ロシア文学 戦争と平和 その十六 | ScrapBook

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読んだ本についての感想文と日々の雑感、時々音楽のお話を

その十六 ②70〜86

先週の木曜日の出勤前に第一部第三篇3を、翌日の金曜日の朝に4をそれぞれ読んだ。

 

出勤前に読んだパートの読後感を、就寝前に毎日記す予定であった。が、金曜日から日曜日まで飲んだくれてしまった。鬱々して仕方なかった。金曜日の夜と土曜日の夕方は、先日読んだチャンドラーの影響もあったか、ずっとスコッチ・アンド・ソ―ダを飲んでいた。飲む以外のことは何もしたくない、そんな気分だった。今日一日の仕事を通して、どうにか通常運転に戻りつつある。

 

前にも記したように、「戦争と平和」を読むのはこれで三度目である。初めて読んだのは、大学を卒業して就職した会社を二年で退職した後のこと。仕事はないし、おまけにすることもないし、暇にあかせて読んだわけだ。再読したのは、昨年の年末年始の休みの間のこと。それぞれ米川正夫訳の岩波文庫である。先週の木曜日と金曜日に読んだ場面の展開は、いまだ自分の記憶にあった。ここに登場するマリアは、とても不器量な存在として描かれているのであるが、この長編小説の後段で扱われる彼女のことを思うと、いささか不当なまでに「不器量」「不器量」と表現されていないか。年齢を重ねるごとに彼女は美しくなるといった描かれ方でもなかったかと思う。物語の構成上、マリアは不器量でなければならず、物語の進展にあわせて周囲の男性を惹きつけていく存在に成長することになる。

 

かつて権力の中枢にいたが、いまでは田舎に引っ込んでしまった時代遅れで頑固者の年寄り公爵とその不器量な娘マリアが住む館。二人の身の回りの世話をする気量のよい若きフランス娘ブリエンヌは、いつか自分をこんな退屈な場所からさらってくれる男性を夢見ている。そんな館に現れるのは、金を目当てに娘との縁談を目論む軽薄な父親ワシーリー公爵と、その息子の放蕩児アナトール。どのような物語が始まるかは、火を見るよりも明らかである。

 

老公爵は辛辣ではあるが、目の前の人物の性向を見抜く目を備えた人物であり、上辺を飾って済ませている人たちを激しい言葉によって揺さぶり続け、その化けの皮を剥ぐ。

 

普段の髪型や服装ではない娘を見つけた老公爵は、きれいだと褒める言葉を投げかけながら、リーザに向かって「この子が自分をふた目と見られん姿にすることはない。ただでさえ不器量なんだ」と吐き捨てる。また、軍務に服しながら自分がどこの部隊に配置されているかわからないアナトールに向かっては、「みごとなご奉仕ぶりだ、みごとなもんだ。何に配属されているんだっけ、か! ハ、ハ、ハ!」。

 

マリアを「おっそろしく不器量だ」と品定めをしたアナトールの関心は、ブリエンヌに移ってしまう。一方、ブリエンヌは、アナトールを、自分がかねてから思い描いていた「ロシアの公爵」に重ね、彼が自分をこの退屈な館から連れ出してくれると夢見心地であり、彼の気に入られることだけを考え行動している。

 

マリアをみつめるブリエンヌの目が「おびえたような喜びと期待が表れていた②85」のは、彼女の足がアナトールの足と触れ合っていたからであり、マリアのこれから先の幸せを願ってのものではなかった。そのことをマリアは知らない。彼女は思う。「あたしは今本当に幸せだし、幸せになれるわ、こんなお友だちとこんな夫がいれば! 本当に夫なのかしら?②85」。悲劇と喜劇とは、おなじ根っこから生え出した植物のようである。