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8月中旬、広島県の呉にて。

呉の市街地はすり鉢状に広がっていて、

街の高台にある海軍墓地からは

海が望見できました。

 

 

 

 

 

呉海軍墓地は開設されて120年。

艦船、部隊毎の慰霊碑91基、個人碑157基、

英国水兵の墓1基が建立されております。

13万余柱の御霊が安らかに眠り、

日本帝国海軍の歴史が刻まれている場所です。

 

 

 

 

 

 

まずは大和の碑へ…

 

日本海軍の象徴であり、沖縄を見捨てて

終戦の日を迎えることは許されなかった大和。

一億総特攻の魁として出撃し、伊藤長官を筆頭に

艦と運命を共にした2780人の名が刻まれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本海軍戦艦最期の主砲を放ち力尽きた伊勢。

海軍の空母不足を補うため前部が戦艦、後部が空母という

異形の航空戦艦に改装されます。

レイテ沖海戦では度重なる敵艦載機の攻撃を受けながらも

見事な回避術で一発の直撃弾も受けませんでした。

しかし日本に帰還すると燃料の枯渇から浮き砲台として

呉軍港外に係留されます。艦載機の攻撃で大火災を起こし

反撃する力も多くは残っていませんでしたが、

浅瀬に係留されていたため沈むことは無く、

最後まで主砲を天に向けたまま終戦を迎えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水雷戦隊の旗艦を担うため建造された阿賀野。

昭和18(1943)年11月11日ラバウルを連合国が空襲。

大破した阿賀野はトラック泊地を経由して佐世保に向かいますが

出航翌日、米潜水艦の雷撃を受け、那珂が救援にむかうも

満身創痍の船体に耐える力が残っておらず

昭和19(1944)年2月17日未明に沈没。

 

 

 

周りの欄干には雪風をはじめとした

かつての部下駆逐艦たちの名が刻まれ

阿賀野を護っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大東亜戦争当時に

戦地にお菓子を届け続けた給糧艦「間宮」。

日本海軍の将兵の間で最もその名をよく知られ、

また最も愛されたという特務艦です。

 

有名な下の写真、

建造中の1號艦(=大和)の向こう側が間宮です。

 

 

 

間宮には大勢の菓子職人が乗り組み、

艦内ではアイスクリームや羊羹、ラムネ、最中などを製造していました。

職人は菓子の老舗にいた人や親方についていた人も多く、

その仕事を受け継いでいるため、製造される菓子のクオリティは

非常に高いもので特に羊羹は美味との評判で絶大な人気だったとか。

トラック島泊地に間宮が現れた際は大騒ぎとなり、

停泊している艦艇の食糧調達係が我先にと小船で押し寄せたそうです。

 

 

 

 

明日をも知れぬ戦いのさなか、

お菓子を届けることでひと時の幸せをもたらした間宮。

士気高揚に多大な寄与をした間宮の重要性は

米軍も承知しており、「間宮と明石は見つけたら最優先で沈めろ」

と厳命していました。1944年(昭和19年)12月20日、

サイゴンからマニラ方面へ糧食輸送に従事中に

海南島東方の南シナ海で米海軍の潜水艦「シーライオン

(過去に金剛も沈めていて、その際は1300名戦没)の

雷撃を受けて戦没。生存者は僅か6名でした。

 この碑には間宮の建造から沈没までの

犠牲者502柱が合祀されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

レイテ沖海戦では

群れを成す艦載機の攻撃を受けたにもかかわらず

一発の直撃弾も受けなかった神業の操艦が語り継がれている日向。

しかし日向も国内の燃料不足で浮き砲台として使われ、

終戦時には呉港外で大破着底の状態でした。

 

 

 

宇垣長官も艦長だった日向ですな…

 

 

 

 

 

 

 

 

第三次ソロモン海戦で鬼神の如き活躍を見せ、

そして沈んでいった綾波。

 

 

 

 

 

源田実氏の揮毫です。

 

 

昭和17(1942)年11月14日午後9時16分

ガ島・ヘンダーソン飛行場砲撃へと向かう戦艦霧島、重巡愛宕、高尾らの前路警戒として先行していた綾波。戦艦サウスダコタ、ワシントンを擁する戦艦2隻、駆逐艦4隻から成る米艦隊と遭遇します。艦長・作間英邇中佐は即座に増速して突撃を指示。友軍が一時後退したために単艦での突入となりましたが、砲撃と魚雷で駆逐艦3隻を撃沈、戦艦サウスダコタにも命中弾を与えます。しかし単艦突入のために敵の集中砲火を浴び、攻撃・航行とも不能となって火災を起こして漂流状態となってしまいます。

魚雷誘爆の可能性が出たため総員退去命令が出されたあと、15日午前0時6分に大爆発が起こり、大戦果を挙げた綾波は海中深く没していきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第15駆逐隊は24駆、31駆とともに鼠輸送(ねずみゆそう)に従事。

鼠輸送は、米軍に制空権を奪われた後、ガダルカナル島への増援部隊輸送・物資補給が低速の輸送船では行えなくなったために、高速の駆逐艦を利用して行われた輸送作戦です。

 

15駆の最期は43年5月の鼠輸送作戦。

米軍が敷設した機雷に親潮が接雷。これを潜水艦からの攻撃と判断した陽炎・黒潮は対潜警戒行動に移りましたが、これにより陽炎・黒潮も接雷し、黒潮は沈没。

 

応急修理を施した陽炎・親潮ですが米軍機に発見され、空爆により両艦とも沈没。これにより15駆は1日にして全艦喪失解隊となります。 

 

 

 

 

 

 

 

 

柔道部員の碑。

大東亜戦争において戦死した海軍柔道部員の霊をいたみ、建立されたもの。

揮毫した緒方久人氏は呉海兵団および海軍兵学校をはじめとして

呉警察署、呉憲兵隊、海軍工廠総務部、海軍第11空廠、呉水交社等にて半世紀以上に渡り柔道教師を務めた人物。

 

 

 

 

 

 

 

 

合掌。。

つづきます。

 

 

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