さて、ここから先は内容の話になりますので、ネタバレの恐れがあります。なのでまだ観ていない方でこれから観る予定の方は読まない事をおススメします。ちゃんと警告しましたからね。
内容は旧作に比べると庵野監督の趣味全開というか、「オタク」が喜びそうな圧倒的なディティールの細かさに先ず驚きます。圧倒される。展開にしても萌えポイントも的確に押さえた作りになっていて、内容も全く異なるし、ダイジェスト版みたいな適当な作りでもない。普通の人が観ても圧倒的な迫力と有無を言わせぬ怒濤の展開で引きつけられると思うのですが、旧作のようなエンターテイメントに陥るのを極力避けながら、アニメに興味がなくとも心を鷲掴みにされるような自意識を深く深く掘り下げて行くような、共感可能な作りではなくなってしまったような気がします。
しかし旧作のようなモヤモヤ感は全く無くて、旧作から観ている人は少なからず抱いている、エヴァに対する何というかスッキリしなさみたいなものを全て真っ正面から受け止めて描いている。旧作からのモヤモヤ感をこれでもかと吹っ飛ばされている。旧作の映画版完結編までみても、結局晴れる事の無かったスッキリしない、しばらくトラウマを抱えてしまい、日常生活に影響を及ぼしかねない袋小路に蹴落とされたような感覚はなかった。旧作の映画版のラストを観た時のあの置いてけぼりを食った感覚が全然無い。まだ続編があるというのに、ビックリするような違いです。
実際旧作を観た後は、影響が凄すぎて仕事場でも、登場人物の口調を真似てしゃべっていたりしたくらいです。「この半端にちょっとだけ余ってしまった○○(食材)どうします?」「現時刻を持って○○を破棄(俺達の飯にしろという意味)、目標を使徒と識別する」使っていた奴も、「目標ってこれって○○(食材)じゃないですか!!」「違う目標だ、我々の飯だ」とか。それ以外でも、「パターン青、目標を使徒と識別します」とか、「目標を肉眼で確認」とか、「目標は完全に沈黙しました」とか言い合ったり、忙しくなって来ると、「ダメです。シンクロ率が400%を越えています。」とか、疲れて来ると「エヴァ活動限界です。予備も動きません」とか、食事中には「使徒を食ってる!!」とか、とにかく頭の中がしばらくそれでいっぱいになっちゃった。
新作ではそのスッキリしなさのようなものを真っ正面から描いていて、旧作ではことごとく肩すかしを食らった感覚も消えている。これでもかと作り手が言い訳が出来ないくらい真っ正面から描かれている。難解さも消えていて、非常にわかりやすいエンターテイメントの真っ向勝負で、しかも「オタク」的なこだわりも随所に見せながら、普通の人であっても観るものを黙らせる作りと言うか、主人公や登場人物の心の動きに惹き付けられる。旧作は語る人が多かったのに比べると、新作は圧倒的に減っている。あれを見せられちゃったら何も言えないとなってしまう。旧作の映画版もこうやって描いていれば多分あの当時観ていた人もみんな納得させられたんだろうけれど、そういう風に描けなかった時代だったのかなということも同時に感じた。
もちろんこれは旧作に思い入れがあるからそう思うのであるのだろうし、この新作単体だけで、どう感じるのかというのは、もう自分の場合どうやったって経験出来ませんので、もしかすると新作だけを見ている人からすれば、訳が分からないのかもしれませんし、旧作込みでないと新作のよさも半分くらいわからないのかもしれません。実際新作単体で考えると特にこの二作目は脚本の作り込みが甘いなんて言う批判もありますし。
自分は正直萌えは全く感じないたちなのですが、綾波の「ぽかぽかしてほしい」には萌え死にしそうになりますし、その後のお父さんとシンジ君の間を取り持とうとする行動にも、シンジ君がエヴァに乗らなくて済む、シンジ君が嫌な事をやらなくて済むようにするという決意にも、またアスカの孤独に生きる事に何の寂しさも感じないと思っていたけれど、人との繋がりも悪くないという事を語らせる部分にも、「オタク」が喜びそうだなと思うのと同時に、今の時代に必要なメッセージかもしれない。単純に言えば他者へのまなざしが変わっているというのもあるし、メタ視点で言えば観ている側の人間に対しても、それから旧作で敵に回したオタク達に対しても、監督のまなざしが変わっているように感じます。
つまり「オタク」的なこだわりを持って生きられるという事は幸せであるという事と同時に、承認を求めてこだわりも無く右往左往するよりも、人からバカにされたって、そこに承認がある事の方が重要だという、その承認に突き進む事自体は外に開かれているではないかという、今の時代に必要なメッセージかもしれないとも思える。
シンジ君の最後の叫び「来い!!」には、カッコイイ!シンジ君、男になったねえとしびれました。腐女子のズリネタになりそうですが、そこにハリーキャラハンを観た。
この変化は最近の映画に見られる変化や時代の変化に共鳴して、なんといいますか「イーストウッド」的なものが求められる時代に変化した。昔の「イーストウッド」的な映画の需要のされ方と、ミスティックリバーあたりからだと思うのですが、彼の映画の需要のされ方が変わっている。彼の映画自体は昔から変わらないのに。これは9.11以降の変化でより変わっているのだろうし、更にサブプライム以後の変化でもまたそれを加速させているような気がします。
最近観たので感じるのですが、映画「レスラー」なんかとも共通するテーマがあるような気がする。要するに激動期にはシステムの問題よりも人の問題が全面化してくる事に対しての立ち方を描く作りになっていて、「可哀想な僕」の問題を自意識にひきこもって葛藤している場合じゃなくなっちゃった。もしくはシステムの問題を考えても、こぼれ落ちる人がいるじゃないかという問題をどうするのか?世の中が変わってしまったからというのもあるし、「だってしょうがないじゃないか」という問題にどうやって向き合うのか?承認されたかったら、人を承認するのが先だろうという、時代の変化に文句を言っていても切り捨てられる時代になってしまった事に対する監督なりの解答が見られる。断念に対する構え。
最近の映画でいい映画だなと思うものというのは、ことごとくその事をテーマに描かれているような気がします。日本のアニメーションでもそういう作品が増えている。ポスト(’旧作の)エヴァンゲリオン的な作品が。
邦画でも傑作はベースにちゃんとそれがある。もちろんクソ映画でもそれをベースにしようとした形跡は見られるのがやっぱり増えていて、その描写が甘過ぎるのでクソに感じるといったように、時代がこういったテーマを求める時代になっている。
新作のヱヴァンゲリヲンもそういった時代の空気を取り込んで変化している。旧作の映画版での25話でアスカが孤軍奮闘で量産型のエヴァと戦っている時のシンジ君というのは、「嫌だ」「戦いたくない」「死にたい」と言っていて、ミサトさんが鬼ギレしてマジで怒られる。それでもグチグチ落ち込んでいて、今まさに人類存亡の危機であるというのに、全く頼りない。普通の映画の主人公ならそこで気付きが起こって、人類を救うという風になるのでしょうが、結局最後まで戦わず、主人公キャラとしてはあり得ない話だった。
ミサトさんが命がけでシンジ君を諭し、やっとその気になるもアスカが大ピンチに陥っても、メッタクソに串刺しにされて、食いちぎられていても、エヴァに物理的に乗れなかったというのもあるんだけれど、「だって乗れないんだもん」しょうがないじゃないか、僕は悪くないんだ!という感じでした。イジイジいじけていた。つまり、僕が悪いんじゃないやい、システム(もしくは社会であり、他者)が悪いんだい、と。
それで26話でお母さんのクローンでもある綾波に諭されて、そうか例え今の世界で承認が得られないのだとしても、傷つけ合う事が繰り返されて行く世界であっても、僕はその世界が大切だったんだと気付きが起こって、世界の問題が解消される事無く、シンジ君の問題が解消される事によって、世界の問題が雲散霧消するという、結局は自分から前に進めばよかっただけなんだとなる。
けど、結局現実世界に引き戻されると、また傷つけ合い分かり合えない世界が続いて行くんだという事で、最後の一言「気持ち悪い」という他者からの拒絶の一言で終わる。単なる自意識の中での文字通り自慰行為を拒絶されて。まあ悪くいうと夢オチに近い終わり方でした。この作品としてのケリの付け方は自分的には納得いった。当時の空気やこの作品の需要のされ方を考えれば、あの時のあの終わり方は見事だと思いました。しかしあれだけの自意識の葛藤と人間関係に対する諦めを徹底的に描き尽くした上であったから納得出来たわけで、そこの所を大きく勘違いした、この後の質の悪い「セカイ系」を乱発させた原因にもなっている。
この手のロボットアニメではガンダム以来、常に「何で僕が戦わなきゃならないんだ」という葛藤を主人公が抱え、成長して行くのがパターンなんですが、シンジ君のそれはそういう嫌々戦うパターンの集大成的キャラで、ずーっとエヴァに乗るのが嫌で嫌で、最後は戦いもしないという画期的な作りだった。戦わずに成長をというか気付きを描いていた。
それが今回は終盤では、システム?知るか!!何が何でも、絶対に俺が大切だと思っているものを取り戻すんだ!!と、全く心情が変わっている。不可能性に対する足掻きを描いている。自慰行為ではなく外部に開いている。というか自慰行為だといわれようが、そんな事知るか!!と炸裂する。旧作ではエヴァの暴走として描かれていたものが、どちらかと言うとシンジ君自身の能動的な意志によって暴走させてでも何とかするんだという思いが込められていた。
システムの問題じゃない。自分の問題だと結果的に引き受けるのではなく、能動的に引き受けている。たとえ間違っていたとしても、自分としてはこうせざるを得ないんだと。たとえそれで理不尽な結末が待っていたとしても、人間は時としてそういう風に動いてしまう生き物で、その事自体は尊い事なんじゃないか?バカにするような事じゃないんじゃないか?と。自意識の葛藤を経て、現実に向き合った旧作を引き受けて、現実に向き合った後の現実との葛藤を描く事によって、旧作のオトシ前をつけようとしているように見える。
旧作というのは良くも悪くも自慰行為を見せられているような所があって、旧作の映画版でも最初と最後は主人公のオナニーシーンでした。自己嫌悪から始まる。自分は最低の人間だと。結局世界は何から何まで自慰行為、エゴとエゴのぶつかり合い。人と人は所詮分かり合えないという諦めが根底にあった。だとしてもこの世界で傷つけ合いながら生きるしかないじゃないかと。現実を引き受けて行くしかない、そこにこそ居場所があるのだ。だから自分が変われば世界が変わるんだと。
しかし実際に世界はシステムが崩壊し、自分が変わった所で、外の世界に向き合った所で、やっぱりどうにもならない部分が出て来てしまっている。その時代の空気がキチンと入っている。傷つけ合い分かり合えない世界かどうかなんて、どうだっていいじゃねえかと。俺は俺の大切なものにコミットするんだ、それが自慰行為だと呼ばれてもそんな事は知るかと。
旧作の映画版ではオタク批判もやった。こんなもん観てんじゃねえよと。だからお前らはダメなんだよと。現実に向き合えよと。それが一番オタク共を敵に回して批判された箇所でもあり、お前がそれを言うなよ。あんたアニメの商売をしていて、それで飯を喰ってんだから、実際にオタクウケしそうなキャラを登場させたりしているくせに何言ってんだ?というのがあった。しかも庵野監督というのはもの凄いオタクの中のオタクと呼ばれるような人なもんで、お前がそれを言うなよ、と散々批判もされた。その事によって彼はその後実写をとったりして、逃げたと批判もされた。自分はその実写も結構好きだったんですけどね。
それが決定的に変わった。オタクコンテンツにヲタク的に記号の消費としてコミットするのではなく、オタクとしてコミットしているという事は本当は外に開かれている事なのかもしれないと。正確に言うとそういうものがなければ外に開く為の足場が無くなってしまうのではないかと。実際に今回の作品はオタクウケがいいとも言われている。庵野やれば出来んじゃねえかと。実際に世の中ひっくり返って、滅茶苦茶になってしまった。自意識を卒業して外に開いたら上手く行く時代では無い。一方では記号的消費に流されて承認を求めて彷徨っている。その時代の空気にシンクロしたテーマに変わっている。
これは自分が職人なのでわかる事でもあるし、そもそもタイプ的に、例えばレコードやCDや本をアホのように持っているとか、相当スットコドッコイな古い車ばっかり乗っていたとか、楽器をミュージシャンでもない単なる趣味のくせに、正気とは思えないようなくらいいっぱい持っているとか、バカみたいに洋服をいっぱい持っているとか、「こだわりを無くしたら男じゃねえぜ」が、昔からの口癖であるとか、普通の人からすれば、コイツアホか?と思われてもしょうがないと自覚もしてます。
何かを集めたり、ミュージシャンのマニアックな情報を詳しく突き詰めたり、何かの蘊蓄話を語り始めると、「あはは、そうなんだ、凄いね。あ、もうこんな時間だ!!か、帰らなきゃ」とさせてしまうような、もちろん同種の人間にはウケはいいかもしれませんが、一般人にはある意味引かれてしまうような所がありますものですから、そうだよこだわるっつうのは大切なんだい!!という自分の気持ち的にも共感出来ます。
変化の例を詳しく観て行きますと、例えば、綾波が旧作と同じセリフ「私が死んでも変わりはいる」というのに対するレスポンスも随分変わっている。これは二重の意味で、自分がクローンであるという事の意味と、システムのロールを担う全てのこの世界にいる人にとって、俺がいなくても変わりがいるかもしれないな、という交換可能な誰でもいいのかもしれない本当は、という共感可能な実感、という意味の二つの意味が込められているわけですが、それにたいしても旧作のシンジ君は「そんな事言うなよ」程度の反応でしたけれど、綾波の真実を知って驚愕し、実際テレビ版の24話では、何も誰にも言えないと人の問題を考えるというより、自分の事でいっぱいいっぱいで、綾波に相談出来ないと嘆いていましたが、綾波の境遇を嘆いているのではなくて、「誰も僕の事分かってくれない」と中二病的に嘆いていた。まあ本当に14歳なので中二なんですけど。
しかし今回は明確に綾波に対してメッセージを伝える、お前はお前しかいないと。
序の段階で微妙にポジティブになったなとは思ったけれど、今回の終盤でそれが最大限に炸裂する。悪くいうと昔の熱血っぽいのだけれど、それが不愉快に感じないように丁寧に作られていた。シンジ君がそんなセリフを言うなんてあり得ねえよと思われないように上手く作られている。
この作品の気になる所で繰り返し描かれるのが食事のシーン。その事が多分監督自身の変化を表しているような気がする。庵野さんというのは非常に好き嫌いが多く極端な食生活をする人だという事で有名です。好きな食べ物が何もない。豆腐くらいしか食わない。自分も昔は凄くそういう所があったし、今も料理の仕事についた事によって、だいぶ減っているとは言え少なからずそういう所があるので、その話を聞いた時は、おお、なんか共感出来ると思ったものですが、彼のそれは半端じゃないらしいです。豆腐と言っても薬味もかけなけりゃ醤油もかけないとか。
それだけ食べる事に対して、興味のなかった人でありながら、繰り返し食事のシーンが描かれる。旧作でも多少は描かれますけど、それは料理をしないズボラな女である葛城ミサトとの対比を際立たせる為の装置としてであり、主人公自身にもみんなで食事したりワイワイするのが苦手だと言わせているし、ミサトにも言わせている。作戦が成功し子供達がミサトからラーメンをおごってもらうという描写もありましたが、今回の新作ではあの時間に濃縮しているにもかかわらず、繰り返し食事にまつわる描写が入っている。しかも作っている所も描いているし、みんなで食べている時の雰囲気もキチンと描いていて、しかも主人公までもが楽しそうにしている。
主人公のお父さんである碇ゲンドウにいたっては、綾波の質問、「誰かとする食事って楽しいですか?」にたいして肯定までしている。要するに誰かと一緒に食事をするという事はコミュニケーションを取るという事になる。それが楽しいと言わせている。他者とのコミュニケーションのわかり合えなさに対する断念ベースで描かれていた旧作との決定的な違いではなかろうかと思う。しかも監督が興味のなかった食べる事が。
これは多分決定的な監督の目線の変化で、その事が作品自体の目線を変化させているように感じます。食事絡みで主人公も誰かの為に作るし、その他の登場人物達も自分の大切な人の為、もしくは自分の大切な人の幸せの為、食事を作ろうとする。指を切っても一生懸命に。これは多分監督が結婚されたから変化した心情なのかもしれませんが、食べる事が嫌いだと言うのは単なる自分の好き嫌いであり、エゴでもある。しかし食べる事が嫌いだと言う人に対しても、食事を作ってくれる人がいる。
自分は料理の仕事をした事で好き嫌いが少なくなったのと同時に、作ってくれた人の好意を無にする事は出来ないと思うに至りました。もちろん金出して外食した時にマズかった場合は一口食って全部残すという事も平気でやりますが、誰かがカネの為ではなくて自分の為に作ってくれたものに関しては、基本的に文句も言わないで食べるし、残さないで食べる。正直自分はプロなのでどう考えても、自分で作るものよりはおいしいはずはないのが実際の所なんですが、それでも作る事の面倒くささを理解出来たので、わざわざ作ってくれたものに文句を言うなんて出来ない。マズくても食えないほどのゲテモノでなければ、つまり調味料をおもいっきり入れ間違えるとかがなければ食べます。もちろんワザとらしくマズいのにおいしいよとは言いませんけど。
これと似た目線を獲得しているような気がする。実際に綾波が肉が食えないと言うのに対して、シンジ君は味噌汁なら飲めるでしょ。おいしいよと言う。実際においしいと感じる綾波。こんな感じの場面もあったりする。食事というのは、ただ食って腹を満たす為だけにあるのではなく(これは作品中のエヴァが使徒を補食する描写との対比という意味合いももちろん)、作り手から食べる人への思いや、命を食っているという事。そして誰かとの食事というのはそこに当然何らかのコミュニケーションも生じ、会話なんて無くたって人との繋がりを確認出来る瞬間でもある。同じものを同じ時間に同じ場所で食べる。
その誰かが作ってくれる食事、誰かに作ってあげたい食事、という目線が、そのまま物語りの変化を生み出すまなざしと直結しているような気がする。人に幸せになってもらいたい。それが自分にとっての幸せでもあるんだと気付いたまなざし。自意識から他者へとより重心が変わり、所詮人と人は分かり合えないという旧作の諦めのベースのようなものが、分かり合えないかもしれないけれど一緒に食事をすることも出来るじゃないか。というまなざしに変わっている。つまり旧作は自分の承認を満たす為にいかに他者と関わるかという自意識ベースだったのに対して、他者が「ぽかぽかする」気持ちになる事によって、自分も「ぽかぽか出来る」という風にベクトルが逆を向いている。
これは一歩間違えると人を思いやれ、みたいな説教に陥りがちです。しかし人を思いやるという事が自分の自意識を満たす為であるのか、その前に先ず他者を承認せずにはいられない、自意識が満たされるかどうかも関係ない。他者に幸せになってもらいたいというのが第一にある思いやりなのかでは全く意味が変わって来る。その事を徹底的に描き尽くして来た作品であるから説得力があるわけです。
腹が減っては戦が出来ぬではありませんが、食事というのは、それは何かを考えるにしろ、何らかの行動を起こすにしろ、何かを相談するにしろ、それがハッピーじゃないとしても、とりあえずなんか食ってから話そうよ、というのは腹が減ってギスギスした状態で物事を考えると腹もたちやすいし煮詰まりやすいけれど、お腹を満たしながら何かを考えれば楽天的に物事を考える事も出来るし、余裕も生まれる。少しくらいの事だったらまあいいかと水に流す事も出来やすくなる。全体的なトーンがポジティブに見えるのも、食事にまつわるシーンが増えたという事も関係しているような気がする。それはそのまんま監督の心情の変化にも直結しているように感じました。
続く!!
内容は旧作に比べると庵野監督の趣味全開というか、「オタク」が喜びそうな圧倒的なディティールの細かさに先ず驚きます。圧倒される。展開にしても萌えポイントも的確に押さえた作りになっていて、内容も全く異なるし、ダイジェスト版みたいな適当な作りでもない。普通の人が観ても圧倒的な迫力と有無を言わせぬ怒濤の展開で引きつけられると思うのですが、旧作のようなエンターテイメントに陥るのを極力避けながら、アニメに興味がなくとも心を鷲掴みにされるような自意識を深く深く掘り下げて行くような、共感可能な作りではなくなってしまったような気がします。
しかし旧作のようなモヤモヤ感は全く無くて、旧作から観ている人は少なからず抱いている、エヴァに対する何というかスッキリしなさみたいなものを全て真っ正面から受け止めて描いている。旧作からのモヤモヤ感をこれでもかと吹っ飛ばされている。旧作の映画版完結編までみても、結局晴れる事の無かったスッキリしない、しばらくトラウマを抱えてしまい、日常生活に影響を及ぼしかねない袋小路に蹴落とされたような感覚はなかった。旧作の映画版のラストを観た時のあの置いてけぼりを食った感覚が全然無い。まだ続編があるというのに、ビックリするような違いです。
実際旧作を観た後は、影響が凄すぎて仕事場でも、登場人物の口調を真似てしゃべっていたりしたくらいです。「この半端にちょっとだけ余ってしまった○○(食材)どうします?」「現時刻を持って○○を破棄(俺達の飯にしろという意味)、目標を使徒と識別する」使っていた奴も、「目標ってこれって○○(食材)じゃないですか!!」「違う目標だ、我々の飯だ」とか。それ以外でも、「パターン青、目標を使徒と識別します」とか、「目標を肉眼で確認」とか、「目標は完全に沈黙しました」とか言い合ったり、忙しくなって来ると、「ダメです。シンクロ率が400%を越えています。」とか、疲れて来ると「エヴァ活動限界です。予備も動きません」とか、食事中には「使徒を食ってる!!」とか、とにかく頭の中がしばらくそれでいっぱいになっちゃった。
新作ではそのスッキリしなさのようなものを真っ正面から描いていて、旧作ではことごとく肩すかしを食らった感覚も消えている。これでもかと作り手が言い訳が出来ないくらい真っ正面から描かれている。難解さも消えていて、非常にわかりやすいエンターテイメントの真っ向勝負で、しかも「オタク」的なこだわりも随所に見せながら、普通の人であっても観るものを黙らせる作りと言うか、主人公や登場人物の心の動きに惹き付けられる。旧作は語る人が多かったのに比べると、新作は圧倒的に減っている。あれを見せられちゃったら何も言えないとなってしまう。旧作の映画版もこうやって描いていれば多分あの当時観ていた人もみんな納得させられたんだろうけれど、そういう風に描けなかった時代だったのかなということも同時に感じた。
もちろんこれは旧作に思い入れがあるからそう思うのであるのだろうし、この新作単体だけで、どう感じるのかというのは、もう自分の場合どうやったって経験出来ませんので、もしかすると新作だけを見ている人からすれば、訳が分からないのかもしれませんし、旧作込みでないと新作のよさも半分くらいわからないのかもしれません。実際新作単体で考えると特にこの二作目は脚本の作り込みが甘いなんて言う批判もありますし。
自分は正直萌えは全く感じないたちなのですが、綾波の「ぽかぽかしてほしい」には萌え死にしそうになりますし、その後のお父さんとシンジ君の間を取り持とうとする行動にも、シンジ君がエヴァに乗らなくて済む、シンジ君が嫌な事をやらなくて済むようにするという決意にも、またアスカの孤独に生きる事に何の寂しさも感じないと思っていたけれど、人との繋がりも悪くないという事を語らせる部分にも、「オタク」が喜びそうだなと思うのと同時に、今の時代に必要なメッセージかもしれない。単純に言えば他者へのまなざしが変わっているというのもあるし、メタ視点で言えば観ている側の人間に対しても、それから旧作で敵に回したオタク達に対しても、監督のまなざしが変わっているように感じます。
つまり「オタク」的なこだわりを持って生きられるという事は幸せであるという事と同時に、承認を求めてこだわりも無く右往左往するよりも、人からバカにされたって、そこに承認がある事の方が重要だという、その承認に突き進む事自体は外に開かれているではないかという、今の時代に必要なメッセージかもしれないとも思える。
シンジ君の最後の叫び「来い!!」には、カッコイイ!シンジ君、男になったねえとしびれました。腐女子のズリネタになりそうですが、そこにハリーキャラハンを観た。
この変化は最近の映画に見られる変化や時代の変化に共鳴して、なんといいますか「イーストウッド」的なものが求められる時代に変化した。昔の「イーストウッド」的な映画の需要のされ方と、ミスティックリバーあたりからだと思うのですが、彼の映画の需要のされ方が変わっている。彼の映画自体は昔から変わらないのに。これは9.11以降の変化でより変わっているのだろうし、更にサブプライム以後の変化でもまたそれを加速させているような気がします。
最近観たので感じるのですが、映画「レスラー」なんかとも共通するテーマがあるような気がする。要するに激動期にはシステムの問題よりも人の問題が全面化してくる事に対しての立ち方を描く作りになっていて、「可哀想な僕」の問題を自意識にひきこもって葛藤している場合じゃなくなっちゃった。もしくはシステムの問題を考えても、こぼれ落ちる人がいるじゃないかという問題をどうするのか?世の中が変わってしまったからというのもあるし、「だってしょうがないじゃないか」という問題にどうやって向き合うのか?承認されたかったら、人を承認するのが先だろうという、時代の変化に文句を言っていても切り捨てられる時代になってしまった事に対する監督なりの解答が見られる。断念に対する構え。
最近の映画でいい映画だなと思うものというのは、ことごとくその事をテーマに描かれているような気がします。日本のアニメーションでもそういう作品が増えている。ポスト(’旧作の)エヴァンゲリオン的な作品が。
邦画でも傑作はベースにちゃんとそれがある。もちろんクソ映画でもそれをベースにしようとした形跡は見られるのがやっぱり増えていて、その描写が甘過ぎるのでクソに感じるといったように、時代がこういったテーマを求める時代になっている。
新作のヱヴァンゲリヲンもそういった時代の空気を取り込んで変化している。旧作の映画版での25話でアスカが孤軍奮闘で量産型のエヴァと戦っている時のシンジ君というのは、「嫌だ」「戦いたくない」「死にたい」と言っていて、ミサトさんが鬼ギレしてマジで怒られる。それでもグチグチ落ち込んでいて、今まさに人類存亡の危機であるというのに、全く頼りない。普通の映画の主人公ならそこで気付きが起こって、人類を救うという風になるのでしょうが、結局最後まで戦わず、主人公キャラとしてはあり得ない話だった。
ミサトさんが命がけでシンジ君を諭し、やっとその気になるもアスカが大ピンチに陥っても、メッタクソに串刺しにされて、食いちぎられていても、エヴァに物理的に乗れなかったというのもあるんだけれど、「だって乗れないんだもん」しょうがないじゃないか、僕は悪くないんだ!という感じでした。イジイジいじけていた。つまり、僕が悪いんじゃないやい、システム(もしくは社会であり、他者)が悪いんだい、と。
それで26話でお母さんのクローンでもある綾波に諭されて、そうか例え今の世界で承認が得られないのだとしても、傷つけ合う事が繰り返されて行く世界であっても、僕はその世界が大切だったんだと気付きが起こって、世界の問題が解消される事無く、シンジ君の問題が解消される事によって、世界の問題が雲散霧消するという、結局は自分から前に進めばよかっただけなんだとなる。
けど、結局現実世界に引き戻されると、また傷つけ合い分かり合えない世界が続いて行くんだという事で、最後の一言「気持ち悪い」という他者からの拒絶の一言で終わる。単なる自意識の中での文字通り自慰行為を拒絶されて。まあ悪くいうと夢オチに近い終わり方でした。この作品としてのケリの付け方は自分的には納得いった。当時の空気やこの作品の需要のされ方を考えれば、あの時のあの終わり方は見事だと思いました。しかしあれだけの自意識の葛藤と人間関係に対する諦めを徹底的に描き尽くした上であったから納得出来たわけで、そこの所を大きく勘違いした、この後の質の悪い「セカイ系」を乱発させた原因にもなっている。
この手のロボットアニメではガンダム以来、常に「何で僕が戦わなきゃならないんだ」という葛藤を主人公が抱え、成長して行くのがパターンなんですが、シンジ君のそれはそういう嫌々戦うパターンの集大成的キャラで、ずーっとエヴァに乗るのが嫌で嫌で、最後は戦いもしないという画期的な作りだった。戦わずに成長をというか気付きを描いていた。
それが今回は終盤では、システム?知るか!!何が何でも、絶対に俺が大切だと思っているものを取り戻すんだ!!と、全く心情が変わっている。不可能性に対する足掻きを描いている。自慰行為ではなく外部に開いている。というか自慰行為だといわれようが、そんな事知るか!!と炸裂する。旧作ではエヴァの暴走として描かれていたものが、どちらかと言うとシンジ君自身の能動的な意志によって暴走させてでも何とかするんだという思いが込められていた。
システムの問題じゃない。自分の問題だと結果的に引き受けるのではなく、能動的に引き受けている。たとえ間違っていたとしても、自分としてはこうせざるを得ないんだと。たとえそれで理不尽な結末が待っていたとしても、人間は時としてそういう風に動いてしまう生き物で、その事自体は尊い事なんじゃないか?バカにするような事じゃないんじゃないか?と。自意識の葛藤を経て、現実に向き合った旧作を引き受けて、現実に向き合った後の現実との葛藤を描く事によって、旧作のオトシ前をつけようとしているように見える。
旧作というのは良くも悪くも自慰行為を見せられているような所があって、旧作の映画版でも最初と最後は主人公のオナニーシーンでした。自己嫌悪から始まる。自分は最低の人間だと。結局世界は何から何まで自慰行為、エゴとエゴのぶつかり合い。人と人は所詮分かり合えないという諦めが根底にあった。だとしてもこの世界で傷つけ合いながら生きるしかないじゃないかと。現実を引き受けて行くしかない、そこにこそ居場所があるのだ。だから自分が変われば世界が変わるんだと。
しかし実際に世界はシステムが崩壊し、自分が変わった所で、外の世界に向き合った所で、やっぱりどうにもならない部分が出て来てしまっている。その時代の空気がキチンと入っている。傷つけ合い分かり合えない世界かどうかなんて、どうだっていいじゃねえかと。俺は俺の大切なものにコミットするんだ、それが自慰行為だと呼ばれてもそんな事は知るかと。
旧作の映画版ではオタク批判もやった。こんなもん観てんじゃねえよと。だからお前らはダメなんだよと。現実に向き合えよと。それが一番オタク共を敵に回して批判された箇所でもあり、お前がそれを言うなよ。あんたアニメの商売をしていて、それで飯を喰ってんだから、実際にオタクウケしそうなキャラを登場させたりしているくせに何言ってんだ?というのがあった。しかも庵野監督というのはもの凄いオタクの中のオタクと呼ばれるような人なもんで、お前がそれを言うなよ、と散々批判もされた。その事によって彼はその後実写をとったりして、逃げたと批判もされた。自分はその実写も結構好きだったんですけどね。
それが決定的に変わった。オタクコンテンツにヲタク的に記号の消費としてコミットするのではなく、オタクとしてコミットしているという事は本当は外に開かれている事なのかもしれないと。正確に言うとそういうものがなければ外に開く為の足場が無くなってしまうのではないかと。実際に今回の作品はオタクウケがいいとも言われている。庵野やれば出来んじゃねえかと。実際に世の中ひっくり返って、滅茶苦茶になってしまった。自意識を卒業して外に開いたら上手く行く時代では無い。一方では記号的消費に流されて承認を求めて彷徨っている。その時代の空気にシンクロしたテーマに変わっている。
これは自分が職人なのでわかる事でもあるし、そもそもタイプ的に、例えばレコードやCDや本をアホのように持っているとか、相当スットコドッコイな古い車ばっかり乗っていたとか、楽器をミュージシャンでもない単なる趣味のくせに、正気とは思えないようなくらいいっぱい持っているとか、バカみたいに洋服をいっぱい持っているとか、「こだわりを無くしたら男じゃねえぜ」が、昔からの口癖であるとか、普通の人からすれば、コイツアホか?と思われてもしょうがないと自覚もしてます。
何かを集めたり、ミュージシャンのマニアックな情報を詳しく突き詰めたり、何かの蘊蓄話を語り始めると、「あはは、そうなんだ、凄いね。あ、もうこんな時間だ!!か、帰らなきゃ」とさせてしまうような、もちろん同種の人間にはウケはいいかもしれませんが、一般人にはある意味引かれてしまうような所がありますものですから、そうだよこだわるっつうのは大切なんだい!!という自分の気持ち的にも共感出来ます。
変化の例を詳しく観て行きますと、例えば、綾波が旧作と同じセリフ「私が死んでも変わりはいる」というのに対するレスポンスも随分変わっている。これは二重の意味で、自分がクローンであるという事の意味と、システムのロールを担う全てのこの世界にいる人にとって、俺がいなくても変わりがいるかもしれないな、という交換可能な誰でもいいのかもしれない本当は、という共感可能な実感、という意味の二つの意味が込められているわけですが、それにたいしても旧作のシンジ君は「そんな事言うなよ」程度の反応でしたけれど、綾波の真実を知って驚愕し、実際テレビ版の24話では、何も誰にも言えないと人の問題を考えるというより、自分の事でいっぱいいっぱいで、綾波に相談出来ないと嘆いていましたが、綾波の境遇を嘆いているのではなくて、「誰も僕の事分かってくれない」と中二病的に嘆いていた。まあ本当に14歳なので中二なんですけど。
しかし今回は明確に綾波に対してメッセージを伝える、お前はお前しかいないと。
序の段階で微妙にポジティブになったなとは思ったけれど、今回の終盤でそれが最大限に炸裂する。悪くいうと昔の熱血っぽいのだけれど、それが不愉快に感じないように丁寧に作られていた。シンジ君がそんなセリフを言うなんてあり得ねえよと思われないように上手く作られている。
この作品の気になる所で繰り返し描かれるのが食事のシーン。その事が多分監督自身の変化を表しているような気がする。庵野さんというのは非常に好き嫌いが多く極端な食生活をする人だという事で有名です。好きな食べ物が何もない。豆腐くらいしか食わない。自分も昔は凄くそういう所があったし、今も料理の仕事についた事によって、だいぶ減っているとは言え少なからずそういう所があるので、その話を聞いた時は、おお、なんか共感出来ると思ったものですが、彼のそれは半端じゃないらしいです。豆腐と言っても薬味もかけなけりゃ醤油もかけないとか。
それだけ食べる事に対して、興味のなかった人でありながら、繰り返し食事のシーンが描かれる。旧作でも多少は描かれますけど、それは料理をしないズボラな女である葛城ミサトとの対比を際立たせる為の装置としてであり、主人公自身にもみんなで食事したりワイワイするのが苦手だと言わせているし、ミサトにも言わせている。作戦が成功し子供達がミサトからラーメンをおごってもらうという描写もありましたが、今回の新作ではあの時間に濃縮しているにもかかわらず、繰り返し食事にまつわる描写が入っている。しかも作っている所も描いているし、みんなで食べている時の雰囲気もキチンと描いていて、しかも主人公までもが楽しそうにしている。
主人公のお父さんである碇ゲンドウにいたっては、綾波の質問、「誰かとする食事って楽しいですか?」にたいして肯定までしている。要するに誰かと一緒に食事をするという事はコミュニケーションを取るという事になる。それが楽しいと言わせている。他者とのコミュニケーションのわかり合えなさに対する断念ベースで描かれていた旧作との決定的な違いではなかろうかと思う。しかも監督が興味のなかった食べる事が。
これは多分決定的な監督の目線の変化で、その事が作品自体の目線を変化させているように感じます。食事絡みで主人公も誰かの為に作るし、その他の登場人物達も自分の大切な人の為、もしくは自分の大切な人の幸せの為、食事を作ろうとする。指を切っても一生懸命に。これは多分監督が結婚されたから変化した心情なのかもしれませんが、食べる事が嫌いだと言うのは単なる自分の好き嫌いであり、エゴでもある。しかし食べる事が嫌いだと言う人に対しても、食事を作ってくれる人がいる。
自分は料理の仕事をした事で好き嫌いが少なくなったのと同時に、作ってくれた人の好意を無にする事は出来ないと思うに至りました。もちろん金出して外食した時にマズかった場合は一口食って全部残すという事も平気でやりますが、誰かがカネの為ではなくて自分の為に作ってくれたものに関しては、基本的に文句も言わないで食べるし、残さないで食べる。正直自分はプロなのでどう考えても、自分で作るものよりはおいしいはずはないのが実際の所なんですが、それでも作る事の面倒くささを理解出来たので、わざわざ作ってくれたものに文句を言うなんて出来ない。マズくても食えないほどのゲテモノでなければ、つまり調味料をおもいっきり入れ間違えるとかがなければ食べます。もちろんワザとらしくマズいのにおいしいよとは言いませんけど。
これと似た目線を獲得しているような気がする。実際に綾波が肉が食えないと言うのに対して、シンジ君は味噌汁なら飲めるでしょ。おいしいよと言う。実際においしいと感じる綾波。こんな感じの場面もあったりする。食事というのは、ただ食って腹を満たす為だけにあるのではなく(これは作品中のエヴァが使徒を補食する描写との対比という意味合いももちろん)、作り手から食べる人への思いや、命を食っているという事。そして誰かとの食事というのはそこに当然何らかのコミュニケーションも生じ、会話なんて無くたって人との繋がりを確認出来る瞬間でもある。同じものを同じ時間に同じ場所で食べる。
その誰かが作ってくれる食事、誰かに作ってあげたい食事、という目線が、そのまま物語りの変化を生み出すまなざしと直結しているような気がする。人に幸せになってもらいたい。それが自分にとっての幸せでもあるんだと気付いたまなざし。自意識から他者へとより重心が変わり、所詮人と人は分かり合えないという旧作の諦めのベースのようなものが、分かり合えないかもしれないけれど一緒に食事をすることも出来るじゃないか。というまなざしに変わっている。つまり旧作は自分の承認を満たす為にいかに他者と関わるかという自意識ベースだったのに対して、他者が「ぽかぽかする」気持ちになる事によって、自分も「ぽかぽか出来る」という風にベクトルが逆を向いている。
これは一歩間違えると人を思いやれ、みたいな説教に陥りがちです。しかし人を思いやるという事が自分の自意識を満たす為であるのか、その前に先ず他者を承認せずにはいられない、自意識が満たされるかどうかも関係ない。他者に幸せになってもらいたいというのが第一にある思いやりなのかでは全く意味が変わって来る。その事を徹底的に描き尽くして来た作品であるから説得力があるわけです。
腹が減っては戦が出来ぬではありませんが、食事というのは、それは何かを考えるにしろ、何らかの行動を起こすにしろ、何かを相談するにしろ、それがハッピーじゃないとしても、とりあえずなんか食ってから話そうよ、というのは腹が減ってギスギスした状態で物事を考えると腹もたちやすいし煮詰まりやすいけれど、お腹を満たしながら何かを考えれば楽天的に物事を考える事も出来るし、余裕も生まれる。少しくらいの事だったらまあいいかと水に流す事も出来やすくなる。全体的なトーンがポジティブに見えるのも、食事にまつわるシーンが増えたという事も関係しているような気がする。それはそのまんま監督の心情の変化にも直結しているように感じました。
続く!!