さて、ここから先は内容の話になりますので、ネタバレの恐れがあります。なのでまだ観ていない方でこれから観る予定の方は読まない事をおススメします。ちゃんと警告しましたからね。

内容は旧作に比べると庵野監督の趣味全開というか、「オタク」が喜びそうな圧倒的なディティールの細かさに先ず驚きます。圧倒される。展開にしても萌えポイントも的確に押さえた作りになっていて、内容も全く異なるし、ダイジェスト版みたいな適当な作りでもない。普通の人が観ても圧倒的な迫力と有無を言わせぬ怒濤の展開で引きつけられると思うのですが、旧作のようなエンターテイメントに陥るのを極力避けながら、アニメに興味がなくとも心を鷲掴みにされるような自意識を深く深く掘り下げて行くような、共感可能な作りではなくなってしまったような気がします。

しかし旧作のようなモヤモヤ感は全く無くて、旧作から観ている人は少なからず抱いている、エヴァに対する何というかスッキリしなさみたいなものを全て真っ正面から受け止めて描いている。旧作からのモヤモヤ感をこれでもかと吹っ飛ばされている。旧作の映画版完結編までみても、結局晴れる事の無かったスッキリしない、しばらくトラウマを抱えてしまい、日常生活に影響を及ぼしかねない袋小路に蹴落とされたような感覚はなかった。旧作の映画版のラストを観た時のあの置いてけぼりを食った感覚が全然無い。まだ続編があるというのに、ビックリするような違いです。

実際旧作を観た後は、影響が凄すぎて仕事場でも、登場人物の口調を真似てしゃべっていたりしたくらいです。「この半端にちょっとだけ余ってしまった○○(食材)どうします?」「現時刻を持って○○を破棄(俺達の飯にしろという意味)、目標を使徒と識別する」使っていた奴も、「目標ってこれって○○(食材)じゃないですか!!」「違う目標だ、我々の飯だ」とか。それ以外でも、「パターン青、目標を使徒と識別します」とか、「目標を肉眼で確認」とか、「目標は完全に沈黙しました」とか言い合ったり、忙しくなって来ると、「ダメです。シンクロ率が400%を越えています。」とか、疲れて来ると「エヴァ活動限界です。予備も動きません」とか、食事中には「使徒を食ってる!!」とか、とにかく頭の中がしばらくそれでいっぱいになっちゃった。

新作ではそのスッキリしなさのようなものを真っ正面から描いていて、旧作ではことごとく肩すかしを食らった感覚も消えている。これでもかと作り手が言い訳が出来ないくらい真っ正面から描かれている。難解さも消えていて、非常にわかりやすいエンターテイメントの真っ向勝負で、しかも「オタク」的なこだわりも随所に見せながら、普通の人であっても観るものを黙らせる作りと言うか、主人公や登場人物の心の動きに惹き付けられる。旧作は語る人が多かったのに比べると、新作は圧倒的に減っている。あれを見せられちゃったら何も言えないとなってしまう。旧作の映画版もこうやって描いていれば多分あの当時観ていた人もみんな納得させられたんだろうけれど、そういう風に描けなかった時代だったのかなということも同時に感じた。

もちろんこれは旧作に思い入れがあるからそう思うのであるのだろうし、この新作単体だけで、どう感じるのかというのは、もう自分の場合どうやったって経験出来ませんので、もしかすると新作だけを見ている人からすれば、訳が分からないのかもしれませんし、旧作込みでないと新作のよさも半分くらいわからないのかもしれません。実際新作単体で考えると特にこの二作目は脚本の作り込みが甘いなんて言う批判もありますし。

自分は正直萌えは全く感じないたちなのですが、綾波の「ぽかぽかしてほしい」には萌え死にしそうになりますし、その後のお父さんとシンジ君の間を取り持とうとする行動にも、シンジ君がエヴァに乗らなくて済む、シンジ君が嫌な事をやらなくて済むようにするという決意にも、またアスカの孤独に生きる事に何の寂しさも感じないと思っていたけれど、人との繋がりも悪くないという事を語らせる部分にも、「オタク」が喜びそうだなと思うのと同時に、今の時代に必要なメッセージかもしれない。単純に言えば他者へのまなざしが変わっているというのもあるし、メタ視点で言えば観ている側の人間に対しても、それから旧作で敵に回したオタク達に対しても、監督のまなざしが変わっているように感じます。

つまり「オタク」的なこだわりを持って生きられるという事は幸せであるという事と同時に、承認を求めてこだわりも無く右往左往するよりも、人からバカにされたって、そこに承認がある事の方が重要だという、その承認に突き進む事自体は外に開かれているではないかという、今の時代に必要なメッセージかもしれないとも思える。

シンジ君の最後の叫び「来い!!」には、カッコイイ!シンジ君、男になったねえとしびれました。腐女子のズリネタになりそうですが、そこにハリーキャラハンを観た。

この変化は最近の映画に見られる変化や時代の変化に共鳴して、なんといいますか「イーストウッド」的なものが求められる時代に変化した。昔の「イーストウッド」的な映画の需要のされ方と、ミスティックリバーあたりからだと思うのですが、彼の映画の需要のされ方が変わっている。彼の映画自体は昔から変わらないのに。これは9.11以降の変化でより変わっているのだろうし、更にサブプライム以後の変化でもまたそれを加速させているような気がします。

最近観たので感じるのですが、映画「レスラー」なんかとも共通するテーマがあるような気がする。要するに激動期にはシステムの問題よりも人の問題が全面化してくる事に対しての立ち方を描く作りになっていて、「可哀想な僕」の問題を自意識にひきこもって葛藤している場合じゃなくなっちゃった。もしくはシステムの問題を考えても、こぼれ落ちる人がいるじゃないかという問題をどうするのか?世の中が変わってしまったからというのもあるし、「だってしょうがないじゃないか」という問題にどうやって向き合うのか?承認されたかったら、人を承認するのが先だろうという、時代の変化に文句を言っていても切り捨てられる時代になってしまった事に対する監督なりの解答が見られる。断念に対する構え。

最近の映画でいい映画だなと思うものというのは、ことごとくその事をテーマに描かれているような気がします。日本のアニメーションでもそういう作品が増えている。ポスト(’旧作の)エヴァンゲリオン的な作品が。

邦画でも傑作はベースにちゃんとそれがある。もちろんクソ映画でもそれをベースにしようとした形跡は見られるのがやっぱり増えていて、その描写が甘過ぎるのでクソに感じるといったように、時代がこういったテーマを求める時代になっている。

新作のヱヴァンゲリヲンもそういった時代の空気を取り込んで変化している。旧作の映画版での25話でアスカが孤軍奮闘で量産型のエヴァと戦っている時のシンジ君というのは、「嫌だ」「戦いたくない」「死にたい」と言っていて、ミサトさんが鬼ギレしてマジで怒られる。それでもグチグチ落ち込んでいて、今まさに人類存亡の危機であるというのに、全く頼りない。普通の映画の主人公ならそこで気付きが起こって、人類を救うという風になるのでしょうが、結局最後まで戦わず、主人公キャラとしてはあり得ない話だった。

ミサトさんが命がけでシンジ君を諭し、やっとその気になるもアスカが大ピンチに陥っても、メッタクソに串刺しにされて、食いちぎられていても、エヴァに物理的に乗れなかったというのもあるんだけれど、「だって乗れないんだもん」しょうがないじゃないか、僕は悪くないんだ!という感じでした。イジイジいじけていた。つまり、僕が悪いんじゃないやい、システム(もしくは社会であり、他者)が悪いんだい、と。

それで26話でお母さんのクローンでもある綾波に諭されて、そうか例え今の世界で承認が得られないのだとしても、傷つけ合う事が繰り返されて行く世界であっても、僕はその世界が大切だったんだと気付きが起こって、世界の問題が解消される事無く、シンジ君の問題が解消される事によって、世界の問題が雲散霧消するという、結局は自分から前に進めばよかっただけなんだとなる。

けど、結局現実世界に引き戻されると、また傷つけ合い分かり合えない世界が続いて行くんだという事で、最後の一言「気持ち悪い」という他者からの拒絶の一言で終わる。単なる自意識の中での文字通り自慰行為を拒絶されて。まあ悪くいうと夢オチに近い終わり方でした。この作品としてのケリの付け方は自分的には納得いった。当時の空気やこの作品の需要のされ方を考えれば、あの時のあの終わり方は見事だと思いました。しかしあれだけの自意識の葛藤と人間関係に対する諦めを徹底的に描き尽くした上であったから納得出来たわけで、そこの所を大きく勘違いした、この後の質の悪い「セカイ系」を乱発させた原因にもなっている。

この手のロボットアニメではガンダム以来、常に「何で僕が戦わなきゃならないんだ」という葛藤を主人公が抱え、成長して行くのがパターンなんですが、シンジ君のそれはそういう嫌々戦うパターンの集大成的キャラで、ずーっとエヴァに乗るのが嫌で嫌で、最後は戦いもしないという画期的な作りだった。戦わずに成長をというか気付きを描いていた。

それが今回は終盤では、システム?知るか!!何が何でも、絶対に俺が大切だと思っているものを取り戻すんだ!!と、全く心情が変わっている。不可能性に対する足掻きを描いている。自慰行為ではなく外部に開いている。というか自慰行為だといわれようが、そんな事知るか!!と炸裂する。旧作ではエヴァの暴走として描かれていたものが、どちらかと言うとシンジ君自身の能動的な意志によって暴走させてでも何とかするんだという思いが込められていた。

システムの問題じゃない。自分の問題だと結果的に引き受けるのではなく、能動的に引き受けている。たとえ間違っていたとしても、自分としてはこうせざるを得ないんだと。たとえそれで理不尽な結末が待っていたとしても、人間は時としてそういう風に動いてしまう生き物で、その事自体は尊い事なんじゃないか?バカにするような事じゃないんじゃないか?と。自意識の葛藤を経て、現実に向き合った旧作を引き受けて、現実に向き合った後の現実との葛藤を描く事によって、旧作のオトシ前をつけようとしているように見える。

旧作というのは良くも悪くも自慰行為を見せられているような所があって、旧作の映画版でも最初と最後は主人公のオナニーシーンでした。自己嫌悪から始まる。自分は最低の人間だと。結局世界は何から何まで自慰行為、エゴとエゴのぶつかり合い。人と人は所詮分かり合えないという諦めが根底にあった。だとしてもこの世界で傷つけ合いながら生きるしかないじゃないかと。現実を引き受けて行くしかない、そこにこそ居場所があるのだ。だから自分が変われば世界が変わるんだと。

しかし実際に世界はシステムが崩壊し、自分が変わった所で、外の世界に向き合った所で、やっぱりどうにもならない部分が出て来てしまっている。その時代の空気がキチンと入っている。傷つけ合い分かり合えない世界かどうかなんて、どうだっていいじゃねえかと。俺は俺の大切なものにコミットするんだ、それが自慰行為だと呼ばれてもそんな事は知るかと。

旧作の映画版ではオタク批判もやった。こんなもん観てんじゃねえよと。だからお前らはダメなんだよと。現実に向き合えよと。それが一番オタク共を敵に回して批判された箇所でもあり、お前がそれを言うなよ。あんたアニメの商売をしていて、それで飯を喰ってんだから、実際にオタクウケしそうなキャラを登場させたりしているくせに何言ってんだ?というのがあった。しかも庵野監督というのはもの凄いオタクの中のオタクと呼ばれるような人なもんで、お前がそれを言うなよ、と散々批判もされた。その事によって彼はその後実写をとったりして、逃げたと批判もされた。自分はその実写も結構好きだったんですけどね。

それが決定的に変わった。オタクコンテンツにヲタク的に記号の消費としてコミットするのではなく、オタクとしてコミットしているという事は本当は外に開かれている事なのかもしれないと。正確に言うとそういうものがなければ外に開く為の足場が無くなってしまうのではないかと。実際に今回の作品はオタクウケがいいとも言われている。庵野やれば出来んじゃねえかと。実際に世の中ひっくり返って、滅茶苦茶になってしまった。自意識を卒業して外に開いたら上手く行く時代では無い。一方では記号的消費に流されて承認を求めて彷徨っている。その時代の空気にシンクロしたテーマに変わっている。

これは自分が職人なのでわかる事でもあるし、そもそもタイプ的に、例えばレコードやCDや本をアホのように持っているとか、相当スットコドッコイな古い車ばっかり乗っていたとか、楽器をミュージシャンでもない単なる趣味のくせに、正気とは思えないようなくらいいっぱい持っているとか、バカみたいに洋服をいっぱい持っているとか、「こだわりを無くしたら男じゃねえぜ」が、昔からの口癖であるとか、普通の人からすれば、コイツアホか?と思われてもしょうがないと自覚もしてます。

何かを集めたり、ミュージシャンのマニアックな情報を詳しく突き詰めたり、何かの蘊蓄話を語り始めると、「あはは、そうなんだ、凄いね。あ、もうこんな時間だ!!か、帰らなきゃ」とさせてしまうような、もちろん同種の人間にはウケはいいかもしれませんが、一般人にはある意味引かれてしまうような所がありますものですから、そうだよこだわるっつうのは大切なんだい!!という自分の気持ち的にも共感出来ます。

変化の例を詳しく観て行きますと、例えば、綾波が旧作と同じセリフ「私が死んでも変わりはいる」というのに対するレスポンスも随分変わっている。これは二重の意味で、自分がクローンであるという事の意味と、システムのロールを担う全てのこの世界にいる人にとって、俺がいなくても変わりがいるかもしれないな、という交換可能な誰でもいいのかもしれない本当は、という共感可能な実感、という意味の二つの意味が込められているわけですが、それにたいしても旧作のシンジ君は「そんな事言うなよ」程度の反応でしたけれど、綾波の真実を知って驚愕し、実際テレビ版の24話では、何も誰にも言えないと人の問題を考えるというより、自分の事でいっぱいいっぱいで、綾波に相談出来ないと嘆いていましたが、綾波の境遇を嘆いているのではなくて、「誰も僕の事分かってくれない」と中二病的に嘆いていた。まあ本当に14歳なので中二なんですけど。

しかし今回は明確に綾波に対してメッセージを伝える、お前はお前しかいないと。

序の段階で微妙にポジティブになったなとは思ったけれど、今回の終盤でそれが最大限に炸裂する。悪くいうと昔の熱血っぽいのだけれど、それが不愉快に感じないように丁寧に作られていた。シンジ君がそんなセリフを言うなんてあり得ねえよと思われないように上手く作られている。

この作品の気になる所で繰り返し描かれるのが食事のシーン。その事が多分監督自身の変化を表しているような気がする。庵野さんというのは非常に好き嫌いが多く極端な食生活をする人だという事で有名です。好きな食べ物が何もない。豆腐くらいしか食わない。自分も昔は凄くそういう所があったし、今も料理の仕事についた事によって、だいぶ減っているとは言え少なからずそういう所があるので、その話を聞いた時は、おお、なんか共感出来ると思ったものですが、彼のそれは半端じゃないらしいです。豆腐と言っても薬味もかけなけりゃ醤油もかけないとか。

それだけ食べる事に対して、興味のなかった人でありながら、繰り返し食事のシーンが描かれる。旧作でも多少は描かれますけど、それは料理をしないズボラな女である葛城ミサトとの対比を際立たせる為の装置としてであり、主人公自身にもみんなで食事したりワイワイするのが苦手だと言わせているし、ミサトにも言わせている。作戦が成功し子供達がミサトからラーメンをおごってもらうという描写もありましたが、今回の新作ではあの時間に濃縮しているにもかかわらず、繰り返し食事にまつわる描写が入っている。しかも作っている所も描いているし、みんなで食べている時の雰囲気もキチンと描いていて、しかも主人公までもが楽しそうにしている。

主人公のお父さんである碇ゲンドウにいたっては、綾波の質問、「誰かとする食事って楽しいですか?」にたいして肯定までしている。要するに誰かと一緒に食事をするという事はコミュニケーションを取るという事になる。それが楽しいと言わせている。他者とのコミュニケーションのわかり合えなさに対する断念ベースで描かれていた旧作との決定的な違いではなかろうかと思う。しかも監督が興味のなかった食べる事が。

これは多分決定的な監督の目線の変化で、その事が作品自体の目線を変化させているように感じます。食事絡みで主人公も誰かの為に作るし、その他の登場人物達も自分の大切な人の為、もしくは自分の大切な人の幸せの為、食事を作ろうとする。指を切っても一生懸命に。これは多分監督が結婚されたから変化した心情なのかもしれませんが、食べる事が嫌いだと言うのは単なる自分の好き嫌いであり、エゴでもある。しかし食べる事が嫌いだと言う人に対しても、食事を作ってくれる人がいる。

自分は料理の仕事をした事で好き嫌いが少なくなったのと同時に、作ってくれた人の好意を無にする事は出来ないと思うに至りました。もちろん金出して外食した時にマズかった場合は一口食って全部残すという事も平気でやりますが、誰かがカネの為ではなくて自分の為に作ってくれたものに関しては、基本的に文句も言わないで食べるし、残さないで食べる。正直自分はプロなのでどう考えても、自分で作るものよりはおいしいはずはないのが実際の所なんですが、それでも作る事の面倒くささを理解出来たので、わざわざ作ってくれたものに文句を言うなんて出来ない。マズくても食えないほどのゲテモノでなければ、つまり調味料をおもいっきり入れ間違えるとかがなければ食べます。もちろんワザとらしくマズいのにおいしいよとは言いませんけど。

これと似た目線を獲得しているような気がする。実際に綾波が肉が食えないと言うのに対して、シンジ君は味噌汁なら飲めるでしょ。おいしいよと言う。実際においしいと感じる綾波。こんな感じの場面もあったりする。食事というのは、ただ食って腹を満たす為だけにあるのではなく(これは作品中のエヴァが使徒を補食する描写との対比という意味合いももちろん)、作り手から食べる人への思いや、命を食っているという事。そして誰かとの食事というのはそこに当然何らかのコミュニケーションも生じ、会話なんて無くたって人との繋がりを確認出来る瞬間でもある。同じものを同じ時間に同じ場所で食べる。

その誰かが作ってくれる食事、誰かに作ってあげたい食事、という目線が、そのまま物語りの変化を生み出すまなざしと直結しているような気がする。人に幸せになってもらいたい。それが自分にとっての幸せでもあるんだと気付いたまなざし。自意識から他者へとより重心が変わり、所詮人と人は分かり合えないという旧作の諦めのベースのようなものが、分かり合えないかもしれないけれど一緒に食事をすることも出来るじゃないか。というまなざしに変わっている。つまり旧作は自分の承認を満たす為にいかに他者と関わるかという自意識ベースだったのに対して、他者が「ぽかぽかする」気持ちになる事によって、自分も「ぽかぽか出来る」という風にベクトルが逆を向いている。

これは一歩間違えると人を思いやれ、みたいな説教に陥りがちです。しかし人を思いやるという事が自分の自意識を満たす為であるのか、その前に先ず他者を承認せずにはいられない、自意識が満たされるかどうかも関係ない。他者に幸せになってもらいたいというのが第一にある思いやりなのかでは全く意味が変わって来る。その事を徹底的に描き尽くして来た作品であるから説得力があるわけです。

腹が減っては戦が出来ぬではありませんが、食事というのは、それは何かを考えるにしろ、何らかの行動を起こすにしろ、何かを相談するにしろ、それがハッピーじゃないとしても、とりあえずなんか食ってから話そうよ、というのは腹が減ってギスギスした状態で物事を考えると腹もたちやすいし煮詰まりやすいけれど、お腹を満たしながら何かを考えれば楽天的に物事を考える事も出来るし、余裕も生まれる。少しくらいの事だったらまあいいかと水に流す事も出来やすくなる。全体的なトーンがポジティブに見えるのも、食事にまつわるシーンが増えたという事も関係しているような気がする。それはそのまんま監督の心情の変化にも直結しているように感じました。

続く!!
さて本日は少し砕けた話を書こうと思います。であると同時に、自分がこの事を書いてよいものだろうかと逡巡もする。語りたい人がいっぱいいるでしょうから。それに当ブログの読者様がはたして興味があるのか?という一番重要な問題もあります。しかし「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ・・・・・・書きます。書かせて下さい。」という事でおっぱじめます。ズバリ大ネタ!!ヱヴァンゲリヲンの新劇場版「破」についてあれこれです。

一応映画について書くのは、原則として、公開が終わってDVD化されてからと決め事として決めていたのですが、ここから切って行くと面白い見え方がするのではないかと思い、書こうと思うに至りました。最近、映画とか本や音楽と言ったサブカル系の話をあまりしていないので、本当は書きたい事がいっぱいあるのですが、優先順位で考えて、どうしても後回しになってしまっていました。どう考えても今の政治の話なんかを書くよりは、明らかにそういった作品から考察した方がより社会が見えて来るし面白い。この国の腐敗した構造は、ハッキリ言えば「腐ってる」一言で終わりです。面白くもクソも無い。こう言った話の方が多分実りがあるし面白いのではないかと思います。

この映画、先日観て来たんですけど、ヲタっぽい人がいっぱいいると浮きそうなので、カップルデイにまあ安くもなるので観て来たのですが、もの凄い超満員であんなに入っている映画を観たのも久方ぶりなんですけれど(先日レスラーをこれまたカップルデイに観に行った時は滅茶苦茶感動して号泣一歩手前の映画でしたけど、客は10人くらいしかいなかった。その映画館は他にもいろんな映画がやっている映画館で、結構人がいましたが、同じ時間に始まる映画は「ルーキーズ卒業」だけだったので、まさか半分とは行かないまでも、三分の一くらいはレスラー観んだろうな、と思っていたら、見事なまでに、みんな「ルーキーズ卒業」だった、マジかよって感じです。クソ間違いなしと思われる映画なので未来永劫観る気も起きないと思いますから、本当にクソかどうかは知る由もありませんので、批判するつもりもないし、もしかすると面白いのかもしれませんが、よくこんなテレビ局主導のどう考えてもクソ映画間違いなしの地雷を踏む気になるもんだとビックリしました。不景気なんてどこ吹く風です。だから不景気なんじゃねえかとさえ思う。実際にランキングでも一位だったりもするから驚いてしまいます。こんなのが一位になるんだから、真面目に映画を作る気も失せるってもんでしょう。メジャーな邦画も劣化するってもんです。あ、もちろん面白いのかもしれませんので観もしないでむやみに批判するのは止めといた方がいいですね)、圧倒的に普通の人が多かった。もちろんイケてない人も多かったとは思いますが、半分もしくはそれ以上はイケてる人も含めて普通の若者が多かった。B-Boy系もいたし、ちょっとヤンキーっぽいのもいたし、もちろん、おじさんもおばさんも、サラリーマン風の人も、ハゲたオヤジも、主婦や小さい子供まで、もの凄い幅広い客層でした。一般化しているんですね。そんな事なら、わざわざカップルデイに行かなくとも、結構普通なのかもしれないなと。

ちょっとダサめで女にモテなそうなくらいの人はいましたけれど、それは人口の割合で考えれば普通の話で、どこに行ったってそれはそうでしょう。動物園に行ったって、遊園地に行ったってダサイ奴はいるもんです。

だけどもっとこうなんて言いますか、筋金入りのA-Boyファッションに身を固めた所謂「オタク」がいるのかと思ったら、殆どいなかった。自分が見たのは二人くらいしかいなかった。頭に古くさいペイズリー柄の昔よく見たけど最近めっきり見なくなったバンダナを鉢巻き状に巻いてノースリーブのTシャツをケミった(最近復刻して流行っているのではないですよ、もちろん80年代後半から90年代初頭にかけて、一世を風靡してダサイ奴がみんな履いていたアレです)ジーンズにin、手にはドライバーグローブあの指が先っぽだけ半分出ている革の手袋という強烈な自己主張でした。

そういう人だらけで囲まれて観るのも浮きそうだと思った反面、そういう人を見るのも実は密かに楽しみだったのですが、肩透かしを食った感じです。もっとメンズデイとかに行けば凄いのかな?A-Boy系のファッションも実際にネットで服が買える時代ですから、簡単に脱出出来るようになっているというのがあるのかもしれませんが、一般化しているんだなとつくづく感じたもんです。もちろんカップルデイだからというのもあるんでしょうけれど、女の子もいっぱいいたし、腐女子って感じでもない子もいっぱいいた。ギャルっぽい子も結構いた。

いくら話題のアニメとは言え、宮崎駿作品とは違って、かなりマニアックな話です。にもかかわらずこれだけ普通の人も観るのだから、随分一般化したんだなと思えました。オタクがヲタクに表記の仕方が変化したのはそういう事の現れなのかもしれないなと思いました。

「オタク」が「ヲタク」に表記の仕方が変化しているのと、「エヴァンゲリオン」が「ヱヴァンゲリヲン」に変化したのも最初の企画段階の表記に戻したという話が真相だそうですが時代とリンクしていて象徴的な気がします。

自分がこの作品を一番最初に観たのは旧作の完結編の映画版が始まる直前(正確に言うと春エヴァと夏エヴァの間)に当時こき使っていた若いあんちゃんに勧められてというか貸してもらって旧作のテレビ版を観たのが最初です。それまでは世間では大騒ぎしていたけれど、全く興味もなかったし、アニメに時間を割くなどもったいないとさえ思ってバカにしていた。しかもちょっとアニメとかオタクって言うと、危ない奴というイメージを持っていたので、おススメされてもかなり拒絶して、最後はしょうがなく観た。

なぜ観たのかと言うと、当時いろんな雑誌、サブカル系の雑誌とか、音楽雑誌とか、ファッション系の雑誌に至るまで、なぜか「エヴァ特集」を組んでいた。当時はそういった雑誌も買っていたので、またこの特集かよ、勘弁しろよ、と思っていた。本当にビックリするくらい、いろんな雑誌が「凄い」「画期的」と大絶賛の嵐でした。洋楽のロック系の雑誌まで、そういう話をしていた。だけど人間というのは不思議なもんで、自分に関係ないと思う事には全く興味を持てません。いくら煽られていても、死ぬまで観ないだろうなと思っていた。

それが自分がこき使っている後輩が、エロビデオを貸してくれると言うならわかりますが、まさかコイツまでエヴァンゲリオンに汚染されているとは、ブルータスお前もか!!って感じでビックリしたのです。つまりとてもじゃないけれど(それまでの自分の勝手な偏見で)アニメなんか観て喜んでいるような奴には見えなかった。そこで抗えきれずにまあしょうがねえ暇つぶしに借りてやるかと思ってちょろっと観ていたら、これがビックリするくらい面白くて、ええ!!なんじゃこりゃって話でした。

作り手の異様なテンションと、当時としてはあり得ない展開、そして何より哲学や神学と言ったような自分の大好物な領域にまで手を広げている所が、バカにしていた自分を後悔させてくれた。こういう難解な事を子供向けのアニメで描いていいのか?と。かなりきわどい描写も多かったし、エロい描写もあった。これ子供が観てるんだよね?とビックリするような。もちろん話自体の面白さも当時としてはおったまげた。あっという間に全26話見終わっちゃった。そしたら、このテレビ版の25話、26話が放送事故と言えるようなぶっ飛んだ内容で、面白かったのですが、最後になぞが解決するのかと思ったら、崖に手がかかったその手を踏みつぶされて奈落の底に突き落とされたような終わり方でした。それでまんまと映画館にまで行って、旧作の完結編を観るにいたってしまったわけです。まさにトラウマになるような展開でした。

これには今現存する(当時)日本のクリエーターは誰も勝てないかもしれないとさえ思った。大人向けの映画やドラマがクソ塗れなので、映像の領域ではもちろんなんですが、音楽でもここまでの表現は少なくとも日本ではないかもしれないとさえ思った。それくらいエッジが効いていた。ロックだと思った。

今思えば旧作のエヴァンゲリオンが大人気だった時代から、変化が始まっていると思うのですが、オタク的なコンテンツが一般化して来ました。丁度その頃その変化の出発点があったような気がする。自分もエヴァンゲリオンのおかげでアニメであっても偏見を持たないで、評価が高かったりすればとりあえず観てからなんか言うという姿勢に変化しましたし(特に最近はYou tubeで観れるから、話題だと言われれば簡単にチェックが出来るようになっている)、当時の特に若い子の変化がビックリしたのを思い出します。

こればっかりは最後までやらなかったのですが、「ときメモ」という恋愛美少女ゲームが流行りましたよね。自分はてっきり二次元の中でしか恋愛が出来ないモテない危ない美少女アニメ好きのオタクがやっているものだというくらいの認識しかなかった。気持ち悪い現象だなと。しかしこれも自分が働いている所で使っていたあんちゃんがやっているというのを聞いた時にビックリたまげた。会話の中で、昨日の休みはどうしたんだ?という風に聞いたら、昨日は一日中ゲームしてました「ときメモ」ですよ、恋愛ゲームです。美少女キャラをオトすんすよ。調理長やった事ありますか?みたいな話になった。

ええ?い、今なんて言った?

そいつは見てくれもイケメンだったし、オシャレ、スポーツも万能。趣味もサーファーと言った感じで、女の子にもモテていたし、実際にギャル系の可愛い彼女もいた。なのに二次元かよってビックリしたのです。そいつ曰く彼女家に遊びに来て、彼女が音楽聴いたり、雑誌を読んだりしている傍らで、「ときメモ」をやっているというのです。そ、そんなバカな!!と思った。

彼女に聞いても「そうなんすよ、何とか言って下さいよ、一日中やってるんだもん」みたいな感じで、なんだかんだで許容しているし。ときメモで二次元の女の子と疑似恋愛に飽きたら、傍らにいる彼女と現実のセックスという展開なのかと驚きを感じました。なんじゃコイツらと。この俺様も経験した事の無いプレイを・・・・・実際にその後ラブホなんかでもコスプレを貸し出してくれるようになりましたよね。そういうのも影響を及ぼしているのかもしれません。じ、自分は、つ、使った事無いですからね。彼女に、ナ、ナース服なんて着せたりなんて。

そこでビックリするのはまだまだ甘くて、それ以外の働いている若い子達に「お前も『ときメモ』やってんの?」と聞いたら、結構な数の若いあんちゃんが「当たり前っすよ」「まさかやった事無いんですか?」みたいな反応だった。コイツはまさかやってないだろうという感じの、ヤンキー上がりの夜な夜な暴走行為を繰り返しているバカに聞いても、ああ!!やった事ありますよ、結構面白いんすよね、あれ、みたいな反応だった。バカ野郎現実の女の子に向き合えというのもバカらしくなるくらい、現実世界にもちゃんと彼女もいるし、ナンパしたりコンパしたりもしている。そんなたかがゲームじゃないっすかみたいな感じで、あっけらかんとやっていた。

ありゃりゃこれは自分が若い頃とは完璧に時代が変わっているぞと痛感したのです。つまり自分が若い頃というのは、アニメを見るのとスポーツをやるのと、ギターを弾いてバンドをやるのとでは、明確な差異があった。バンドと言ったってビジュアル系に走る奴、オシャレな感じのものに走る奴、テクニックをキッチリ練習してロックの王道に進む奴、それが行き過ぎてメタルになっちゃう奴、日本の流行りの下手クソなバンドっぽいのをやる奴と、いろいろこだわりもあったと思うし、あんな奴らと一緒にするなよと思ってもいたでしょう。だけどその差異が消えて来ていると思ったのです。バンドをやるのも、アニメを見るのも、スポーツやるのも、恋愛ゲームで萌えるのも、実際の女の子と付き合うのも、自分の時代のような明確な差異が消えてしまって、彼らにとっては差異があるのでしょうけれど、上の世代から見ると、その境界線が見えなくなってしまった。だからこだわりも無いし軽やかになっていると。

それが今ではどんどんテクノロジーの発達によって更にその差異が消えていると思います。ルーキーズ卒業を見るのも、新作のエヴァを見るのも、洋画でさえも、共通前提になるネタとして見ている。携帯小説を読むのも新訳版のドストエフキーを読むのも、村上春樹の新作を読むのも、ドラクエをやるにしても、自分らの世代が思っている差異を感じずに取り込んでいる。羞恥心を聴くのもジャニタレを聴くのも、宇多田ヒカルを聴くのも、Perfumeを聴くのも、初音ミクを調教するのも、ビートルズを聴くのも、マイケル・ジャクソンを聴くのも、レディ・ガガを聴くのも自分が思っているような差異を感じる事無く、フラットに並べて聴く事が出来るようになっている。それはそれでいい事なのかもしれません。まさにポストモダン社会とも言える。だけど、それだけでは足りない時代に変化もしている。まさにコミットメントが必要な時代に。

その事に対して、新作のヱヴァンゲリヲンは描いているような気がします。旧作のエヴァンゲリオンがオタク達、もしくはオタク的なるものに対する監督なりの一つの総括というか、批判だったのに対して、新作はヲタク的な消費、記号的消費に対する立ち方の問題、記号的消費に埋もれている場合で無くなっちゃった社会の変化に対する立ち方というか、総括のような。

そしてこれは重要な話なのですが、サブカルチャーというのは時代性を反映しているもので、そこから見て行くと時代の変化や、何が変わってしまったのを見る事が出来ます。時代に受け入れられるようなものというのは、作り手からの明確なメッセージも込められているし、それがダイレクトに時代の共感装置になり得る。なので単純に楽しんで音楽を聴いたり、作品を読んだり観たりするレイヤーとはメタなレベルで、そういうものがなぜ人気になるのかという事を考えて行くと、社会の変化を見る事が出来ます。これは問題を知る上でも対処する上でも重要な要素で、例えばサブカルチャーもたいして理解していない人が、日本論とか日本の政治論とかを語ったり、意思決定のプロセスに関わってしまって流れが生み出されてしまうというのは、本当は重要な欠落でもある。

つまり朝生に出て来たり、桜チャンネルなんかでピーチクパーチクやっているお座敷論壇の連中なんてのは、基本的にそういう事もわかりもしないで、時代性とは全くズレた所で、古くさい歴史とか西洋のカビの生えた思想を持ち出して、日本のあるべき姿、みたいな議論をしている。もうその時点でお笑いであり、完璧にズレている。うるせえよって話です。それが不必要だとは言いませんけれど、そういった事を考察するのに必要なものを、片翼しか持っていないで飛ぼうとしているように見える。固い学問やハイカルチャー的な政治経済の話も重要ですけれど、そこに生きている人はそれだけで生きているわけじゃないのだから、それを支えるサブカルチャー的な目線からも解析してこそ、初めて両翼で羽ばたける気がする。

そうじゃないとそういう話がただ老人達がオナっているようにしか見えず、どうやって未来にツケを残すのを誤摩化すか議論しているようにしか、多分若者からは見えていないのだろうし、見えているだけじゃなくて実際にそうだったりするから救いが無い。多分それがもの凄く大きな問題でもあるように思います。何が問題なのかもわかっていないし、それに対する処方箋もズレまくっている。そしてズレている根本的な理由もわかっていないのでどうにもならない。

日本でサブカルチャーから社会を見ようと思えば、アニメは絶対に外せないでしょう。なぜかと言えば、日本のサブカルチャーで唯一世界で通用しているコンテンツをつくり続けている分野の一つがアニメーションや漫画文化、そしてゲームでもある(ゲームは全然やらないし、漫画はコストパフォーマンスが悪すぎて、話も進まないので、殆ど読みませんけど)。
映画と言ったって、もちろんいい映画はありますけれど、単館上映だったりもするし、いい映画ほどメジャーからはかけ離れた所で作られていたりする。メジャーな映画はほぼ糞塗れ、何も反映していないし、何も描けていないものばかりです。ただそれは我々に中身が無いという事を示しているだけ。だから当然世界に通用するなどあり得ない。「おくりびと」なんかが評価を得て、大騒ぎしましたけれど、アメリカのアカデミー賞自体が、え?というものがとっちゃったりする賞なので、まあこんなものかと思いました。滅茶苦茶穴だらけで、展開も見え見え、まあクソ映画よりはかろうじてマシなレベルかもしれませんけれど、とてもじゃないけれど、傑作とは言えない。一部の人の演技も酷かったし、脚本もたいした事は無い。特に演出が酷かった。普通というか、どちらかと言えば駄作という感じでした。

音楽も残念ながら物まねばかりで、殆どがそこから読み取れるような実りのあるものは無いでしょう。小説はいいものもありますが、これももはや少数派のコンテンツでしか無く、時代性を読み取る事が出来る作家というのはごく僅か、それの物まねばかりが横行している。

ただアニメ文化だけは世界に通用しているし、日本の中でもそれなりの動員もある。ヱヴァンゲリヲン満席でしたからね。もちろん物まねも横行しているのですが、その事が記号的消費の変化を読み取るにはもの凄くわかりやすい。

日本のメジャーな邦画なんて、海外では殆ど売れないけれど、オタクは世界中に広がっている。音楽も世界では売れない。小説も有名な人しか翻訳されないのだから売れるわけが無い。だから日本がどのように見えているのかというのも、政治とか経済を見ているだけでは見えません。政治とか経済なんかはたいした国だとどこの国も思ってないかもしれませんが、その分野だけは多分多くのリスペクトを集めているでしょう。だから政治とか経済なんかよりも重要かもしれない。麻生なんて誰もしらなけれど、日本のコンテンツは世界中に広がっている。麻生はアニメだ漫画だとほざいていたけど、そこから何も読み取ってないのだから意味がない。

ありゃりゃ本編の話を書く前に前提話でこんなに書いちゃった。次回で本題に入ります。続く!!
旦那さんが亜ヒ酸によって殺されそうになる。幸いに未遂に終わった。その殺そうとした妻と、せっかくの機会だから共謀して保険金詐欺を働こうとする。このストーリーを普通のオツムを持った人間が聞けば、どう考えてもおかしいだろと思うでしょう。いつもう一度殺されるかわからない自分を殺そうとした妻に一緒に保険金詐欺をやろうと持ちかけるのか?それとも殺して保険金をせしめようと思った対象である旦那さんに対して、せっかくだから保険金詐欺をやろうと妻の方から持ちかけるのか?普通一緒に生活する事も出来なくなるのではないか?それがごく当たり前のリアリティです。

葛湯、牛丼、うどんだけでなく、起訴されていないものまで含めると、22回奥さんは旦那さんを殺そうとしているという話になっている。旦那さんは最後まで生きていて、しかも22回も殺そうとし続けて来た奥さんと逃げずに一緒に住み続け、裁判では自分が飲んだんだと庇っている。ヒ素を使って殺そうとしたら、わずかになめただけでももの凄い作用がでるのだから、絶対に失敗しない。ヒ素を使って死なないようにする為には、それなりに加減をしてなめないと上手く行かない。

こんないい加減な話、どう考えても合理的な疑いの差し挟む余地はありありです。つまり判決は不当だという事です。検察側が作り出したストーリー自体、完璧に論理が破綻している。小学生にだって説明すればおかしいと感じるのではないでしょうか。一方では旦那さんは詐欺で有罪、しかも奥さんとの共犯としてパクっている。共犯者であると言っておきながら、親族を庇う為に自分で飲んだと言っているので怪しいという話となっている。??一方では繰り返し旦那さんを殺害して保険金をせしめようとしていたというのを根拠にして、カレー事件の根拠としている。旦那さんは被害者であると言う、そのくせ詐欺の共犯だと。????

丸っきり矛盾している内容で、こんな酷い稚拙な論理で通ってしまうのが、日本の司法制度の現状です。頭が痛くなってくる。しかもそれがこの国のマスコミの手にかかるとちゃんと報じるどころか妥当だって話になってしまう。なんだそりゃ?カレー事件は無罪であると、もし普通の会話で誰かに話したら、頭がおかしいと思われるかもしれません。人として道徳に反していると言う人もいるかもしれない。それが日本の現状であり、カルト教団の信者を笑えません。

誤解されたくないので繰り返し書いておきますが、彼女がカレー事件の犯人ではないと言っているのではない。犯人かもしれない。しかし現時点の証拠では彼女が犯人であると断定は出来ないと言っているのです。であれば近代裁判の鉄則としては無罪になるのが法治国家としての常識であるわけです。このおかしな矛盾点を司法が気が付いていないわけが無い。気が付いていてわかっていながら、この判決をひねり出して、その事をバカマスコミは報じる事も無い。

あの時のメディアスクラムがきっかけになって、集団過熱報道という言葉が生まれて、結局民放連は御手盛りの自主規制にまで及ぶわけですが(もちろんその後も延々と今でも繰り返していますけど)、あの推定有罪報道の最中、世間中が平成の毒婦と林真須美被告を犯人視している最中、別に犯人がいるかも知れないという事や、彼女は犯人ではないのではないか?という事を言えるような空気ではなかった。

松本サリン事件を思い起こせばわかるけれど、原因不明の毒ガスで人が死んだ。誰かが犯人であり、誰かを逮捕しなきゃならない。昔薬を扱っていたというだけの理由で、しかも専門家がすでにそこにある農薬だけではサリンは精製出来ないと言っていたにもかかわらず、そんなものは報道もされず、奥さんまで被害にあっているというのに、河野さんを犯人視してみんなで血祭りに上げた。

この事件の場合、その後真犯人が出て来たから、随分時間が経ってから謝罪会見などもあり、晴れて河野さんの冤罪が証明される事となるのだけれど、あの時犯人が見つからなかったとしたらどうだっただろうか?オウムが真犯人であるという事が発覚する事無く、その後何も事件を起こさなかったとしたら、はたして河野さんの冤罪は晴れたのだろうか?真犯人が見つからないとなれば足利事件のように冤罪事件が晴れるのに17年もかかる国です。

この国ではヘタをすると、真犯人が見つからないかぎり、冤罪は晴れない。無罪を主張すると、無罪を証明せよって話になる。マスコミもそうやって叩く。お前がやってないというのなら、誰がやったというのだ、ってな感じで。そんな無茶苦茶な話は無くて、それは疑われている側のする事じゃない。疑っている側がやる事だし、第一やってないという事は証明出来ない。

よくバカマスコミとそれに煽られた世論が、説明責任という言葉を使う。でも疑われている人が、自ら潔白を証明するという事は出来ません。疑いだせばキリが無い。いつまでも言い続ける事が出来る。いくらでも疑えるし、怪しいと言えばどこまでも怪しい。疑いを持つ側が、有罪であるという事を証明するべき事であって、その証明が僅かでも、必ずしも断定は出来ないのではないか?つまり怪しいかもしれないけれど、絶対にそうだとは言えないのであれば、その時点でその疑いは破綻している。逆ギレして怪しい、証明しろ、と言い出しちゃったら、誰でも有罪に出来ます。というか現に有罪にして死刑にまでしている。

もちろん政治家なんかに説明責任を求める気持ちはわかる。でもバカマスコミの追求なんかは特にそうですが、絶対に証明しようのない怪しさを根拠に追い詰めて行くという手法を取る。マスコミに期待しても無駄なので、それがどれくらい危険な事なのかを我々が自覚する必要があります。ましてそれが司法の場で今現在適用されてしまっているという事がどれほど恐ろしい事なのか、これもやっぱりバカマスコミは報じる気配すらないので、我々が自覚しなきゃマズい。

裁判員制度にはいろいろと言いたい事はあります。しかしもう止められない。民主党も反対しないというのですから。なので、この機会を逆手に取って、市民が司法をチェックするチャンスを手に入れたと見るしか無い。学びの機会を。これは当然犠牲をともなう事でもあります。我々の無関心がこれまで以上にダイレクトに人を傷つけてしまう。

これが陪審制とかですと、全員一致で有罪となるので、一人でもその事に疑いを持てば、検察側の証拠に合理的疑いの差し挟む余地があると説得出来ればいいのですが、日本の裁判員制度では過半数で量刑までもが決まってしまいますので、非常に厳しい事が予想されます。しかも裁判の時間も短縮されてしまう。

情報開示は市民性の成熟の為には、必要不可欠の事とは言え、一番後回しにすべき領域から、市民化してしまっている。市民化する必要が必ずしもあるとは言えない領域から真っ先に市民化している。情報公開すべき所は殆どしらばっくれているくせに。悪質な市民性を利用した正統性の調達を国家側が行なおうとしている。もうかなり切羽詰まった所までこの国は突き進んでしまっている。

今の民度やマスコミの低レベルさを考えると、絶望的な状況を目の前にしている。いきなりにしてはハードルが高過ぎる。しかしこうなってしまった以上、それを回復させるのは難しく、である以上、我々が気付くしかない。気付けば一発でこの国の民度の低さや、マスコミの害を取り除く事が出来るかもしれない。その為にもこの問題を真剣に見つめ直すというのは重要だと思います。

誰かがやったわけだから、誰かを捕まえなきゃならない。そうしないと世論も国は何をやっているのだ?となるだろうし、不安を抱えたまま人々も日々生きなきゃならない。このカレー事件もそう、細かい所を見て行けば合理的な疑いの差し挟む余地はありありだという事も司法は百も承知、だから「合理的な疑いの差し挟む余地のない『程度』に証明された」と言っているのでしょう。どう考えてもあの人達は悪人である事は間違いなく、どこかに帰属処理をさせないと、矛先が収まらないという事で彼女に背負わせて葬り去ろうとしているように見える。

彼女は確かに悪質な詐欺集団の一員であるという事はわかっている。そして今回のカレー事件というのは世間を震撼させた悪質な無差別殺戮であり、どんな理由があるにせよ許されるようなものではあり得ない。しかしこの間を繋いで被告が犯人であるという証拠というのは、他にやった人がいない。見張りのときの動きが不自然。亜ヒ酸の不純物が同じものが混ざっていた。髪の毛にヒ素が付着していた。ヒ素を使って人を殺害しようとしたという検察の捏造ストーリ。たったこれだけしか無い。しかもいずれも吟味すれば合理的な疑いを差し挟むどころか疑いの塊のようなもの。であるにもかかわらず本人はその事を否認し認めなかった事を持ってけしからん、反省が無いという事で、死刑が下されている。やってないと主張しているのに反省もクソも無いような気がするのだけれど、それがこの国の司法にかかるとそれが正当化されてしまう。

今回の裁判長は痴漢冤罪事件の裁判長を務めた人で、裁判員制度導入の直前に行なった、裁判というのは重要な決定をする場なんだという事を調達する為に、囮として痴漢冤罪事件によってプロパガンダ的に利用し、公正さをあたかも示し人々の感情を満足させ、一方のカレー事件では裁判の不適切な側面が露見する前に、とっとと終わらせて葬り去ろうとしている。要するに痴漢冤罪事件で無罪になった人にとっては、もの凄く善い事だったに決まっていますが、どう考えても冤罪であるこの事件を利用し裁判は公正な場であると一方で宣伝に利用しておいて、一方で慎重な吟味も無く合理的な疑いの塊であっても、世論も平成の毒婦を葬り去る事については反対もしないだろうから、本当の問題点を隠してしまった。

裁判官と言っても所詮役人、検察官も役人、官僚は官僚のやった事を追認し隠蔽して行くというのが、基本的に政権交代も無く情報開示もなされない国家権力の姿であり官僚の行き着く先でもある。官僚もしくは国家権力は過ちを犯さない事にしたいし、その事をよっぽどの事が無い限り絶対に認めない。まして同じ政権が独裁状態な訳だから、チェックだって入るわけが無いし、官僚自体もそのモチベーションも無い。いかにして利権を護持するかという力学が、情報を隠蔽して押し通す事の方が合理的であるとなる。定期的に政権が入れ替わって、その都度情報公開がなされ、ある程度のサンクションがあるとなれば、情報開示をして過ちを認める事が逆に利権護持になるのですが、独裁政権でしかもそれを国民がずっと追認して来たわけだから、そんな風になるわけが無い。最近政権交代が起こりそうだとなっているから、核密約の話が出て来て、自民党の議員ですら騒いだりするようになっている。そういう牽制が無ければ隠すのが一番合理的な判断になる。

政権交代を必要とする一番の理由はそこです。民主党の政策がどうとか、何をしてくれるのかとか、そんな事はたいした問題じゃない。政権交代が定期的に起こる事によって、情報を隠蔽するという作法が通じない社会にする必要がある。それだけが権力の暴走を食い止める事が出来る。つまり我々がそれを許して来たのが一番の問題なのです。そしてその事によって権力の暴走を食い止めるというレイヤーとは別に、もっと深刻な我々側の問題、しょうがないじゃないか、と受け入れている一番厄介な問題がある。

あの状況で実は無罪だったなんて事は言えないし、人々も納得しないでしょう。そうなればじゃあ誰がやったんだ?という話になる。死刑の判決が決まってすぐに被害者家族の記者会見を流し、合理的疑いの差し挟む余地がないという判決が全てであるとか、あの人が犯人であるという事を信じているとか、動機を聴きたくて傍聴していたのにその事を聴けなくて残念であるとか、何でそういう事をしたのか?何で娘が死ななきゃならなかったのか?動機がわからないまま家族が殺されたのだとしたら納得がいかないとか、悲しみにくれ怨みを募らせている被害者家族達の苦痛の叫びを報じ、判決の妥当性を論理的にではなく情緒的に国民にすり込もうとする。

確かに被害者家族の苦痛の叫びは当然でしょう。怨みも当然でしょう。殺したとされる相手な訳だから、死刑になったくらいじゃ済まねえよと思うでしょう。自分もその立場だったら同じように思うでしょう。しかしそれはあくまで林真須美被告が犯人であるという事が公正な裁判で証明され、しかも適正手続きに則って行なわれたという前提があっての事です。そこの問題を情緒的な感情の釣り針で国民を煽動して誤摩化そうとしているのが見え見えです。

それにこの状態で家族の方々の前で、林真須美被告は無罪、別に犯人がいる可能性があるという判決を実際に下せるのか?という一番厄介な問題がある。その場合、被害者家族達はどうなるのだろう?住民の規模も少ない町で、ひょっとするとその中に別に犯人がいるのかもしれないという事になる。受け入れがたい難しい問題を抱える事となる。

狭い町であればあるほど、疑わしいのは林真須美被告だけだったのか?多くの人々が完全にあの人に違いないと思っていたのか?それともそうではなくて、他にも怪しい人がいたのか?他にも怪しいと思える人がいればいるほど、林真須美被告に帰属処理させる事によって一件落着にしてしまわないと面倒くさい事になる。他にも怪しいと思える人がいるかどうかとは別に、いるとは思っているけれどとてもじゃないけれどこの状況じゃ言えないという人もいるだろうから、実際の数をカウントするのは不可能。国家権力が捏造しているという話とは別の話で、検察の描いたストーリーに町の人々が乗っかる動機にはなり得る。

場所は和歌山の郊外、新興住宅地で地域の繋がりはそれほど無い。自治会の夏祭りで起こった出来事。メンバーは400人くらい、子供達を対象とした催しだった。会場とは言っても単なる空き地で、誰でも来れるとは言っても、自治会以外の人が入って来て楽しめるようなお祭りではない。そういう人がいれば一発でわかる。つまり仲間内の自治会のメンバーの中の誰かが犯人。誰かが犯人であるという風に帰属してしまわないと安心出来ないし、そうしなければ誰しもが容疑者になり得る。

事件が起こった当初、地元では不信感で疑心暗鬼が蔓延し、全員が疑われている。そんな中で怪しい人が浮上して来る。その声のでかい決めつけに同調し、集中し、嫌疑が嫌疑を呼び噂が噂を呼び、それが確信に変わり、誰かに帰属することによって安心を得る。実際に林真須美被告が逮捕されてやっと地元の人達がお互いに会話出来るようになる。つまり林真須美被告が犯人でなければ納得出来なくなる。俺達の中に犯人がいるかも知れないとなる。

遺族の方々としてみれば、誰がやったのかもわからない状態で自分の愛する肉親が殺されてしまった。やり場の無い思いで苦しんで来た。判決によってそれが回復するわけも無いけれど、怒りの矛先の帰属が決まるというのは大きい。その事自体は遺族の立場としては当然だろうし、仕方のない事だとは思うけれど、マスコミ、それに洗脳されている我々、国家権力、もちろん被害者遺族や地元の方々を含めて、林真須美被告が犯人であってもらわないと困る連中の方が圧倒的で、林真須美被告が犯人であって困る人というのは本人と家族くらいなもので圧倒的に少ない。

圧倒的多数がそう思っていて、被告も善人ってわけでもないのだから、もうしょうがないではないか。推定無罪、1000人の罪人を放免されようとも1人の無辜の民を刑する事なかれ、という筋論はわかるけれど、このまま押し切れば地元も丸く収まるし、遺族の心のやり場の帰属も決まる。社会の保全の為であればこれも一種の歩留まりで、社会の保全の為に犠牲になっている人は他にも沢山いるわけだし、今更司法がひっくり返るなんて事はあり得ないし、どうせマスコミも報じるわけも無いし、多くの国民もだいぶマスコミの信用度は薄れているとは言え、特に高齢者で選挙にモロに影響を及ぼしそうな世代はそれを鵜呑みにしているし、若年層だってそんな面倒くさい話は興味も無く、どうでもいいんじゃないのと思っている。そういう状況に多くの心ある人々も諦めざるを得ない状況がある。それでいいのか?という問題です。

要するに冤罪だなんだと後からその事が発覚して、検察を叩いたり、裁判所を叩いたり、もしくはバカマスコミを叩いたりする。その事自体は正しいかもしれないけれど、それと同時にそれを受け入れている我々側の問題。結局はそれを受け入れてしまっている事が問題なんじゃないのか?と。

鳩山兄と麻生の初めての党首討論の際、麻生は西松問題にこだわって墓穴を掘っていました。もちろんマスコミはキチンと報じもしない。「政治資金規正法を『犯した』方がそちらに座っている」「本人が正しいと思っていたとしても、間違った場合は逮捕されるという事は十分にあり得る」ととんでも発言をしていました。つくづく無知無教養なバカだと言葉もありませんが、そこを報じるというよりも、何となく鳩山と麻生の水掛け論的な不毛な党首討論だったと言った感じで、深くは報じないくせにどちらも軽く批判する。そういう問題じゃないだろうって話です。

犯罪を犯した人がいると断定して推定有罪で小沢を批判したという部分、まだ逮捕されただけで有罪が確定したわけでもないのに、行政の長たる人間が犯罪を犯したと断定している部分も論外の話ですが、刑法38条の第一項に罪を犯す意志の無い行為は罰しないと規定されている。過失不作為が認定される場合、安全運転義務違反といったような、注意をするべきであるのにしなかったとか、淫行処罰規定のような、年齢を確認すべきであるのにしなかったと言ったような、何々するべきであるのにしなかったという場合には例外対象となりうるのですが、それ以外は意志を持って成す行為を罰するのが刑法の原則です。意志が無い場合は過失になり、過失の場合、過失不作為のみが例外になる。こういう常識的な話も知らないで政治家をやっているどころか、総理大臣なんだから、そりゃ国が滅茶苦茶になるってもんです。行政の長がこれですから、そりゃ司法も劣化します。劣化しなきゃバランスが取れないでしょう。検察だって裁判官だって要するに役人ですし。

政治家としての資質を問われるような無教養なバカのとんでも発言をなぜキチンと報じる事が出来ないかと言えば、これもマスコミが普段からやっている報道そのまんまだからでしょう。推定有罪は当たり前。意志を持って成したかどうかも関係なく、徹底的に血祭りに上げて、仮にそれが無実であっても後からその事を報じもしないし、当時の報道を反省する事も無い。

小沢の西松事件の報道にしたって、民主党の政治資金第三者委員会の最終報告が出た際、その中でのマスメディアに対する批判に対して、それを真摯に受け入れて反省するという姿勢が皆無。新聞各紙これに反論している。

これが全くのお門違い。第三者委員会の報告を恣意的に取り上げて、紙面を使って反論している。最低のゴキブリ野郎共です。反論の内容も無意味。読売などはトンチンカン、検察報道批判的外れとか書いていた。頭が腐っている御用新聞ならでは、的外れはお前らだよバカ野郎って感じです。まさに情報を吟味する能力も無い官報。朝日なんかも紙面を使って反論していたけれど、頭の悪さはただ事じゃない。

小沢個人の政治責任と、法運用の問題は峻別して考えなければならない事です。検察のやり方をチェックしろなんて事を言うと、小沢の肩を持っているって話にもなってしまう。そういう問題じゃない。政治資金規正法なるものの元々の主旨、ならびに運用が従来どのように行なわれて来たのかという事に照らして、それが妥当であったのか。それを切り離して考える必要がある。

西松絡みの献金額で小沢は高額だからしょうがないという話では、献金の額によって検察が取り締まるか否かの恣意性を握る事になる。どの額であればいいのか、どの額だったらダメなのかという事についての裁量権が検察に渡されてしまうという事は、一人の政治家が金を貰っているとかいないとかの問題よりも遥かに重要な問題です。小沢の是非は国民が選挙で判断すべき事で、国家権力の怪しげな裁量、そういうものをチェックして恣意性を排除し、デュープロセスが回っているかどうかを吟味する事こそがメディアの責務であるはずなのにも関わらず、権力へのチェック機能は皆無。政治資金規正法で今回逮捕した事の是非について問われているにもかかわらず、その問題と切り離さずに、検察の行動が正しいかのような予断を与えるような報道をしているのは適性を欠いている。

検察の恣意性の問題に光を当て、従来の法運用との乖離を追求して、それとは別の問題として、小沢にはなぜ西松から多額の献金がなされているのか説明してほしい、法律に違反していないとしても政治責任は生じる。国民に不愉快感を与えているわけだし、それで政権交代が出来なければ政治家は結果責任が全てですから、政治責任は生じるし重いものでもある。それはそれでわけて書くのが妥当な報道と言えよう。新聞各社の反論は分離すべく二つの問題を一切解除する事無く、あえてか本当にバカで分からないのか混同した自分達の立場を、混同したまま自己弁護している。話にならない。国家権力に対するチェックの姿勢が微塵もない。

そして一番問題なのは政治資金規正法がどのような法律であるのか?どこに問題があるのか?という事をちゃんと啓蒙しないのも国家権力の片棒を担いでいる。「迂回献金と知りながら」とか平気な顔で報じている。それは法律違反ではないし、その事が問われているわけでもないにも関わらず、それがまるで違法であるかのように報じるのも、どう考えてもフェアではない。

そして嘘捏造いい加減に垂れ流していたという事の検証もなされない。西松から小沢への多額の献金が流れている、3億と言ったような嘘を垂れ流し続けて来た事に対する反省すら無い。実際には2003年から2100万だけが小沢の陸山会への献金額の総額で、それ以前には無い。政党支部への1400万というのと合わせて3500万で今回起訴されたわけだけれど、そもそもどちらも違法性があるとするには無理があるというのが大前提ですが、百歩譲って違法であるとしても、2100万を違法だというのなら1400万は違法にはならないし、1400万を違法だというのなら2100万は違法にはなりようが無い。矛盾してしまう。

自由党などへの献金の総額で3億ぐらいになるという話でしかない。党への献金は小沢個人への献金とは意味が全く違う。いざふたを開けてみたら、実際には陸山会への献金額は2100万。それを意図的に混同してわざと垂れ流し続けて民意を煽った。もしくは意図的でないとしても混同してしまったのなら、その事に対する説明責任があってしかるべきはずで、散々何億のカネが小沢の懐に入っていると言ったような嘘で推定有罪にぬり固めた事に対する説明が無い。そういった事を一切棚に上げて、もっともらしく紙面を使って、あたかも自分達に正統性があるかのような反論をしている。恥知らずもいいところ。2100万だって多額の献金であるとは思いますが、それを「3億も!!」と散々煽りながら、しかも西松の問題は小沢は飛び抜けて多額だから当然という論拠で、新聞各社小沢たたきに突っ込んでいたわけです。その報道自体、検察の裁量を認めてしまう事になるので論外なのは確かですけど、そういっておきながら、金額の問題じゃないと言った感じで開き直って、自分達の嘘に対する反省は一切無い。

あの逮捕と一連の報道に対して、何もおかしい所が無かったと本気で思っているのだとしたら頭が狂っている。立場によってそのおかしさの見え方は様々だろうけれど、なんの違和感も感じていないのだとしたら、報道なんて辞めちまった方がいい。そんな資格は無い。

法の適応についても明らかに政治資金規正法を逸脱しているし、取材をしているのだから番記者どもは検察の計算違いがあった事は十分知っているはず。にもかかわらず、第三者委員会の批判に対して、いちいち反論している。

組織防衛の為に上司から命令があって、下らない反論を書いたんでしょう。第三者委員会との応酬があれば当然第三者委員会からの再反論が突き付けられるやもしれないけれど、第三者委員会はその役割を終えて最終レポートを出しているからその応酬が無い。したがって新聞の大きな紙面を使って大々的に一回反論すれば、事実上の反論は無いので、自分達に正統性があるかのような、論点はそれしか無かったかのような体裁を取り繕うという小賢しい意図が見え見えです。論点を恣意的にズラして、ズラした論点について反論する事によって、自分達が優位であるかのような体裁を装う。なんとも姑息な最低の連中です。

要するに今回の一連の報道に対しては、何の反省も無いし、同じ事を続けて行くという事を宣言している。検察の恣意性にはアンタッチャブルであり、リーク垂れ流し報道を辞める事も無いし、推定有罪報道に対しても全くの反省も無いという事。

記者は記者クラブから閉め出されるような記事を書くなと上司に言われて、会社の命令に仕方なくか、もうそういう良心の呵責も無く無前提に受け入れてか、その通りに振るまい、お偉いさんはお偉いさんで、会社の存続や社員とその家族を守るという大義名分によって既得権護持を責務と考え、国家権力に媚び、それぞれは自分の立場を守る為に自分の仕事をやっていて、それぞれの立場からすれば合理的に振る舞っているのかもしれないが、それらを合成すると不合理な状況を生み出してしまう。今のこの国の中では官僚以上の最大の癌と言える。

それぞれが自分のやるべき事をやっているというだけでは不十分になる。そもそもすべき責務はなんなのか?人に反論したり、批判しているヒマがあるなら、先ず自分達でやれって話で、それが無ければ報道機関の責務は果たせない。「オレはオレのやるべき事をやっているだけだ、しょうがないじゃないか」という、「しょうがなさ」を越える覚悟が無いのなら直ちに報道なんて辞めた方がいい。社会にとって迷惑です。仕事は他にいくらでもあるわけですから。

そしてそれはそのまま我々にも言える。マスコミがクソだという事も、統治権力がクソだという事も、麻生がクソだという事も、全部当てはまっているのは確かですけれど、それを受け入れているのは誰なんだ?って話です。最終的には我々がそれを拒絶しないからツケ上がっている。その結果が今の日本の体たらくなのでしょう。それが問題であると思うなら我々が先ず変わるしかない。その事が今問われているのだと思います。麻生にしろ、マスコミのバカ共にしろ、それは我々の鏡に映った姿でもある。醜い姿ですけど、それが今の我々の姿なのでしょう。

それでは長くなりましたが、この話題はこれにてEND!!