今年のGWの終わり頃、

熊本へ行った帰りに歩いた場所がいくつかあるのですが、

きちんと語ってなかったことを思い出しました。

 

 

 

久留米から一時間ほど車を走らせ

着いたのは福岡県みやま市の、とある場所。

そこはのどかな田園風景、一面に黄金色の麦畑が広がっています。

秋蒔きの麦が梅雨入り前の収穫期を迎える頃でしょうか。

この季節の麦畑は秋の田んぼみたいな色。

 

 

 

その立派な大きな家は、

広大な麦畑の一角にありました。

ここで生まれ育った少年は、やがて海軍へ進み、

聯合艦隊参謀長として山本五十六のブレーンのトップを務め

終戦の年の4月7日、第二艦隊司令長官として

戦艦「大和」と運命を共にします。

 

 

 

 

 

こちら伊藤整一海軍大将の生家です。

家の中が公開されているわけではないですが、

屋敷の前には大きな碑がありました。

 

 

 

まだかなり新しい碑です。

大和が坊ノ岬沖に沈んでちょうど70年となる

昨年4月7日に建てられたものです。

横には旗の掲揚台があって、日によっては国旗や

海軍旗が掲げられたリするのでしょう。

 

 

 

ここで一冊の本、「四月七日の桜」。

以前読んで印象深かったのがきっかけで、近くへ来た折に

この提督の故郷を歩いてみたくなったのでした。

 

 

表紙の家族写真…

上に長男の伊藤叡(あきら)中尉が写ってます。

父である伊藤整一大将と同じく海軍兵学校をでたあと

戦闘機へ進み、筑波海軍航空隊では教官を務めていたそうです。

父の出撃に際しては宇垣纏の計らいで鹿屋から零戦で掩護につき

上空から大和を見送った、等という定かでない逸話なんかもあります。

大和が沈んだ3週間後、4月28日の特別攻撃の直掩を申し出て、

沖縄・伊江島上空で敵機と交戦中に消息を絶っています。

 

 

 

お屋敷の横には

大小の桜の木が植えられていて、

 

 

父子(おやこ)桜…

杉並の伊藤長官手植えの桜から

分けられたものですな。

 

 

杉並区にはかつて伊藤大将が手植えした桜が今でも残っており、

今では樹齢八十年を超える親桜と、戦後にその根っこから芽が生えた

小桜…毎年四月七日あたりになると満開の花を咲かせます。

散華した父子になぞらえて、父子桜と呼ばれているのですが、

春に都内へ出た時に立ち寄って拝んできました →その時の写真

一カ月後に遙かなるこの筑後の地を歩くことになるとは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生家から700mくらい離れた場所には

伊藤整一大将の墓所があるそうなので行ってみることに。

峠茶屋というところが海軍大将墓碑の無料駐車場に

なっています。

 

 

駐車場脇には説明板が。

 

明治二三(一八九〇)年七月二六日、伊藤整一は、三池郡開村(現、みやま市高田町黒崎開)に生まれ、開尋常小学校から岩田小学校、中学伝習館(現、伝習館高等学校)に入学し、明治四一(一九〇八)年九月、海軍兵学校へ入学し、水雷学校、砲術学校に学び、その後大正六(一九一七)年海軍大学で学び、卒業。同一〇から一ニ年までふたたび海軍大学で学びました。その後、軽巡洋艦「木曽」重巡洋艦「愛宕」の艦長を務め、海外駐在も多く体験しました。日米が開戦し、第二次世界大戦が勃発しました。昭和一九(一九四四)年一ニ月に第二艦隊司令長官に就任しました。連合艦隊司令部参謀からの命令は、「大和」をはじめとする第二艦隊全ての艦艇をそのまま特攻兵器とするという内容でした。昭和二〇(一九四五)年四月六日に日本海軍の旗艦の戦艦「大和」に座乗しました。翌七日一ニ時三〇分ごろ、約四〇〇機もの米軍航空機から攻撃を受けた「大和」は迎撃を開始しましたが約二時間後に戦闘能力を失いました。整一は「大和」が絶望的と判断するや、独断で沖縄突入作戦を断念し、作戦中止を命令しました。この判断によって若い将校や乗組員は戦線離脱を許され、多くの命が救われました。生存者の脱出を見届けた整一は、艦長室に籠り、自決しました。この沖縄戦の日本軍の戦死者は約三七〇〇人、生存者は約一七〇〇人、そのうち「大和」の生存者はニ六七人でした。日米開戦に最後まで反対し、最後の出撃では若い将校や乗組員に退艦命令を出し、自らは艦に残って戦死したのです。戦争の残酷さやむごたらしさを知り尽くし、戦争のない平和な世界を希求した人物でした。昭和二〇年四月七日戦死、同年七月、勲功により海軍大将に任じられました。同三三年四月七日、墓碑と顕彰碑が大牟田市岬の金助坂の秋丸墓地に建立されました。

 

 

 

 

 

 

海外駐在も多く体験し、の部分…

昭和2年5月に少佐でアメリカに派遣されており、

米滞在時にレイモンド・スプルーアンスと深い親交を結ぶのですが、

その18年後、伊藤長官が戦死した坊ノ岬沖海戦の際、米指揮官として

大和の攻撃命令「Game for Task Force54」を下したのが

スプルーアンスだった、という因果な出来事は有名であります。

 

有賀艦長による総員上甲板の発令のあと、伊藤長官は

参謀長らと最後の挨拶を交わし、艦内の長官公室へ去りました。

 

独断による作戦中止(通常は聯合艦隊司令長官の命令が必要)

そして出撃前に下した海兵を卒業した新人の少尉候補生73名への

退艦命令。そのことで生き残った多くの人たちは、

日本の戦後復興と経済発展の礎となりました。

 

これは有賀艦長の言葉。

「諸子にはあとに残ってやってもらいたいことがあるのだ。

皆はその日に備えて、よく自らを鍛錬し、立派な戦力になって

もらいたい。では、ごきげんよう」

 

 

 

で、時間が押してたこともあり

駐車場に停めず墓地の脇に車を横付け・・汗

ごめんなさい伊藤長官。

 

 

 

 

 

 

墓所で手を合わせてきました。

個人のお墓と思われるので大写しの写真はありません。

一段高い場所に長官の墓所はありました。

 

 

 

広めの敷地内には顕彰碑もありました。

この碑の設立の発起人や寄付者は、豊田副武井上成美栗田健男

草鹿龍之介中澤佑源田実黒島亀人ら旧海軍のそうそうたる顔ぶれ。

 

 

碑文

 

海軍大将伊藤整一君は明治二十三年七月二十六日福岡県三池郡高田村に生まる。幼子にして俊秀の聞え高く、長じて開小学校・中学伝習館・海軍兵学校・海軍大学校に学び、常に抜群の成績を以て業を卒えたり。而して君が全生涯を捧げたる海軍における業績は、海上に陸上に又軍令に軍政に燦として輝くものありしが、君の真価はその優れたる才幹に加おるに誠実謙虚、一点の私心なく、真に玲瓏(透きとおり曇りのないさま)玉の如きその大人格にありたるなり。

大東亜戦争勃発当時、偶々君は軍令部次長の重職にあり、緒戦における我が海軍の赫々たる大戦果に就ては、大本営幕僚として君の偉功を永久に伝えざるべからず。不幸にして彼我国カの懸隔は、爾後の戦勢を日に非ならしむるに至り、その間、君の堅忍苦衷、また察するに余りあり、後、第二艦隊司令長官に親補せられ麾下を率いて出撃、壮図、将に成らんとするに先だち昭和二十年四月七日、九州南方海上に於て無限の恨を呑んで戦艦大和と其の運命を共にせり噫(ああ)。高潔悲壮なる君の胸中に思いを致す時、感慨無量、真(まこと)に悼(いた)ましき限りなりき。戦死の報 上聞に達するや、海軍大将に進められ、従三位に叙し功一級金鵄勲章並二勲一等馗日大綬章を授けらる。

君逝いて十有四年、その高風と偉業を偲び、旧海軍並に郷里の有志一同相謀り、ここに君の墓碑を建設し、以て永く君の偉功を伝え併せて其の英霊を慰むると共に、郷党後進の士の教導に資する所あらんことを期す

  昭和三十三年四月七日

                     元海軍大将 高橋三吉 撰

(カタカナをひらがなに変えたり、読みやすくしてます)

 

 

 

 

 

 

 

こちらにも桜です。

毎年四月七日には墓前祭が開かれます。

最近は若い人の参列が増えてきてるそうです。

 

 

軍艦旗が有明海の汐風に揺れている…

 

 

 

 

​ 

 

 

 

次の場所へ。

つづく