コードギアスもそう。アメリカのメタファーとなっている帝国によって植民地と化した日本で繰り広げられる物語で、植民地の人間である日本人は徹底的に管理され虐げられている。日本という名前も、日本人という名前も剥奪され、エリア11と呼ばれ、イレブンと日本人が呼ばれている世界。「このイレブンども」と蔑まれている時代。今の日本と同じじゃねえかって感じなんですが、まさに第一話は日本人がそれに抗う為にテロを起こし、その見せしめとして、日本人に対する帝国側の無差別虐殺から始まる。それを目の前で見てしまう主人公がある力を手に入れる所から物語が転がり始める。

どうしようもない理不尽や虐げられている絶望がある。大切な人を何があっても守らねばならない。それに抗う為には悪であっても成すべき必要があるという帝国の人間でありながら帝国のやり口に怒りを感じ暴力で抗おうとする主人公ルルーシュの立場と、外から暴力によって変えようとしても、それは憎しみの連鎖になる。であれば内部から変えるしかないという日本人でありながら裏切り者と罵られても、帝国側の内部で出世して変えて行こうとするスザクの立場。尊厳を捨て成すべき理想に向かって変えて行くのだという二つの理不尽に抗う立ち位置のジレンマを描いていた。やがてルルーシュは世界のどうにもならないわかり合えなさに対して、自らが圧倒的な暴力を行使する悪となり打倒される事によって、協力しあえる世界を作ろうとする。スザクはその志を引き継いでその世界を見守る為に自らの存在を捨てる。

両作品とも誰にもわかってもらえないかも知れないけれど、それでもやらねばならない事はあるだろうという、この国では全く期待出来ないある種のノーブル・オブリゲーションを描いていた。子供が見る事を前提にしたアニメーションでこう言ったヘビーな内容を描いている傍らで、大人達はお涙頂戴のクソ映画に汚染されている。それがそのまんま日本の問題を象徴しているように感じます。

それと同時にコードギアスは特にそうでしたけれど、一般人が見ると引きまくるようなヲタ的要素満載でした。今の子は気にしないのでしょうけれど、おじさんには気になるのです。セカイ系のパロディとして人気を得た「凉宮ハルヒの憂鬱」なんかの流れを汲む学園ドタバタものとしての側面も描かれていた。何でも無い日常的な学園での戯れ、凉宮ハルヒで言えば、部室でのダラダラした会話を延々と見せられる。目的があるわけでもなく、物語があるわけでもない。ただの日常の戯れが描かれる。何でこんなのが人気あんだろうと不思議に思っていましたが、これはつまり、今の日常の風景にそれが無いという事を意味してもいる。何となく、まったり承認みたいな空間や機会が消えている。子供達が携帯やネットといったテクノロジーの発達によって、そして親ももちろん、その事や、メディアなどの不安に対する煽りによって、より疑心暗鬼を抱きやすくなっているというのとリンクしているような気がする。だからそんなものまでがドラマとなり得てしまう。

これは旧作のエヴァンゲリオンも同じような構造を持っていましたし、古くはデビルマンやウルトラマンなんかでも、日常と非日常の対比が描かれていた。しかし昔は非日常を描く為の、つまり平和な世界を守る為の動機付けの調達装置としてその対比が描かれていたのに対して、日常自体を記号的に戯れの対象とする消費の仕方に変化しているような気がする。生きるか死ぬかの戦いに身を投じる姿を一方で描きながら、何でも無い日常のあれこれを描く、どちらもフラットに並んだ承認を得る為の戯れの対象として描かれている。普通に考えればなんじゃこりゃって話です。さすがにそこは全く理解不能です。萌えを感じることはない。ただ描こうとしていたテーマに関しては、日本のアニメーションでありながら、ダークナイトより一足早く描いていた。

最近のアニメーションで言えば「東のエデン」なんかは特に、中々面白いテーマだった。これは多分今の所Youtubeで観れますし、比較的大人も観れる作りになっていると思いますので、おススメ出来ます。大人としては少々邪魔で退屈な繰り返されるロボットの戦闘描写が出て来ないというのが、テーマだけを追ってみれますので自分的にも観やすかった。

今の二進も三進も行かない不透明な日本社会のほんの数年後の未来の話を描いていた。出だしこそ、とある映画のパロディか?と思えるような出だしですが、11発目のミサイルが撃ち込まれ、初めて人死にが出た日本を背景にして(11発も撃ち込まれているにもかかわらず、それまで誰も死ななかったという微妙な平和ボケ感も、その事で責任のなすり合いをしている権力やマスコミのバカっぷりも、11発目で人死にが出るまで、国民も何となく忘れちゃっている姿とか、もっと滅茶苦茶になっちゃえばいいのにと期待している人が結構いたりとか、なんかリアルな話だなと思いました。村上龍の「半島を出よ」を思い出した)、ノブレス・オブリージュとはなんであるのかを描いている。

日本のどうにもならない現状をそのまま描いて、それに対する立ち方。この国の諦めの空気や梯子はずしに対する構えを描いている。それなりに笑える所を盛り込みながら(特にクライマックスのゾンビのパロディシーンは笑えました面白過ぎる)、まさに今の時代の問題を真面目に描いてもいる。責務を背負っている人間のあり方と絶望と希望を。

起こる事件も現実の延長線上のような所があってニート二万人が失踪とか(それに対して、ひきこもりが家から出たんだからよかったじゃねえかってのも笑っちゃった)、後期高齢者で切り捨てられた高齢者の医療を立て直すとか、そのやり方も今の現実の日本で可能性のある方法としてはそれしかないだろうという絶望的な手法、要するにロビイングと賄賂なのですが、その立て直そうとしている医師に対して、マスコミが不正なカネの流れが!!とか言って叩いていたり、両親を失い、非正規雇用で搾取され、資格をとっても時給10円しか上がらず、世間からは自己責任だと言われる。その事に怒りを覚え、ミサイルテロを起こそうとする若者もいたり。

これは若者側からの世界の見え方を描いている所があって、多分共感する若者も多いのではなかろうかと思う。完璧にニート擁護の立場を主人公に言わせている。要するに逃げ切りたい老人の為に若者が犠牲になる必要はない。この国の若者全てがニート化すれば一発であらゆる問題のかたがつく。逃げ切る事しか頭にない老人どもは既得権を手放すしか無くなる。持っている意味が無くなる。そんな奴らの為に組織に組み込まれて生きるのなんて意味がない。ニートという存在は、この国の構造に不満を抱え疑問を抱え、ニートと言うテロ行為に及んで戦っているのだと。若者に自己責任と言うなら老人どもよ、この国をこういう風にしたオトシ前をつけろ、搾取するな、先ず自分達が自己責任を取りやがれ、せめて邪魔するなよと。

そういう未来に今のツケを残す事に何の責任も感じていない逃げ切り野郎どもの問題を一方で切りながら、だけどミサイルテロで関係ない人まで巻き込むのはマズいだろと。抗う。

システムに組み込まれて生きない奴は負け犬だ、システム批判をしているような奴は将来愚痴るような奴になるのだという若者もいるし、仕方なくシステムに組み込まれて行くしかないと何となく就職という若者もいる。ニート、官僚、警察官、エリート医師、起業を目指す学生と普通の学生、犯罪者、テロリスト、政治家、戦後政治の裏のフィクサー、様々な登場人物が絡み合って、物語が進んで行く。

物語の中では目的を与えると集合知として恐るべきポテンシャルを発揮する2万人のニート達が実に面白かった。実際本当にバカでなんにも考えてないような奴であればニートなんかにならないでしょうし、黙ってシステムに組み込まれるでしょう。もちろん賢くて、システムを利用して行く人もいるのは間違いありませんが、大多数は凡庸な人間であるわけで、それはいつの世代もそうでしょう。昔のようにシステムに組み込まれても、そこにまあ何とか生きて行けて希望も持てそうには見えなくなっているのは確実で、システムが機能していない、壊れている。みんなが同じ船に乗ってそれなりに幸福な未来像が描けるような時代では無くなっている。いろいろ考えているからニートになるしかないと諦めている部分もあると思う。だから頭が悪いわけでは決してないと思う。

見方によっては中途半端にシステムに組み込まれてしまっている人がいるかぎり、逃げ切れる連中は自分達の取り分を分け与えるよりも、もっとクレクレ騒いで逃げ切った方が合理的判断になっちゃう。賢い若者はどんどん海外に流出し、そうでない若者は自分が生きて行ける範囲でシステムに組み込まれないように生きていれば、システムに君臨している連中だって搾取する相手がいないわけだからどうにもならない。それくらい極端な事をやらないと、今の日本では単なる権益分捕り合戦を止揚して、システムを立て直すという動機付けも生まれないかもしれない。

今の社会を見て普通に考えればどう考えても希望は見えません。よっぽど能力があるとかやる気があるとか、コネがあるとか、スキルがあるとか、図太い精神を持っているとかでもなければ、いったんはじかれたら終わりですし、多分向こう30年くらいは回復の見込みはない。ニートを肯定するつもりはありませんけれど、その事をわかっていながら、逃げ切り野郎どもの為に利用されるのを受け入れる方が本当はどうかしていると思う。そいつらこそ先ず自己責任を取るべきであって、ようはニートの為に言っているというよりも、自分達が逃げ切る為、自己責任を取らず、責任を後の世代に押し付ける為にようは若い世代に頼っている。ニートに頼っている。座席を明け渡すつもりもないくせに。少なくとも若い世代から見ればそういう風に見られてもしょうがないと思う。

若者達に自己責任や自立しろと老人どもはほざいていますが、先ずお前らが自立してねえだろって話で、国家という柱にすがって無知無関心を押し通し、若年層から搾取し、それどころかまだ生まれていない未来の子供の将来まで絶望に塗りつぶしたした責務をどう考えているのさ?という問題の方が若者の問題よりも先にあるはず。だからそういう若者が出て来ている。それは馬鹿な老人どもが行なって来たツケであり帰結な訳です。子供のせいではあり得ない。子供は大人が育てるんだから当然です。

若者からすれば年金問題にしろ、後期高齢者問題にしろ、どうでもいいと思っているでしょう。システムを信用してお任せして来たツケであり、自業自得な訳ですから。まず俺達の未来をどうしてくれるんだと思っているはずです。

そもそも馬鹿な老人どもも殆どが就職したり社会に出る時に自己責任で自立したから今があるわけじゃないはずで、何らかのロールを社会や国家から与えられたから、バカでもコケでも生きていられたわけです。散々自分の頭で考えもせずシステムに従属して来た輩が、若者に自己責任だなんてどの口で言うんだって話です。若者に希望やロールを与える事も出来ないくせに、それどころか邪魔して搾取しているくせに、何を偉そうに言ってんだ?と。

まともな感受性を持っていればバカらしい話だと思うのは当然でしょう。そういう連中がニートに対して偉そうに何かを言うなど、どう考えてもおかしな話ですし、そんなメッセージが届くはずもない。まして政治家、特に親のスネをかじったボンボン議員なんかがニート批判するなんて本当は言語道断な話です。だけど大人や老人でそんな事言う奴なんて誰もいない。ニートや若者批判ばかり、少なくとも社会的影響力のある人間は殆どその事を言わない。何とかして破綻したシステムに隷属させる事しか考えていない。システムが壊れているんだから誰もそんなゲームに乗りたくないに決まっている。まず乗っかれるシステムを身を切ってでも再構築するのが先で、若者に頼るなって話です。

そういう現状を目の前にすればニート達だって、普通の若者だって目先の記号的消費にしか逃げ場も無くなる。目的もないのだから、当然不毛になるに決まっている。だからその事をキチッと大人がフェアな目線で言うべき事なんだろうと思う。

若者に問題があるのは確かでしょうし自分もそう思いますけど、その社会を作ったのは誰なんだよって話の方が先であり、逆は絶対にあり得ない。バカな老人に期待するだけ無駄なので、若者達よ勝手に好きなように老人どもを切り捨てて搾取しろ、と言い出したら完璧に世代間対立になり、確実に老人の方が先に死ぬのだから、老人に勝ち目はあり得ない。そいつらが死ぬまで若者達が自分達の事だけ考えて生きるようになったらこの国は終わりでしょう。それを無理矢理制度を変えて若者を従わせるようになれば戦前と同じです。もう実際やってますけど。そうならない為にはまず老人どもがある程度自分達の問題を先に考えなければ絶対に合意調達は出来ない。

普段は現実の世界でも2ちゃん的掲示板なんかも不毛な書き込みばかりでその事に対する批判も多いし、実際に残念な感じですが、無目的だから掲示板なんかの書き込みも不毛な感じななっちゃうけれど、それぞれ何かの目的があるとか、目的を目指す動機付け、もしくはそこに希望を感じる事が出来るのなら、多分それは集合知として機能する事もあり得ると思う。いまだにネット選挙を封印し、街宣車で街中で喚き散らして選挙活動をし、メディアの既得権護持の為にいつまでもネットにイニシアティブを与えないから、無目的になり残念な感じになってしまうような気がする。そういう事をこの作品はキチンとフォーカスを当てて描こうとしている。

こういう作品が出て来るという事を老人や大人達は真剣に考える必要があると思います。世代間の断絶がこれ以上広がったらこの国はもうどうにもなりません。これは馬鹿な老人どもの為に言っている事です。自分は年寄りが痛い目にあうような社会はロクなもんじゃないと思う。そうならない為には先ずどこに一番の原因があるのかを馬鹿な老人どもが自覚しないと、その先もない。

馬鹿な老人が集まって、最近の若者はおかしくなっているとか、現実と虚構の区別が出来ないとか言っている場合じゃねえぞと。その若者を生み出す社会を作ったのはお前らなんだよって事を自覚しろっつう話です。それがあって初めて世代間の連帯も可能になり得る。今のままでは分断統治に成り果ててしまっている。誰が得するのか考えろって話です。それを若者から手を差し伸べよというのは不可能です。彼らは何も持っていないのだし、自分達の将来が怪しいのに老人の為に犠牲になれというのも話が違う。老人が今の帰結に陥っているのは全部自分達のせいかもしれませんが、若者が今の帰結に陥っているのは彼らだけのせいじゃ無い。彼らが老人になった時に引き受けるべき事で、今の所は若者より前に責任がある連中がいる。もうその事を若者達も気付いている

作品の中では最終的には様々な立場の違いはあるけれど、日本はもうダメだという事を言っている部分は一致している。どうにもならないと。人口規模を最適化し、怠け者から既得権を引きはがして再配分し本当の意味での自己責任社会にするには、戦後の出発点に戻るしかないとテロを目論むもの、このままじゃダメだという事はわかっているけどどうにもならないと諦めているもの、若者の労働力や能力をそれなりに生かせないような邪魔ばかりしている国であり続けるかぎり手のほどこしようがないと思うもの。まさに身も蓋もない今の現実の絶望を描いているのですけれど、その中で希望をちゃんと描いてもいる。作品としては短い作品なので、終わり方も強引で無理矢理な感じでしたし、この難しい問題を描き尽くしているとは言えませんが、非常に面白い切り口です。

キリが無いと思いますので、わかりやすい所で今放送されているもので行きますと、リメイクされている「鋼の錬金術師」なんかも、まだ途中ですが理不尽に立ち向かう姿が描かれている。これはリメイク版よりも、旧作の方が個人的には面白かったのではないかと思うのですが(リメイク版はつまらん。原作を読んだ事無いのでわかりませんし、原作ファンからは前回の批判が多いらしいのですが、完璧に前作の方が面白かった。リメイクは本当に子供向けって感じです。大人の観賞には堪えない。せっかくいい題材を取り扱っているのにもったいない、まあ子供向けだからしょうがないですけど)、何かを得るにはそれと等価の代償を必要とする。という「等価交換の原則」という物語中の錬金術のフィクションである原則を上手く使って、取り返しのつかなさを描いている。

愛する母親を失ってしまった幼い兄弟が、母親の存在を取り戻そうとして錬金術の禁忌である人体錬成、母親を復活させようと試みるも、それと等価なものなどあるわけも無く、母親の錬成は失敗。あげく兄は片足を、弟は肉体全てを失い、弟の魂だけでもこの世に残そうと、兄は更に片手を失う。片手片足を失った兄と、肉体全てを失い魂だけがカラッポの鎧に定着させられた弟の、自分達が失ってしまった肉体を取り戻す為の旅が描かれる。

決して取り戻す事など出来ない、等価なものなど何も無い己の肉体を取り戻すという不可能な理不尽に対しての葛藤が描かれる。錬金術というと何でも出来る話なのかと思いきや、なんにも出来ない役に立たない無力さを描いている。前回のラストでは錬金術を使えない決して戻れない世界に行きついてしまい、それでも前を向いて生きて行く姿が描かれる。その理不尽に立ち向かう兄弟の絆が描かれている。これは臓器移植法のお涙報道に毒されて騒いでいるたわけ共に心から見てみろと言いたい話です。何かを得るにはそれなりの代価が必要であるという事に気付けよと。それをキチンと描いている。取り返しのつかなさを。

これなんかはまるっきり子供向けの作品であるにもかかわらず、大人が観ても多分心の琴線に触れる理不尽に対する抗いが描かれている。戦争の理不尽、組織の理不尽、国家の理不尽、この世の摂理の理不尽、それにどう向き合うのかという事が。子供がこれを観ているのなら、非常に心強いかぎりです。お涙頂戴のクソドラマやクソ映画を観ているバカ大人よりはよっぽど有望です。

さて普段は取り上げる事がないであろう作品についてつらつら書いて来ましたが、もう少し理不尽と言っても軽いレベルでの立ち方を描いている作品ももちろん増えていて、理不尽が軽くても描き込みがしっかりしていれば、それは共感可能な素晴らしい作品になりえます。題材がエヴァの延長戦だったので、ちょっとそれっぽいものを中心にあれこれ書いてみました。

それと、邦画の文句ばっかり言っているので、一応フォローをしておきますが、邦画が絶望だというばかりでは本当はありません。例えば最近DVDで観た中で印象に残ったので、「休暇」という映画があります。これは非常に優れた作品で非常に面白かった。これはイーストウッド監督のチェンジリングや、ポールハギスの「告発のとき」(これもイーストウッドが協力して映画化にこぎつけたそうです。イラク戦争翼賛の真っ只中の時に、イラク戦争を真っ正面から批判する映画を共和党支持者である人間でありながら作れと支援するのだから、アメリカの真性右翼というのは凄い。イーストウッド的な右翼というのが日本ではいませんね)なんかとセットで観ると、視座を輻輳させる事が出来ると思います。

有名な所でいえば昨年の作品で賞をいっぱいとった、「ぐるりのこと」や「歩いても、歩いても」なんかはそれなりに脚光を浴びながら、評価もちゃんとされたし、邦画としては満点に近い作りだった。「おくりびと」なんかよりは全然素晴らしい映画だった。これもある種の仕方なさに対する構えが描かれていた。そこでどのように尊厳や承認を維持するのか?

それ以外にも傑作とまでは行かないにせよ、かなり優れた作品が増えているようにも感じる。旧作のエヴァみたいな自分探し系の作品であっても、理不尽(微妙に度合いの違いはありますが)に対する立ち方を描いているものも増えている。今日は邦画ネタまで書き出すとキリが無いので止めておきますが、凄い映画も結構ある。むしろ増えているかもしれない。ここ数年の邦画は特に当たりが多くなっているような気がします。

ただクソ作品もそれに比例してもっと増えている。もちろん洋画だってアニメだってクソ作品はあるでしょう。ただ邦画の場合、評価のされ方が非常に歯痒い所がいっぱいある。クソ映画がクソ映画と評価されていれば何も文句はないのですが、クソ映画が大人気だったりするから具合が悪くなって来る。素晴らしい映画がキチンと評価されて、作った人達が、評価に値するような報われ方をしてほしいと思ってしまうのです。逆に真面目に作っていない誠意のないクソ映画の監督はボロクソにけなされて仕事も無くなるくらいで丁度いい。映画監督ですなどと二度と恥ずかしくて言えないくらいに。クソ映画のクソ監督がいっぱしの表現者を気取っていたりするからムカついて来る。みんなで持ち上げてしまう。その流れがあまりにも怒濤の流れになっているので、相対的にいい作品が増えていても、クソ作品が席巻しているように感じてしまう所もあるのでしょう。

実際自分が感動したと書いた「レスラー」の監督のダーレン・アラノフスキーなんかは、「レスラー」で失敗したら多分終わっていたと思う。この作品はミッキー・ロークの復活の方に脚光が当りますが、それと同時に監督の復活をかけた賭けでもあった。前の作品がクソ映画だったので、一般的な評価としては映画監督としてはダメ監督の烙印が押されていた。終わったと誰しもが思っていた。だからそれがモチベーションにもなるのでしょう。クソ作品をクソとけなす事は素晴らしい映像作品を生むためにも必要な事なんだろうと思う。

今の日本の状況を考えますと、教育はほぼ期待出来ないし、大手マスコミやメジャーな映画の啓蒙も期待出来ない。統治権力は逃げ切る事しか考えておらず、僅かに一部の邦画とアニメーションにはその可能性を見る事が出来るのですが、何かを学ぶ機会がことごとく減ってしまっているような気がします。だから素晴らしい映像作品があるかないかは重要な違いになると思います。

しかしその僅かに残った希望まで、この国の逃げ切り野郎どもは食い尽くそうとしている。日本のコンテンツ産業で更にグッタリ来るような現実が進行している。最後に現実に戻ってその事を書いてしめにするとします。

その事は次回で。
仕方なさに対する立ち方を作品中で描こうとすると、相当丁寧に作らないと説得力がありません。日本のクソ映画にありがちな薄っぺらなヒューマニズムやお涙頂戴、予定調和的ハッピーエンド、説教くさく、熱血バカっぽく、単なる懐古主義的な作品には共通前提のネタという意味以外何も見るべき所はないような作品になってしまう。

昔はお茶の間でみんなでテレビを見て翌日学校や会社で、昨日何々観た?というコミュニケーションの替わりになっているだけ。お茶の間が消え、テレビで盛り上がるというのが相対的に減った穴埋めとしてそうなっているだけです。面白いからみんなが観るんじゃなくて、共通前提のネタになるから観ている。そういうものは2~3年経てばみんな忘れるし、何も時代に刻む事は出来ない。

最近人気がある不良が野球する映画でもCMで「夢にときめけ!!明日にきらめけ!!」とかケッタクソ悪いセリフを喚いていますけど、そういうくさいセリフというのは一歩間違えると何の共感も感じない単なるクソ映画にしかなりません。

つまり何かそうやって気を吐く事によって何らかの障害を突破出来るとかそういう問題ではなく、どうにもならないという事は薄々わかっちゃいる。しょうがないじゃないかという気持ちがないでもない。だけどそれを認めるわけにはいかないじゃないか、という葛藤を丁寧にそして真剣に描いてこそ、光り輝く、人の尊厳とは何かを説得力を持って描くことも出来る。単に仲間内の承認合戦を描いて、予定調和的にお涙頂戴ではなく、その承認が光り輝くわけです。

日本映画はそういうパターンの映画が元々多いのですが、多くが描ききれていないというか、そもそもクリエーターに描く気が無い。能力が無いのだろうし、真面目に作ってないのでしょう。ペラペラの下らないものばかりです。

そういうものを単なる共通前提の話のネタとして観る時代に変わったという事なんでしょうけれど、今の閉塞感を生み出している一つの原因にもなっているような気がする。結局ただの時間つぶしで何の気付きも学びもないのなら、時間の無駄でしかないわけだから、それは当然のような気がします。

一応断っておきますが、くだらない話ならそれはそれで自分は結構好きですし、あんまり重たい話よりも軽い感じの方が後を引かないので娯楽としてはいいとも思います。そういう事を否定したいわけじゃありませんからね。セリフも場面もテンプレート、ありがちな展開でありがちな演出、ありがちな音楽を流しときゃだいたいみんな感動すんだよ、とか、オシャレに見えるでしょ、みたいな感じで作り手の誠意の感じない作品に対して憎悪しているだけです。

少し時代の変化を象徴するエヴァの構造の変化と構造が似た作品をいくつか眺めて、もう少し立体的に見て行こうと思います。

例えばソダーバーグ監督が描いたあんまり評判はよくありませんでしたが、自分としては大満足だった、ゲバラの二部作でも描かれていたように、無謀だと言うのも百も承知。合理的ではないと言うのも百も承知。だけど、あれだけ頭脳明晰でゲリラ戦を徹底的に合理的に考えて、普通ならあり得ない奇跡的な勝利を導きだした男であるにもかかわらず、出発点には不合理という壁を跳躍して、医者として自分の生まれ故郷でもない他国の民衆の為に革命に参加し、喘息持ちというハンデを背負いながらも、厳しい行軍を強行し、あっという間にコマンダンテ(司令官)に上り詰め、見事奇跡と言えるような革命を成功に導く。そしてその成功もかなぐり捨て、万に一つの可能性であるボリビア戦に再び身を投じる。

身を投げ出し、不合理だとわかっていても、民衆の事を第一に考える。どんなに追い詰められても、人を信じ続け、農民を第一に考え続ける、あのチェ・ゲバラこと、エルネスト・ゲバラの行動は誰しもが引きつけられ魅了される。しかもそれはスーパーマンを描いているのではなく、カリスマ性を持った天才を描くのでもなく、一人の人間が挑んでいる所をちゃんと描いている。民衆が革命に参加したいと言っても、厳しいことを言って追い返し、子供がゲバラの役に立ちたいと言えば、そんな事より字を覚えて勉強をしろと諭す。革命軍の中のどんな小さな不正義でも農民を虐げるような振る舞いは許さない。

ボリビア戦では民衆は無関心であり、抵抗する気力も無く、ただ権力に従順に従う無気力な民衆を前にしても、決して希望は失わない。次第に追い詰められ、絶望的な状況に陥って、味方の士気が下がり、もうどうにもならない状況になっても、決して泣き言は言わず、敵に捕縛されて、今まさに処刑される寸前に立たされていても、最後の言葉「私は人を信じている」と言ってのける。そこに人は感染する。ギリギリまで追い詰められても、「しょうがなくなんかない」と言ってのけるからこそ、彼の生は光り輝いて見えるわけです。危うく号泣するとこでした。

同じ所に留まらず、ボリビア戦に身を投じるゲバラの姿は、ある意味、毛沢東の永久革命やデリダの脱構築に通じます。つまり正義というのは何か事を成した途端にそれは新たな抑圧を生む事になる。なので「これでよし」というのはあり得ない。永久に革命し続けるしかない。もしくは永久に脱構築し続けるしかない。正しいと思ってなされた事も、絶えずその足場に疑いのまなざしを向け、絶えず視点を変化させていかないと、システムが何で回っているのか?という事に疑問を持ってしまった社会では公正さを維持出来ない。

自分が政権交代し続ける社会とうるさくいうのもそこに眼目があるわけで、絶えず脱構築し、公正さを問い続ける事でしか合意は調達出来ないと感じるからです。民主か自民かなんてのは二の次です。その絶えず立ち位置を疑い脱構築して行くまなざしがありさえすれば、自分達の問題が今議論の俎上にのぼらなくとも、必ずそれがイシューとなるであろう事も期待出来る。期待出来れば自分とは無関係と思えるイシューであってもコミットメントを保つ事も出来るのではないかと思える。なのでゲバラの行動というのは単に民衆を救うという意味だけでなくーもちろんあそこまで切羽詰まった戦いに万人が身を投じるという事は不可能であるにせよーシステムに疑いを持ってしまった、民主主義という制度を編み出してしまった近代社会の公正さを担保する為には必要不可欠なまなざしであり、立ち方でもあると思う。

しかもそのシステムはすでに破壊され尽くし、合意の調達も不可能な時代に突入している。そしたら尚更、この立ち方が必要だし、それを獲得出来るかどうかが今問われてもいる。出来なければ少なくとも日本ではしばらくは何も期待は出来ない。

もし今度の選挙で、仮に政権交代が起こるとして、何となく今の雰囲気では起こりそうな気がしますが、日本の民主党に小泉の「郵政民営化」的な「何かをやってくれそう」というお任せ的期待をしているのなら確実に今の自民党と同じ運命をたどる事になるでしょう。絶対に世論は自分達が支持した事を忘れ去り、文句を言い出すに決まっている。それでは政権交代が起こらないよりは起こったほうが情報公開や人事の入れ替えと言った事が起こりますから、マシという事はあるにせよ、何も合意は出来ないだろうし、何も先には進まない。全て先送りになり、復活の経路は益々閉ざされる。そういう意味でも我々の意識が変わるかどうかは重要です。

この話も10年前、いや5年前に描かれていたとしたら、今とはだいぶ違った受け止められ方をしていたのではないかと思えます。気持ちはわかるけど、何もそこまで無謀なことをしなくたってとか、あんなに無茶な行動に身を投じる姿を見て、単なる自己満足だろとか、共感は出来ないよとか、そういう風に見えたかもしれない。気持ちはわかるけれど、暴力革命を肯定は出来ないと言った、呑気な平和ボケに毒された的外れな批判ももっと多かったかもしれない。もちろん今もそういう風に見ている人もいるかもしれない。しかしそういう事を言わなきゃマズいだろと思う人がいるから、共感する人も増え、需要があるから供給も生まれる。時代の空気にシンクロしている。それでもその事を言うべき時代に変化した。そんな事はわかってるけど、それが必要な時代はあると。だからこの映画が作られたのでしょう。

実際にゲバラは平和的な革命でどうにかなるとか、公正な選挙制度によってその事が担保出来ているのならそれにコミットすればよいとも言っています。そういう手段が何も無かったら、戦うしか無いだろうと。だから暴力革命を肯定するとか否定するとか考えられる時点で、彼とは別世界に我々は今でも生きている。戦う以外に権利を獲得する手段が無いから彼は戦いに身を投じていた。しかもそれは自分の権利の為でなく、民衆の権利の為であり、感謝されなくても構わないとさえ思っている。不正義を見過ごしてのうのうと生きる事なんて出来ないと。いつか自分のやった事が後の世の為になるであろうと。このあり得ないまでの徹底した利他性に人は心を奪われる。

ゲバラの話は極論ですし、そこまで崇高な話は普通の人では考えられない。それに命を削ってというのも出来るわけがないというのはわかります。しかし我々は日々「しょうがない」「どうにもならない」と何かを諦め、その事の言い訳を探して生きています。単純に言えば、3秒に1人貧しい国の人がエイズで死に、内戦で死に、飢えで死んで行くと知っている。だけどどうにもならないと思っているから考えないようにしている。考えないでいられる遠い世界の話であるうちは、それでも人は生きられます。

しかしその余所事として見ないフリを出来ない近い所で、貧しい国の理不尽とまでは言えないし、そこと比較するなど不遜な話かもしれませんが、確実に理不尽な時代に突入している。尊厳を破壊されてしまう。「しょうがない」「どうにもならない」と無関心を決め込んでいる事が、10年前であればまだ笑って言っていられた。それをネタにして笑いを取るという自虐ネタも通用した。それでも社会が回っているように思えたからです。だから自意識でイジイジしている余裕もあった。

だけど無関心が洒落にならない帰結を生み出しているという事を実感出来るようになった。10年前でも、一歩外の国を見れば、我々の無関心が彼らの尊厳を破壊してしまうという事があったのですが、それがグローバル化や情報化が更に進んで可視化出来るようになり、実際に国内問題も二進も三進もいかない状況になっている。

我々の無関心が更なる理不尽に加担してしまい、その事が可視化出来る時代に変化している。しかも明日は我が身。その実感も日に日に強まり始めている。その無関心による諦めもまた他者の尊厳ももちろん、自分の尊厳も破壊してしまう。そしてその無関心であるという感覚に問題があるという事に気付いて、コミットメントしようと思っても、合理的なシステムは何が正しいのかもわからないし、我々がコミットメントした所で、日本政府をどうにかした所で、どうにもならない構造に巻き込まれてしまっているという事を、簡単に実感出来る時代に変化している。

そういう意味でも「しょうがない」「どうにもならない」という引き裂かれた現実に対峙しなきゃならない時代であるという事に、気付かずにはいられないようになってしまった。そういう時代に現実に向き合えと言う自意識の問題だけでは足りない。「しょうがなさ」や「どうにもならなさ」という理不尽な外部にどのように向き合うのか、断念をどのように引き受けるのか?それを問う作品が増えているし、実際に評価も得ている。もちろん日本映画は酷いのが多すぎますけれど。

今回のネタはせっかく砕けた話なので、いつも書くような面倒くさい固い作品ではなく、わかりやすい所から見てみましょう。こういう機会が無いと滅多にその手の作品の事を書くなんて機会もないですから。

例えば、昨年話題になった「ダークナイト」もそういう感じの描かれ方をしていました。正義を成すという事の難しさ、バットマンの正義では、この世の不正には太刀打ち出来ない。コスプレを着てわかりやすい悪党を叩いていても、そんなものは本当の意味でのこの世の悪からすれば可愛いもので、そういうわかりやすく打倒出来る悪ではない、人々の諦めに宿る不正や堕落に対しては全くの無力でもある。

人々も半ばバットマンの押し付け正義を迷惑がっており、バットマン自身も限界を感じている。そこで法に則った正義、光の騎士と呼ばれる検事ハービー・デントに正義を託そうとする。しかしデントの正義も無惨に打ち破られてしまう。デントはジョーカーのそそのかしに乗り、自らの復讐に基づく正義を執行しようとトゥーフェイスとなって堕落する。犯罪者となってしまう。その事に絶望するバットマン。

法と正義は両立しない。愛と正義も両立しない。正義と正義も両立しない。システムの限界に対して、その事をお前もわかっているではないかと、ジョーカーにバットマンは言われる。俺とお前は同じだと。唯一絶対的悪の存在であるジョーカーが存在する事だけが、バットマンが正義の存在として存在する理由になる。

そういう正義の脆弱性や法の脆弱性、愛の脆弱性に対しての仕方なさ。確かに両立はしない。システムは破綻している。だけど多くの人がそう思う社会はやっぱり問題だと。多くの人は正義が執行されて、法と正義と愛が両立していると思っている事が大切なんだと、システムが正常に機能していると思える社会を護持するのだとダークナイト役を引き受けるバットマン。堕落したデントを正義の存在であったと語り継げと去って行く。ノブレス・オブリージュとは?を描いていた。ある意味ネオコンが目指そうとした理想をネオコンが破綻して行くまさにその時期にもう一度見つめ直して描いていた。

アメリカはオバマへとというか、ポストネオコンへとシフトチェンジしつつある最中であり、ブッシュをクソミソに叩き、ネオコンを全否定している最中であるにもかかわらず、ちゃんとこういう映画が歴代の興行成績の2位だか3位だかって話になっているのだから、なんだかんだで、すげえ国だと思います。象徴的な話ですが、この映画、日本では興行成績が振るわなかったとか。ありゃりゃって感じです。

最近公開されたこれもアメコミの映画化である「ウォッチメン」、原作しか知らないので映画がどうなっているかは知りませんが、これはダークナイトのその先まで描いている。ちなみに原作は超オススメです。この作品は漫画として初めてヒューゴー賞を獲得した作品で、滅茶苦茶面白すぎます。アメコミをなめちゃダメですよ。多分今まで読んだ漫画の中で五本の指に入るくらいのショッキングな話です。

ヒーローものの脱構築の話で、冷戦体制の最中の話であり、ヒーロー禁止条例後の世界。ヒーローの活動によって職を失いかねない、賃金が上がらない警察などの組織の組合運動によるヒーロー活動反対運動などによって、ヒーローが正義を振りかざして暴力を振るうのは違法ですよという世界が描かれる。その中で元ヒーローや政府の犬になってヒーローとしての活動を免罪されているヒーロー。違法行為としてヒーロー活動を続け、犯罪者、殺人者、頭のおかしい変態と恐れられるヒーロー。とっくに引退して老人となっている元ヒーロー、あんなバカバカしいコスプレをしていた事を恥じる元ヒーローといった感じで、ヒーロー達の姿がシュールに描かれる。

我々がヒーローものに抱いているバカバカしさや批判は全部作品の中でなされていて、例えばなんでそんなアホみたいな格好してんのさ?という疑問、マントをヒラヒラさせて邪魔じゃねえのかよ、と言った疑問に対して、実際ヒーローの一人が回天扉にマントが挟まれて死んじゃう描写が出て来るとか、ヒーローが単なるコスプレ趣味の変態暴力野郎であるとか、酒に溺れて頭がおかしくなっちゃうとか、昔活躍していた日々を懐かしんで思い出話に浸る奴、ヒーローだった事をカミングアウトして、本を書き一儲けする奴、政府の犬となって戦争で人を殺しまくるヒーローとか、これは日本人じゃ描けないなと思えるシュールな話です。

そしてこれのテーマは「誰が見張りを見張るのか」という難しい重要な問題を根底に置きながら、バットマンがダークナイトで引き受けたような理不尽に対する欺瞞を描いていた。要するにそれって例えば前大戦でアメリカ側の論理として、戦争を終わらせる為には原爆投下やむなしであったのだとか、それでより多くの命を救ったではないかという言い方があります。日本人としては受け入れがたい話で、なんだと?アメ公!!ふざけんなコラッ、もう一度言ってみろこの野郎!!!と踵落としの一つもしたい所ですけれど、百歩譲ってそれが正しいとしても、それが本当に正義と言えるのか?という事を描いている。アメリカ人がですよ。しかも1985年に。尚かつ賞までちゃんと貰っている。漫画としては異例の。それが最近脚光を再び浴びたのも時代の変化がそれを要求しているような気がします。

このままで行けば世界は破滅してしまう。その一歩手前まで来ている。一部の犠牲で世界が破滅しないと本当にするとして、世界の破滅か?一部の犠牲か?を秤にかけたとき、国家や社会というのは迷わず後者を選択する。それが論理的に言えば間違いなく正しい事なんだろうし、被害を最小限に食い止める為の犠牲であるという事は正しいのかもしれない。多分世界中誰が聞いてもそれはやむを得ない正しい事なんだろうけれど、それって納得いかねえだろという事を描いていた。現に死んでいる人を見捨てるという事が正義と言えるのか?と。要するに、バットマンが最後に引き受けてダークナイトとして去って行くようなあり方、みんなの安心の為にシステムの破綻を背負うような行動に対して、ちょっと待て!!俺は納得いかねえぞ、と。だってそうする以外無いではないかという断念に対して、そんな事知るか!!と言ってみせる。システムからこぼれ落ちる人の問題はどうすんだよ!!と。我々は何を正義と勘違いして合意しているのかちゃんと自覚しろと。絶対に正しい正義の正しさを問えと。

今回はエヴァの話の延長戦なので実写映画を例にとるのは止めておいて、日本のアニメーションの方にも目を移しておきましょうね。知らない人はお勉強しましょう。まああんまり自分も詳しいわけじゃないのですが、エヴァンゲリオンを観て以降は、偏見が無くなり、最近はYoutubeという非常に頼もしい「ただ」という味方がいるので、なにげに話題作はチェックしているのです。そうするとやっぱりある見え方がある。

昨年話題になった「ガンダムOO(ダブルオー)」にしろ、その前の「コードギアス反逆のルルーシュ」にしろ、ダークナイトの描こうとしたテーマと全く同じでした。もちろん深い所でという意味なので、マネしたわけじゃないのでしょうから偶然なんでしょう。時代がそれを求めている。ネオコンの本当の理想が間違っていたのか?という問題を描いていた。

大人達が無前提にネオコン=悪、ブッシュ=石油利権、みたいな頭の悪い「華氏911」的な見方をしている一方で、日本のアニメーションはちゃんと何が問題だったのだろう?という事を描こうとしていた。みんなでネオコンを支持して世の中滅茶苦茶になってしまった事に対して、大人達は自分達が支持していたという反省が無い。日本人だって小泉を通して、ネオコンを支持していたわけですから同じです。本当はネオコンというよりお前らが悪いんだよって話で、ああこれを子供が観ているのならそう思うだろうなと痛感した。もしくは将来気付くだろうなと。

ガンダムOOで言えば、戦争は無くならない。悲劇はいつまでも続く。現に今もどんどん人が死んで行く。であればそれを止めるにはどうすればいいのか?圧倒的な武力によって介入し戦争を物理的に止めるしか無い。故郷は焼かれ、家族を失った主人公達が、その戦いに身を投じる。平和の為の武力行使という矛盾に対して描ききったとは言えませんが、描こうとしていた。これこそまさにネオコンの初期の理想です。世界には理不尽が溢れている。力を持っているアメリカがその事を無視していていいのか?それは不正義ではないかと。

特に裏の主人公として登場するサジ・クロスロードという若者の姿がまさに典型的な平和ボケした難しい問題には無関心の若者として最初は描かれていて、次第に戦争やテロという理不尽に巻き込まれ、最愛の人が傷つき、しかも何も出来ないという絶望が描かれる。二部作だったのですが、一部の描かれ方は秀逸でした。あのサジの彼女の陥る絶望は今の世界のどうしようもなさを真っ正面から描いていた。能天気でバカな女の子がある日突然、無関心だった理不尽の当事者になってしまう。その彼女に対して何も出来ないサジ。主人公達の暴力による介入によって傷ついた事を怨む。憎しみの連鎖。ヒューマニズムやお涙頂戴を差し挟む余地もない痛みを描いていた。

二部では最後の頃はちょっと描き方が甘かったとは思いますが、自分達の無関心が何に加担しているのか?その事によって直接他者を傷つけてはいないというだけで、立派に暴力に加担している。見殺しにしている。戦争をやっている当事者達を最初は憎み軽蔑し自分は人を傷つけていないと思っていた自明性が覆って行く。自分が乗っかってい生きて来た平和とはなんであるのか?

一方では主人公達が世界の平和という目的の為に、武力を武力によって鎮圧するという矛盾した大義というのは、実はその暴力に対して世界が結束し、主人公達を非道なテロリストとして悪として結束して行く事で、理想の世界が実現されようとしている最初から仕組まれた計画なのではないか?という事を主人公達も途中で疑い始める。悪の存在として自らが葬られる事によって自分達が目指した世界が生まれるのではないかという事に気付き引き裂かれる。

自分達が葬られるのは構わない。悪だと言われても覚悟はしている。だけど、その構造の裏側で利用している奴らがいる。そいつらだけは許せないと、自らが悪と葬り去られる事を引き受け傷つきながらギリギリまで追い詰められるも、その構造を利用している悪しき歪みを刺し違えてでも道連れにしようと足掻く。二部のほうではその辺の矛盾に挑む内容から、なんかわかりやすい話に移行してしまい、最後はドッチラケになっちゃいましたが、前半のヒリヒリするような痛みを描いていた部分は、凄く引きつけられた。

まさにネオコンが悪であるという世界の結束によって、オバマが誕生するような事を、無前提に信用すると繰り返すだけだという教訓も含まれている。実際第二部では4年後の統一された平和を取り戻した世界が、今度は仲間かそうでないかで、民主的かそうでないかで、世界を統合し敵を排除しようとする。統合が生み出す暴力が人々の自由を阻害し始める。統合に従わない奴らは敵だ、制裁だ、テロリストだと。まさに暴力によって平和を維持しようという方向に進んで行く、その事にもう一度、生き残った主人公達は立ち上がる。こんなものの為に俺達は戦ったのではないと。武力行使による平和の維持という主人公達が第一部で行なって来た行動を今度は世界の側が行使するようになり、それを今度は主人公達が挑むという展開になる。

これをブッシュのネオコンがクソミソに不人気になって、オバマに世界中が熱狂している傍らで、日本のしかもアニメーションが描こうとしている所に驚愕せざるを得ない。

そして更に驚かされるのは設定で、これがまたバカな大人では気付きもしない微妙な問題を描いている。太陽光発電が進んだ後の世界が描かれていて、石油の輸出が禁止になり、エネルギーの争奪戦が無い時代なんだから争いが無くなっているのかと思いきや、その事によって外貨獲得源を失ってしまった中東諸国の葛藤や絶望、暴力の連鎖、化石燃料から脱するという事とはどういう事なのか?が一つの可能性として描かれる。理想ではなくそれも利権であるという事を。

世界各国も宇宙に展開する太陽光発電の技術をめぐって、またその技術を持つ国からのエネルギー供給という利権をめぐって、相も変わらず鍔迫り合いが繰り返される。化石燃料は環境に悪い、太陽光発電のような自然エネルギーにすべし、と言った能天気な議論を、今の時代の大人である我々はしていますけれど、そんな甘い話じゃねえだろと子供が観るアニメーションでちゃんと描こうとしている事に驚かされる。

続く!!
この心情の受け身から能動性へと変化しているのは、各登場人物がそうで、自意識の問題に留まらず、コミュニケーションによる承認を獲得する為に外に開いている。旧作よりも一歩前に踏み出している。これが決定的に変わっている。登場人物の大人達はもちろんの事、子供達も、14年前と比べると大人の目線になっている。それは作り手もそうなのだろうし、受け手である我々も、世界の変化に打ちのめされて社会自体が成熟し大人の目線を獲得した事とシンクロしているのかもしれません。

それと決定的なのがお父さんの変化。これが観ていて面白かった。旧作ではお父さんというのは主人公にとっての承認されたい対象であると同時に、立ちふさがる越えなければならない理不尽な壁として描かれていましたが、今回はお父さんもシステムのロールを担う、一個の人間で、彼は彼の戦いをし、人として自分の息子に向き合わなきゃならないと思い至る所まで描いている。ただ厳しいだけの理不尽なわけのわかんないオヤジという風には描かれていない。セリフが同じでも、お父さんの内面が本当に一瞬なんですが見事に描かれている事によって、同じセリフが違う響きを持つ。

これは基本的な他者に対するまなざし全てに言える旧作の特徴なんですが、他者に僕の事を分かってほしいけれど、どうせ分かってくれないんだ、という人間関係に対する幼さというか中二病っぽいというか、AC(アダルト・チルドレン)っぽいというか、多分制作者も含めて日本人全体がそういう空気だったと思います。子供っぽかった。しかしその中二病っぽさが、今回の新作ではかなり無くなっていて、人がそれぞれ丁寧に描かれている。シンジ君が自意識で思い悩む姿自体も、お前がそう思っているだけだろう、みんな大変なんだよという目線がある。その事をシンジ君自身も気付いていてわかっている。お父さんだけでなく登場人物それぞれが自分の立場で葛藤している。それがそれぞれ中二病っぽい葛藤ではなく、実社会に向き合った葛藤に変化している。

それだけではなく、街や街の人々がこれでもかと描かれる。当然なんですが第三新東京市は多くの人が行き交う街であり、主人公が戦っている間は、人々を恐れおののき自分達の運命に翻弄されている。生き延びたいと誰もが思い、それが実感のわかない主人公の肩に、ネルフの面々の肩にのしかかっているという緊張感が丁寧に描かれている。まなざしが大人の目線に変化している。

つまり自分の居場所や役割に疑問を持った所で、現に自分が背負ってしまった役割によって様々な人達と繋がっている。「ここにいていいんだよ」という居場所探し、その事に気付くのが旧作だったとすれば、今回のは自分の居場所を守る為には役割を果たさなければ、まわりの人間も傷つくし、ただ役割をこなしているだけでもダメで、やる事をやったって上手く行くわけではない。疑問があっても不満があっても今そこにいるその場所で目一杯戦わなければ、居場所を失うだけでなく、みんなも幸せになれない。自分が幸せになるには自分だけの問題を考えてもダメ、自分が幸せになるにはみんなが幸せでいてくれなければ自分も幸せなんかに成れないという事に対して、より積極的に登場人物が気付き獲得していく。

実際に旧作のテレビ版が作られた95年には阪神淡路大震災が起こり、地下鉄サリン事件が起こり、世の中はブルセラ援交ブームという事で、滅茶苦茶にはなっていましたが、それに対するレスポンスも今から考えれば幼かったのではないかと思える。ほんの数年前まではまだバブル絶頂であったわけで、何となく今はダメだけど、というダメさがどの程度ダメになるのか?それがどれくらい続くのか?というのが見えてはいなかった。甘く考えていたのではないかとも思える。80年代の女子大生ブームから女子高生ブームへと移行したの一つをとっても、世の中はまだまだ浮かれていた。だからシステム批判もいっぱいあったし、システムのせいで、みんなが苦しんでいる。という言い方も通用した。

それにオウム真理教の顛末に関しても、恐ろしいというのもあったけれど、どちらかと言うと、高学歴層や収入に比較的恵まれている層、そして社会貢献を真面目に考えてしまうタイプの人ほど、自分も一歩間違えれば同じかもしれないという、システムによる疎外を多くの人が感じ、自分探しが流行り、AC系のリスカのような自傷行為が問題にもなったりした。その後に起こった97年の酒鬼薔薇事件の際も、多くの十代の若者が共感していたのも、自分は疎外されていると思っている人が多かったからそういう現象が起こっていた。社会全体が中二病っぽい所があったと思う。だからそことシンクロして、旧作があれほどの社会現象となった。

旧作の映画版でも確か最後の方でこういうセリフがあったと思います。「夢は?」「現実の続き」「現実は?」「夢の終わり」そこでリリスと化した綾波もしくは渚カヲルの首筋から、ドバーっと血が噴き出して、現実世界に引き戻されて行く。ようは現実に向き合えというメッセージがあった。メタメッセージとしてもエヴァという夢はこれで終わり、本当の夢は現実の中にしかない。現実に向き合えよと。

当時の空気としてはヤマトとかガンダムとか、それまで日本のサブカルチャーが描いて来た救済のビジョン、平和な世界という理想の結末に対して、オウムの顛末なんかが特にそうだとおもいますけど、洒落にならない救済のビジョンが出て来てしまった。なので大文字の救済ビジョンに対して勘弁してくれというのもあった。

80年代のバブルの狂乱によって、いい加減お祭り騒ぎも疲れたというのがどこかにあって、社会自体もハルマゲドン幻想みたいなものがあった。ノストラダムスの大予言みたいな話に熱狂した。ガンダムやヤマト的な人類存亡の危機が起こって、いっその事世界が滅んじゃえば楽なんじゃねえか?みたいな。

そういう空気が、バブル崩壊を引き金にしてオウムのあの一連の毒ガス事件を経験した事によって、それってやっぱり洒落にならねえよと気付いた。その空気をバッチリ汲み取っていたからあれだけ凄まじい社会現象になったのでしょう。旧作は人類補完計画という人類救済のビジョンに対して、最終的に主人公が拒絶する。そんなものより日常の現実の中にこそ、僕の居場所はあるんじゃないかと。現実に向き合えと。救済にすがるなと。

しかしそれから14年がたち、更なるシステムの崩壊を向かえて、システムの整備もいっこうに進まず、相も変わらず不況から回復する道しるべも何ら見いだせず、バブルの絶頂の頃のことなんてもう誰にも実感もない。そういう話を聞いても、もういい加減にしてくれよ。今それどころじゃないんだけど、となっている。

不条理をいかに引き受けるのかというのは、昔で言えばそこに救済があったり、平和を守ったり、スポ根ものなら勝負に勝つとか成功とか、恋愛ものなら好きな相手との恋を成就させるとか、目的を達成する事によって、これまでの不条理が報われるという意味で、引き受けた代償を得るという展開だったものが、大文字の救済ビジョンに辟易した時代性を反映して、旧作のエヴァのような作品が出て来た。そういうのはもいいよと。日常を現実に向き合って生きて行くしかないじゃないかと。退屈であっても繰り返しであっても、わかり合えなくとも傷つけ合うしか出来なくとも、それが我々の現実で、現実の先にしか夢もないと。

しかしその退屈で繰り返しであるしかない日常に放り出された我々は、長引く不況と退屈で先の見えない繰り返しにウンザリした。そのウンザリしている隙間に、例えばネオコンの正義や小泉の構造改革という言葉が美しく聞こえてしまう人が一定の割合というか、大多数が実感してしまい、退屈な繰り返しの出口をそこに見いだして、熱狂してしまう。そしてそれ以前よりもより絶望的な状況に立たされて今がある。

再び不条理をいかにして引き受けるのか?という事を問われる時代に変化した。というか人はやっぱり退屈な繰り返しだけでは生きて行けない。希望も欲しいし、何らかの出口があると思いたい。それに現実に向き合うだけでは立ち向かえないような不条理が現に顕在化して人を傷つけ始めている。それを大文字の救済を掲げてしまうと失敗する。その事はオウムの顛末でみんなが思い知ったし、小泉やネオコンの顛末でもういい加減ウンザリでしょう。だからと言って、希望とか甘い事言ってねえで現実に向き合えよ、そこがお前の居場所なんだよという話に落ちてしまえば、人はまた希望を求め何らかの救済のビジョンを求めてしまう。占いだのスピリチュアルだのが流行るのもそういう事のあらわれでもあるでしょう。

なので不条理を救済のビジョンやシステムはすでに破綻して出口がないという前提に立って、いかにして繰り返しの毎日に希望を失わず、尊厳を維持し生きて行くのか?という問題に対して、現実に向き合えというだけではなく、どのように構えるのかという問題を描く作品が増えています。それは要するに現状に対する何らかのコミットメントが必要であるという事のあらわれでもあり、無関心から関心を持つというシフトの必要性でもあり、この世のどうにもならなさに対する学びと、でありながら尚コミットする胆力と構え、簡単な出口を求めず絶えず考え続けなきゃならないという事でもある。

低成長時代に入っている事は明らかだし、多分未来もロクなもんじゃない。システムを整備しても、もうどうにもならない。グローバライゼーションの枠組みが末端の人々にダイレクトに影響を及ぼし、日本の政府をどうにかしたって、どうにもならない。

システムのせいにした所でどうなるものでもなく、そんな事を言ったってたちまち派遣で切り捨てられるのがオチ、援交でイケイケだった子も、AC系で自意識にひきこもって自傷していた子も、自分探しをしていた子も(まだやっている子ももちろんいますけど)14年がたってその帰結を受け入れざるを得ない時代になっている。現にその帰結を受け入れて、お前の自己責任だと言えばいいじゃんという時代から、更に経済が破壊されてしまって、お前の自己責任って俺も入ってるじゃんと多くの人が気付き始める。そしたら自己責任だというだけでは足りないという事に気付く。「もうしょうがないじゃないか」という断念をどのように引き受けて対峙するのか?それが問われている。そういう時代に現実に向き合えというだけでは足りない。みんなに向き合ってますけどと言われてしまう。向き合わないと生きて行けないどころか、向き合っても生きて行けないかもしれない人がかなりのボリュームで出て来ている。

例えば全然ハッピーエンドではないし、誰も幸せになっていない。しかし仕方ない。それを引き受けるしかない。この世の不条理に対する仕方なさの引き受け方によって作品や登場人物が光り輝くように描く為に、「しょうがなくなんかない」と言わせる作品もあるだろうし、「レスラー」で言えば、しょうがない、全部自分の自業自得だと言う事も分かっている。だけどそういう人に対する優しいまなざしがあったっていいじゃないか、それがなくっちゃ人は生きられないよ、それでもその人の命はかけがえがなくて、輝いているじゃないかと。そういう人の生であっても美しい。それが生命は美しいという事の本質なんだ。と描いてみせるとか、人生は失敗しているのかもしれないし、これから上手く行くかどうかは分からない。だけど尊厳を得られていれば人は生きて行けるのだとか、例えその事によって悲劇が待っていたとしても、人はそういう風にしか生きられない。だから生は儚く美しい。間違った選択をしたとしても、その事を批判出来ないのではないか?とか。

それに対する解答のような作品が増えている。明らかにこの新作もそこに対する監督なりの解答のように思える。現実に向き合っても夢がないんですけどという時代になっちゃった事に対する、答えとも言えるし、だからこそ夢は終わりだと終わらせたエヴァをもう一度描く気になったのかもしれません。

少なくとも社会の中二病っぽさをブーストさせて消費された事に対して、一定の罪悪感のようなものがあるのかもしれない。今の10代の子が旧作を観ても、多分当時のような共感は得られないかもしれません。自分の問題を考えていても、就職先もないし、未来は借金塗れ、まだ大人達はそこから脱却しようともしていない。

自分が疎外されているのはシステムの問題だけではない。明らかにその事を利用している輩がいて、そこに手が届かない事が問題なんだという事に多くの人が気付き始めている。しかもそれを解決する手段もないかもしれないと。合成の誤謬、不作為という作為、無関心という諦めがその事を更にブーストさせている。システムを整備するだけではダメだし、自分の自意識にひきこもっていてもダメ、声を上げて戦わなければ本当に取り返しがつかない事になるかもしれない、例え自業自得であっても疎外されてしまっている人には自己責任という言葉だけでは足りないだろう。手を差し伸べなきゃ社会は益々底が抜けて行く。そういう人だって同じ人間なんだし、尊厳も必要だろと。自分は傷つかないもしくは直接影響を受けない、高い所からピーチクパーチク言っている奴らなんか信用出来るか!という感じで直接コミットする時代へと変化している。

投票行動をし、ブログに書く、たったそれだけの事だって従来よりももの凄い破壊力を生み出す。例えば自分のブログのようにクソ長いしょぼいブログだって、何かを書けば少なくとも数百人単位の人がそれを見る。読んでいる人が10分の1であっても数十人が見ている事になる。その人達がまたそれを数十人に伝えれば、ねずみ算式にあっという間に世論形成に一役買ってしまう。誰かが都合が悪いから何かを隠すという手法が通用しない時代に入っている。何らかのインチキを使って人気を獲得しようとしても簡単に梯子を外される。そういう時代に変化していて、今はその端境期にある。だからマスコミも統治権力も全くの機能不全に陥っている。簡単な話で情報公開してフェアネスを絶えず追求し問い直して行く以外に合意形成はあり得ない。そういう時代の転換点に我々は立っている。それが上手く行くかどうかは問題じゃない。それしか方法がない。

今作のラスト、聴いた事が無い伴奏が始まって、誰が主題歌を歌っているのかと思ったら、前作の序と同じ宇多田ヒカルの同じ歌の別バージョンだった。これも二重の意味でメタメッセージがこもっているような気がします。宇多田ヒカルという人の音楽をちゃんと全部聴いているわけじゃないんですけれど、彼女の歌というのはある種の、諦めや断念に対する祈りのような歌が多い。なのでこの映画のテーマとも合致しているし、別バージョンで同じ歌を使うというのも、リメイク的な作り直しと思われがちなこの映画に対する目線を意識した、それでも魂は混める事が出来るのさ、というメッセージのようにも感じる。

そして宇多田ヒカルの音楽性というのは、日本ではある意味パイオニア的存在だったのかもしれませんが、R&Bと言った黒人音楽の系譜を知っている人から見ると、要するにコピー&ペーストでもある。ただ日本では彼女ほどの才能の持ち主がいなかったという事もあってあれだけ光り輝き、みんなの度肝を抜き、コピー&ペーストであったとしても、そこに魂を込める事は出来るのさと聴かせてくれた。そして質の悪い雰囲気だけが似たような物まね野郎を沢山生み出した。

それと同じで、庵野監督の作品というのはこの作品なんかはそれこそセルフパロディ的な更にもう一回ひねった作りになっていますが、彼自身も過去作品のヤマトとかガンダムとか、初期のウルトラマンなどの円谷作品、日本映画の中でもいろんな人の要素を取り込んで、海外のSF小説のいろんな要素を取り込んで、それこそ宗教から哲学、科学とあらゆる要素を取り込んでコピー&ペースト、パロディのオンパレードです。旧作の映画版なんかは完全にテレビ版ではない漫画デビルマンと瓜二つ。つまり本当の敵は人間自身だったんだという救いようの無い展開。もしくはガンダムの富野監督の映画版「伝説巨人イデオン」の後編と瓜二つ。

旧作の映画版では主人公達の所属する「特務機関ネルフ」の施設に最終的に攻撃を仕掛けて来たのは、同胞である人類の疑心暗鬼、使徒という神の使いの名を持つ敵生体を全て駆逐した後は、エヴァを持つネルフ自体が今度は人類の脅威だというわけです。同じ日本の特殊部隊が虐殺をしに来る。ネルフは対使徒用の組織なわけですから、当然対人間にたいしては無力、次々と人が死んで行き、施設は制圧され、あげくミサイル攻撃にまでさらされてしまう。デビルマンも悪魔の手から、人間でもあり悪魔でもありながら人類の為に戦って来たデビルマンに対して、最終的に人類が裏切り、デビルマン「アモン」と合体した主人公の大切な人々は虐殺され、あげく人類自身が滅びの引き金を引いてしまう。人類が滅び絶望したデビルマン達は悪魔との最終決戦に臨む。これの焼き直しに近いシナリオでした。

映画版「イデオン」も伝説の「イデ」という意志を持っているかのような無限エネルギーをめぐって人類と全く別の文明を持つ異星人との争奪戦が始まり、「イデ」を手にした人類は地球の同胞からも敵扱いを受ける。共有し平和利用をする事を考えず、戦う事を止めない度し難い二つの人類の戦いに絶望した「イデ」の逆鱗に触れ、両者の母星を滅ぼされてしまう。帰る所を失った二つの文明はもはやわかり合うという事も出来ずに、後戻り不能の破滅の道に突っ走って行く。エヴァの旧作のわかり合う事の出来ない諦めのベースというのは、この辺から多大な影響を受けている。

だけどそうであったとしても、そこに魂を込められるのさ、というのを見せてくれた。そうであったとしてもオリジナルを込める事は出来るんだと。アニメだけではなく日本映画やドラマにまで影響を及ぼし、彼の手法を真似た質の悪い物まね野郎が増殖する。95年以降の国内あらゆる映像作品でエヴァの影響を全く受けていない作品を探す方が困難かもしれない。そういう意味で深読みかもしれませんがメッセージを感じる事が出来た。記号的消費が加速してしまった時代に対しての一定の立ち位置を。今作のエンドロールに流れている歌を聴きながら、そんな事を思いました。

まあ大絶賛という風に言える所ばかりではないのは確かです。話としてはエヴァンゲリオンのウケた部分であった謎が謎を呼ぶ展開もそれほど重要性を感じませんでしたし、展開も少々ベタな作りになっている。すでに書いたように昔の熱血っぽい所があるし、ベタさを徹底的に排除して肩透かしを食らわし、それ以上に展開で見せて行くという旧作の作りから比べると、オーソドックスなエンターテイメントと化しているという評価もあるでしょう。それに作り手の趣味全開のような感じがしますので、ちょっと押しつけっぽい箇所もあるにはあります。特に昭和歌謡がこれでもかと流れる場面には少々ずっこける所もある。この場面でその歌かよ!!と。それに効果音の使い方も、やっぱり「ウルトラマン」がやりたかったのねと、露骨な所もあった。

そして旧作の異質だった部分には、あの独特の間というのがあったと思う。ひぐらしの音と独特の間。その演出があのエヴァの独特な世界観にマッチして、不思議な雰囲気を醸し出していた。それも今回の新作ではあまり見られませんでした(ひぐらしは鳴いていたけど)。というか2時間でまとめるのだから、間をとっている場合じゃないのかもしれませんが、エヴァ独特の間のリアルが消えたのはだいぶ物語のトーンを変えている。その事に違和感を感じるという人もいるかもしれない。

カヲル君のセリフで、「また三番目か」「今度は幸せにするよ」とか、あれ?旧作の展開込みのメタ視点かのようなセリフが出て来る。と言うと旧作からの続きなのか?さもなくばループ?ってそれが記号的消費なんじゃねえかという気がしないでもない。いずれにせよどのようにケリをつけるのか、非常に興味深い所ではありますが、こういう作りというのは悪く言えば二次創作とも言えるわけで、すでにそのような批判も結構ある。

しかしそういう批判があるだろうという事は、監督だってわかっているだろうし、作っている人達だってわかった上でのことでしょう。旧作で批判したオタク的な消費にひきこもってんじゃねえよ、というメッセージを受けた社会が、オタクがヲタク化し、記号的消費が溢れかえり、多分ルーキーズ卒業を観るのも、エヴァを観るのも、共通前提のネタとして観ているのでしょうから客層もより一般化している。そして現実に向き合った結果も希望を求めて90年代を繰り返し、その結果更にシステムは崩壊し、益々不透明になってしまった。なので一般化した客層に対してもわかりやすい作りに作り直して、オタク的な二次創作と言われかねない記号的消費という手法をあえてとり、オタク魂全開に徹底的にこだわり、ヲタク的消費に対してそこに足場はあるのか?と問いかけているような気がする。更に旧作で現実に放り出したオトシ前をつけようとしているように感じる。それはポジティブなハッピーエンドになるかどうかとは関係ない話ですし、仕方なさに対する引き受け方の問題です。そこが続編で描かれるのなら自分としては満足出来る。

エヴァも広い意味で言えばビルドゥングス・ロマンと言えるのでしょうけれど、ビルドゥングス・ロマンというのは普通、主人公が今いる場所から、離陸し、様々な学びを得て、別の場所に着地するという手法がとられるわけですが、その事によって成長を描く。だけど旧作のエヴァというのは離陸して着地した場所が、一歩も前に進んでないという風にも見える。結局飛び立った場所で生きて行くしかないという事に気付いて、自意識のみの成長が描かれていたと。本当に自意識だけだったので、最後に再び他者という現実からの拒絶を描き、一歩も前に進んでない、現実の壁はやっぱりそのままそこに存在して、同じように葛藤して行くだろうということを思わせるような最後だった。だから我々はそこで置いてけぼりを喰らった。実際には主人公は成長してないかもしれない。一歩も前に進んでいないかも知れない。単なる自意識の葛藤でしかなかったのかもしれない。だが現実は続く。という風に描かれていた。

これは現実に向き合えと言わなきゃならない時代であったからこのような作りだったのでしょうけれど、自意識のみの自慰的成長という所だけを取り込んだ作り込みの浅い妙な作品を多く生み出してしまった。一番大騒ぎしたのが、一世を風靡した携帯小説の映画化「恋空」なんかが典型でしょう。昔学生時代のバイトを思い出した。もう随分我慢しているのにまだ五分しか経ってねえよってアインシュタインの相対性理論を実感する感覚です。誰しも経験あるでしょう。

いろいろあって最後、ガッキーは電車に乗っている。というかそこで回想して物語が進み(主人公自身のナレーションが入る。これも最近のクソ映画の典型で、このナレーション的な説明が多く入る作品はほぼクソってパターンが多い、日本映画では非常に多いです。説明しなくたって画面見てりゃわかるよってものにまで説明しちゃう。そこまで観る人がバカになっているのか、過剰に説明せずには心配なのか、表現を腐らせている原因だと思う)、最後にまたそこに戻るという手法がとられる。バックにはミスチルの「旅立ちの唄」が流れ、そうかいろいろあってガッキーも成長し、どこかに旅立って行くのだなと思う。大人になったんだなと。電車が止まり、ホームに降りると、ニコっと可愛い笑顔♡。しかしそこに待っているのはお父さんとお母さん。ただいま(バックには旅立ちの唄のサビ、たびだーちのうたーって箇所)。?え?どこにも旅立ってねえじゃん。これわざとやってねえか?わざとやってないとは考えられないような客をバカにした演出。

そしてこの映画は共通前提がもはや身体的な共感可能しか無くなっているという恐ろしさも描いている。セックスすれば妊娠、彼氏の元カノにちょっと突き飛ばされれば流産、家族の間のトラブルもあっという間に簡単に解決し、簡単に男と付き合い、冷たくなったら別れ、寂しいので別の男とくっつき、何で冷たくなったのか理由がわかると、好きな男は癌。日本のクソ映画得意の死にオチ。ちょっと待ってくれよ。共感可能性と言ったって、それは叩かれりゃ痛い、セックスは気持ちいい、夜は眠いと言ったような、身体的なというか動物的な反応という意味での共感可能でしかない。映画として、物語として全く1ミリも共感出来ないような話が、実際にあれだけブームになって、みんなが泣けたと騒いでいる。共通前提のネタとして観ているにしても、記号的消費によって、動物的な共感しか、もはや共有出来ない時代に突入したのかとガックリ来るような映画でした。そういう意味で凄いと思った。

そういうポストエヴァンゲリオン勘違い作品が乱発され、表現自体が恐ろしく劣化したように思えます。なので、もう一度エヴァでちゃんと成長と共感可能性を記号的消費に戯れる人達に示そうとしているのかなとも思える。どうせそういう人も見に来るのでしょうし、一般化してますから。まあ、「難しい」「意味わかんない」で終わっちゃうのかもしれませんけれど。そこは監督なりの足掻きなんでしょう。

今回のこのシリーズは自主制作自主配給という事で、完璧なインディーズ映画と同じ手法を使うという異例のチャレンジで、メジャーに殴り込みをかけ、しかもオタク魂全開であるにもかかわらずこれだけの動員と、DVD(前作の序)のセールスを記録しているという所には完璧に脱帽せざるを得ません。ブルーレイにいたっては、ダークナイトをぶっちぎりで抜いて、歴代ダントツトップの売り上げを上げたとか。しかも最初はエヴァのリメイクかと思ったので、少々なめてかかっていたというのもあって、今更エヴァかよと思っていましたし、結局それしかないって事を自分で言っちゃったらクリエーターとしては負けだろう、なんて事を思ってしまっていましたが、反省せざるを得ません。ごめんなさい。その事もあって序は映画館に行きませんでした。悔やんでます。

こだわるという事は一歩間違えれば、また同じかよとなってしまいがちですが、結局そのこだわりだけが、自分が自分である事の証しでもある。本当に突き抜けたこだわりというのは、もの凄い説得力があるもんだとつくづく思い知らされました。この心意気に心から拍手です。

それに怒濤の展開と書きましたが、本当に濃密で、その濃さに驚きを感じます。肩透かしというよりも、濃さでビックリさせられる。もの凄いテンションとドライブ感で、旧作には無い感覚です。たった二時間の中によくこれだけの濃密な展開を詰め込めたもんだとビックリするくらいです。自分としては大満足でした。全部で使徒との戦いが五回入っていて、その使徒の造形も凄かった、序の最後の使徒の造形に驚愕したなんてのは可愛いもんで、全部それを越えていた。なんじゃこりゃーって感じです。しかも微妙に旧作の造形の発展系もあったりして、そこにまたビックリする。おお!!と。

この作品単体でも十分見せ場もあるし、それなりに物語自体も独立して素晴らしいので、自分ごときが言うまでもない事ですが、おススメ出来る作品ではないかと思います。

直前にインディー系を装うクソ映画を観ていたので、特に思ってしまったのですが、最近のクソ映画が溢れかえる、特に邦画!!お前ら恥ずかしくねえのかよって感じです。無駄な金使ってクソ映画とるくらいなら、貧しい国に寄付でもしやがれ!!

次回からは視点を変えて、まだ続く!!