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幻冬舎plus2015年10月29日 06:00北野武の問いかけは、まさに今、 世界でホットな“道徳哲学”<新しい道徳> - 斎藤哲也
評者:斎藤哲也(ライター&編集者、ベストセラー『哲学用語図鑑』監修者)
北野武ほど、道徳を説くのにふさわしくない人間もいないだろう。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と道徳を笑い飛ばしてきた人間が道徳を語るなんて、野暮の極みもいいところ。まさか説教親爺に「転向」したのではあるまいかと、おっかなびっくり手に取った本書だが、読み終えて、予想は完全に裏切られた。
「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」と書き起こす本書は、「お年寄りには席を譲りましょう」といった、具体的な道徳の「中身」を提唱するような本ではない。
じゃあ、どんな本なのかと問われれば、北野流倫理学というのが適切だろう。倫理学とは、「なぜ、いいことをしなければならないのか」「なぜ、悪いことをしてはいけないのか」など、道徳の根拠を問う学問のことだ。
たとえば北野武は、小中学校の道徳教材に書かれている「年寄りに席を譲るのは気持ちいいから」という考え方に対して、次のようなツッコミを入れる。
〈席を譲るのは、気持ちがいいという対価を受け取るためなのか。
だとしたら、席を譲って気持ち良くないなら、席なんか譲らなくていいという理屈になる。〉
こりゃたしかにお粗末すぎる。気持ちがいいから道徳を守るべきなんて教え方をしたら、「気持ちがいいから、人を殺します」という人間を説得できるわけがない。
では、北野武は道徳の根拠をどのように考えているのか。ここで注目したいのは、本書では道徳をいくつかのレイヤーに分けて考えていることだ。
たとえば、あいさつをするやゴミを捨てない、老人に親切にするといった問題は、道徳というよりマナーや美意識の問題であり、授業で教えるよりも、その場にいる大人が叱るなり、諭すほうがいい。仮に授業で教えるにしても、道徳が「人間関係を円滑にする技術」であることを、正直に教えるべきだという。
だが、おそらく本書の主眼は、このレイヤーにはなく、個人の生き方にかかわる道徳、そして人類レベルの道徳という二つのレイヤーにある。
そのうえで、前者については、「道徳は自分で作る」ことを繰り返し説いている。
〈誰かに押しつけられた道徳に、唯々諾々と従う必要はない。時代を作る人は、いつだって古い道徳を打ち壊してきた。新しい世界を作るということは、新しい道徳を作ることだ〉
本書の書名もここから取られたのだろう。北野武は、道徳の根源を「社会秩序を守るために作られた決まり事」と考えている。道徳は、支配者にとって都合のいい国民や領民を育成するための道具として用いられやすい。
そんな支配のための道徳に引っ張りまわされないために、「自分なりの道徳」を作る。北野武がイメージする「自分なりの道徳」とは、「自分がどう生きるかという原則」のことだ。
〈この本は、道徳についての本だから、道徳って言葉を使うけれど、それはルールといっても規則といってもなんでもいい。とにかく、自分なりの決め事を作って、それを守ることだ〉
この考え方は腑に落ちる。いや、個人化が進み、生き方も価値観も以前にもまして多様化している現代社会にあって、「マイ道徳」という考え方は、かなり説得力を持つのではないだろうか。
ただし、もう一つ大事な道徳のレイヤーが残っている。
〈これから先は、個人の道徳なんかより、人間全体の「道徳」の方がずっと大切になる〉
道徳や価値観が異なる国同士の争いや環境破壊など、「人間が自然や他の国とどうつきあっていくかということの方が、もっと差し迫った問題になる」と本書はいう。
このくだりを読んで思い出したのが、つい最近読んだ『モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ』という本だ。著者のジョシュア・グリーンは、ハーバード大学心理学科の教授だが、博士号は哲学で取得している。
道徳哲学といえば、古くはソクラテス、プラトン、最近では白熱教室で好評を博したサンデル先生など、これまでは哲学者の独壇場だった。だがグリーンは、そこに科学を接続する。すなわち『モラル・トライブズ』は、脳科学、神経科学、心理学、生物学など最先端の科学の知見を総動員して、道徳の正体を解き明かした画期的な一冊といっていいだろう。
驚いたのは、そんな同書の基本的なアイデアが、北野武の指摘とかぶっていることだ。
『モラル・トライブズ』では、道徳的な対立を、「《私》対《私たち》」「《私たち》対《彼ら》」という二つの対立に分けたうえで、次のようにいう。
〈道徳は《私たち》を《私》より優先させる装置としてだけでなく、《私たち》を《彼ら》より優先させる装置として進化した〉
つまり、人類がつくりあげてきた道徳は、個人が利他的にふるまったり、協力し合ったりする仕組みをビルトインしてきたが、それは同時に、自分たちの集団の利益を他の集団の利益よりも優先させる装置としても進化してきたということだ。
だからこそ、国家同士が協力し合うことは、個人が協力することよりもはるかに困難な課題となる。
北野武がいう「人間全体の『道徳』」とは、こうした「《私たち》対《彼ら》」の問題にほかならない。
〈国と国がどうつきあうかってことも、これからは今までよりもずっと深刻な問題になっていくだろう。それは政治の問題で、子どもには関係なんてバカなことをいってはいけない。政治家や官僚まかせにして、いつか酷い目にあうのはその子どもたちなのだ〉
「《私たち》対《彼ら》」の問題に決定打がないのは、現実の国際情勢を見れば明らかだ。だが、解決が難しいならば、なおさら、「《私たち》対《彼ら》」の問題は、「新しい道徳」の最重要項目として登録する必要がある。
その第一歩として、本書『新しい道徳』をできるだけ多くの若い人たちに読んでもらいたい。ここには、新しい時代を生きるためのヒントがごろごろと転がっている。
※ 注目の試し読み連載は、11月2日(月)から公開予定です。
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斎藤哲也(さいとう・てつや)
1971年生まれ。編集者・ライター。東京大学哲学科卒業。『哲学用語図鑑』(田中正人・プレジデント社)、『現代思想入門』(仲正昌樹ほか・PHP)などを編集。『おとなの教養』(池上彰・NHK出版新書)、『知の読書術』(佐藤優・集英社インターナショナル)『世界はこのままイスラーム化するのか』(島田裕巳×中田考、幻冬舎)ほか多数の本の取材・構成を手がける。著書・共著に『読解評論文キーワード』(筑摩書房)、『使える新書』(WAVE出版)など。TBSラジオ「文化系トークラジオ Life」出演中。http://blogos.com/article/141649/
再生核研究所声明239(2015.6.23)自由な立場の人の意見、発想の尊重を
もちろん人は自分が大事で、個人はまわりの環境に気を使うものである。環境とは所属する組織や職場、交流関係やまわりの地域である。よく在るとは 環境と個人が上手い状態に調和していることであるから、個人の存在は極めて、環境の影響を強く受けるものである。このことは 自由というものが 実はそう簡単ではなく、実際は意見表明や 行動も環境の影響を強く受けているという事実である。多くの場合、その人の背景、環境を、考えれば、意見表明がどうしてそのようなものであるかを、推し量れるだろう。
意見表明と言えば、政策の表明が 社会に大きな影響を与えるという意味で重要である。大事な方針になればなるほど、政治家個人の意見は 党の方針や政策の基本に縛られるのは当然であり、党の方針が定めれば、多くは相当に個人の意見は表明できない立場になってしまう。最高権力者の決定は 殆どは各級機関の決定による形式的な裁可の形をとらざるを 得ない。組織として、社会として当然である。
ここで述べたい主旨は、人は環境の影響を強く受けていて、個人の意見の表明は難しく、多くの意見がどのように環境の影響を受けているか、背景に思いを巡らすことが大事だということである。
このことは、個人の自由な意見表明が難しく、縛られており、多くの真実、あるべき意見、考えが各級の組織に縛られていて、必ずしも適切な在り様が 顕にならず、おかしな世相を形作る危険性があるということである。少数政党政治で政党政治が進めば、意見や考え方は限られ、縛られ、多くの意見が活かされず、多く人々の意思を反映できず、支持政党なし、政治に無関心な層を増大させるのではないだろうか。この辺の在り様が民主主義の難しさの本質的な点ではないだろうか。
上記で、組織の意見は組織の利益を反映させるものであるから、世に在るべき在り様があるとすれば、それを公正に判断できる者は、内容の利害に直接関与しないいわば、自由な立場の意見を重視するのが大事ではないだろうか。世に多くの評価委員や審査委員を、直接決定結果の利害に関与するような立場の者から除くは 相当に当たり前の常識ではないだろうか。しかしながら、社会では、その辺の常識が崩れていることは 実は多いのではないだろうか。特に政治的な社会では顕著ではないだろうか。重要な人事で 人事権を有している者が自己の立場を有利にする立場で行なうは 相当に普遍的である本質的な面もある。学術界でも、芸術界、スポーツ界、いろいろなサークルでも自分たちの仲間の利益を自然に考えてしまうのは、高度化、細分化、孤立化の傾向の結果として自然なものである。そこで、そのような影響を受けない、第3者的な自由な立場の意見などの参照は大事ではないだろうか。公の立場や公正な立場を考えて行なうのは 場合によるが相当に無理な要求ではないだろうか。 そこで, 仲間や自分たちの利害を考えて判断する弊害が出る。声明の題名の主旨は、自由人の意見の尊重で 内容によって、公正な立場を取れる人の意見の尊重、人の活用を考えるということである。
ここで自由人の意味について、素人の意見という視点も大事ではないだろうか。専門馬鹿という表現が有るように 専門家は 狭い専門的な世界に入り込み、孤立化し、視野の狭い、独善的で、おかしな判断になる面もあるので、いわば素人の意見を参考にするのは良いことではないだろうか。素人とは、自由人であるとも言える。 ― いわゆる裁判員制度は、制度の善し悪しは問題としても、基本精神としては そのような大事な発想から出ていると考えられる。
日本のマスコミの信頼がゆらぎ、言論界の人の意見が おかしいのではないだろうか という、疑念の空気は相当に強いと言える。それらは、何か見えない圧力が利いていて、自由な意見では 既にないのではないか、という疑念に満ちた世相の増大ではないだろうか。多くが利益や圧力で動いているのではないかという 疑念を感じさせられる世相ではないだろうか。 マスコミや言論界が多様な意見を紹介して、適切な判断ができるように絶えず、努力するのは当たり前であるが、多様な意見を 自由な立場の意見か、特定の利害に縛られた意見かを良く、見極めて対処するのが大事ではないだろうか。
少し、複雑な内容になったが、この声明の主旨は表現されているのではないだろうか。
以上
再生核研究所声明41(2010/06/10):世界史、大義、評価、神、最後の審判
声明36(恋の原理と心得)で、元祖生命体(本来の生命、生物界全体)は 永遠の生命を有し、人間的な意識と自由意志を有し、存在すること、知ること、美を求めることなどを目標に生命活動を続けている。 人類の発展の先は いまだ不明である。 確かに言えることは、生存を続けること、知ることを求めること、感動することを希求しているということである。
と述べて、人類は 人間存在の原理(人間である限り否定できない、不変的な原理を述べているもので、人間である限り、存在していること、そして、存在していることを知っていること、そして、求めているという三位一体の、デカルトのコギトエルゴスム(我れ思う、故にわれ在り)を基礎に置いた考え方: 夜明け前 よっちゃんの想い:211ページ)によって、世界の歴史を発展、拡大、深化させていくであろう。
ここで、世界史とは 人類が得たあらゆる知識、情報を意味するが、世界史は過去の一切のことについても真相の究明を続けていくであろう。これは真実を知りたいという人間存在の原理に他ならないからである。
個々の人間の目標は、 人生における基本定理 (声明12) に述べられているように 生きること、感動できるように生きることであるが、人間は同じ元祖生命体の分身であり、個々の人間は1個の細胞のような存在であり、個々の人間の存在は 元祖生命体の雄大な存在からみれば 大河の一滴 (五木 寛之) と考えられるが、しかしながら、それは同時に全体に関係し、全体を内包しているから、限りなく貴い存在である (声明36)。
そこで、人間にとって真に価値あることとは、人類の目標のために貢献することではないだろうか。 人類の営みは世界史によって、表現されるから、世界史のため、人類のため、元祖生命体のために貢献することこそが、真の意味における大義と言えよう。 人類が、世界史が進化していけば、過去の元祖生命体の営みの総体を次第に明らかにして、物事の真相と評価、位置づけ、位置関係を明瞭にしていくであろう。- すでに、グーグルの世界に それらの初歩を見ることができる。
神とは全知、全能の存在とされるが、世界の全体を捉えられるのは現在、人類以外に存在せず、未来において、進化した元祖生命体こそが、神に相当する存在ではないであろうか。
進化した未来人は 現代人の能力のレべルを あたかも幼稚園生くらいとみ、現在のコンピュータのレベルを 手動計算機程度くらいとみるだろう。
そのとき、世界の歴史は、個々の人間の存在の関係 (評価) をきちんと明らかにするであろう。
この声明の趣旨は、先ずは 世界の政治家の皆さんに、世界史に耐えられるような上記大義に基づいて、行動して頂きたいと要請しているのです。 小さな自分たちの立場ではなくて、より大きな世界のために高い志の基に、行動して頂きたいということです。 同時に、不正や不義は 歴史的に明らかにされ、真実は必ず、明らかにされるということに注意を喚起することにある。 研究者や芸術家たちは 近視眼的なことに拘らず、己が道を進めばいいのであって、適切な評価は必ず下されると考えるべきです。 マスコミ関係者や解説者の皆さん、思想家たちの皆さん、世界史の評価に耐えられるような高い視点と志で、重要な職務を果たして頂きたいと考えます。 人間にとって価値あることとは、小さな自己の世界に閉じこもらず、上記大義の基に努力することではないであろうか。
将来、世界史が明らかにする、世界史の全体における個々の関係こそが、最後の審判ではないだろうか。 それは同時に 未来ではなく、現在、いまの 個々の人間の 深奥に普遍的に存在する神性と良心 に通じていると考える。 それらを捉え、それらに調和し 忠実に生きることこそ、良く生きることに他ならない。 悪いことは苦しいことである。必ず、良心の呵責として、その深奥から湧いてくるからである。他方、大義に生きることは 上記永遠の生命の中に生きることを意味するから、楽しいことである。 滅ぶことも消えることもない。
以上