置を入れ替えて風通しを良くする意味だけでも、いったんブレーキを踏む事は結構大きいのではないかと思える。

だからと言って、民主党の環境政策が正しいかと言うと、旗を掲げたものの具体的な話はまだまだ進んでおらず、すでに経産省に取り込まれちゃった人も見受けられる。

現行の枠組みを見直すという意味合いで重要だとは思いますけれど、環境税は環境省に丸投げ、排出権取引は経産省に丸投げ、固定価格買い取り制度もしかり、と言ったように、従来の自民党的メンタリティで役人に骨抜きにされて、利権まみれになってしまえば、事実上無意味なので、その事はしっかりとウォッチして行かないとマズいでしょう。

さてこれらの前提話をふまえた上で、今少しずつマスコミの報道なんかが鳩山中期目標に対して、若干ポジティブな方向性を打ち出し始めているのはなぜだろうという話に戻ります。もちろん海外で結構ウケた事や、支持率が高い事によって、翼賛色を出しているという見方も出来ますが、いくつかの気になる案件があります。と行きたい所ですが、続きは次回。
なかなか暇がなくて書きたい事が書けない日々を過ごしております。皆様いかがお過ごしでしょうか?

すっかり寒くなっちまいまして、個人的に苦手な季節の到来にビクビクしております。本日は前回の続きと行きたい所ですが気になるニュースも溜まっているので、少し時事ネタを突っつきたいと思います。

中川昭一が死んじゃいましたね。これについて何も書かないのも不誠実だと思いますので、今日はその辺から少し書いて行きます。

彼についてはそれこそボロクソに書きまくって来たし、大っ嫌いだったのですが、死んじゃったとなると、かわいそうな感じがしてしまう。日本人的メンタリティーバリバリの三日坊主です。バカだのクズだのゴミだの辞めちまえだのと、散々罵倒して来たので、いざ死んじゃったとなると、なんか複雑な気持ちがしてしまう。まあそれでも、自分が口汚く罵倒して来たのは、まぎれも無い事実なので、彼が追いつめられていた力学に加担していたのは自覚しております。

とは言っても、彼が酩酊会見をしたときなんかは、このブログでは彼の酩酊自体は批判しておりません。むしろ彼を恥だと騒いでいる世論の方こそ違うだろと書いた。彼を支持したのは誰なんだよと。彼の恥は我々の恥だぞと。海外のメディアからバッシングされているのに対しては、うるせえ、余計なお世話だぜとまで書いた。中川を批判するのは俺たち日本人であって、外人がとやかく言ってんじゃねえよと。それに中川氏が吹き上がってぶちあげた核武装論に対してナンセンスだと叩いていた連中こそナンセンスだと擁護した事もあった。議論する事自体は自由なはずじゃないかと。

酩酊会見直後のエントリー

大臣をクビになった直後のエントリー

まあそういう事を書いたのは書いたのですが、別に彼の方向性を擁護していたわけでもなんでもないので、自分が彼を罵倒していたのは消えませんし、別に後悔もしていない。申し訳ないとも思っていない。だけど、やっぱり死んだとなると、さすがにちょっとかわいそうな気がしてしまう。あの酩酊会見がターニングポイントとなって、大臣を辞めてから選挙には落ち、まさに踏んだり蹴ったりだった事でしょう。

しかしそれも彼の自業自得、同情の余地は一ミリもない。と言いたい所だけど、やっぱり死んじゃったとなるとさすがに同情したくなるのが人情と言うもの。大臣を辞めて半泣きしていた時も若干気の毒な感じがしましたけれど、死んじゃったというのは次元が違う。

しかしかわいそうだと思う事と、彼を美化して利用しようとする力学とを混同してはいけませんので、これだけは今だからこそはっきり言っておく必要があります。死人に鞭打つようで何ですが、彼と彼を利用する勢力は保守とはとてもじゃないけれど呼べるような代物ではない。

麻生とか安倍とか保守を装う頭の悪いバカが、保守の要を失ったとか騒いでいますが、麻生とか安倍のようなクズ共も保守ではない。もっとも遠い所にいる対局にいる存在です。だいたい「美しい国」だから、もしくは「とてつもない国」だから、我々は郷土愛を持つのではない。偶々この国に生まれて、この国のいろんな人達と関係を持ったから、この国を愛憎入り交じったムカつく所もあるし情けない所ばっかりだけれど、最後の最後は日本人という属性をぬぐい去る事は出来ないという意味で自分が日本人である事を否定出来ないように日本という国を肯定せざるを得ない。

それはいい国だからでもなければ、美しい国だからというわけでもない。どんなに情けなくて薄汚い国であっても、「我々は日本人である、なぜならば日本人であるからだ」という循環論法でしか説明出来ない感情こそが愛国とか保守の要にあるもので、自分が思う美しい国とか、いい国であるとか、こういう国であるべきだとか、そういうのは自分の価値観でしかないわけだから、それぞれ自分が大切だと思った価値観を大切にするのは、人に迷惑をかけない範囲においては人それぞれの自由。だけどそれを誰かがこうであると押し付けるのは余計なお世話。まして国家権力がそれをエビデンスにして敵を排除し、何らかの制度を作り込もうなんて言うのは、どのように舵を取ろうとしても、それがどんなに正論であったとしても、ある人にとってはただの抑圧でしかないわけで、少なくとも保守であるのなら、そういう事に敏感であるべきであって、よっぽど慎重にやらなきゃマズい。

どこに敵がいるとか、誰々は愛国心が無いとか、そういう事は保守でもなんでもない。愛国心が無くても、愛国心があっても、金持ちでも貧乏人でも、エリートでもニートでも、男でも女でも老人でも若者でも、田舎者でも都会人でも、もしくは日本に住んでいるけれど日本国籍を持っていなくとも、日本に住んでいないとしても、ムカついても嫌いでも、「我々は仲間である、なぜならば我々は仲間だからだ」という根幹の所を保守しなくて、何が保守出来るというのか。

バカ左翼みたいな「みんな仲間」わかりあえる、みたいな寝ぼけた事が言いたいわけではなく、わかりあえるから仲間なんじゃない。意見が異なっても、価値観が違っていても、我々は日本人であるしか無い、アジア人であるしか無い、地球に住む人間であるしか無い。

家族だってそうで、「善い家族像」みたいなものを守っている家族が善い家族なのではなくて、ボンクラな親でも、アホな子供でも、その家に産まれた以上、家族であるしか無い。善い家族だから家族を守るのではなく、家族だから家族を守るのであって、時にぶつかったりムカついたりする事までひっくるめて家族のコミュニケーションに含まれている。善い母親像とか、理想の父親像とか、同じく理想の子供の姿とか、そんなもんを目指して、プレッシャーに右往左往するなんてのは、クソの値打ちも無いわけで、家族の絆なんてもんは、何かがあるから絆があるんじゃなくて、絆があるから絆がある。絆が無い人に、絆を作れと言ったって無理な話で、誰かに作ってもらうものではない。選択的夫婦別姓で壊れちまうような絆なら、絆なんてはじめっから無いのと同じ。

亀井静香が経団連に向かって、人間を人間扱いしないからこんな国になっちまったと言ったと批判されとります。根拠が無いとか、人気取りだとか言われている。確かにそうかもしれない。自分も正直この人の事はあまり好きではない。政策的な事に関して言えば、かなり厄介な奴が権力を握っちまったなとも思っています。だけど、子供の教育が危ない!!とギャーコラ喚いて、道徳教育だの詰め込み教育だの、愛国心教育だのと騒ぐよりはよっぽど健全な保守だと言える。人の上に立つ責任のあるべき立場にいる人間に、人間を人間として扱え、それが礼儀だろ、と説教する方が百倍マシです。

直接子供の教育とか、親の振る舞い方とか、そういう事を何らかの制度によって縛るのではなくて、家族の絆みたいなものを壊さないような余裕のある社会を守るとか、平等に教育を受ける権利を護持するとか、そういう事を守るのが保守であって、生まれた瞬間からある教育格差を是正するどころかブーストさせるような政策を延々と打っておきながら、それを是正する気配もなく、ただ末端に愛国心を持てとか、家族を大切にしろとか、道徳を守れとかって、ふざけんじゃねえぞって話です。

そんなものは親とか教師や大人達が教育し、子供が勝手に学んで行けばいい事で、いい国だと思えるような、人が尊厳を持って生きられるような国家や社会を守り、腐敗を断ち切って、道徳が空念仏ではないような枠組みを護持する事をやらないで、誰もが余裕も無く、腐敗が横行し、道徳が単なる絵空事でしかないような、空洞化した国家を作っておいて、偉そうに言ってんじゃねえぞって話です。保守すべき所が間違ってんだよ。保守を語っているくせにバカか。

ある意味「日本的インチキヘタレ保守」とでもいいましょうか、保守の復権は是が非でも必要だと(かつてあったのか?)自分は思いますけれど、「日本的インチキヘタレ保守」の復権では意味が無い。本末転倒です。

彼らがヘタレ的な行動作法で活動するのは別に彼らの自由なので、ムカつきはしますが勝手にやってればいい。ああいったヘタレはヘタレで、勝手にオナッていていいけれど、だけど保守を語るのだけは頼むから勘弁してほしい。

ああいうクズが人気が出ちゃう事は金輪際無いだろうけれど、あいつらのせいで保守というスタンスが貶められて、不必要なものと思われかねない。というか思われちゃっている。これは大問題です。ああいうマスカキザルとは別に保守を再生させる(というか新たに構築するというか)必要がある。

彼らが敵を作り、追い込まれてしまうのは、あの余裕の無さと、自分達で線を引き敵を設定しているからであって敵が元々いるわけではない。じゃ無きゃ自分も攻撃はしない。そういう事がわからずに特定の人間にしか通じないコミュニケーションに閉じて勝手に追い込まれて自滅して行く様は痛々しくて見ていられない。そこにアクセプタンスがあるのならそれでもいいのかもしれませんけれど、その承認が彼らを救っているのかと言えば、救っておらず、自滅して行く足かせにしかなっていないように見える。拳を握り虚空に向かって突き上げるのではなく、拳を開いて握手をすればいいのに。

中川氏がしでかした不始末と同様の振る舞いを、仮に小泉元首相がやっちまっていたらどうなっていただろうと想像しますと、あの野郎のことだから、きっと上手く立ち回って下手をすれば人気のリソースにしていたかもしれない。森元首相が仮に同じ境遇に落ちたらどうだっただろうと想像すると、きっとバッシングにもめげずに鈍感に対応していただろうなと思う。

そういう意味で言うと、中川氏とか安倍晋三にしろ、麻生太郎にしろ、小泉とか森のような図太い鈍感さと言うか、いい加減さと言うか、ある意味での余裕というものが無い。それは多分人としては魅力的ではないのだろうけれど、巧みに振る舞う奴よりは純粋な所があるからこそなんだろうとも思える。だからバカなんだろうけれど、本当は政治家の器ではないというだけで、普通の一般市民として生きていれば、それなりに害はない存在のようにも思える。彼らの悲劇は政治家の家系に生まれちゃったという事なのかもしれません。分不相応な役割を期待されちゃった。

中川昭一氏を批判していた姿勢は全く後悔はないし、改める気もないけれど、中川氏のご冥福をお祈りいたします。


さてせっかくなのでもう少し時事ネタを突っついて行きます。最近気になったニュースを見ていると、益々ネットでの情報が世の中を動かすようになったなと実感している次第です。
一例としては、最高裁の一票の格差に対する判決の手のひらを翻すかのような判決なんかが典型でしょう。基本的に合憲とはなりましたが、かなり厳しい条件付きの合憲で、次に何の進展も無ければ違憲になりそうな判決でした。レジームが変わって急に手のひらを返す最高裁の判事達の浅ましさももちろん、散々しらばっくれて来たバカマスコミも、政権交代の影響か、記者会見妨害問題の露見の影響か、かなり踏み込んで書いている所も見られた。

弁護士出身のこのブログでも散々批判した那須裁判官がかなりブレまくっているのが笑っちゃいました。前回は是正する姿勢が見られたから良かったけれど、その後何もやってないので問題だと言っていた。コイツ大丈夫か?

合憲か違憲かを判断するのであって、是正しようと努力していたら合憲で、実効性が無かったから違憲だというのは、実際の法の運用に基づいた基準とは何の関係もない。情緒的ながんばってるから許す、がんばってないから許さないと言ったレベルの、意味の分からない言い訳です。

一般人の気持ち的にそういう感情があるのは理解出来るけれど、それが合憲なのか違憲なのかを判断する際に、こんな恣意的な基準で判断して偉そうにしている連中がこの国の法の番人を気取っているわけです。絶望的な気分になる。

この男なんかは、この間の衆院選の最高裁判事の国民審査で、かなり異例なレベルで×をつけまくられたので、その事が響いているのでしょうけれど、言い訳が小賢しい。

コイツが痴漢冤罪事件をプロパガンダ的に利用した事や、和歌山カレー事件の意味の分からない判決を出した事、一票の格差問題には常に合憲を出して来た事、弁護士でありながら国家権力のケツをなめるような振る舞いはネットで結構広がってましたので、それがそのままダイレクトに影響した。バカマスコミが何も報じなくとも、プロパガンダを翼賛していても、一定の人々がちゃんと監視しているぞという事を示してもいる。

同じように最高裁の判事として、法のもとでの平等の精神に反して、一票の格差に合憲を出して来た判事は、いずれも今回の審査での不信任を、かなり異例な数字で叩き出し突きつけられている。基本的に殆ど×にする人が一定の割合でいて、後はよくわからないので、全く何もつけずにスルーしてしまう人が大多数。そして一応×をつけてみたものの途中でめんどくさくなって止める人が一定数いる。なので一番先頭に名前が載っている人が一番不信任の数が多いのが通常なんですけれど、今回の不信任には明らかにネットでのコミュニケーションによって、自覚的に不信任票を投じている層が、まだまだ人口的な割合で言えばマイノリティではあるものの、かなりしっかりと数字に表れるだけの世論というか輿論(戦前は「よろん」を輿論と書き、「せろん」を世論と表記した。輿論とはリテラシーを持ち、知的水準がそこそこのレベルであり、耳を傾けて聞くべき市民の声という意味で使われて、世論とは情報操作に右往左往して、人気主義に引っかかり、目先のすっきり感や不平不満に吹き上がる、耳を傾ける価値のない声という風に区別されていた。輿論に耳を傾けても、世論に惑わされるなと。これが戦後、よろんも、せろんも、世論と表記されるようになる、戦後民主主義の陥る帰結を考えると、結構重要な問題ではないかと)が作られている。

それがマジョリティーを形成するにはまだまだ時間はかかるでしょうけれど、そういう輿論というのは、下らない世論的な井戸端話よりは説得力がありますので、説明さえ上手く出来れば人を説得しやすい。今はそれにネットという情報の有効な伝達手段によって次第に広まって行きますので、身に覚えのある人間に対しては結構脅威に感じるのではないかと思います。

こういう浅ましい人間の行動作法に楔を打ち込んで恫喝する効果が、ネットの情報空間の中にはあるという事を証明した事になる。

もちろんネットの中でも、ゴミ情報から目から鱗の情報と様々ではありますし、あまりにもゴミ情報が多いので、諦めちゃっている人も結構いますけれど、ちゃんと機能している事を今回証明しているような気がします。希望の全くない時代にこれは希望と言えるのではないでしょうか。

これと同じで、ウィニーの判決が無罪になったのも良かったですね。政権交代が起こったからなのか、この手のひら返しの判決に対しては、浅ましい連中で困ってしまいますが、元々この問題が有罪であるわけが無い。どこをどう考えたってこんなものを有罪にするような要素はどこにも無い。包丁は時々人殺しの道具に使われる。包丁を作っている人はその事を十分承知で、包丁を作っている。だけど包丁を使った殺人事件が起こったって、包丁を作った人は罰せられない。こんな事は当たり前の話でしょう。

車も事故によって年間凄まじい被害者を出す。その事を車を作っている人も売っている人も、メーカーもわかっている。だけど事故で人が死んでも、事故を起こした人が罰せられるだけであって、車のメーカーや作っている人が罰せられるなんて事があるわけがない。

それと全く同じで、ウィニーを使って悪用した人がいるとすれば、その人が問題なのであって、制作者が問題なわけが無い。元々悪用する為に作られたわけではなく、ファイル共有ソフトとして便利なものだったから、それが広がった。制作者に仮に悪意があったとしたって、そんなものは証明出来ないのだから、制作者自体に問題があるわけが無い。こういうクリエイティビティをこの国はずっとぶっつぶして、既得権益を守るような下らない事ばかりやって来たから、将来性ゼロの国に成り下がっている。その一つに司法の無知無教養が原因としてある。マスコミがギャーコラ喚いても、司法がしっかりと判決を出せば済む話です。

こんな当たり前の判決が出たからと言ったって、別に当たり前の話なので、本来であれば喜ぶような話じゃないはずなのですが、この国ではそれが喜ばしい、珍しい事になってしまう。政権交代によってチェックが常に働いている状態が担保されてこそ、司法もバランスを保てるのかもしれません。ちょっとくらい気の利いた判決が出たからと喜んでいると、大概その裏では、良からぬ事が進んでいて、国民が表面的な囮に引っかかってスルーしてしまうというパターンが繰り返されても来ましたので、素直に喜べないし、疑心暗鬼ではありますが、少しずつまともな国家として変わって行く為のスタートラインに近づいていると思いたいです。

この問題はそもそも役人の情報漏洩を責任転嫁する為にウィニーの開発者が血祭りに上げられた構造がある。まさかそれを司法が追従するとはさすがに思っていませんでしたが、一審の判決はまさに役人の失態を隠蔽するかのような力学に追従した、お門違いの判決によって、ウィニー制作者を血祭りに上げた構造がある。こんなふざけた判決を出すような国が法治国家とは言えない。記者クラブの談合マスコミも批判するどころか、この判決のケツをなめていた。当然テレビとか新聞くらいしか情報を収集する手段の無い人にとってはプライオリティの低い話でしかなかったのかもしれない。しかし一部のネットではこの問題は大変な騒ぎになっていた。それが多少の援護射撃になっていたのではないかと思えます。

それを考えれば既存のバカマスコミが記者クラブ体制を護持しようとどんなに振る舞っていても、時代の変化には太刀打ち出来ない。自動車が開発されてしまえば、どんなに馬車の既得権益をガチガチに握っていたとしても、それは意味がなくなる。そういう変化が情報空間では益々進展しているという事を実感出来ました。これは楽しみでもある。

前回の続きはまた後日に。本日はこれにて。
鳩山首相の外遊で、はじめて日本の首相が官僚の作文ではなく自分の言葉で意志を示しました。これについては、まあ一応良かったんではないかとは思います。CO2の-25%削減の中期目標にしても、ちゃんと条件をつけて逃げ道はキッチリ用意してある。それを言っている以上、嘘つき呼ばわりされる筋合いは無いので、自民党が行って来た舵取りによって、京都議定書の約束を反故にして批判されるような図式の問題に対しては、新興国まで含めて足並みが揃う事はそう簡単な事ではないので一応保険をしっかりかけている。

単に日本が国際社会に一方的な贈与を行うような、カツアゲされる使いっ走りのような役割を担わないようにチェックして行く事が重要だと思います。一応国際的な枠組みに合意すると言ったのだから、文句を言われる筋合いはないので、それをリソースにして、イニシアティブを握って欲しいものです。あんまり期待はしてませんけど。

それに国民もおおむね好意的に見ているでしょう。まあ批判している人もいますけれど。まあこれはどうでもいいと言っちゃアレですが、そんな事よりも重要なのは、高い支持率でボケてるのか、そもそもやる気が無いのか、もしくは能力が無いのか、その裏側では、もうかなりのところまで役人やメディア、既得権益層に大事なところはプロテクトされてしまって、政権党の忙しさという、怒濤の流れに巻き込まれた民主党の大臣達は、外部からシャットアウトされ、役人の手のひらで踊りはじめています。

表向きは花を持たせておいて能天気な民主党議員達は踊らされ、背後では着々と骨抜きが始まっている。もうかなり厳しい状態にあると言っていい。

メディアの民主党に対するバッシングが一応落ち着きを見せ始めているのも、巻き返しがかなりの段階まで進んでいる事を示している。一度政権交代をしたくらいではどうにもならないとは思っていましたが、早くも希望は限りなく乏しくなって参りました。唯一の処方箋は我々がそれをきちんとウォッチするところにあり、情報を共有するところにあります。絶望すると思いますけれど、目をそらさずにチェックしていく必要があるでしょう。

本来なら対抗する政党があればいいのですが、自民党はあの体たらく、党内の古い体質は温存したまま、谷垣が総裁の座につきました。河野太郎あたりが、猛烈に名指しで党幹部達を批判していましたが、あの人が総裁になればちょっとは変わるかなとも思えたのですが、従来型の総裁の決定に落ち着き、当分の間は期待出来ないでしょう。

河野がなれば良かったと言ったのは、別にあの人の能力的な事や、党幹部を批判していたというところではなくて、明確に保守主義、小さな政府、市場重視、経済成長を打ち出していたところにある。

なんだかんだで、民主党は従来型の再配分とは意味合いが変わっているとはいうものの、再配分政党であり、リベラル政権でもある。したがって市場の自由に任せるというよりも、介入する方向に行くでしょうし、である以上、新自由主義的な意味での小さな政府路線にはならないでしょう。なんだかんだで、大きな政府を引きずってしまう構造も抱えている。リベラル政権の気をつけなければならない点は、全体主義的な臭いが必ずつきまとう所にありますので、非常に危険でもある。したがってかつての自民党的再配分路線が腐っていたのと同様、その恩恵にあやかって来た組合系の腐敗同様に、牽制が無ければ必ず腐敗する。

小林よしのり(小林の言っている事が誤って伝わっちゃっているので彼自身は本当はそんな事言ってないのですが)や新しい教科書を作る会的な力学に影響を受けて、小泉的新自由主義に吹き上がった、いわゆる「右傾化」のたった一つだけの良かった点があるとすれば、従来型の古い左翼的な腐敗を叩きつぶした所にある。この牽制が無ければこの腐敗構造はチェック出来なかった。少なくとも左の連中には出来なかった。腐敗にあぐらをかき利権を貪っていた。

そういう意味で言うと、河野が打ち出した路線というのは、やっとスッキリした対立軸を明確に自民党が提示出来たなと思ったのですが、結果は皆様周知の通り。谷垣氏に関して言えば、多分普段の言動から察するに、麻生とかほどは酷くなさそうなように見えますし、イメージ的に柔らかい感じがしますので、対民主党で考えれば悪い人選ではない自民党の重鎮の中では比較的マシな人だと思うのですが、いかんせん彼を担いでいる面々が薄汚い連中ばかり。

これから益々自民党が隠蔽して来た腐敗が可視化されて行くわけですから、その辺の薄汚れた構造を切らないと再生出来ないのではないかと思うのですが、河野氏ほど明確に自民党のパーティアイデンティティを打ち出せるとは思えませんし、だいたい河野的な方向性は小泉竹中の印象が残っているので、国民的には不人気だろうし、なんかしばらくは牽制としては期待出来そうも無い気がします。

右左の対立図式というのは、どちらが正しいか?という事にはあまり意味は無く、そんなもの中間がいいに決まっているのですが、左の連中がいる以上、右は絶対に必要だし、右の連中がいる以上、左は絶対に必要です。それがバランスを生む。再配分か?経済成長か?もしくは介入か?市場の自由か?というのも、そのときによって再配分した方がいい場合もあるし、経済成長も必要でしょう。どちらか?ではなくどちらも必要で、今この局面ではどちらを重視するのか?という問題でしかない。

介入すべきか市場の自由に任せるのか?という問題も、市場の自由に任せた方がいいに決まってますが、自由は時として自由を掘り崩し、自由で居続ける事が出来なくなってしまう場合がありますので、そういう場合は介入も必要でしょう。自由な競争を国家が介入して阻害するという事はなるべくやらない方がいいに決まっていますが、自由な競争に任せていると、格差が固定化してしまいますので、結果平等によってスタートラインをそろえ、機会の平等を担保する。結果平等の悪弊が競争を邪魔するまで放置しているようでは、これもやっぱりマズくて、スタートラインをそろえたら、競争によって活性化させる必要がある。

要するにこれらの対立軸は全く逆のベクトルを向いていたとしても、二つでバランスを保つ事が出来るわけで、どちらが正しいか?という話ではない。今どちらを優先させるべきかという話でしかない。したがって牽制が無ければどちらの方向を取るにせよ、必ず問題が生じます。重要なのはそれが牽制し合っている状況であって、自民党にそれが期待出来ない以上、しばらくは国民が民主党の方向性にチェックを入れる必要がある。それが市民政治であり、民主主義の本義でもあります。

そして肝腎なのは、これ以上財政を悪化させるわけにも行かないので、どちらの方向に進むにせよ、無駄と非効率は徹底的に見直さないとマズい。その為には情報開示が不可欠なんですが、そこの所が、だいぶ怪しくなって来ています。

現時点で重要なのは民主党はリベラル政権と言いましたけれど、別に保守市場重視型の小さな政府路線から政権を奪ったわけではないので、そういう意味で言うと、右左のバランスという構造には未だかつて一度もそうなった事はない。ただ腐っていて機能不全だった何の理念も無い利権政党の自民党から政権を奪っただけなので、ただ腐った自民党と同じ事をしたいだけであるのなら、別に腐ったものどうし、どっちが腐っていないかという絶望的な選択になってしまうのですが、仮に民主党がリベラル政権としての役割を貫徹すると言うのなら、自民党はそれに対抗するパーティアイデンティティを構築しないと、次の政権交代は単なるバックフラッシュという意味合いでしかなくなる。

日本ではこれまでこういった対立軸が事実上機能してこなかったので、保守政党と言っても、事実上再配分だったり、小泉的インチキ小さな政府だったりと、何を保守するのかが明確ではなく、主に利権を保守するというのが日本の保守だと言える。革新政党と言っても、自民党的再配分にぶら下がって、アメリカの核の傘にぶら下がって、護憲平和を唱えて来ただけなので、事実上アメリカとかヨーロッパのような対立軸もないし、二大政党制とか言っても事実上大きな違いを打ち出す事も出来なかったので、方向性で選ぶという感じではなかった。

ただそれは悪い事だと言いたいわけではない。元々アメリカにしろ、ヨーロッパにしろ、その対立軸がある。フランス革命とその反省から出て来たバーク的な保守、そしてイギリス的な保守から自由を求めてアメリカを建国した、アメリカ的保守であるリバタリアニズム、その自由が自由を掘り崩さないように出て来た、アメリカ的リベラリズムという対立軸。

こういう対立軸は歴史が作り出して来たもので、そういう対立があるからその対立軸が必要となる。しかし日本にはそもそもそういう対立は無いのだから、対立があるより無い方がいいに決まっているわけで、無いから二大政党制も根付いてこなかったし、野党は自民に対抗するパーティアイデンティティを示す事が出来なかった。無いのに無理矢理作り出すという方が、本当は不自然でもある。もちろんそれによってチェックが働かないという問題はあったものの、ある次期まではみんなそれで上手く回っていたので、それでよかった。

それが上手く回らなくなり、保守がそれまでは護憲平和も再配分も反共の防波堤としても、何でもかんでも網羅してきたものが、矛盾が可視化してくる。どうにもならなくなって、自民党は小泉という劇薬に頼った。その事によって自民党の曖昧だった方向性が明確に見えた。だから野党の方向性も定まった。自民党は政権党のままいきなり小泉という覚醒剤を使ったので、一瞬調子が良かったけれど、これまでの構造を簡単に切り替える事などできずにあっという間に副作用でボロボロになっちゃった。

なので野党に下った今こそ、利権の配置を入れ替えて方向性を打ち出すチャンスなんですが、そうはならなかった。牽制として期待したい所ですが、その牽制は従来型の権益へのバックフラッシュを意味していますので、そこに戻るのでは本末転倒な気がします。従来の自民党的利権システムで利権を貪って来た既得権益の復活では意味が無いので、民主党的方向性の腐敗をチェックしつつ、元の木阿弥状態にならないような注意が必要でしょう。

民主党的方向性が腐敗すること自体の問題よりも、それに対してチェックが働かない事の方が問題です。もしくはチェックが従来型の利権の巻き返しの力学である事が。権力は必ず腐敗するこれは一種の法則です。絶対にそうなる。改革政党だ、革命政党だと言ったって、権力を握れば今度は改革される側の対象そのものと一体化してしまうので、改革だ!という雄叫びは権力の強化に繋がる。小泉が自民党の内部で、改革すると喚いた結果、政府の権限は強まり、改革というお題目は虫食いだらけ、一時的とは言え悪夢のような自民党の強化になってしまった。後に続いた連中があまりもマヌケだったから勝手に自爆してくれたけれど、それだって結構長い間やりたい放題を許してしまった。特に今回の政権交代間際には、随分と滑り込みで、傍若無人ぶりを発揮されちゃった。

さて自民党にはしばらく期待出来そうも無いですし、野党の問題をごちゃごちゃ言っていても仕方ないので、政権党へと目を移しますと、政権交代に浮かれて準備不足だったのか、あれだけ長い期間野党として準備期間があったはずなのに、野党時代に何を準備していたんだよ?とガッカリするような体たらく。役人やマスコミの反撃にサンドバック状態です。

民主党の甘さが早くも露呈している。記者クラブを巡るやり取りなんかはまさに情けなさ全開です。付け込む隙がありすぎて不安な船出となっています。というかもうほぼ帰結は見えたという感じでしょう。まずはその辺を少し見て行きましょう。

記者クラブ開放の問題に関しては既存メディアは全くの無視どころか、提灯捏造記事を書いているにもかかわらず、官僚に会見をやらせないという話には食いついて、知る権利の制約だ!!とか喚いていた。お前らが国民の知る権利を侵害しているくせに、何を言ってんだよ。本当うざってぇ。

大変な大騒ぎになり、在外公館の大使なんかが会見を取りやめたりして混乱したとか騒いでいる。記者クラブ開放の問題のように下手に書くと自分達の利権が減る可能性があると全く書かないのに、自分達の利権温存に必要だとみると公共の電波や紙面を使ってあからさまに偏向報道をし、国民の権利を盾に取って話を歪曲する。

これは鳩山内閣の基本方針で、府省の見解を表明する記者会見は大臣等の政が行い、事務次官等の定例記者会見は行わない。ただし、専門性その他の状況に応じ、大臣等が適切と判断した場合、官が行う、という話になっている。

行う事自体を否定しているのではなくて、役人の次官が勝手に会見を行う事によって、大臣や政治家の意向に関係なく、自分達で政策や役所の方針を伝えてしまい、記者クラブの番記者達が広報活動のように書く。これによって政治家の意向を無視した方向性を既成事実化してしまう。記者クラブのバカ記者達はこれに加担して来た。

これを阻止する為の措置で、必要に応じて大臣の許可のもと会見を開く事は出来るし、ブリーフィングとかレクのような背景説明は会見には含まないと、前回叩いた平野官房長官がちゃんと会見ではっきり言っている。にもかかわらず、バカメディアは大臣だけの会見では専門的な説明が不足する、国民の知る権利の侵害だ!!と喚いている。全く、事実を歪曲しやがって、死ね!!

どこの世界に会社の方針を社長が示す前に、勝手に部下がその会社の方針を決めて、それに社長が従うなんて言う図式があるでしょうか?

それと同じで、国民の負託を受けた政治家が方針を打ち出し、それに役人が従うという図式が当たり前です。例えば政府が予算の方針の決定を出していない段階で、国交省とか農水省とかが、来年度の予算編成はこれこれこういう方針で臨むと勝手に打ち出している。それを記者クラブのバカ記者達が報じ既成事実化されていく。こういう事を許さないと言っているのであって、知る権利は全く何の関係もない。政府の方針につかえるのが役人の仕事であって、方針を打ち出すのは彼らの仕事ではない。その線引きをキッチリやろうと言う方針なのに、バカマスコミが役人と結託して、それを妨害しようとする。

これを情報統制だという話も全くのお門違いであり、何の為にマスコミがいるのか?これを調査報道をして、会見の場で徹底的な質問を浴びせれば済む話です。独裁国家じゃないんだから、質問に対して不用意な発言や、情報を隠蔽し、都合のいい情報だけを流そうとしていれば、それに食いつけばいい話で、いくらでも政治家はボロを出すでしょう。今の世の中、それほど情報を隠蔽出来るもんじゃない。自民党の顛末を見れば火を見るよりも明らかです。

だいたい都合のいい情報操作をして隠蔽してコントロールして来た体質そのものが、官主導の定例会見によって行われて来たのだから、そこを国民に選ばれた政治家がハンドルを握って予算編成権を取り戻し、民主主義としてのまともな流れを確立する事のどこが情報統制であるのか?

問題は政治家を通して、国民の意思を国政に反映させられないことにあるわけで、役人の勝手な振る舞いでこの国は機能不全に陥って来た。平野官房長官が官邸の記者会見を開かなかった理由も、単に平野がバカだったからというところが妥当らしくて、これは記者クラブ側からの、記者クラブ開放批判の根拠として言われていた、要するにキャパシティとか、セキュリティの問題を官僚から問いただされて、何かあったら責任問題に発展するとビビった平野が、その口車に乗せられて、まんまと会見をクローズにしてしまった。

会見をフリーにするとセキュリティが!!というのは今現在もセキュリティチェックなんてしていないわけで、大手メディアという看板だけで、いくらでも素通りしているのが今の記者クラブ体制です。大手だから安全なんて理由はどこにも無いし、むしろ最近はそういった大手とか、公務員系の人達の不祥事なんて日常茶飯事なんだから、今セキュリティチェックをしていない現状を棚に上げて、開放したらセキュリティ云々という話は筋が通らない。開放しようがしまいが現状のセキュリティチェックは問題であり、その事と開放は関係がない。

キャパシティの問題というのは、政府が担保すべき事であって、それを理由に情報の受け手をスクリーニングする理由にはならないし、そんなもの用意しろの一言で終わり。だいたい自由にすると、一社でいっぱい記者が来てしまうので、自由にすると大手が余計に強くなる云々の話も、そんなものは一社一人と決めれば済む話だし、テレビカメラなんかも民放で一台、NHKで一台、ネットで一台と各社どうせ同じ映像を流すのだから共有させれば一発で解決する。それをやればキャパシティの問題なんか簡単に解決出来る。現状でも、特定の新聞社や放送局がバカみたいに記者をいっぱい送り込んで質問を独占する構造がある。それを許し続ける事は自由とは関係ない。

読売のナベツネが平野や鳩山を呼びつけて、官僚と戦争をするのならメディアを敵に回さない方がいいのではないかね?(っつうか、何で情報公開がマスコミを敵に回す事になるのか、つくづく腐りきった連中です)と吹き込んだという話もあるし、完全に己の既得権益を守るため、記者クラブ体制を守る為なら国民益など無関係にマスコミは総力を挙げて、官僚をバックアップし、民主党のメディア政策をぶっつぶすぞという事をハッキリ言っている。脱官僚を謳うならマスコミを敵に回さない方がいいよと。全く困った連中です。

会見をクローズにして、官僚の都合のいい方針を打ち出す状況を許してしまっては、自民党時代と何も変わらなくなる。本来ならば記者クラブを全面開放すべき所だけれど、今のマスコミレベルで言うと、開放した所で、たいした質問も出来ないでしょうし、どうせ報じないだろうから、しばらくは無意味に見えるかもしれない。だけど、まず何が重要なのかを忘れては行けない。正しい道を進むかどうかが重要なのではなく、誤ったときに国民の意思によってブレーキが踏めるかどうか?そこにかかっている。

何となく今の民主党の方向性に対して批判している言説は、一部分だけを取って合理的か不合理かを論じているような気がする。全部政府のフィルターを通した情報しか開示されない状況を許しては情報統制の危険が!!という話になっちゃう。だけどこれには、記者クラブ開放という話もセットだし、日本版FCCやクロスオーナーシップの見直しなんかがセットになっている。記者クラブ開放をやらなければ、それは確かに情報統制の危険もあるだろうし、クロスオーナーシップを許したまま、日本版FCCなんて作ったって機能するわけがない。それを徹底的に叩く事が出来る新聞社をクロスオーナーシップという利権を引きはがして、政府から独立させなければ、必ずお手盛りの第三者委員会的な無意味な構造になるに決まっている。どこか一カ所が問題だと騒いで、それを撤回させてしまえば、これらは全部機能しない。

何となくゲリラ戦的に、局所的な問題点を叩き骨抜きにされて行く。その部分だけを見れば批判も的を得ている場合もあるのですが、全体的な国家像の観点から、批判すべき所を批判してもらいたいもんです。民主の牽制も重要ですが誰がそれをほくそ笑んでいるのかも考える必要がある。

批判をするなら、官僚による勝手な省の方針を打ち出す会見を禁止する事ではなくて、記者会見がクローズドな状態である事で、政府から独立した、情報統制を許さないマスコミの仕組みを構築していない事を批判した方が実りがある。国民の意思は相変わらず反映させる事も出来ず、啓蒙もされず、ブレーキすら踏めない状況になり、唯一の牽制手段が官僚の巧みさというだけでは、今までの官僚の暴走の構造から何一つ変わらない。それがこの国を疲弊させて来た最大の原因であるにもかかわらず。この辺を骨抜きにされてしまえば、多分すべての分野でもう何も期待は出来ない。早くも正念場です。

大臣がどんなめんどくさい質問にでもフルオープンの会見で答えます。という事と次官の勝手な省の方針を打ち出すような会見は禁じるという事はセットであるわけで、フルオープンの会見を阻止している事を問題にすべきであって、次官の勝手な会見によって番記者達が広報活動を行う事によって知る権利を担保するという話は意味が全然違う。どっちが情報統制なんだよって話です。

だいたい現状の記者クラブ体制だって、質問はしているわけだから、そこで徹底的に質問して情報統制は絶対に許さないという姿勢を見せれば、知る権利なんていくらでも担保出来るはず。要するに記者クラブ体制ではチェックが全く機能していないという事を事実上認めている。単なる役人からのリークを官報のように垂れ流しているマスメディアには、次官会見を禁止されたら調査能力も無いし、質問する能力も無いという事を事実上認めている。そういう無能さが次官会見を廃止するとバレるから困ると言いたいのでしょう。だったら座席を明け渡せよ。

マスコミはもう完全に調査能力を失っている。調査能力が無いのだから記者クラブを開くか、調査能力を取り戻すか、いずれかの選択を取るのなら、まだ気概も期待出来るけれど、取り戻す努力をする事も無く、無能なまま座席を護持しようと言う根性が浅ましい。

現場レベルの記者はその事を自覚しないまでも、開いたら開いたで対応するしかないので、決定が下れば対応するでしょう。問題はこの制度のまま(自分が生きている間は)逃げ切れると考えているトップの連中です。自分の退職金を少しでも多く持ち逃げするべく、それはそれで、そういう連中に取っては合理性はあるのかもしれないけれど、その事によって全国民が痛いめに会う。その会社自体もリソースを益々失っていく。こういう体制のもと、日航のOBの退職金や年金が多いとか批判している。よく言えるもんです。

政治主導という意味で言えば、政府の方針は大臣が打ち出し、役人は大臣の許可のもと背景説明であるレクやブリーフィングを行うという形は、従来のコントロール不可能なやりたい放題状態から比べれば、国民の意思を反映させるためという意味で言えば、いたって普通の話であるのに、知る権利の制約だとか言う話になってしまう。

官房副長官が決まる前に、内閣府の役人が各省庁の広報担当を集めて、この方針に対する説明を行っている。その中で作為的にこの方向性をねじ曲げている。会見やブリーフィングは政がやる。地震の時や捜査の時は官が行い、それ以外は政が行うのだと。??

これを受けて、在外公館とかも会見を行う事が出来なくなって大騒ぎになった。

わざと誤解させるように事実を曲解して伝え、その結果、各省大臣がそれに反応し、会見までは禁止はしないと言質を取られてしまっている。

これは役人がよくやる姑息な手段で、完全な嘘をついたわけではないけれど、微妙にコンテクストをねじ曲げ、その事によって意図した通りのリアクションが起こり、初期の目標を貫徹する。これは一例ですがあらゆる部分でこういった図式が見受けられる。

もちろんそこに強力にバックアップしているのが記者クラブのバカ記者達で、それにまんまと国民は踊らされ、政治家は不人気を恐れ、妥協が始まる。もうすでに始まっている。
結果役人やメディア、財界の堅固な既得権は護持され、国民は上前をはねられ続けるという図式になる。

ただ単に次官の勝手な方針を打ち出す会見を禁ずるだけではなくて、副大臣や政務官と言った、政治家達の会見の機会は増やすとまで言っている。そういう事をいっさい無視して、単に禁止という言葉だけが意図的に前面に打ち出され、それに釣られて情報統制だと騒ぐ輩が出てくる。簡単な話ですが今の今まで情報統制が行われて来たわけで、その構造を守ろうとしている連中のタクティクスに乗せられてしまってる。

しかしこれはそういう連中だけに責任があるわけではない。民主党の連中にこそ問題がある。こういう抵抗がある事くらいはじめから予想されてた事であり想定の範囲内です。最初が肝腎なのに、最初っからいいように遊ばれちゃっている。そもそもやる気が無く政権を取る事だけが目的だったのか、単にアマちゃんなだけなのか、ちょっと支持率が高いからって浮かれてんじゃねえぞ!!長い野党時代に一体何をやってたんだよ。このデレ助が!!

拳を振り上げて意気軒昂に政権を奪ったら、実際は丸腰状態。断固決然安倍晋三や麻生太郎と大差ない。

元々民主党はNC(ネクストキャビネット)を中心にして政策をずっと練って来た。にもかかわらずいざ政権を取り大臣を任命するとなったら、そのNCをことごとく無視して、鳩山の側近や論功行賞的な年次のようなものに縛られた、自民党的人事に落ち着いちゃった。NCがそのまま大臣になったケースは少ない。本当に詳しい人が外されちゃっているケースが多い。そこで準備をしていたんじゃないのかよ。

前原が国交大臣ってはっきり言えばあの人は素人なので、かなり無理がある。最初は良かったけれど、もう早くもボロを出し始めているし、農水も素人、環境大臣も鳩山の側近人事でこれも素人。大臣になれば基本的に携帯で連絡は取れない。SPがつく。アポイントは官僚の秘書官を通さないと取れない。情報から隔離され、丸裸の状態で孤立させられてしまう。大臣に上がってくる情報も官僚がスクリーニングした都合のいい情報しか上がらず、すり込みが始まる。おまけにNCじゃなかったりするから知識も経験も無い。知識が無いだけならともかく、NCの人達というのは、NPOとか、NGOと言った、市民社会との結びつきが強いので人脈がある。霞ヶ関の力がつかえないので、市民社会からインプットを受けて対案を出していた。

そういう人が大臣になっていれば、いざというとき自分から連絡を取って、情報収集もできるけれど、それが全くない素人が大臣になってしまっているものだから、完全に丸裸で心細い状態に放り込まれている。頼りになるのは役人だけという状態。こんな事ははじめっからわかっていた事なのに、何をやっているのか?官僚の常套手段、丸裸にして情報隔離状態にする事によってコントロールするというタクティクスに、まんまと丸腰で罠にはまりに行っている。何ともがっかり早くも絶望的になって参りました。まあ政権交代した所で民主党ごときが何かをなせるとは思っちゃいませんでしたけれど、さすがに能天気にもほどがあんだろ。

こういった官僚の操り人形と化した姿があからさまに見えるようになれば、支持率は激減しますので、そうなってケツに火がつかないと、この能天気野郎共のマインドは変わらないかもしれない。しかしもうそうなってからでは手遅れであるかもしれず、なかなかこの国の真の問題点の壁は分厚いなと感じる次第です。唯一我々がチェックし続けて、真っ当な批判と、有効なバックアップしか今の所方法は無い。

つづく!!