鹿屋基地の通称1ビル、1936年(昭和11年)完成。
現•第1航空群司令部がある建物です。
この建物の2階…
日本海軍・第11航空艦隊の参謀長公室だった部屋が残っています。
今から72年前のできごと。
源田実
大西瀧治郎
志布志沖の第1航空戦隊の旗艦・加賀(赤城の代理)にいた源田実が
在 鹿屋の第11航空艦隊、大西瀧治郎参謀長に呼びだされたのは昭和16年2月初めだった。
源田は小型艇で志布志の桟橋に上陸、車で鹿屋へ向かった。
参謀長室に入ると大西は意味ありげな微笑みをうかべ「まぁ、座れよ」と源田に言った。
いつもは副官や参謀が傍らにいるのに、この時に限って大西ひとりであった。
源田がソファに腰かけると大西も腰を下ろした。
それから間もなく、特別便で送られてきたらしい一通の手紙を懐から取り出した。
「ちょっと、これを読んでくれないか」と源田に両手で差し出した。
源田はその封筒を見て息を呑んだ。毛筆の太い字である。
表には第十一航空艦隊司令部大西少将閣下とある。
そっと裏を見ると、山本五十六と書いてあった。海軍の書簡便は三枚だった。
「国際情勢の推移如何によって、あるいは日米開戦の已(や)む無きに至るかもしれない。日米が干戈(かんか)をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦劈頭(へきとう)、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進攻を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか、検討して貰いたい。」
読み終えた源田は、「偉いことを考えたものだ…」と思った。
大西参謀長がおもむろに口を開く。
「そこでだね。君ひとつ、この作戦を研究してみてくれんか。
できるかできないか、どうすればやれるか。そんなところが知りたい。」
と。
大西少将の元を辞した源田少佐は、直ちに志布志湾の加賀に戻り検討を開始した――
これが昭和16年2月、連合艦隊司令長官 山本五十六の命を受けた大西瀧治郎参謀長が、
源田實参謀に米太平洋艦隊の本拠地であるハワイ真珠湾への奇襲作戦の検討を指示し、
密談が行われた「鹿屋会談」と呼ばれる出来事です。
この後、日本は新たな戦争へ向かって突き進むことになりました。
通称1ビルの2階のこの部屋が、「鹿屋会談」の舞台になった部屋です。
この部屋がある1ビルは、
耐震法などの関係で、2015年春以降に解体予定だそうです。
その前に見学できて良かったです。
でも、もったいないですね。
つづく
参考 : 「人物で読む太平洋戦争」
「奇襲 薩摩パールハーバーの男たち」
air-memo.com
現•第1航空群司令部がある建物です。
この建物の2階…
日本海軍・第11航空艦隊の参謀長公室だった部屋が残っています。
今から72年前のできごと。
源田実
大西瀧治郎
志布志沖の第1航空戦隊の旗艦・加賀(赤城の代理)にいた源田実が
在 鹿屋の第11航空艦隊、大西瀧治郎参謀長に呼びだされたのは昭和16年2月初めだった。
源田は小型艇で志布志の桟橋に上陸、車で鹿屋へ向かった。
参謀長室に入ると大西は意味ありげな微笑みをうかべ「まぁ、座れよ」と源田に言った。
いつもは副官や参謀が傍らにいるのに、この時に限って大西ひとりであった。
源田がソファに腰かけると大西も腰を下ろした。
それから間もなく、特別便で送られてきたらしい一通の手紙を懐から取り出した。
「ちょっと、これを読んでくれないか」と源田に両手で差し出した。
源田はその封筒を見て息を呑んだ。毛筆の太い字である。
表には第十一航空艦隊司令部大西少将閣下とある。
そっと裏を見ると、山本五十六と書いてあった。海軍の書簡便は三枚だった。
「国際情勢の推移如何によって、あるいは日米開戦の已(や)む無きに至るかもしれない。日米が干戈(かんか)をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦劈頭(へきとう)、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進攻を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか、検討して貰いたい。」
読み終えた源田は、「偉いことを考えたものだ…」と思った。
大西参謀長がおもむろに口を開く。
「そこでだね。君ひとつ、この作戦を研究してみてくれんか。
できるかできないか、どうすればやれるか。そんなところが知りたい。」
と。
大西少将の元を辞した源田少佐は、直ちに志布志湾の加賀に戻り検討を開始した――
これが昭和16年2月、連合艦隊司令長官 山本五十六の命を受けた大西瀧治郎参謀長が、
源田實参謀に米太平洋艦隊の本拠地であるハワイ真珠湾への奇襲作戦の検討を指示し、
密談が行われた「鹿屋会談」と呼ばれる出来事です。
この後、日本は新たな戦争へ向かって突き進むことになりました。
通称1ビルの2階のこの部屋が、「鹿屋会談」の舞台になった部屋です。
この部屋がある1ビルは、
耐震法などの関係で、2015年春以降に解体予定だそうです。
その前に見学できて良かったです。
でも、もったいないですね。
つづく
参考 : 「人物で読む太平洋戦争」
「奇襲 薩摩パールハーバーの男たち」
air-memo.com