調子の悪かったパソコンがついにぶっ壊れてしまいまして、本日は人のパソコンから更新いたします。ってなんだよシステムが滅茶苦茶じゃないか。チクショウ最適化するか。


キャリブレーション取りつつ、ゼロ・モーメント・ポイント及びCPGを再設定…
チッ、なら疑似皮質の分子イオンポンプに制御モジュール直結。
ニューラルリンケージ・ネットワーク再構築。
メタ運動野パラメータ更新。
フィードフォワード制御再起動。
伝達関数。
コリオリ偏差修正。
運動ルーチン接続。
システム、オンライン。
ブートストラップ起動。

なんちゃって。

という事でおっぱじめます。

さて少し前の話ですが、韓国の国会が大荒れに荒れて、大騒ぎになっておりました。与党の法案に野党が反対をし、めちゃくちゃもめていた。しかし日本の大手メディアではこのことについて全く報じることもなかったし、多分多くの人が知らない事ではないかと思う。

何でもめていたかと言いますと、マスコミのクロスオーナーシップの規制緩和をするかしないかでもめていた。要するに新聞社がテレビ局の株を買って、実質支配下に置く事ができる制度を許すかどうか。これを許してしまうとマスメディアの独占談合構造がより強化されてしまい、チェックが働かなくなってしまいます。

当然ですが、その制度を許してしまえば、株主である親会社の意向には逆らえなくなりますので、韓国というのは新聞社はどちらかというと与党より、テレビ局が野党よりのバランスだったものが崩れてしまう可能性が出てくる。

これに対して大騒ぎをしていたわけです。

この制度は非常に問題のある制度なので、普通反対するに決まっています。マスメディアの公正中立を損なってしまいますし、批判されたくない権力者からすれば、批判を封じ込める事ができるわけですから、民主国家であれば反対して当然です。日本では韓国を批判する人が多いし、民度が低いだなんだと揶揄しますが、日本に比べれば民主制が機能しているという意味では、まだマシかもしれない。民度も日本よりは全然高いかもしれない。少なくともこの事が大問題になるんですから。

アメリカでも、確か2001年くらいにパウエルの息子がこのクロスオーナーシップの規制緩和を押し進めようとして、ワシントンで大騒ぎになった。これも日本の大手メディアのワシントン特派員は全く報じる事がありませんでした。

なぜなら、日本の大手マスメディアはこのクロスオーナーシップという歪んだ制度があるが故にその上に君臨し、チェック機能を全く果たす事ができず、情報を隠蔽し、捏造歪曲を繰り返し、無知無能のまま延々と利権をむさぼっているからです。5系列16社体制による独占、談合のシステムでこの国を牛耳っている。それが国民の市民性の成熟を邪魔してもいる。
普通先進国で民主国家であれば犯罪である制度を堂々と国家にすり寄りゴマをすって守ってもらっているのだから、権力のチェックなんて出来るわけがない。

今度の衆院選の争点の一つにマスコミ改革を民主党は掲げています。クロスオーナーシップを見直すと言っている。そして記者クラブ解放も謳っている。案の定、談合大手マスコミの連中は何が何でも既得権護持とばかりに、まったくその事を報じないばかりか、自民党翼賛報道を恥ずかしげもなく、堂々と行い始めている。何とも醜い連中です。

マニフェストが出そろった、マニフェストを吟味して選択しよう。民主党は財源があやふやだ、何がしたいのかわからないってな感じで。まあ批判するのは構わない、それがマスコミの役割なんだから、与党になる可能性があるんだから、徹底的にチェックするのは当然の事です。しかしマスコミの馬鹿どもにしろ、与党のクズどもにしろ、基本的にマニフェスト選挙の意味が分かっていない。権益護持の為に民主党の足を引っ張りたいのでしょうけれど、報じている内容が酷すぎます。

与党の連中は既に2005年マニフェストを掲げて選挙に勝っているわけだから、それがどれくらい実行されたのかを検証する事が最重要なのであって、与党がマニフェストを掲げるという事自体、不思議な話でもある。今までなぜそれをやらなかったんだよって話になるわけです。与党は自画自賛し、掲げた事は殆ど手は付けたとほざいています。バカかって話です。

努力目標じゃねえんだよ。百歩譲って手を付けたという事を認めるとしても、実行すると言ったのに、手を付けただけなんだから、それはマニフェストを実行したわけじゃない。手をつけるだけしかやらないと約束して戦ったわけじゃない。なぜ実行しなかったのか?その責任はどのようにして取るのか?責任政党責任政党とわめいていますけれど、ここまで日本を疲弊させた責任をどう取るんだって話で、今後何々をするなんてのは意味がない。借金まみれにし、外交的には無策を続け、役人の既得権は増大し、経済を疲弊させた責任をどうするんだよって話の方が先であり、それを徹底検証した上で、信任するかどうかって話なのであって、その検証もほっぽり出して、実行する気もないマニフェストを掲げたって意味なんかない。

だいたい自民党は10年後とか、次の総選挙の際に検証不可能な目標までマニフェストで掲げている。バカじゃねえかって話で、マニフェストの意味が分かってないのでしょう。どうせすぐに辞める総裁が、なんでそんな先の検証不可能な約束なんてするんだか意味が分かりません。こんな二進も三進もいかないような国に成り果てているのに、その責任も取らないし、取る気もないのに、検証できない未来の空約束までしている。

そこをまず徹底的にチェックするのが先であって、何がマニフェスト書かれているのかなんてのは与党の場合意味がないわけです。それを報じるのがマスコミの責務であるのに、マニフェストが出そろった検証しよう、なんてアホな話になる。バカ与党のケツなめ報道ばかり。

民主党は政権党ではないのだから、仮に政権交代がおこったとしたら4年後に糾弾すればいい話であって、責任もない、政権も握っていない政党のマニフェストをぐちゃぐちゃ言う前にすべき事があるだろって話です。

民主党では不安だ?バカかって話です。やった事もないのに、なんでわかんだよ。それにそれを言うなら、その前に与党がめちゃくちゃにしてしまった現状がまず目の前にある。その検証をまずしろよって話です。民主党では不安なのではなく、自民党にしろ、野党にしろ不安は変わらない。しかし与党の場合もうすでにこの国のシステムをここまでぶっ壊して社会を滅茶苦茶にしてしまった責任がある。そして政権担当能力が皆無であるという事もとっくの昔に露呈している。実績として無能で約束も守らず、責任も取らないという事が実際目の前にある。やった事もない政党の未来の約束をごちゃごちゃ言う前に、既にさんざんやってきた与党の無能なクズどもが責任政党としての役割をまったく果たしてこなかったのだから、そっちの問題の方が先です。それを徹底して問う事なくして、与野党のマニフェストを比べたって無意味です。それは野党が政権を握ってもマニフェストなんて実行しなくて構わないという社会としての意思を表明する事に等しい。自殺行為です。

与党のクズ共も自分達がまったく責任を果たしていない事を棚に上げて、野党のマニフェストを実効性がないとかほざいている。てめえらで実行していないくせに何を言ってんだ?って話です。本当どうにもならない連中です。経済が回復基調にある?嘘泣き野郎のバカ麻生がほざいていましたが、ふざけんなって話です。ここまで経済を停滞させたのは与党の責任であり、ずっとサブプライムで二進も三進もいかなくなるまで放置し続けてきたくせに、落ちるとこまで落ちてオーバーシュートしていたのが戻っているだけの話です。それを手柄のように言っているのだから救いようがない。つくづく程度の低いウジ虫野郎です。

景気対策とか言ったってたいして役にも立たない無駄な金をステークホルダーにバラまいて、しかもそれは我々の金であり、借金になるわけで、それを手柄のようにほざいている。脳みそが腐ってんじゃねえか?本当救いようのないバカです。

経済同友会、連合、日本青年会議所、PHP総研、言論NPO、日本総研、構想日本、チーム・ポリシーウォッチ、全国知事会などの9団体が採点したなんて話が出てきてますが、あれを基準に言ったって、基本的にマニフェストは半分くらいしか実行していないという評価が出てるのだから、これから何々しますという話の前に、どう責任を取るのか明確にせよというのが先であって、今後も政権に居座って責任を果たすという言い方では何も言っていない等しい。それをまず徹底的にやった上でなければ、マニフェスト選挙なんてやるだけ無駄です。

バカの一つ覚え的に財源が曖昧だのなんだのと野党を批判する暇があるのなら、先にチェックすべき事があるはずです。だいたい財源が本当はどれくらい足りないのか?もしくは足りているのに足りないと言っているのか?その事を本当にわかっているのは財務省の役人だけでしょう。自民党だって把握していない。自分達でそう言っている。マスコミだって知っているわけがない。つまり役人以外は基本的にどれくらい足らないのかはわからないはずです。役人が足らないと言っているから、それを官報よろしく垂れ流している。

どれくらい足らないのかを知らなければどれくらい必要なのかもわかるわけがない。そして役人が足らないという風に言っても、もう日本人はその事を信用していない。だから足りているのかいないのか白日の下にさらし、徹底的に透明化した上でなければ、消費税なんて誰も納得しない。その透明化の方が先であって、それがなければ正当性の調達は難しい。それを徹底的にやらないから、いつまでも財政再建もできないわけです。いくら足らないのかわからないのだから、出来るわけがない。それで国民に増税を納得しろと言ったって無理ってもんです。何に使われるのかわからないのだから嫌に決まっている。

バラマキだの何だのと民主党の政策を批判しますけど、中抜きを排除して末端に直接まくのと、中抜きしまくって搾取している中間の利権団体にバラまくのでは意味が違います。自民党的バラマキは後者のバラマキだったから問題なわけで、民主党の言っている事は後者のようなバラマキを言っているわけじゃない。それが後者のバラマキと同じであるという事が判明したらそのとき叩けばいい事で、今の段階でバラまき批判をするのはお門違いもいいところです。

末端に直接まくというのは、一つは中間で中抜きが出来なくなるというのが利点としてあるし、中間団体が上を見て仕事をするのではなく、下を見て仕事をするようになる。地方分権をする上でも必要な措置です。学校の教師が教育委員会や文科省の方を向いて仕事をするのではなく、子供たちに向き合って仕事が出来るようになる。農協だってそうでしょう。農家を向いて仕事ができるようになる。

だから当然生じるのは本当の意味での自己責任社会になる。自己責任取るだけのリソースを配分し、任せる政治から引き受ける政治へのシフトです。これは現状だと、パチンコに使ってしまう親もいるかもしれない。だけどその事もひっくるめて自己責任で決めてくれという社会です。そういう社会にする以上、セーフティネットの徹底、教育の改革と啓蒙の改革は不可欠です。だからマスコミの権益にも手を付けなけりゃならない。単純な善悪二元論のような報じ方しか出来ないのだから直ちにそういう連中からは権益を引きはがすべしです。

与党の政策というのはずっと基本的に官僚にお任せする自民党にお任せする政治です。中抜き団体へバラまいて、みんなが上を向いて口を開けて待っている社会。クレクレ主義者の鍔迫り合い社会です。教育や啓蒙は国民をバカなままで留め置くように機能してきた。それをそのまま続けていくか、それともそれを変えるのかが問われている。民主党が政権を取ってそれを実行できなかったら、次の総選挙で痛いめに合わせれば済む。

お任せする政治から、引き受ける政治へのシフトというのは、別に善い事だと言っているのではない。お任せしてきたツケがたまりにたまって、日本は機能不全に陥っている。だからお任せできないのは間違いない。権力者が権力者の役割を果たせないというか、間違ってばかりでその能力がないクズの集まりでしかないのだから、任せちゃいられない。だから引き受けるしかないという話であってそれが善い事だからそうするわけじゃない。

引き受ける政治というのも、はっきり言えば失敗がつきものです。我々に決定が委ねられるわけですから。日本人の多くが2005年の郵政選挙で自民党を支持しています。これの責任すら国民は引き受けていない。多くの人が与党を批判しているけれど、本当は自業自得です。郵政民営化がどうとか、格差社会になっちゃったとか、弱肉強食になっちゃったとか、不景気になっちゃったとか、そんな下らない問題はどうでもいい、そんなのは自業自得なんだから仕方なし。さんざん自民党の無能さに嫌気がさしていたはずなのに、同じ自民党の小泉をまんまと支持したわけだから、当然の報いでしょう。

肝腎なのは小泉を通してブッシュのネオコンを支持していたという事を忘れちゃならない。8月になると、戦争お涙番組がまた今年もやるんでしょうけれど、ネオコンがイラクで虐殺しまくった事に加担していたという事を忘れちゃならない。それをマスコミは翼賛し、国民も賛成した。

自国の半世紀以上も前の自業自得の帰結を、いつまでも被害者面してメソメソしている暇があるのなら、この国の有権者で小泉自民党に票を投じた連中は、イラクの人々をぶっ殺すのに加担していたという事を自覚しろって話です。イラクの子供たちをバンカーバスターで木っ端みじんに虐殺し、女性や老人をデイジーカッターでズタズタに引き裂いてぶっ殺し、劣化ウラン弾で町並みを焼き付くして殺しまくった。その引き金を引く事に加担していた。「北朝鮮問題があるからしょうがないよね」的に小泉の無原則なアメリカに言われるままの自衛隊派兵だってなんだかんだで支持していた人がいっぱいいる。世論の8割が小泉を支持していた。せめてそういう事を自覚しなきゃ、我々に民主的な決定権を委ねられているのだから、いつまでも同じ事の繰り返しになってしまう。

民主的な決定は間違える。みんなで正しいと思って決めた事は間違っているに決まっている。これは欧米というか民主国家の市民としては当たり前の立ち方です。その上で尚コミットするのが民主主義と言える。日本ではみんなで決めた事が正しい的なナイーブな感性がいまだに蔓延っていますけれど、これはとんでもないお門違いです。

これは戦後のGHQがすり込んだプログラムで、だから戦前の国民の民主的決定による暴走によって引き起こされた過ちを歴史から葬り去ってしまい、軍部の責任だけが残る。しかし戦後のリベラリストたちは当初市民化の為に嘘でもいいから、この素朴な性善説的民主主義を使って民主主義にコミットする事の重要性を、国家を監視して市民化する為の道具として使う。丸山眞男なんかも本当は彼自身マキャベリストであり、民主制なんてまったく信用していなかったけれど、市民性を成熟させる為の道具として、性善説的民主主義を利用する。

その感覚が最初はネタとして利用していたものだったのが、次第にベタになってしまって、今でもみんなが決めた事は良い事という性善説的民主主義だけが残り、市民性はまったく成熟せず、成熟するどころか劣化している。

愚かな人間ごときが決める事、しかも人間なんてみんな人それぞれ背負っているものも違う。にもかかわらず過半数が合意してしまうような何らかの決めごとが正しいわけがない。これをまず引き受けない事には、民主制は機能しない。この国は民主主義なんですから、それを自覚した上で、それでも民主制でしか合意は調達できない。だからコミットするしかないという感覚を引き受けなきゃ民主国家の市民としては失格です。暴走への歯止めがない。それがずっとないまま民主制を謳って国家を運営してきたわけだから、機能するわけがない。

我々はお任せする事によって、そういう殺しに加担しているという事に無自覚ですが、民主主義の暴走を食い止める為には民主主義の暴力性に敏感にならねば危険です。引き受けて民主主義の責任を自覚する為にも、今のお任せシステムからの脱却は不可欠です。現状ではお任せシステムに依存したまま、民主主義の暴力に無自覚なまま暴走させ、自由が自由を掘り崩す事態が引き起こされている。その被害がだんだん洒落にならない帰結を生み出すようになってしまっている。

民主制というのはその暴力性に気づいたとしても、結局間違う事が前提になっている民主的な合意でしか決められないのですから、あらかじめ矛盾した問題のある仕組みです。だけどそれ以外に適当な仕組みを人類はまだ知らない。一番重要なのは、その暴走を我々自身で止める事が決められるのも民主制であればこそ、その価値は簡単に手にしたものではないし、手放すのは惜しい。せっかく手にした権利なのだから使いこなさなければ意味がない。

徹底的に透明化し、お任せしてきた連中が何をなしてきたのかを自覚し、それが我々の支持の結果であるという事も自覚し、権力をキッチリ監視する社会。一度そういう枠組みを再構築した上で、それから官僚の巧みさを利用できるようになればいい。誰の為の権力であるのかをいったん権益の配置を入れ替えて透明化した上でないと、誰もこの国のシステムを信用していない。

民主的な決定は過ちがつきまとう。だから卓越者にお任せ出来るところは本当はお任せした方が上手くいく場合もある。それを正常に機能させる為にも、一度政権を入れ替えて、徹底的にチェックしなきゃならない。だから今度の選挙の選択肢は本当のところ一つしかない。与党を引きずりおろす。これをいったんやらないとどうにもならないところまで来ている。政策をどうこうという問題じゃない。このまま与党の豚共に政権を任せていたのでは絶対にチェック機能なんて働くわけがない。それは民主党が頼りになるかどうかなんて話はどうでもいい話です。そこまで我々は追い込まれている。政権交代が起これば世の中が良くなるとかそういう問題でもない。民主制の問題を引き受けずにこのまま民主制の暴力性を野放しにしていれば遠からず悲劇が待っている。

民主制の暴力性を自覚し、いったん透明化し我々が納得できる形にして、それから任せるところは任せたっていい。透明化すれば財源が足りるとか足りないとか、そういう問題はその事とは別の話です。透明化して厳しくチェックしても、結局のところ足らないかも知れない。だけどそれがはっきりとわかる事が重要でそのプロセスを経由しないと、システムに対する信用を取り戻す事は出来ない。それを取り戻さない事には合意が調達できないし、一時合意を調達出来たとしても、合意したという責任に無自覚に、あっという間に梯子外しが始まって、物事が前へ進まずに、すべて未来につけを先送りし続けるしかなくなる。そうやってバブル崩壊以降20年を浪費してしまった。このままでは破綻するまで止まらないでしょう。

まあもっとも、徹底的に透明化して既得権をチェックし、無駄と非効率をチェックすれば相当の財源を捻出できるような気がしますけれど。だいたいそれを透明化したくない理由は一つしかない。バレればマズいと思ているからでしょう。だから大手マスコミも己の利権をひた隠しにしている。バレても問題がないのであれば隠す理由は何もない。それをまったくやる気のない与党なんぞを選択するというのは、この期に及んで選択肢としてはあり得ない。民主党が使えるか使えないかとは無関係です。

民主党だってろくでもない政党ですから、必ず不満が出てくるでしょうし、期待はずれも起こるでしょう。言っていた事とやっている事が違うじゃないかという話も出てくるでしょう。肝腎なのはそうなったときに、きちんとそれが可視化出来て、キッチリ次の選挙で政権党が痛いめにあわされるような枠組みが重要であって、それをキッチリ選択出来るような民主制が機能するような社会にシフトする必要がある。

この国の問題は情報公開して過ちを認めるよりも隠す方が権益を護持出来る腐った構造にある。大手マスコミや役人、そして与党の豚野郎共の隠蔽体質を白日の下にさらして、キッチリ報いは受けさせる。それを繰り返す事によって、どこを向いて仕事をすればいいのかも変わってくる。その為の第一歩が次の選挙でしょう。

くれぐれも政権交代が起こったとしても、そこですべてが解決ってわけじゃない事だけは頭に叩き込んでおく必要があります。あくまでも一歩にすぎず、その先は与党となった政権及び権力を徹底的にチェックして余計な事はさせないように縛っていく必要がある。もちろん徹底的に透明化した上で、エリート達の巧みさを信用して任せるという選択肢もあります。民主主義の暴力性をむき出しのまま放置するのは危険ですからやがてはそういう社会にする必要があるでしょう。だけど、その前にまだまだやるべき事がある。その一歩が踏み出せるかどうかが問われている。

という事で、本日はこれまで。
例えば80年代後半から90年代にかけて、輸入物のジェンダー論なんかを、そのまま日本に適用してピーチクパーチクほざいていたバカが結構いましたが、当時から一部の女性からの支持はあっても全体的に言えばむしろそれは少数で、男性からは言うに及ばず女性からも全体的に見れば、決してリスペクトされていたわけでは無かった。

特に日本では自分がそう思うというのではなく、一般的な見方という事ですので誤解無きようにお願いしたい所ですが、どういう風に見られていたかというと、そういう事をやっている女性というのは男にモテないブスが自己承認を満たす為の一つの表現手段としてコミットしているように見えてしまうというのがあって、特に男の人からは何を言ってやがるこのブスが、という蔑みで見られてしまうというのがあった。お前が女の人を代表すんなよ説得力がねえんだよと。

もちろんあくまでも相対的な話ですからね。美しい人もいたと思いますよ。80年代、90年代というか60年代から脈々と続くスティグマとしての見え方であって実際にそうであるかどうかとは別の話です。今現在は美しい女性でも問題意識を持つ時代になっているという風に見えていると思いますし、そういうスティグマは薄れていると思います。

アニヲタの腐女子でも可愛い時代ですからね。もちろんアニヲタの男子でもイケメンもいるし、アニヲタにしろ、運動系にしろ、一般化されたのだと思います。何かの抑圧があるからそうなるのではなく、フラットに並んだ自己表現の選択肢の一つとして時代が変わった、音楽でも映画でも同じ事が起こっていて、YOU TUBEやニコ動、iPod、携帯なんかに見られるテクノロジーの発達によって時代が変化した。自分のようなオヤジでもそういう作品に触れられるようになった。

だから本当の意味での筋金入りのアニヲタや運動系の人にしてみれば逆に生きづらい現象が起こっているのかもしれません。実際アキバには本当の筋金入りのヲタクは行かなくなっていると言いますし。「おたく」が「オタク」になった時に最初の変化があって、「オタク」が「ヲタク」になって更に変化が起こっているように感じます。

「おたく」の元々の語源というのは、「御宅」にひきこもってアニメや趣味に没頭している人という風に海外では間違って伝わってしまっていますが、元々はそういう自分の趣味に没頭して、自分の他人からの見え方までもを気にしない、他者の事を「おたく」と呼び合う、人間関係の距離感の取り方がヘタな人に対する総称でした。それが宮崎勤事件で変態とか、危ない奴という風に見え方が変わり、その事を岡田斗司夫さんなんかが「オタク」は自分の趣味で満足している人なんだからむしろ危険が少ないと擁護した。宮崎みたいな奴は特殊な例で、オタクだから事件を起こしたのではないと。それが更に「電車男」なんかもあって、一般化したので、本当の「オタク」の人からすると、「ケッ」という感じもあるのではないしょうか。

一般化してネタが増える、その事自体選択肢が増えているわけだから悪い話ではないような気がしますが、フラット化している事の問題と、経済的に暗雲が立ちこめる時代、政治が全く機能しない事の問題が絡み合って、今までの問題の切り方では対処出来ない時代に変化してしまっているというのもある。

これは6~70年代の「左翼」が、80年代以降「サヨク」化したのとも似ている。一般化してネタになった。要するにそれは、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」あたりで自意識を形成し、「新しい教科書をつくる会」の運動なんかを見て日本の歴史観に疑問を持ち、全くそことは無関係であるにもかかわらず、小泉が都市型選挙のターゲットとして、その辺の「日本をちゃんとするべし」というものに影響を受けた自意識を持っているけれど、残念な事にIQが低い連中がまんまと利用されちゃったバカウヨク現象と、戦前のある時期までの右翼との違いとも似ている。右翼と言っても天皇陛下万歳の国粋主義者、国家のケツ舐め右翼じゃありませんよ。それはバカウヨクと同じです。下からの民権を唱えた西郷の流れを汲む正統派の右翼の事です。

一応今のバカウヨクを形成するものがなんであるのかは自覚しておきましょう。例えば「新しい教科書をつくる会」を立ち上げた男は元共産党員、有名な所で行くと、読売のナベツネなんかも元共産党員。国粋主義者のバカ保守、石原都知事の元で副知事をやっている猪瀬直樹なんかも全共闘の議長だった(彼はバカではないと思いますけど)。これはアメリカで起こったマッカーシズムなんかを例にとるとわかりやすい話ですけれど、共産主義を弾圧し、赤狩りを叫んだ結果何が起こったのかと言えば、アメリカの全体主義化、共産化が起こったわけです。自由を阻害した。すぐに梯子を外されましたが、これを例にとるとわかりやすい。自由を叫ぶものが実は一番自由を阻害し、共産化に貢献している。

ネオコンを例にとってもわかりやすい話でしょう。元々ネオコンというのはニューヨーク・トロツキスト達で、左翼の文脈に属していた連中です。左翼の中でもかなりラディカルな事を言っていた跳ねっかいり者たち、それが80年代からの流動化によって地方は荒廃し、空洞化によって疎外を感じてしまった宗教右翼を上手く取り込んで、ネオコンは表舞台にのしあがってアメリカを全体主義化させる。自由を叫び自由を阻害する。

共産主義の不可能性に絶望したオツムの弱い連中が、国家を操縦して全体主義化させようとする、よくある話です。まともな議論じゃ賢い左翼に太刀打ち出来ない頭の弱いバカが、実際に革命を捨てた共産主義や社会主義という柱に絶望し、国家という柱にすがって全体主義化させようとする。もしくはオヤジ慰撫史観や余計なお世話的道徳観でオナっている「新しい教科書をつくる会」的な動きにしろ、読売新聞にしろ、オツムの弱い柱にすがらないと前進出来ないヘタレ、モヤシ野郎の全体主義者達が、右とか保守を装ってリベラリズムを攻撃し、敵を作り出して、危機を煽り、賢い連中を排除し、全体主義化させる中でのポジショナリティを維持しようとする。

戦前の日本の軍国化もようは共産化に抗ったと言いますけれど、日本独自の全体主義化によってそれに抗うように見えただけで、起こっていたのはまぎれもない共産化であり社会主義化であったわけです。右翼でも何でも無い。戦後戦前の歴史を真っ黒に塗りつぶした連中も左翼の連中であり、実際戦前軍国化させたのも左翼。60年代から70年代を思い起こせば簡単な話ですが、要するに革マルと中核派が内ゲバをしたり、民青と中核派が内ゲバしていたのと同じような構造を持つ。右と左が喧嘩したわけじゃない。賢い左の連中をバカなオツムの弱い左の連中が国家主義を利用して追い出し、自分達のポジションを確立する為の内ゲバみたいな話です。

日本の戦後体制というのもまさに一番成功した共産国家と揶揄されるように、完全に全体主義的な構造を持っていたし、教育も全体主義が蔓延って来た。今でも空気が読めないと子供達がイジメをするような構造を国全体で抱えているから、大人までマネしてKYなんてクソみたいな言葉を使うわけです。全体主義教育と全体主義啓蒙の賜物です。今でもそれは変わらない。

ナチスだってNationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(ナツオナリ・ゾツイアリ・ステッシュ・ドイチェ・アルバイターパルタイ)、「国家社会主義ドイツ労働党」が正式名称であり、共産主義者と戦ったと言っても要するに左翼の中での内ゲバのようなものです。これも右と左が喧嘩したわけじゃない。

右翼というのは民権が基本にあるわけで、俺達の事は俺達が決める。俺達の伝統は俺達で守る。国家は余計な事をすんじゃねえよ、というのが大前提です。国家にすがるのは右でも何でも無い。だからまともな右翼であれば国家主義とか国粋主義という方向性はあり得ません。社会を維持する為には仕方ないから国家があるんであって、社会をぶっ壊してでも国家を護持するとか、人民の権利を侵害してでも国家を護持するなんて発想はそもそも無い。天皇陛下万歳というのは国が国民化の為の装置として天皇を利用した。それを国家から取り戻して民権の為の天皇であるべしという意味で天皇を担ぐ事はあっても、国民を犠牲にして戦争の動員装置として利用するなど言語道断な話です。そういうまともな右の連中を国家主義を装う頭の弱い左の連中が、売国奴とマスコミや世論を煽ってパージした、もちろん賢いまともな左の連中に対してもそう。だからある時期からの暴走が止まらなくなってしまった。

だから右とか左が問題なんじゃなくて、頭の弱いヘタレモヤシのパーに問題があるんであって、思想が正しいとか間違っているとかってレベルの話じゃない。これは今でも延々と続く構造で、左翼的な分析の枠組みを用いながら、もしくは保守的な事をほざいていながらも、全くその事自体を理解していないバカがギャーコラ吹き上がって己のポジショナリティを確保しようとする。その理念や思想が間違っているのではなく、それを解釈しているバカが理解していないというだけの話。もしくは意図的に歪曲して権益を分捕ろうとする浅ましい振る舞いであるという話。

しかしまともな理解をしている声よりも、そういう理解していないくせに声だけは大きいバカというのは利用しやすいので、主導権を握られてしまう。その事が大きな問題です。ジェンダー問題で大騒ぎしたのなんてそれの典型的な例かもしれない。これは例えば輸入ものの枠組みを利用して高い所で空中戦をやっている連中や、ちゃんとした右や左の連中が一般市民の動員をなめている所にも原因の一端はある。ちゃんとそういう所に届く言葉を発していないから、そこをわかりやすく単純化したバカの吹き上がりの議論が受け皿になっちゃう。不満を感じたり疎外を感じたりしている人達に対して、小難しい議論でオナっている連中の言葉なんて届かない。だからそういう意味で言えば、ネオコンにしろ、日本のバカ左翼にしろ、吹き上がり保守にしろ、全否定出来ない気持ちに引き裂かれてしまう。そこが空席になっているそもそもの原因は誰が作っているのか?という問題もあるわけです。

だからジェンダー的な事を叫んでいるアホの大きな声と、ヨーロッパやアメリカなんて話を出して来られると、そういうもんかと違和感を感じながらも多くの人が何となく受け入れてしまったりもする。その間隙を縫って、官やステークホルダーが目をつけて、それを利権化してボロクソにスポイルしてしうという事が繰り返し起こっている。

全体的にはズレていたとは言え、理念や正しい部分までもズタズタに引き裂いてしまい、今でもそれを言っている輩は単なるネタというか、痛い奴というイメージになってしまった。無計画にそういうものを利権化した結果、女性が幸福になっているのか?と言えば必ずしもそうとは言えないようになっているし、むしろバックフラッシュが起こってもいる。男性にとっても社会にとっても副作用が大きすぎた。今ジェンダー論に原因のすべてがあるわけではありませんが、少なからず原因の一端となったであろう少子化対策について、官主導でこれまた利権化が始まっている。

批判されている囮の国営漫画喫茶にしたって、あれを推進している某漫画家さんの理念やその箱物が必要な理由もそこだけを聞くと真っ当な話ですし、必要かもしれないなと思えない事もないのですが、そういう事を利権化して利用しようとする勢力に絡めとられてしまう。誰かにとって得になると思わなきゃ、物事は動きませんしまわりを巻き込む事も出来難い。だからその事自体が問題というよりも、利権化する事による副作用や長期的な戦略のようなものが全く無い事が問題なのです。官主導で関わると大概空洞化してしまう。空洞化しないような戦略込みでの利権化であるかどうかが問題で、この国の役人にはその意識がもはや全く無い。

日米関係のよく出て来る話でアメリカの陰謀説にオチるというパターンがありがちです。そういう面も全く無いとは言えないのでしょうけれど、それよりも大きな要素はアメリカから何らかのシグナルが発せられると、それに我れ先と争って尻尾を振る勢力がずっと日本ではある。アメリカのケツをいち早くなめる事によって自分達の利権を温存する輩達です。アメリカの陰謀に見えるものの大半が、そこに過剰に適応する利権屋達の動きの帰結であり、そういう連中も含めてアメリカのせいにする事によって自らの浅ましい振る舞いを隠蔽するという事をずっとやって来た。具体的にいえば今の自民党のクズ共がそうでしょう。陰謀論的な話だと、誰それの裏にアメリカもしくは中国、もしくはユダヤの影がって話になるわけですが、というよりもそこに尻尾を振る事によって己の権益拡張を目論む売国奴連鎖であるという事でしょう。

要するに戦前の軍国化にしろ、何かの争点が暴走し利権化利用されてしまう構造というのは、頭の弱い自分の足で立つ事の出来ない浅ましい連中のヘタレ的醜い行動作法の帰結であり、それを隠蔽する事に都合がいいように、右翼のせいにしたり思想のせいにしたり、アメリカのせいにしたり中国のせいにしたりしているだけで、ようはそいつがバカでヘタレなのが問題であり、浅ましさを感じているから誰かを攻撃せずにはいられない。己が売国奴であるという事を自覚しているからこそ、人を売国奴呼ばわりして攻撃する。

嘘つきを見破る一番簡単な方法は、お前は嘘をついているだろ、という風に聞いてみる事です。パターンとして嘘つき野郎はだいたい怒りだす。身の潔白を証明しようとする。吹き上がって吠えているバカ共は単にオツムの弱いアホであるという事か、自らが浅ましい愚か者の嘘つきだと証明しているようなものです。嘘つきだから嘘つきじゃないとムキになる。証明しようとするわけです。本当であればただ冷静に否定すればいい事だし、お門違いのレッテルであれば笑ってやればいい事です。お前、大丈夫か?と。

男の人の浮気を確認するのに女性の人はやってみるといい。疑われたと怒る奴、お前に疑われるなんて傷ついたとか言う奴は、ほぼ十中八九身に覚えがあるから、そうやって狼狽える。浅ましさを誤摩化す為に浮気の有無から男女の信頼関係という問題にフォーカスをズラしている。実際身に覚えがあるとしても、本当に上手く立ち回る奴はそんな事じゃ怒らないし、実際にやってない人もそんな事じゃ怒らない。バカで身に覚えのある奴はグチグチ言い出すのがパターンです。

だからアメリカから自立せよという話というのは要するに、アメリカに媚を売る事によって利権化しているような連中の既得権を引きはがせという事です。アメリカに喧嘩を売れという事じゃない。その事で日米関係に亀裂がとか、北朝鮮問題はどうするのだ!!とか騒いでいるバカは自分の利権が無くなっちゃう、もしくは自分が隠蔽して来た腐敗がバレちゃうと騒いでいるだけです。現にアメリカは情報公開をバンバンしていて、自民党が困るような情報を躊躇無く公開している。情報公開してもアメリカ的には何の問題も無い。それを認めていないのは日本政府です。冷戦体制はとっくの昔に終わっており、自民党じゃなくなっても困らないから自民党を切り捨てているわけで、困るのはアメリカという建て前を利用して利権を貪って来た売国奴共です。

そして利権化する事自体が問題な訳でもなくて、国益を売り渡してでも利権、未来にツケを回してでも利権、己のポジショナリティの為の利権という振る舞いが問題で、利権であってもフィージビリティ・スタディに基付き副作用を考慮し、比較考量し、途中で問題があればブレーキが踏めるような枠組みであれば、それが利権であっても天下りであっても本当は構わないわけです。嫌いな言い方ですけど、それが国益に資するのであれば。そういう事をキチンとチェックせずにはいられない時代にシフトした。

エヴァンゲリオンが旧作から新作へと変化した流れというのは、今の時代のコミットメントの必要性を描いている。無関心なままでいれば、訳が分からないうちに、こういう風になっちゃった的な、例えば小泉の顛末もそうでしょうし、泥沼の90年代もそうでしょう。訳が分かんないうちに社会が滅茶苦茶になっちゃったという風になってしまう。それがそのままエヴァの旧作から新作の間の時間に社会全体で起こってしまった事でもある。

無関心から脱出するという事は、我々に責任があるという事を引き受ける社会でもある。何に合意し、何を許したからそうなっているのか?という事をちゃんと自覚しないと、コミットメントが単に利権化されてしまって、空洞化させてしまう原因にもなってしまう。

例えば政権交代が起こるとしても起こらないとしても、その先には派遣規制とか、後期高齢者医療の見直しであるとか、民意の安心安全社会の実現、格差是正という美名に媚びた政策を打たざるを得ない状況になってもいる。派遣問題にしろ、後期高齢者医療にしろ、例えば大企業優遇けしからん、法人税率を引き上げよとか、外資規制をせよとか、それを民意に媚びて実行するという事がどのような帰結を及ぼすのか、まともな政治家だったらわかっている事だし、官僚だってわかっている。だけど「どうなっても知らねえよ」と内心で思いながら、選挙に受からないと政治家に成れないし、議席も取れないし、本当は何が必要かという事がわかっていても、派遣規制をすべしとか、高齢者を切り捨てるなと言わざるを得ない。民意がそれを支持しているのだから、そうしないと合意が調達出来ない。官僚だって内心不合理だとわかっていても、受け入れざるを得ない。そういう時代に変化している。

お任せして来た事のツケを知って現状のままの統治権力ではお任せ出来ないという事までは我々は何とか自覚出来た。だから実際に政権交代の機運も高まっている。自分は政権交代は必要だと散々書いて来ましたけれど、当然そういう民意に媚びた不合理な政策をただやったって上手く行くわけがないし、経済は益々停滞し、失業者は更に増え、格差はより絶望的になるでしょう。だけどそれを支持していたのは誰なのか?という事を自覚しないと、つまりコミットメントの帰結を引き受けないと意味がありません。ただ今までの自民党にお任せ出来ないから民主党にお任せしましょうというのでは何も変わりません。

また構造の変化の上で取り分が減ってしまって文句を言う奴も益々増えるだろうし、その変化の裏では官と民の権益分捕り合戦も起こる。コンテンツ立国というような、バカな総理大臣が踊らされて、権益の草狩り場になってしまいボロクソにスポイルされてしまうという事も益々増えて行く事でしょう。なので我々は何を支持しているのかという事に敏感になる必要性があると同時に、その中身についてもしっかり吟味して行かないと、本当に知らないうちに滅茶苦茶になっちゃったというパターンが延々と繰り返される。知らないうちにシャッター商店街だらけになっちゃったとか、知らないうちに格差社会になっちゃったというパターンです。

だけどそれは我々がそれを支持して許したからそもそもそうなっている。バカ麻生にしたって最初はそれがインチキ世論調査にせよ、半分以上が支持していたわけで、一番の問題点は我々の民意が何を求めてしまうのかという事が、映像作品のテーマが変わっている原因にもなっている。殆どがそこのところが不条理の一番の原因です。コンテンツ立国というバカな発想が出て来る背景には不況対策とか、景気対策というのがあり、それは我々が求めた事でもあり、それを利権屋が利用しようとして蠢いている。なのでその事までひっくるめてチェックし情報を共有し何が問題なのかを理解して行かないと、ただでさえ出口がないのだから、益々どうにもならなくなる。麻生がバカだったという話では何の学びもない。そんな事は今や子供でもわかる事でしょう。バカに向かってバカと言っても実りはありません。ハサミをハサミと呼ぶのと同じ。犬を犬と呼ぶのと同じです。犬に向かってアレは犬だといっても意味がない。意味があるのは中学一年生の英語の授業までです。

我々はもうシステムを信用していない。だからお任せ出来ないと気付いてしまった。どのように舵取りをしようともお任せ出来ない連中が何をやった所で、必ず梯子はずしが起こる。実際に醜い腐敗も多いし、利権を貪って来たノーブル・オブリゲーションの欠片も無い統治権力のブタ共のおかげで、ここまでこの国は切羽詰まってしまっている。情報を隠蔽し、憲法違反を平気の平左で繰り返し、法を恣意的に運用して、自分達の都合のいいように国家を好き勝手に操縦して来た、だからコイツらには1ミリも正統性は無いのは間違いありません。

だから合意が調達出来ない。なので民意が決めるしかない。だけどそれは必ず失敗する。解雇規制なんかやったらロクな事にならないでしょうし、高齢者への配分を引きはがさないと世代間格差は広がるしか無くなる。法人税なんかを上げるような事をすれば、それこそ経済は停滞するだろうし、どこの国でも法人税は引き下げないとグローバル化には太刀打ち出来ない。

分権化にしたって今はそれが地方を活性化するのに重要だって話で、みんなが賛成しているけれど、これだって活性化出来るかどうかは地方の自己責任になるという話でしかないわけだから、必ず格差は拡大するし、不満を言う輩は出てくるに決まっている。短期的には分権化したせいで余計に酷くなったって話が出て来るでしょう。分権化の眼目はその格差が重要で、その中で失敗例と成功例が出て来てそれを学ぶ為にやる事に意味があるわけで、国全体で失敗するというリスクをこれ以上積み重ねないためという意味でしかない。だけど分権化=いい事、みたいな単純化した図式を「郵政民営化」図式を同じように支持している人が大多数でしょう。

何の為にそれが必要なのかという事も、本当は何が合理的であるのかという事もわからずに我々は間違えてもしくは勘違いして合意してしまう。当然帰結として必ず絶望する。こんなはずじゃない。誰々が悪いって話に。今度そのスイングバックが起こった時が、多分この国にとっての正念場になるだろうと思う。簡単な出口を求めて歴史を繰り返すか否かです。そこを何とかする為に、サブカルチャーの題材が変化しているのかもしれません。それは世界的な流れともシンクロしている。

老人達には期待が出来ないので、若者が学ぶしかない。教育も啓蒙も期待出来ないのだから、日本ではアニメが奮闘しているのかもしれない。しかしそれすらも権益に変えて逃げ切ろうとしている愚か者まで出て来ている。教育も空洞化し、啓蒙も全くの役立たず、最後に残った希望のサブカルチャーまでも、今まさに空洞化への道を突っ走っている。いずれにせよ、もうそれほど時間も残っていない。今が正念場なのかもしれません。この現実の理不尽に対してどのように立つのかそれが今問われている。

何かを断念するからこそ、別の選択肢が生まれる事もある。誰でも若い頃を思い返せばある事ですが、今の道と違った選択肢があったのではないか?と思う事があるでしょう。しかし同時に思うのは当時の選択肢がはたして他に選択出来るほどあったのか?という事も考えざるを得ない。もちろんその選択肢のなさという問題はシステムの問題という部分もありますので、選択肢の少なさ自体に問題があるにせよ、少ない選択肢の中から、積極的にもしくは受動的に選択して今がある。

その選択した道が自分の思っていた物とは全くの別物であったという事に気付いたり、自分には手に余ってしまうという事に気付いて、つまり断念を引き受ける事によって初めて、別の選択肢が開ける事もある。簡単に言えば何かの仕事に不満を持っていたとしても、別の選択肢を切り開く為には、そこから外へ飛び出さないと別の可能性には挑戦出来ない。不満があってもまあしょうがないかと受け入れていれば、別の可能性があるかどうかもわからないし、選択した事を、もしくは選択肢なんてなかったんだという事を、一生後悔したり自己肯定しながら生きて行くしかない。

自分が選んでしまった選択肢に対して、断念してこそ違う道に行ける。もちろんその先には断念の繰り返しでしかないにしろ、選択肢が無いわけではなく、自分が選択肢を切り開くという事をやっていないという事も含めて、自分で選択してる。だから断念や絶望を知らずに選択肢を探したり、自分探しをしたって、やりたい事探しをしていたって、それは単なる打算にしかならず、何を選択したって何を見つけたとしても、後悔するのは変わらない。経験した事も無いものにたいしての見積もりなんだから、どの道後悔するに決まっている。意味なんて無い。

しかしある選択に対して本当に断念や絶望を経験していれば、少なくともその選択肢は自分にとって失敗だったという事に気付ける。別の可能性がそこで初めて開けてくる事もある。もちろん別の選択肢を選ぶにしろ、どの道後悔するのだろうけれど、少なくとも一つ絶望を知れば一つ選択肢を除外する事が出来るようになる。そして断念を知ればそれに対する立ち方も学ぶ。

だから断念を引き受けるという事は選択肢を開くため、何かを学ぶ為には重要なフックでもあるわけで、いちいち人生に断念していたんじゃ人間前に進めませんが、そういう事を何らかの作品から学び取るという事は重要なんだろうと思えます(断念というのは諦めるという事とは別の意味で言っています。諦めるとか諦めないとか選択する余地がない状況を前にした時、人は断念を迫られる。諦めるか諦めないかの選択の余地があるにもかかわらず、諦めてしまえば必ず後悔するでしょう。断念を迫られても心情的には後悔するでしょうけれど、あそこで諦めないという選択が無かったという事を自覚して、わかっちゃいるけど後悔するかどうかでは、かなり違う)。

そしてそれはそのまま現実のこの国の現状にも当てはまる。今のこの国の現状は断念の塊みたいな状態で、まともな感受性を持っていれば絶望するしかないような状況です。何らかの希望にすがり、別の簡単な出口を求めれば同じ事の繰り返しでしかないかもしれません。しかし少なくとも断念を引き受ける事によって少しは賢くなれる。その可能性だけが希望なんだろうと思えます。何が不可能で何が不可能でないのかを知らなければ処方箋も打てない。

挫折したり失敗したとしても、そんな事はたいした問題じゃない。それがあるから人は学ぶ事が出来るわけだし、それが無い人なんて殆ど存在しないでしょう。それがあっていっぱしの大人と言えるってもんです。挫折したり失敗する事は痛みを伴いますので誰でも嫌な事ですが、それを恐れて前に進めないのであれば、痛みを伴っても何かを学んだ方が選択肢が開けて来る事だってあり得る。諦めて何も学ばないよりは、痛みを引き受けて断念に身をさらして何かを学んだ方が前に進める。

今のこの国の状態を見ていると、どこもかしこも絶望だらけ、希望が全く見えず八方塞がりであるのは確かです。だけどその断念こそが可能性を切り開く鍵になり得る。せっかく痛い思いをしたんだから、せめてちょっとぐらい賢くなる事を期待して、というかもしかすると、まだ痛みを実感出来ていないのかもしれませんね。もう少し痛い思いをしないと学ばないのかもしれない。

断念したからと言ったってお終いってわけじゃない。そこから開けるというかそこからしか開けない可能性というのもあると思います。犠牲がそこに伴うとピーチクパーチク騒ぎだしますが、今のままで行ったって犠牲は日々増えて行く、どこかでそれを逆回転させる為には我々が学ばないと前には進めないでしょう。同じ事の繰り返し、歴史は繰り返すしか無い。エヴァの映画版の差異はまさにそれを言うべき時代に変化した事のあらわれではないかとも思えます。そういう作品があるかぎり、可能性は残っていますし、まだ間に合うと個人的には思っています。

この話題はこれにてEND!!
最後はいつものスタイルである現実に戻って少し固い話をしようと思います。麻生内閣というか与謝野内閣が打ち出した補正予算が散々批判されました。酷い内容のものばかりで、当ブログでもメッタクソにけなした。今回の話の延長線上で行けば、国営漫画喫茶が批判の対象になったりもしました。それ以外でも、コンテンツ産業に力を入れるとかって話が出て来て、バカ麻生が年寄りの記者に「これ誰だか知ってるか?」「アユだよ」「カリナだよ」「エビちゃんだよ」というマヌケな記者会見もやっていましたね。「ジャパン・クール」?だそうです。アホか?クール・ジャパンだろ。それかジャパニーズ・クール。

2~30兆規模の産業に育成し、50万人の雇用を創出するとかなんとか。別に政府が育ててコンテンツ産業があるわけでもないし、今までそういう事とは無関係に成長して来た。国が力を入れるといいだすと、ほぼ十中八九その産業はスポイルされてダメになる。利権の草狩り場となって草木一本残らない。だいたいサブカルチャーというのはもとを正せばカウンターカルチャーであったわけで、それが国に助成してもらうなんざ笑い話にもならない。国が育成するロックアーティストなんて誰が聴くんだよって話です(日本では聴くバカが結構いそうなのがこれまたグッタリなんですが)。どこまでバカなんだコイツら。何でもかんでも利権化しやがって。

確かにコンテンツ産業を支えている末端の人々、特にアニメなんかの末端で踏ん張っている人の労働環境が悪すぎて、先行きが暗いなんて事も言われたりしますので、ちょっと聞くと悪い話ではないような気もしてしまう所が困った所で、末端の人達に手を差し伸べるようには確実になるわけも無いし、それを口実にしてステークホルダーにどうやってカネを還流させるかという話になってしまう。

実際にコンテンツ産業の将来性に対する政治家や役人からの煽りがあり、コンテンツにまつわるコンペティションや賞のようなものも、すでに総務省主催のもの、経産省主催のもの、文科省主催のものと、三つどもえで分捕り合戦が始まっている。

パーティを開きコンテンツに関わるクリエーターを呼び、それぞれが囲い込みに躍起になっている。成長させるとか持続させるとか、そういう事に主眼があるのではなくて、現に今あるリソースを誰がどれだけ握るのかという完全に官主導の利権の草狩り場となっている。役人にとっての次の利権というわけです。IT産業やバイオと同じ。将来成長が見込めて、すでにそこに市場が存在しているという事を前提にして、ブローカーを含めた利権屋が蠢いている。

またコンテンツのクリエーターやコンテンツにまつわる研究をしているような研究者も含めた人達も、官からカネを分捕ろうとして、ブローカーに寄りすがり、何とかカネを自分達の所に引っ張って来ようと躍起にもなっている。

この事自体は醜い事だとは思うし、コンテンツ産業の将来どころか、今ある資源を食い潰してしまうのではなかろうかと残念な気持ちはしますけれど、この国ではいつもの話であり、どこの国でも多かれ少なかれ利権化は起こるものですので、仕方ない話ではあると思う。

しかし日本のコンテンツの何が魅力なのか?今後もそうあり続ける為には何が必要なのか?日本のコンテンツが海外で更に受け入れられる為にはどういう要素が必要であるのか?と言った感じの研究は殆どなされていない。ただ何の戦略も無く何のアイデアも無く、場当たり的に蠢いているだけ。

金儲けするのも結構だし、利権化するのも気に食わないけど止めろといたって止めないだろうからまあいいでしょう。しかしただ資源を食い潰すだけではせっかく金になっても利権化出来たとしても将来は無い。食い潰してしまえば、いくらカネを注ぎ込んでも無駄になるだけです。それは我々の税金であるわけですから。リターンが無けりゃ止めなきゃしょうがない。単に短期的な逃げ切り戦略で未来に負債を残すだけでなく、資源も食い潰して産業としては空洞化させてしまうという振る舞いを何度繰り返せば気が済むのか?いい加減にしてくれよって話です。

確かに日本のコンテンツは海外で知られているけれど、日本のコンテンツについて日本人がどのように自己理解しているのか、生きた批評論壇の批評にしろ的を得たまともなものが海外では伝わっていない事が問題で、分捕り合戦に勤しんでいるヒモ付きの研究家なんかのデタラメな議論の方がむしろ知られてしまっているという問題がある。そしてそういうインチキな話が主導権を握ってしまい国内の利権の分捕り合戦のそれぞれがエビデンスとして活用するという、醜い事態が起こっている。

日本的なるものやクールジャパン的なるものの本質がどこにあるのか?という事を海外の人が知ろうと思って日本のサイトにアクセスすると、日本のお座敷学会でコンテンツの研究をしている人に繋がってしまう。国内でコンテンツの事なんてわかりもしない政治家とか役人が、その権威を活用して利権化しようとする怒濤の流れが生まれてしまう。

そこに重大な誤解があって、アメリカなどですと読書人に影響を与える人達というのはアカデミシャンが多い。ヨーロッパなんかでもそうかもしれません。影響の大きいアカデミシャンというのは必ず実社会に対しても何らかの立場や意志を表明して、運動に参加するとか、何らかを擁護して徹底的に戦うとか、学会という奥座敷にたむろして小難しい話を議論しているから偉そうに見えているわけではない。だから尊敬も獲得出来るし読書人層も獲得出来る。

日本はそうではなくて学会で偉い学者さんだから読書人層に影響があるわけではなくて、そういう奴の本なんて誰も買わないし実際に売れていない。実社会に何らかのコミットをしているわけでもなく、お座敷という島宇宙でフーコーだハーバマスだマルクスだとオナっているだけ。せいぜいお座敷番組で田原総一朗あたりを囲んで井戸端会議をやっているだけ。だから誰も尊敬なんてしてないし、実際にズレてもいる。政治に対しても社会に対しても何の影響力もない。組合系と同じ利権団体と変わらないと思われているし、実際にそう。

日本で影響力がある人というのは、そういうものに頼らなくとも自分達の才能で読書人の尊敬を獲得出来る人達が成功していて、そういう人達の批評こそが真に日本的なるものの本質を理解するには的確でもあるし、生きた批評や日本論でもある。普通日本人の読書人ならそう思うでしょう。

それが出来ない、能力の無い人達が学会というお座敷空間という下駄を履いて、ヨーロッパやアメリカの借り物の枠組みを輸入して全く的外れな研究をしている。そういう連中の話がむしろ本流になってしまうという困った事態が起こってしまう。

例えばカルチュラルスタディーズという枠組みを使って、日本人論を展開するような、奇妙な自己理解があやまって伝わってしまったりする。

カルチュラル・スタディーズというのは、イギリスのバーミンガム現代文化研究センター(CCCS=Centre for Contemporary Cultural Studies)長を勤めた、ジャマイカ生まれのスチュワート・ホールなんかが有名で、起源の一つとしてレイモンド・ウィリアムズやリチャード・ボガードといった、イギリスの60年代に始まった文芸批評家達の文化主義、カルチュラリズムにたどる事が出来ます。カルチュラリズムとは歴史や地理の固有性に徹底的にこだわって、人間主体の能動性を強調した点が、カルチュラル・スタディーズに影響を与えたその他の起源、フランクフルト学派の批判理論や構造主義、記号論と大きく異なる点です。

これはイギリスの左翼の文脈に属していたわけですが、所謂大陸型のマルクス主義や共産主義とは距離を置き、文化と階級という領域の理解に関して、伝統的なマルクス主義の経済決定論に対して批判的だったのが大きな特徴です。例えばイギリスには労働者階級がありますが、そのカテゴリー自体、経済的なものにだけ還元出来るものではありません。もちろん資本家、中流階級に対する一つの生産関係として存在するのも確かですが、それと同時に労働者階級というのは文化的カテゴリーでもあるわけです。労働者階級固有の文化があり、少なからぬ人々がその文化に対してプライドを持っている。

マルクス主義的な単純な階級史観で例えば搾取される側であるとしても、だから虐げられているとか不幸せであるとか、疎外されているとかっては単純には言えないだろうという事です。そりゃ経済的には恵まれているとは言えないけれど、連帯や固有の文化があってそれなりに承認もある人達に、貴方は弱者だ搾取されている、と言われても、うるせえよ余計なお世話だよ、となってしまうでしょう。

また経済的に恵まれていたとしても、だから幸せか?と言えば、そんな事は無くて承認不足に陥れば人は簡単に疎外を感じてしまう。これは今の経済状況でこういう事を言うと、ふざけんな、カネがあるだけマシだろう。という話になってしまうのですが、相対的に経済が安定していて、システムが安定している時というのは、経済的な生産関係だけを見ていても、必ずしも当てはまらない場合がある。

これはアルチュセールの「相対的自立性」と似ている所があって、つまり従来の権力装置である国家の他に、メディアや教育機関などを、文化イデオロギーを通じて権力を形成する「国家のイデオロギー装置」と名付け、それが伝統的マルクス主義では、最終的な決定因子とされた経済的な生産関係から、相対的に自立していると言ったのに似ています。これがボガードが初代所長となったCCCSに受け継がれて、カルチュラル・スタディーズの名の下に発展して行きます。

これは80年代以降にポストコロニアリズムなんかと交錯しながら発展したもので、その実践の領域は多岐にわたり。結構いろいろなものが含まれる。テレビや映画、ポピュラーミュージックからアニメといった大衆文化研究、人種やエスニシティ、フェミニズム、ゲイ、レズビアン、クィア理論などのセクシュアリティ研究、文化人類学的な都市生活のエスノグラフィ、社会運動論、スポーツ研究、近現代史の批判的見直し、非西洋の知的実践の見直し・・・・それこそありとあらゆる研究が組み込まれている感じになっている。マルクス主義や批判理論的な、経済決定論で階級の問題に収斂しがちな理論に対して、階級、人種、ジェンダーといった諸カテゴリーをそれと同等の分析の枠組みに押上げ、文化の概念の重要性が強調される事になる。

そしてその事を理解する上で決定的に重要な点があって、その大本のベースとなっているものがある。それは旧帝国で尚かつ戦勝国であった国々の自意識の問題で、自分達のパワーホールディングの状態が、文化的なヘゲモニーにどういう影響を与えてしまっているのか?という事に関する自己反省。これを認識していないと奇妙な事が起こる。日本ではまさにこの点を勘違いしている輩が結構いる。

簡単な帰結ですが敗戦国である日本人がそれを輸入して、しかも自国の文化に適用しているという時点で笑い話です。日本のサブカルチャーやポップカルチャーが世界的に受け入れられているという事の本質は宗教や性別や階級や人種といった落差から切り離されて表現されている所にその本質的な原因がある。だからそこにある種の別天地を見いだしている。

これはボードリヤールなんかが来日した際に、日本こそ真のポストモダンだ(もちろんリップサービス込みでしょうけれど)、とビックリしたのと同じ理由でしょう。あるいはロラン・バルトが日本の文化が空虚な中心である事を見いだし、西洋は意味の帝国であるのに対し、日本は記号の帝国であると、意味から切り離されているからこそ独自の輝きを持っていると、自由があるのだと、表徴の帝国を表したのもそうでしょう。意味があるから素晴らしい、意味を求めて精神世界を満たそうとするという西洋的な発想は、意味に縛られ、意味による抑圧も生まれてしまう。

ここで注意すべき事は、記号的消費つまりヲタク的消費の事を言っているのではないという事です。すでに日本人の文脈の中には世界中が苦しんでいる、あらゆる落差や意味からあらかじめ切り離された所から出発点があるから、ポストモダンな社会であるという話なわけで(本当はそんなに甘い話ではなく日本には日本固有の落差があるとは思うのですが)、記号的消費に無目的でありながら意味や感動を求めて右往左往する事とは違う。西洋では絶対に切り離す事の出来ない絶望的な縛りから自由に見えるという事に本質がある。

なのでそういう日本のサブカルなんかに、クラスやエスニシティやジェンダーを持ち込んでナショナリティを見いだそうとするカルチュラル・スタディーズのような発想そのものが二重の意味で笑い話。

それはカルチュラル・スタディーズ的な発想が間違っているわけではないし、それはそれで大変素晴らしい学問ではあるけれど、どういう背景からこういう議論が出て来ているのかという事を見極める必要があって、どういうタイプのコンテンツに適用するべきなのかという事を、特に敗戦国の国民である我々は認識する必要がある。

読書人層の獲得に失敗している学会にとっても全く本も売れない時代ですから、権益確保に躍起になる。官と結託して誤情報や嘘も含めた情報戦によって自分達に権益を引っ張って来ようという動きをチェックする枠組みが全く機能していない。学会が利権に勤しむ事自体もどこの国でも多かれ少なかれある事だし、利権屋が利権化する事もどこの国でもある事だからその事自体はしょうがないにしろ、それによってどのような副作用が起こりうるのかという発想がこの国では欠落している。

次回でフィニッシュ!!