コードギアスもそう。アメリカのメタファーとなっている帝国によって植民地と化した日本で繰り広げられる物語で、植民地の人間である日本人は徹底的に管理され虐げられている。日本という名前も、日本人という名前も剥奪され、エリア11と呼ばれ、イレブンと日本人が呼ばれている世界。「このイレブンども」と蔑まれている時代。今の日本と同じじゃねえかって感じなんですが、まさに第一話は日本人がそれに抗う為にテロを起こし、その見せしめとして、日本人に対する帝国側の無差別虐殺から始まる。それを目の前で見てしまう主人公がある力を手に入れる所から物語が転がり始める。
どうしようもない理不尽や虐げられている絶望がある。大切な人を何があっても守らねばならない。それに抗う為には悪であっても成すべき必要があるという帝国の人間でありながら帝国のやり口に怒りを感じ暴力で抗おうとする主人公ルルーシュの立場と、外から暴力によって変えようとしても、それは憎しみの連鎖になる。であれば内部から変えるしかないという日本人でありながら裏切り者と罵られても、帝国側の内部で出世して変えて行こうとするスザクの立場。尊厳を捨て成すべき理想に向かって変えて行くのだという二つの理不尽に抗う立ち位置のジレンマを描いていた。やがてルルーシュは世界のどうにもならないわかり合えなさに対して、自らが圧倒的な暴力を行使する悪となり打倒される事によって、協力しあえる世界を作ろうとする。スザクはその志を引き継いでその世界を見守る為に自らの存在を捨てる。
両作品とも誰にもわかってもらえないかも知れないけれど、それでもやらねばならない事はあるだろうという、この国では全く期待出来ないある種のノーブル・オブリゲーションを描いていた。子供が見る事を前提にしたアニメーションでこう言ったヘビーな内容を描いている傍らで、大人達はお涙頂戴のクソ映画に汚染されている。それがそのまんま日本の問題を象徴しているように感じます。
それと同時にコードギアスは特にそうでしたけれど、一般人が見ると引きまくるようなヲタ的要素満載でした。今の子は気にしないのでしょうけれど、おじさんには気になるのです。セカイ系のパロディとして人気を得た「凉宮ハルヒの憂鬱」なんかの流れを汲む学園ドタバタものとしての側面も描かれていた。何でも無い日常的な学園での戯れ、凉宮ハルヒで言えば、部室でのダラダラした会話を延々と見せられる。目的があるわけでもなく、物語があるわけでもない。ただの日常の戯れが描かれる。何でこんなのが人気あんだろうと不思議に思っていましたが、これはつまり、今の日常の風景にそれが無いという事を意味してもいる。何となく、まったり承認みたいな空間や機会が消えている。子供達が携帯やネットといったテクノロジーの発達によって、そして親ももちろん、その事や、メディアなどの不安に対する煽りによって、より疑心暗鬼を抱きやすくなっているというのとリンクしているような気がする。だからそんなものまでがドラマとなり得てしまう。
これは旧作のエヴァンゲリオンも同じような構造を持っていましたし、古くはデビルマンやウルトラマンなんかでも、日常と非日常の対比が描かれていた。しかし昔は非日常を描く為の、つまり平和な世界を守る為の動機付けの調達装置としてその対比が描かれていたのに対して、日常自体を記号的に戯れの対象とする消費の仕方に変化しているような気がする。生きるか死ぬかの戦いに身を投じる姿を一方で描きながら、何でも無い日常のあれこれを描く、どちらもフラットに並んだ承認を得る為の戯れの対象として描かれている。普通に考えればなんじゃこりゃって話です。さすがにそこは全く理解不能です。萌えを感じることはない。ただ描こうとしていたテーマに関しては、日本のアニメーションでありながら、ダークナイトより一足早く描いていた。
最近のアニメーションで言えば「東のエデン」なんかは特に、中々面白いテーマだった。これは多分今の所Youtubeで観れますし、比較的大人も観れる作りになっていると思いますので、おススメ出来ます。大人としては少々邪魔で退屈な繰り返されるロボットの戦闘描写が出て来ないというのが、テーマだけを追ってみれますので自分的にも観やすかった。
今の二進も三進も行かない不透明な日本社会のほんの数年後の未来の話を描いていた。出だしこそ、とある映画のパロディか?と思えるような出だしですが、11発目のミサイルが撃ち込まれ、初めて人死にが出た日本を背景にして(11発も撃ち込まれているにもかかわらず、それまで誰も死ななかったという微妙な平和ボケ感も、その事で責任のなすり合いをしている権力やマスコミのバカっぷりも、11発目で人死にが出るまで、国民も何となく忘れちゃっている姿とか、もっと滅茶苦茶になっちゃえばいいのにと期待している人が結構いたりとか、なんかリアルな話だなと思いました。村上龍の「半島を出よ」を思い出した)、ノブレス・オブリージュとはなんであるのかを描いている。
日本のどうにもならない現状をそのまま描いて、それに対する立ち方。この国の諦めの空気や梯子はずしに対する構えを描いている。それなりに笑える所を盛り込みながら(特にクライマックスのゾンビのパロディシーンは笑えました面白過ぎる)、まさに今の時代の問題を真面目に描いてもいる。責務を背負っている人間のあり方と絶望と希望を。
起こる事件も現実の延長線上のような所があってニート二万人が失踪とか(それに対して、ひきこもりが家から出たんだからよかったじゃねえかってのも笑っちゃった)、後期高齢者で切り捨てられた高齢者の医療を立て直すとか、そのやり方も今の現実の日本で可能性のある方法としてはそれしかないだろうという絶望的な手法、要するにロビイングと賄賂なのですが、その立て直そうとしている医師に対して、マスコミが不正なカネの流れが!!とか言って叩いていたり、両親を失い、非正規雇用で搾取され、資格をとっても時給10円しか上がらず、世間からは自己責任だと言われる。その事に怒りを覚え、ミサイルテロを起こそうとする若者もいたり。
これは若者側からの世界の見え方を描いている所があって、多分共感する若者も多いのではなかろうかと思う。完璧にニート擁護の立場を主人公に言わせている。要するに逃げ切りたい老人の為に若者が犠牲になる必要はない。この国の若者全てがニート化すれば一発であらゆる問題のかたがつく。逃げ切る事しか頭にない老人どもは既得権を手放すしか無くなる。持っている意味が無くなる。そんな奴らの為に組織に組み込まれて生きるのなんて意味がない。ニートという存在は、この国の構造に不満を抱え疑問を抱え、ニートと言うテロ行為に及んで戦っているのだと。若者に自己責任と言うなら老人どもよ、この国をこういう風にしたオトシ前をつけろ、搾取するな、先ず自分達が自己責任を取りやがれ、せめて邪魔するなよと。
そういう未来に今のツケを残す事に何の責任も感じていない逃げ切り野郎どもの問題を一方で切りながら、だけどミサイルテロで関係ない人まで巻き込むのはマズいだろと。抗う。
システムに組み込まれて生きない奴は負け犬だ、システム批判をしているような奴は将来愚痴るような奴になるのだという若者もいるし、仕方なくシステムに組み込まれて行くしかないと何となく就職という若者もいる。ニート、官僚、警察官、エリート医師、起業を目指す学生と普通の学生、犯罪者、テロリスト、政治家、戦後政治の裏のフィクサー、様々な登場人物が絡み合って、物語が進んで行く。
物語の中では目的を与えると集合知として恐るべきポテンシャルを発揮する2万人のニート達が実に面白かった。実際本当にバカでなんにも考えてないような奴であればニートなんかにならないでしょうし、黙ってシステムに組み込まれるでしょう。もちろん賢くて、システムを利用して行く人もいるのは間違いありませんが、大多数は凡庸な人間であるわけで、それはいつの世代もそうでしょう。昔のようにシステムに組み込まれても、そこにまあ何とか生きて行けて希望も持てそうには見えなくなっているのは確実で、システムが機能していない、壊れている。みんなが同じ船に乗ってそれなりに幸福な未来像が描けるような時代では無くなっている。いろいろ考えているからニートになるしかないと諦めている部分もあると思う。だから頭が悪いわけでは決してないと思う。
見方によっては中途半端にシステムに組み込まれてしまっている人がいるかぎり、逃げ切れる連中は自分達の取り分を分け与えるよりも、もっとクレクレ騒いで逃げ切った方が合理的判断になっちゃう。賢い若者はどんどん海外に流出し、そうでない若者は自分が生きて行ける範囲でシステムに組み込まれないように生きていれば、システムに君臨している連中だって搾取する相手がいないわけだからどうにもならない。それくらい極端な事をやらないと、今の日本では単なる権益分捕り合戦を止揚して、システムを立て直すという動機付けも生まれないかもしれない。
今の社会を見て普通に考えればどう考えても希望は見えません。よっぽど能力があるとかやる気があるとか、コネがあるとか、スキルがあるとか、図太い精神を持っているとかでもなければ、いったんはじかれたら終わりですし、多分向こう30年くらいは回復の見込みはない。ニートを肯定するつもりはありませんけれど、その事をわかっていながら、逃げ切り野郎どもの為に利用されるのを受け入れる方が本当はどうかしていると思う。そいつらこそ先ず自己責任を取るべきであって、ようはニートの為に言っているというよりも、自分達が逃げ切る為、自己責任を取らず、責任を後の世代に押し付ける為にようは若い世代に頼っている。ニートに頼っている。座席を明け渡すつもりもないくせに。少なくとも若い世代から見ればそういう風に見られてもしょうがないと思う。
若者達に自己責任や自立しろと老人どもはほざいていますが、先ずお前らが自立してねえだろって話で、国家という柱にすがって無知無関心を押し通し、若年層から搾取し、それどころかまだ生まれていない未来の子供の将来まで絶望に塗りつぶしたした責務をどう考えているのさ?という問題の方が若者の問題よりも先にあるはず。だからそういう若者が出て来ている。それは馬鹿な老人どもが行なって来たツケであり帰結な訳です。子供のせいではあり得ない。子供は大人が育てるんだから当然です。
若者からすれば年金問題にしろ、後期高齢者問題にしろ、どうでもいいと思っているでしょう。システムを信用してお任せして来たツケであり、自業自得な訳ですから。まず俺達の未来をどうしてくれるんだと思っているはずです。
そもそも馬鹿な老人どもも殆どが就職したり社会に出る時に自己責任で自立したから今があるわけじゃないはずで、何らかのロールを社会や国家から与えられたから、バカでもコケでも生きていられたわけです。散々自分の頭で考えもせずシステムに従属して来た輩が、若者に自己責任だなんてどの口で言うんだって話です。若者に希望やロールを与える事も出来ないくせに、それどころか邪魔して搾取しているくせに、何を偉そうに言ってんだ?と。
まともな感受性を持っていればバカらしい話だと思うのは当然でしょう。そういう連中がニートに対して偉そうに何かを言うなど、どう考えてもおかしな話ですし、そんなメッセージが届くはずもない。まして政治家、特に親のスネをかじったボンボン議員なんかがニート批判するなんて本当は言語道断な話です。だけど大人や老人でそんな事言う奴なんて誰もいない。ニートや若者批判ばかり、少なくとも社会的影響力のある人間は殆どその事を言わない。何とかして破綻したシステムに隷属させる事しか考えていない。システムが壊れているんだから誰もそんなゲームに乗りたくないに決まっている。まず乗っかれるシステムを身を切ってでも再構築するのが先で、若者に頼るなって話です。
そういう現状を目の前にすればニート達だって、普通の若者だって目先の記号的消費にしか逃げ場も無くなる。目的もないのだから、当然不毛になるに決まっている。だからその事をキチッと大人がフェアな目線で言うべき事なんだろうと思う。
若者に問題があるのは確かでしょうし自分もそう思いますけど、その社会を作ったのは誰なんだよって話の方が先であり、逆は絶対にあり得ない。バカな老人に期待するだけ無駄なので、若者達よ勝手に好きなように老人どもを切り捨てて搾取しろ、と言い出したら完璧に世代間対立になり、確実に老人の方が先に死ぬのだから、老人に勝ち目はあり得ない。そいつらが死ぬまで若者達が自分達の事だけ考えて生きるようになったらこの国は終わりでしょう。それを無理矢理制度を変えて若者を従わせるようになれば戦前と同じです。もう実際やってますけど。そうならない為にはまず老人どもがある程度自分達の問題を先に考えなければ絶対に合意調達は出来ない。
普段は現実の世界でも2ちゃん的掲示板なんかも不毛な書き込みばかりでその事に対する批判も多いし、実際に残念な感じですが、無目的だから掲示板なんかの書き込みも不毛な感じななっちゃうけれど、それぞれ何かの目的があるとか、目的を目指す動機付け、もしくはそこに希望を感じる事が出来るのなら、多分それは集合知として機能する事もあり得ると思う。いまだにネット選挙を封印し、街宣車で街中で喚き散らして選挙活動をし、メディアの既得権護持の為にいつまでもネットにイニシアティブを与えないから、無目的になり残念な感じになってしまうような気がする。そういう事をこの作品はキチンとフォーカスを当てて描こうとしている。
こういう作品が出て来るという事を老人や大人達は真剣に考える必要があると思います。世代間の断絶がこれ以上広がったらこの国はもうどうにもなりません。これは馬鹿な老人どもの為に言っている事です。自分は年寄りが痛い目にあうような社会はロクなもんじゃないと思う。そうならない為には先ずどこに一番の原因があるのかを馬鹿な老人どもが自覚しないと、その先もない。
馬鹿な老人が集まって、最近の若者はおかしくなっているとか、現実と虚構の区別が出来ないとか言っている場合じゃねえぞと。その若者を生み出す社会を作ったのはお前らなんだよって事を自覚しろっつう話です。それがあって初めて世代間の連帯も可能になり得る。今のままでは分断統治に成り果ててしまっている。誰が得するのか考えろって話です。それを若者から手を差し伸べよというのは不可能です。彼らは何も持っていないのだし、自分達の将来が怪しいのに老人の為に犠牲になれというのも話が違う。老人が今の帰結に陥っているのは全部自分達のせいかもしれませんが、若者が今の帰結に陥っているのは彼らだけのせいじゃ無い。彼らが老人になった時に引き受けるべき事で、今の所は若者より前に責任がある連中がいる。もうその事を若者達も気付いている
作品の中では最終的には様々な立場の違いはあるけれど、日本はもうダメだという事を言っている部分は一致している。どうにもならないと。人口規模を最適化し、怠け者から既得権を引きはがして再配分し本当の意味での自己責任社会にするには、戦後の出発点に戻るしかないとテロを目論むもの、このままじゃダメだという事はわかっているけどどうにもならないと諦めているもの、若者の労働力や能力をそれなりに生かせないような邪魔ばかりしている国であり続けるかぎり手のほどこしようがないと思うもの。まさに身も蓋もない今の現実の絶望を描いているのですけれど、その中で希望をちゃんと描いてもいる。作品としては短い作品なので、終わり方も強引で無理矢理な感じでしたし、この難しい問題を描き尽くしているとは言えませんが、非常に面白い切り口です。
キリが無いと思いますので、わかりやすい所で今放送されているもので行きますと、リメイクされている「鋼の錬金術師」なんかも、まだ途中ですが理不尽に立ち向かう姿が描かれている。これはリメイク版よりも、旧作の方が個人的には面白かったのではないかと思うのですが(リメイク版はつまらん。原作を読んだ事無いのでわかりませんし、原作ファンからは前回の批判が多いらしいのですが、完璧に前作の方が面白かった。リメイクは本当に子供向けって感じです。大人の観賞には堪えない。せっかくいい題材を取り扱っているのにもったいない、まあ子供向けだからしょうがないですけど)、何かを得るにはそれと等価の代償を必要とする。という「等価交換の原則」という物語中の錬金術のフィクションである原則を上手く使って、取り返しのつかなさを描いている。
愛する母親を失ってしまった幼い兄弟が、母親の存在を取り戻そうとして錬金術の禁忌である人体錬成、母親を復活させようと試みるも、それと等価なものなどあるわけも無く、母親の錬成は失敗。あげく兄は片足を、弟は肉体全てを失い、弟の魂だけでもこの世に残そうと、兄は更に片手を失う。片手片足を失った兄と、肉体全てを失い魂だけがカラッポの鎧に定着させられた弟の、自分達が失ってしまった肉体を取り戻す為の旅が描かれる。
決して取り戻す事など出来ない、等価なものなど何も無い己の肉体を取り戻すという不可能な理不尽に対しての葛藤が描かれる。錬金術というと何でも出来る話なのかと思いきや、なんにも出来ない役に立たない無力さを描いている。前回のラストでは錬金術を使えない決して戻れない世界に行きついてしまい、それでも前を向いて生きて行く姿が描かれる。その理不尽に立ち向かう兄弟の絆が描かれている。これは臓器移植法のお涙報道に毒されて騒いでいるたわけ共に心から見てみろと言いたい話です。何かを得るにはそれなりの代価が必要であるという事に気付けよと。それをキチンと描いている。取り返しのつかなさを。
これなんかはまるっきり子供向けの作品であるにもかかわらず、大人が観ても多分心の琴線に触れる理不尽に対する抗いが描かれている。戦争の理不尽、組織の理不尽、国家の理不尽、この世の摂理の理不尽、それにどう向き合うのかという事が。子供がこれを観ているのなら、非常に心強いかぎりです。お涙頂戴のクソドラマやクソ映画を観ているバカ大人よりはよっぽど有望です。
さて普段は取り上げる事がないであろう作品についてつらつら書いて来ましたが、もう少し理不尽と言っても軽いレベルでの立ち方を描いている作品ももちろん増えていて、理不尽が軽くても描き込みがしっかりしていれば、それは共感可能な素晴らしい作品になりえます。題材がエヴァの延長戦だったので、ちょっとそれっぽいものを中心にあれこれ書いてみました。
それと、邦画の文句ばっかり言っているので、一応フォローをしておきますが、邦画が絶望だというばかりでは本当はありません。例えば最近DVDで観た中で印象に残ったので、「休暇」という映画があります。これは非常に優れた作品で非常に面白かった。これはイーストウッド監督のチェンジリングや、ポールハギスの「告発のとき」(これもイーストウッドが協力して映画化にこぎつけたそうです。イラク戦争翼賛の真っ只中の時に、イラク戦争を真っ正面から批判する映画を共和党支持者である人間でありながら作れと支援するのだから、アメリカの真性右翼というのは凄い。イーストウッド的な右翼というのが日本ではいませんね)なんかとセットで観ると、視座を輻輳させる事が出来ると思います。
有名な所でいえば昨年の作品で賞をいっぱいとった、「ぐるりのこと」や「歩いても、歩いても」なんかはそれなりに脚光を浴びながら、評価もちゃんとされたし、邦画としては満点に近い作りだった。「おくりびと」なんかよりは全然素晴らしい映画だった。これもある種の仕方なさに対する構えが描かれていた。そこでどのように尊厳や承認を維持するのか?
それ以外にも傑作とまでは行かないにせよ、かなり優れた作品が増えているようにも感じる。旧作のエヴァみたいな自分探し系の作品であっても、理不尽(微妙に度合いの違いはありますが)に対する立ち方を描いているものも増えている。今日は邦画ネタまで書き出すとキリが無いので止めておきますが、凄い映画も結構ある。むしろ増えているかもしれない。ここ数年の邦画は特に当たりが多くなっているような気がします。
ただクソ作品もそれに比例してもっと増えている。もちろん洋画だってアニメだってクソ作品はあるでしょう。ただ邦画の場合、評価のされ方が非常に歯痒い所がいっぱいある。クソ映画がクソ映画と評価されていれば何も文句はないのですが、クソ映画が大人気だったりするから具合が悪くなって来る。素晴らしい映画がキチンと評価されて、作った人達が、評価に値するような報われ方をしてほしいと思ってしまうのです。逆に真面目に作っていない誠意のないクソ映画の監督はボロクソにけなされて仕事も無くなるくらいで丁度いい。映画監督ですなどと二度と恥ずかしくて言えないくらいに。クソ映画のクソ監督がいっぱしの表現者を気取っていたりするからムカついて来る。みんなで持ち上げてしまう。その流れがあまりにも怒濤の流れになっているので、相対的にいい作品が増えていても、クソ作品が席巻しているように感じてしまう所もあるのでしょう。
実際自分が感動したと書いた「レスラー」の監督のダーレン・アラノフスキーなんかは、「レスラー」で失敗したら多分終わっていたと思う。この作品はミッキー・ロークの復活の方に脚光が当りますが、それと同時に監督の復活をかけた賭けでもあった。前の作品がクソ映画だったので、一般的な評価としては映画監督としてはダメ監督の烙印が押されていた。終わったと誰しもが思っていた。だからそれがモチベーションにもなるのでしょう。クソ作品をクソとけなす事は素晴らしい映像作品を生むためにも必要な事なんだろうと思う。
今の日本の状況を考えますと、教育はほぼ期待出来ないし、大手マスコミやメジャーな映画の啓蒙も期待出来ない。統治権力は逃げ切る事しか考えておらず、僅かに一部の邦画とアニメーションにはその可能性を見る事が出来るのですが、何かを学ぶ機会がことごとく減ってしまっているような気がします。だから素晴らしい映像作品があるかないかは重要な違いになると思います。
しかしその僅かに残った希望まで、この国の逃げ切り野郎どもは食い尽くそうとしている。日本のコンテンツ産業で更にグッタリ来るような現実が進行している。最後に現実に戻ってその事を書いてしめにするとします。
その事は次回で。
どうしようもない理不尽や虐げられている絶望がある。大切な人を何があっても守らねばならない。それに抗う為には悪であっても成すべき必要があるという帝国の人間でありながら帝国のやり口に怒りを感じ暴力で抗おうとする主人公ルルーシュの立場と、外から暴力によって変えようとしても、それは憎しみの連鎖になる。であれば内部から変えるしかないという日本人でありながら裏切り者と罵られても、帝国側の内部で出世して変えて行こうとするスザクの立場。尊厳を捨て成すべき理想に向かって変えて行くのだという二つの理不尽に抗う立ち位置のジレンマを描いていた。やがてルルーシュは世界のどうにもならないわかり合えなさに対して、自らが圧倒的な暴力を行使する悪となり打倒される事によって、協力しあえる世界を作ろうとする。スザクはその志を引き継いでその世界を見守る為に自らの存在を捨てる。
両作品とも誰にもわかってもらえないかも知れないけれど、それでもやらねばならない事はあるだろうという、この国では全く期待出来ないある種のノーブル・オブリゲーションを描いていた。子供が見る事を前提にしたアニメーションでこう言ったヘビーな内容を描いている傍らで、大人達はお涙頂戴のクソ映画に汚染されている。それがそのまんま日本の問題を象徴しているように感じます。
それと同時にコードギアスは特にそうでしたけれど、一般人が見ると引きまくるようなヲタ的要素満載でした。今の子は気にしないのでしょうけれど、おじさんには気になるのです。セカイ系のパロディとして人気を得た「凉宮ハルヒの憂鬱」なんかの流れを汲む学園ドタバタものとしての側面も描かれていた。何でも無い日常的な学園での戯れ、凉宮ハルヒで言えば、部室でのダラダラした会話を延々と見せられる。目的があるわけでもなく、物語があるわけでもない。ただの日常の戯れが描かれる。何でこんなのが人気あんだろうと不思議に思っていましたが、これはつまり、今の日常の風景にそれが無いという事を意味してもいる。何となく、まったり承認みたいな空間や機会が消えている。子供達が携帯やネットといったテクノロジーの発達によって、そして親ももちろん、その事や、メディアなどの不安に対する煽りによって、より疑心暗鬼を抱きやすくなっているというのとリンクしているような気がする。だからそんなものまでがドラマとなり得てしまう。
これは旧作のエヴァンゲリオンも同じような構造を持っていましたし、古くはデビルマンやウルトラマンなんかでも、日常と非日常の対比が描かれていた。しかし昔は非日常を描く為の、つまり平和な世界を守る為の動機付けの調達装置としてその対比が描かれていたのに対して、日常自体を記号的に戯れの対象とする消費の仕方に変化しているような気がする。生きるか死ぬかの戦いに身を投じる姿を一方で描きながら、何でも無い日常のあれこれを描く、どちらもフラットに並んだ承認を得る為の戯れの対象として描かれている。普通に考えればなんじゃこりゃって話です。さすがにそこは全く理解不能です。萌えを感じることはない。ただ描こうとしていたテーマに関しては、日本のアニメーションでありながら、ダークナイトより一足早く描いていた。
最近のアニメーションで言えば「東のエデン」なんかは特に、中々面白いテーマだった。これは多分今の所Youtubeで観れますし、比較的大人も観れる作りになっていると思いますので、おススメ出来ます。大人としては少々邪魔で退屈な繰り返されるロボットの戦闘描写が出て来ないというのが、テーマだけを追ってみれますので自分的にも観やすかった。
今の二進も三進も行かない不透明な日本社会のほんの数年後の未来の話を描いていた。出だしこそ、とある映画のパロディか?と思えるような出だしですが、11発目のミサイルが撃ち込まれ、初めて人死にが出た日本を背景にして(11発も撃ち込まれているにもかかわらず、それまで誰も死ななかったという微妙な平和ボケ感も、その事で責任のなすり合いをしている権力やマスコミのバカっぷりも、11発目で人死にが出るまで、国民も何となく忘れちゃっている姿とか、もっと滅茶苦茶になっちゃえばいいのにと期待している人が結構いたりとか、なんかリアルな話だなと思いました。村上龍の「半島を出よ」を思い出した)、ノブレス・オブリージュとはなんであるのかを描いている。
日本のどうにもならない現状をそのまま描いて、それに対する立ち方。この国の諦めの空気や梯子はずしに対する構えを描いている。それなりに笑える所を盛り込みながら(特にクライマックスのゾンビのパロディシーンは笑えました面白過ぎる)、まさに今の時代の問題を真面目に描いてもいる。責務を背負っている人間のあり方と絶望と希望を。
起こる事件も現実の延長線上のような所があってニート二万人が失踪とか(それに対して、ひきこもりが家から出たんだからよかったじゃねえかってのも笑っちゃった)、後期高齢者で切り捨てられた高齢者の医療を立て直すとか、そのやり方も今の現実の日本で可能性のある方法としてはそれしかないだろうという絶望的な手法、要するにロビイングと賄賂なのですが、その立て直そうとしている医師に対して、マスコミが不正なカネの流れが!!とか言って叩いていたり、両親を失い、非正規雇用で搾取され、資格をとっても時給10円しか上がらず、世間からは自己責任だと言われる。その事に怒りを覚え、ミサイルテロを起こそうとする若者もいたり。
これは若者側からの世界の見え方を描いている所があって、多分共感する若者も多いのではなかろうかと思う。完璧にニート擁護の立場を主人公に言わせている。要するに逃げ切りたい老人の為に若者が犠牲になる必要はない。この国の若者全てがニート化すれば一発であらゆる問題のかたがつく。逃げ切る事しか頭にない老人どもは既得権を手放すしか無くなる。持っている意味が無くなる。そんな奴らの為に組織に組み込まれて生きるのなんて意味がない。ニートという存在は、この国の構造に不満を抱え疑問を抱え、ニートと言うテロ行為に及んで戦っているのだと。若者に自己責任と言うなら老人どもよ、この国をこういう風にしたオトシ前をつけろ、搾取するな、先ず自分達が自己責任を取りやがれ、せめて邪魔するなよと。
そういう未来に今のツケを残す事に何の責任も感じていない逃げ切り野郎どもの問題を一方で切りながら、だけどミサイルテロで関係ない人まで巻き込むのはマズいだろと。抗う。
システムに組み込まれて生きない奴は負け犬だ、システム批判をしているような奴は将来愚痴るような奴になるのだという若者もいるし、仕方なくシステムに組み込まれて行くしかないと何となく就職という若者もいる。ニート、官僚、警察官、エリート医師、起業を目指す学生と普通の学生、犯罪者、テロリスト、政治家、戦後政治の裏のフィクサー、様々な登場人物が絡み合って、物語が進んで行く。
物語の中では目的を与えると集合知として恐るべきポテンシャルを発揮する2万人のニート達が実に面白かった。実際本当にバカでなんにも考えてないような奴であればニートなんかにならないでしょうし、黙ってシステムに組み込まれるでしょう。もちろん賢くて、システムを利用して行く人もいるのは間違いありませんが、大多数は凡庸な人間であるわけで、それはいつの世代もそうでしょう。昔のようにシステムに組み込まれても、そこにまあ何とか生きて行けて希望も持てそうには見えなくなっているのは確実で、システムが機能していない、壊れている。みんなが同じ船に乗ってそれなりに幸福な未来像が描けるような時代では無くなっている。いろいろ考えているからニートになるしかないと諦めている部分もあると思う。だから頭が悪いわけでは決してないと思う。
見方によっては中途半端にシステムに組み込まれてしまっている人がいるかぎり、逃げ切れる連中は自分達の取り分を分け与えるよりも、もっとクレクレ騒いで逃げ切った方が合理的判断になっちゃう。賢い若者はどんどん海外に流出し、そうでない若者は自分が生きて行ける範囲でシステムに組み込まれないように生きていれば、システムに君臨している連中だって搾取する相手がいないわけだからどうにもならない。それくらい極端な事をやらないと、今の日本では単なる権益分捕り合戦を止揚して、システムを立て直すという動機付けも生まれないかもしれない。
今の社会を見て普通に考えればどう考えても希望は見えません。よっぽど能力があるとかやる気があるとか、コネがあるとか、スキルがあるとか、図太い精神を持っているとかでもなければ、いったんはじかれたら終わりですし、多分向こう30年くらいは回復の見込みはない。ニートを肯定するつもりはありませんけれど、その事をわかっていながら、逃げ切り野郎どもの為に利用されるのを受け入れる方が本当はどうかしていると思う。そいつらこそ先ず自己責任を取るべきであって、ようはニートの為に言っているというよりも、自分達が逃げ切る為、自己責任を取らず、責任を後の世代に押し付ける為にようは若い世代に頼っている。ニートに頼っている。座席を明け渡すつもりもないくせに。少なくとも若い世代から見ればそういう風に見られてもしょうがないと思う。
若者達に自己責任や自立しろと老人どもはほざいていますが、先ずお前らが自立してねえだろって話で、国家という柱にすがって無知無関心を押し通し、若年層から搾取し、それどころかまだ生まれていない未来の子供の将来まで絶望に塗りつぶしたした責務をどう考えているのさ?という問題の方が若者の問題よりも先にあるはず。だからそういう若者が出て来ている。それは馬鹿な老人どもが行なって来たツケであり帰結な訳です。子供のせいではあり得ない。子供は大人が育てるんだから当然です。
若者からすれば年金問題にしろ、後期高齢者問題にしろ、どうでもいいと思っているでしょう。システムを信用してお任せして来たツケであり、自業自得な訳ですから。まず俺達の未来をどうしてくれるんだと思っているはずです。
そもそも馬鹿な老人どもも殆どが就職したり社会に出る時に自己責任で自立したから今があるわけじゃないはずで、何らかのロールを社会や国家から与えられたから、バカでもコケでも生きていられたわけです。散々自分の頭で考えもせずシステムに従属して来た輩が、若者に自己責任だなんてどの口で言うんだって話です。若者に希望やロールを与える事も出来ないくせに、それどころか邪魔して搾取しているくせに、何を偉そうに言ってんだ?と。
まともな感受性を持っていればバカらしい話だと思うのは当然でしょう。そういう連中がニートに対して偉そうに何かを言うなど、どう考えてもおかしな話ですし、そんなメッセージが届くはずもない。まして政治家、特に親のスネをかじったボンボン議員なんかがニート批判するなんて本当は言語道断な話です。だけど大人や老人でそんな事言う奴なんて誰もいない。ニートや若者批判ばかり、少なくとも社会的影響力のある人間は殆どその事を言わない。何とかして破綻したシステムに隷属させる事しか考えていない。システムが壊れているんだから誰もそんなゲームに乗りたくないに決まっている。まず乗っかれるシステムを身を切ってでも再構築するのが先で、若者に頼るなって話です。
そういう現状を目の前にすればニート達だって、普通の若者だって目先の記号的消費にしか逃げ場も無くなる。目的もないのだから、当然不毛になるに決まっている。だからその事をキチッと大人がフェアな目線で言うべき事なんだろうと思う。
若者に問題があるのは確かでしょうし自分もそう思いますけど、その社会を作ったのは誰なんだよって話の方が先であり、逆は絶対にあり得ない。バカな老人に期待するだけ無駄なので、若者達よ勝手に好きなように老人どもを切り捨てて搾取しろ、と言い出したら完璧に世代間対立になり、確実に老人の方が先に死ぬのだから、老人に勝ち目はあり得ない。そいつらが死ぬまで若者達が自分達の事だけ考えて生きるようになったらこの国は終わりでしょう。それを無理矢理制度を変えて若者を従わせるようになれば戦前と同じです。もう実際やってますけど。そうならない為にはまず老人どもがある程度自分達の問題を先に考えなければ絶対に合意調達は出来ない。
普段は現実の世界でも2ちゃん的掲示板なんかも不毛な書き込みばかりでその事に対する批判も多いし、実際に残念な感じですが、無目的だから掲示板なんかの書き込みも不毛な感じななっちゃうけれど、それぞれ何かの目的があるとか、目的を目指す動機付け、もしくはそこに希望を感じる事が出来るのなら、多分それは集合知として機能する事もあり得ると思う。いまだにネット選挙を封印し、街宣車で街中で喚き散らして選挙活動をし、メディアの既得権護持の為にいつまでもネットにイニシアティブを与えないから、無目的になり残念な感じになってしまうような気がする。そういう事をこの作品はキチンとフォーカスを当てて描こうとしている。
こういう作品が出て来るという事を老人や大人達は真剣に考える必要があると思います。世代間の断絶がこれ以上広がったらこの国はもうどうにもなりません。これは馬鹿な老人どもの為に言っている事です。自分は年寄りが痛い目にあうような社会はロクなもんじゃないと思う。そうならない為には先ずどこに一番の原因があるのかを馬鹿な老人どもが自覚しないと、その先もない。
馬鹿な老人が集まって、最近の若者はおかしくなっているとか、現実と虚構の区別が出来ないとか言っている場合じゃねえぞと。その若者を生み出す社会を作ったのはお前らなんだよって事を自覚しろっつう話です。それがあって初めて世代間の連帯も可能になり得る。今のままでは分断統治に成り果ててしまっている。誰が得するのか考えろって話です。それを若者から手を差し伸べよというのは不可能です。彼らは何も持っていないのだし、自分達の将来が怪しいのに老人の為に犠牲になれというのも話が違う。老人が今の帰結に陥っているのは全部自分達のせいかもしれませんが、若者が今の帰結に陥っているのは彼らだけのせいじゃ無い。彼らが老人になった時に引き受けるべき事で、今の所は若者より前に責任がある連中がいる。もうその事を若者達も気付いている
作品の中では最終的には様々な立場の違いはあるけれど、日本はもうダメだという事を言っている部分は一致している。どうにもならないと。人口規模を最適化し、怠け者から既得権を引きはがして再配分し本当の意味での自己責任社会にするには、戦後の出発点に戻るしかないとテロを目論むもの、このままじゃダメだという事はわかっているけどどうにもならないと諦めているもの、若者の労働力や能力をそれなりに生かせないような邪魔ばかりしている国であり続けるかぎり手のほどこしようがないと思うもの。まさに身も蓋もない今の現実の絶望を描いているのですけれど、その中で希望をちゃんと描いてもいる。作品としては短い作品なので、終わり方も強引で無理矢理な感じでしたし、この難しい問題を描き尽くしているとは言えませんが、非常に面白い切り口です。
キリが無いと思いますので、わかりやすい所で今放送されているもので行きますと、リメイクされている「鋼の錬金術師」なんかも、まだ途中ですが理不尽に立ち向かう姿が描かれている。これはリメイク版よりも、旧作の方が個人的には面白かったのではないかと思うのですが(リメイク版はつまらん。原作を読んだ事無いのでわかりませんし、原作ファンからは前回の批判が多いらしいのですが、完璧に前作の方が面白かった。リメイクは本当に子供向けって感じです。大人の観賞には堪えない。せっかくいい題材を取り扱っているのにもったいない、まあ子供向けだからしょうがないですけど)、何かを得るにはそれと等価の代償を必要とする。という「等価交換の原則」という物語中の錬金術のフィクションである原則を上手く使って、取り返しのつかなさを描いている。
愛する母親を失ってしまった幼い兄弟が、母親の存在を取り戻そうとして錬金術の禁忌である人体錬成、母親を復活させようと試みるも、それと等価なものなどあるわけも無く、母親の錬成は失敗。あげく兄は片足を、弟は肉体全てを失い、弟の魂だけでもこの世に残そうと、兄は更に片手を失う。片手片足を失った兄と、肉体全てを失い魂だけがカラッポの鎧に定着させられた弟の、自分達が失ってしまった肉体を取り戻す為の旅が描かれる。
決して取り戻す事など出来ない、等価なものなど何も無い己の肉体を取り戻すという不可能な理不尽に対しての葛藤が描かれる。錬金術というと何でも出来る話なのかと思いきや、なんにも出来ない役に立たない無力さを描いている。前回のラストでは錬金術を使えない決して戻れない世界に行きついてしまい、それでも前を向いて生きて行く姿が描かれる。その理不尽に立ち向かう兄弟の絆が描かれている。これは臓器移植法のお涙報道に毒されて騒いでいるたわけ共に心から見てみろと言いたい話です。何かを得るにはそれなりの代価が必要であるという事に気付けよと。それをキチンと描いている。取り返しのつかなさを。
これなんかはまるっきり子供向けの作品であるにもかかわらず、大人が観ても多分心の琴線に触れる理不尽に対する抗いが描かれている。戦争の理不尽、組織の理不尽、国家の理不尽、この世の摂理の理不尽、それにどう向き合うのかという事が。子供がこれを観ているのなら、非常に心強いかぎりです。お涙頂戴のクソドラマやクソ映画を観ているバカ大人よりはよっぽど有望です。
さて普段は取り上げる事がないであろう作品についてつらつら書いて来ましたが、もう少し理不尽と言っても軽いレベルでの立ち方を描いている作品ももちろん増えていて、理不尽が軽くても描き込みがしっかりしていれば、それは共感可能な素晴らしい作品になりえます。題材がエヴァの延長戦だったので、ちょっとそれっぽいものを中心にあれこれ書いてみました。
それと、邦画の文句ばっかり言っているので、一応フォローをしておきますが、邦画が絶望だというばかりでは本当はありません。例えば最近DVDで観た中で印象に残ったので、「休暇」という映画があります。これは非常に優れた作品で非常に面白かった。これはイーストウッド監督のチェンジリングや、ポールハギスの「告発のとき」(これもイーストウッドが協力して映画化にこぎつけたそうです。イラク戦争翼賛の真っ只中の時に、イラク戦争を真っ正面から批判する映画を共和党支持者である人間でありながら作れと支援するのだから、アメリカの真性右翼というのは凄い。イーストウッド的な右翼というのが日本ではいませんね)なんかとセットで観ると、視座を輻輳させる事が出来ると思います。
有名な所でいえば昨年の作品で賞をいっぱいとった、「ぐるりのこと」や「歩いても、歩いても」なんかはそれなりに脚光を浴びながら、評価もちゃんとされたし、邦画としては満点に近い作りだった。「おくりびと」なんかよりは全然素晴らしい映画だった。これもある種の仕方なさに対する構えが描かれていた。そこでどのように尊厳や承認を維持するのか?
それ以外にも傑作とまでは行かないにせよ、かなり優れた作品が増えているようにも感じる。旧作のエヴァみたいな自分探し系の作品であっても、理不尽(微妙に度合いの違いはありますが)に対する立ち方を描いているものも増えている。今日は邦画ネタまで書き出すとキリが無いので止めておきますが、凄い映画も結構ある。むしろ増えているかもしれない。ここ数年の邦画は特に当たりが多くなっているような気がします。
ただクソ作品もそれに比例してもっと増えている。もちろん洋画だってアニメだってクソ作品はあるでしょう。ただ邦画の場合、評価のされ方が非常に歯痒い所がいっぱいある。クソ映画がクソ映画と評価されていれば何も文句はないのですが、クソ映画が大人気だったりするから具合が悪くなって来る。素晴らしい映画がキチンと評価されて、作った人達が、評価に値するような報われ方をしてほしいと思ってしまうのです。逆に真面目に作っていない誠意のないクソ映画の監督はボロクソにけなされて仕事も無くなるくらいで丁度いい。映画監督ですなどと二度と恥ずかしくて言えないくらいに。クソ映画のクソ監督がいっぱしの表現者を気取っていたりするからムカついて来る。みんなで持ち上げてしまう。その流れがあまりにも怒濤の流れになっているので、相対的にいい作品が増えていても、クソ作品が席巻しているように感じてしまう所もあるのでしょう。
実際自分が感動したと書いた「レスラー」の監督のダーレン・アラノフスキーなんかは、「レスラー」で失敗したら多分終わっていたと思う。この作品はミッキー・ロークの復活の方に脚光が当りますが、それと同時に監督の復活をかけた賭けでもあった。前の作品がクソ映画だったので、一般的な評価としては映画監督としてはダメ監督の烙印が押されていた。終わったと誰しもが思っていた。だからそれがモチベーションにもなるのでしょう。クソ作品をクソとけなす事は素晴らしい映像作品を生むためにも必要な事なんだろうと思う。
今の日本の状況を考えますと、教育はほぼ期待出来ないし、大手マスコミやメジャーな映画の啓蒙も期待出来ない。統治権力は逃げ切る事しか考えておらず、僅かに一部の邦画とアニメーションにはその可能性を見る事が出来るのですが、何かを学ぶ機会がことごとく減ってしまっているような気がします。だから素晴らしい映像作品があるかないかは重要な違いになると思います。
しかしその僅かに残った希望まで、この国の逃げ切り野郎どもは食い尽くそうとしている。日本のコンテンツ産業で更にグッタリ来るような現実が進行している。最後に現実に戻ってその事を書いてしめにするとします。
その事は次回で。