ScrapBook

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読んだ本についての感想文と日々の雑感

ぼくはこの船から降りることができなかった。だから、楽になるために残された道は、人生から降りることだった。一段、また一段、と。夢でできた階段。一歩進むごとに、それらの夢に、さよならを言ったのさ。
友よ、ぼくは気違いじゃない。救いを求めて楽になる方法をみつけようとしているかぎり、人間は気違いにはなれない。どん底からはい上がろうとする人間は、飢えた動物のように狡猾だ。狂気の入り込む余地など、ありはしない。そこにあるのは、神より与えられた素晴らしい知恵。幾何学的な完璧さだ。夢に蝕まれて、ぼくの魂はボロボロになりそうだった。夢に向かって歩めばよさそうなものを。ぼくにはそれができなかった。
アレッサンドロ バリッコ「海の上のピアニスト」

フィッツジェラルドは見事な才能を持つ作家だったが、器用な作家ではなかった。そして失意のうちに酒に溺れるようになった。しかし、作家フィッツジェラルドの素晴らしい点は、現実の人生にどれだけ過酷に打ちのめされても、文章に対する信頼感を失わなかったことにある。彼は最後の最後まで、自分は書くことによって救済されるはずだと固く信じていた。(中略)フィッツジェラルドは死の間際まで、しがみつくように小説を書き続けていた。「この小説が完成すれば……」と自分に言い聞かせていた、「すべては回復される」。
村上春樹「スコット・フィッツジェラルド——ジャズ・エイジの旗手」

愛する友よ。さあ手をかそう、
ぼくは君にかねでは買えぬぼくの貴重な愛を与えよう、
説教や法律なんかよりまず僕自身を与えよう、
君もぼくに君自身をくれるかい、ぼくといっしょに旅に出るかい、
いのちあるかぎりぼくらはぴったりは慣れずにいよう。
ホイットマン「草の葉 酒本雅之訳」

2011年3月11日の記憶を綴っておく。

あれから10年もの歳月が流れたのかと感慨に耽りたいところだが、福島県では未だ避難者と言われる人たちが数万人もいる。

【参照】

河北新社:福島の避難者集計に3万人以上の差 県と市町村、手法ばらばら(2021年01月31日 10:10)

https://kahoku.news/articles/20210131khn000005.html

 

復興どころか、現状復帰さえままならないまま、10年もの月日が流れているのである。

 

僕のことを書いておこう。

当時の僕は、神奈川県大和市にマンションを借りて妻と二人で暮らしていた。勤務地は横浜市であった。

普段、事務所のある横浜(JR横浜駅から徒歩10分ほどの場所だ)から外に出かけることはなく、おおよそ事務所の中で編集作業を行っていた。が、11日の午後にかぎって、僕は都内での仕事の打ち合わせのため、横浜駅から東横線に乗り、渋谷から埼京線に乗り換え十条駅まで向かったのだった。

 

十条駅は、かつて学生だった頃、よく遊びに行った場所である。1988年から90年にかけて。当時は自動改札ではなくて、駅員さんが切符を切っていたっけ。僕は何度この街にやってきただろう。だが、おおよそ20年ぶりに歩く商店街を見ても、過去の記憶がほとんど甦ってはこなかった。それほど、お店が変わってしまっているのだった。よく行った、線路側の中華料理店(五目あんかけ焼きそばをよく食べた)を見つけることができなかったし、ガラス張りの喫茶店もどこに行ってしまったのだろうか。

 

打ち合わせは順調に運び、14時半に再び十条駅から埼京線に乗った。車内では、前日、亡くなった坂上二郎さんのことが頭をかすめたり、昼時の、あまり乗客が乗っていない座席に腰掛けて「これから『正義』の話をしよう」というタイトルの本を熱心に読んでいる学生らしい男性に目を止めたりしたことを覚えている。車窓を通った光が電車の床に描く白い光の色さえ覚えているような気がする。

それはどこにでもある平凡な日常であり、ごく普通の午後3時前の埼京線の車内の光景であった。

 

電車が板橋に到着した14時45分。

電車の扉が開いて少ししてから、突然電車が横転してしまうほどの揺れに襲われた。

プラットフォームから伸びる支柱が駅の構造物にあたり「ゴンゴン」とすごい音を立てていた。駅舎の一部が倒壊するんじゃないかという考えが一瞬頭をかすめた。

 

揺れがおさまってすぐに僕は妻に宛ててメールを送信した。

「すごい地震だったね」。

数分しても、妻からの返信はなかった(いや、僕の携帯電話が利用できるようになったのは、11日の23時頃のことなのだ)。

 

少ししたら電車が走り出すだろうと思っていたが、30分を過ぎても動く気配はない。駅のアナウンスの内容は今となってはさっぱり覚えていない。線路の安全確認を行なっているとかなんとかそんなことを言っていたのではないかと思われる。しびれを切らせた僕は、電車を降り、プラットフォームの階段を昇って改札を抜けた。改札の先にある公衆電話には、数十人の人たちが列をなしていた。携帯電話はあっという間にパンクしていたから、公衆電話で連絡を取る行為は賢明な選択だ。

何はともあれ帰社するために横浜駅まで戻らなくてはならない。電車が止まっているならば、じっとしていても仕方ない。歩くまでだと考え、公衆電話に行列をする人たちを尻目に池袋を目指したのだ。内心、電車の運転が再開されるまでの僅かな時間に過ぎまいとたかを括っていたのだったが。

1642年。独立する前のアメリカのボストン。胸に赤子を抱いたひとりの女性ヘスター・プリンは、この街にある獄舎の前に連れてこられた。胸には、赤子の他、「きれいな赤い布地に、金糸で手のこんだ刺繍と風変わりな飾りで縁がりのほどこされた、Aの字が見えていた」。処刑台の木の階段をのぼった彼女は群衆の視線にさらされる。「この気の毒な罪人は、千もの容赦ない視線が、みな自分にそそがれ、その胸に集中している重圧に、女としてできる限り耐えていた」。

 

不義の子を胸に、衆人の侮蔑にさらされる女。不名誉なAの文字を胸につけてこの街で生き続けなければならない。果ては、墓にまでその文字が刻まれるかもしれない。

「この女はだよ、わたしらみんなの面をよごしたのだから、死ぬのが当然。そういう法律がないというのかね? あるとも、聖書にも法令書にも、ちゃんとある。こうなりゃ、それを無視した判事たちは、自分の女房や娘たちが道を外れたことをしたって、自業自得ってことさ!」

群衆からの軽蔑をうけても、「若い女は背が高く、その容姿は完璧な優雅さを存分にそなえていた」し、「美しさに輝きわたり、不運と恥辱を身をつつむ後光と化して出現」したのであった。

 

街の尊敬を集めるウイルソン牧師は言う。「嘆かわしい堕落にさそいこんだ男の名」を衆人の前で自白するようにと。

それに呼応するかのように大衆が口々に叫ぶ。「言え、女!」「言え、そして子供に父親を与えてやれ!」

死人のように青ざめながらヘスターは答える「絶対に言いません!」。

彼女はその秘密を守り通す。蔑まれ悪態をつかれることに耐え、彼女が耐え難いまでの苦痛を「人間が耐えうるかぎりを耐えた」が、輝わたる美しさと気品とを失わなかったのは、「男」を愛していたからにほかならない。

「緋文字はあまりにも深くわたくしの胸に焼きつけられています。あなたさまに取り去ることなどできません。わたくしの苦しみだけでなく、あの人の分も耐え忍んでまいりたくぞんじます!」。

そして、彼女には、愛する男との間に生まれたひとりの子供がいた。

 

へスター・プリンを「堕落にさそいこんだ男」こそが、この街の若き高潔なディムズデール牧師であることを著者はほのめかしている。ここにおいて、本作の主題は、愛ゆえに倫理を踏み越えてしまった女の物語と、群衆から尊敬を受ける聖職者ゆえ自らの罪を償うことができない男の物語とが絡み合う。

 

そこに現れる一人の男。「それは小柄な男で、顔は皺だらけだったが、まだ老人というにはあたらなかった。したたかに知性を鍛錬してきたので、それがおのずと肉体の形成にも力を貸し、まぎれもなきしるしとなってあらわれるといったていの人物」。へスター・プリンの夫であり、イングランドから妻の後を追ってこの地にやってきたところであった。

牢屋に戻った彼女のもとに姿を現したこの男におびえるへスターに向かって企みを明かす。

「最初に罪なことをしたのはわたしだ。花のつぼみの若いおまえをたぶらかして、老ぼれのこのわたしと不自然ないつわりの関係にさそいこんだときにね。だからだ、無益にもものを考えたり思索してきたのではない者として、そういう男として、わたしはおまえに復讐したり、悪だくみをしたりしようとは思わない。おまえとわたしのあいだでは、天秤はほぼ釣り合っている。だが、へスターよ、われわれふたりに悪をなした男は平気で生きている! そいつはだれだ!」

素性を隠すためにロジャー・チリングワースと名乗り、仄暗い心から生え出た復讐を遂げることを彼女に宣言するのであった。この男の復讐は巧妙であり、自ら犯した罪を贖えないディムズデールをじわじわと追い詰め苦しめるが、決して彼を殺してしまうことはない。ロジャー・チリングワースは、さながら「町のまわりの森をうろつく悪魔」である。

 

牢屋から出たへスターと街の人たちとの関係や、件の赤子娘のパールの成長に加えて、ディムズデール牧師は自らの罪を衆人の前に告白するのだろうか? そして、彼と彼女たちは再び結び合わされるのだろうか? または、悪魔のようなロジャー・チリングワースの復讐が成し遂げられるのだろうか? 興味は尽きない。

 

個々の「ヒト」が好き勝手に生きている現代社会においては互いが互いを監視するといった同調圧力はあっても、人間を超えた存在が強く意識されている倫理が溶解している。この作品に漲り、張り詰めたような暗黙の掟の重みを、我々は身体に突き刺さるように感じることはできない。とはいえ、本作が読者に投げかけてくる、罪とは何か、償いとは、許しとはといった数々の問いは、現代にも通じるものである。

 

ヨハネ伝福音書第八章

爰に学者・パリサイ人ら、姦のとき捕へられたる女を連れきたり、真中に立ててイエスに言ふ、 

『師よ、この女は姦のをり、そのまま捕へられたるなり。

モーセは律法に斯る者を石にて撃つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言ふか』 

斯く云へるはイエスを試みて訴ふる種を得んとてなり。イエス身を屈め、指にて地に物書き給ふ。

かれら問ひて止まざれば、イエス身を起して『なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て』と言ひ、

また身を屈めて地に物書きたまふ。

彼等これを聞きて良心に責められ、老人をはじめ若き者まで一人一人いでゆき、唯イエスと中に立てる女とのみ遺れり。

イエス身を起して、女のほかに誰も居らぬを見て言ひ給ふ『をんなよ、汝を訴へたる者どもは何処にをるぞ、汝を罪する者なきか』

女いふ『主よ、誰もなし』イエス言ひ給ふ『われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな』〕 

 

 

 

 

ガレーン博士 では、人々が殺し合いをするのを、あなたは放っておくのか? なぜだ?……鉛の玉やガスで人を殺してもいいとしたら……私たち医者は、何のために人の命を救うのか? 子どもの命を救ったり、骨瘍を治療したりすることが……どんなにたいへんなことか……わかってほしい……にもかかわらず、すぐに戦争だという!

 

「白い病」と呼ばれる、「患者が生きながらすこしずつ腐敗していく」感染症が猖獗を極めている。治療法はなく、この未知なる病を前にして医者はなすすべもない。できることといえば、腐敗する際に放つ「ひどい臭い」に臭い消しの手立てを尽くすだけだ。

 

記者 医者はどのような対応を?

枢密顧問官 ——処方箋を書く。貧しい人には過マンガン酸カリウムを、金持ちにはペルーバルサムを処方する。

記者 それは役に立つのですか?

枢密顧問官 ああ、傷口が開いて悪臭を放つとき、臭い消しには役立つ。これは、この病気の第二段階だ。

記者 第三段階になったら?

枢密顧問官 モルヒネだよ、君。モルヒネ以外ににはない。それで十分だろう? ひどい病気なんだから。

 

国家の医療の中枢を担う枢密顧問官の前に、ひとりの医師が現れる。ガレーン博士である。彼は、独自に作り出した治療法により「白い病」を治していると枢密顧問官に告げる。詳細な治療法を聞き出そうと焦る枢密顧問官に向かって、ガレーン博士は、とある条件が満たされない限りそれはできないと拒否する。

「治療法を企業秘密とするのは、医師のあるべき姿とは言えない」「今まさに苦しんでいる人々に対して、人間としてあってはならない振る舞いじゃないかね」「医師のモラルがこれほどおちぶれるとは」と非難されても、ガレーン博士は態度を変えようとはしない。とはいえ、現実的な枢密顧問官は、ガレーン博士が大学病院の一室において治療を行うことを許可することに。

 

「白い病」の治療法が成果を上げたところで、ガレーン医師は、次の条件を提示する。「世界中の国王や統治者」が二度と戦争を起こさないことを誓わない限り、治療法を公開することはないということを。

戦争という名の人殺しが世界から根絶されることを選択するか、または、「白い病」や戦争に怯えながら生きていく世界を選択するかを迫るガレーン博士のロジックは、一見正論に思える。が、果たしてそうだろうか?

彼はひとつの交換条件を他者(勿論読者にだが)突きつけているように見える。が、その実、戦争をやめないぐらいなら、未知の病で人が次々と死ぬことは仕方ないという冷酷な条件をすでに自身が受け入れているのである。

一方で、もしも彼の条件を「世界中の国王や統治者」が受け入れなくても、自分は医師である以上、貧しい人たちにのみ治療を続けると主張する。

 

記者 金持ちは治療の対象外ということですか?

ガレーン博士 残念ですが……できません。金持ちは——金持ちの方には影響力があります——権力も金もある人が心から平和を望めば……可能ではないでしょうか。

 

貧者のみ助けるというガレーン博士の主張は、自らの倫理的な欠落点を繕っているようにも見える。そもそも、「生命」を前にして「富者」と「貧者」との線引きを行うことが可能だろうか?

ガレーン博士の主張に対して、読者は同意できるか? または反対であるか? 病や戦争を克服する術はそもそもあるのだろうか?

 

前半を読んでいるだけで、こんなことを考えてしまった。上に述べたことだけでなく、本作の中には、人間の「死」や、大衆といったいくつものテーマが散りばめられており、さまざまな読み方ができる、懐の深い一冊である。

本作は、パンデミックを題材としたエンターテイメント作品ではない。ナチスに対するレジスタンスが暗い影を落とすカミュの「ペスト」と同じように。

おつかれさまです。

「善良な一市民」の通報に端を発した、警察の対応と、市役所への圧力、その圧力に気圧されて、しっかりとアセスメントもせずに、結論ありきですすめた「保護」という名の「人権侵害」。なにからなにまで、イラつくことばかりです。

いうまでもなく、自傷他傷に向かう人は、医療保護入院が必要な場合もあるでしょう。それにしても、慎重な運用が求められるはずです。

 

朝目覚めると、知らない男が二人勝手に部屋に入ってきて、両脇から挟まれて車に乗せられる。知らない建物の中に連れ込まれ、自分の周りでなにかガヤガヤと話し合っている。ここがどこかは、分からない。再び移動を強いられ、今度は狭い部屋に閉じ込められる。出ることもできない。食事が運ばれて、薬と水を手渡される。それを飲むと眠たくなり、うつらうつらとしてしまい、気がつくとここが自宅ではないことがわかる以外、なにもわからない。自分が知っているもの、暖かみのあるものは、ない。あるのは白い壁だけ。気ままに歩くことさえできない。おまけにすこし目が霞み、フラフラさえする。時々、知らない誰かが俺に呼びかける。「誰のことだ」。名前か? そういえば俺の名前は。思い出せない。

 

これを社会的排除といわずに、なんといえばいいのだろう。こんなことに手を貸すためにこの仕事を始めたわけではなかったのですが、知らないうちに、僕も「彼ら」の共犯者に仕立て上げられている、そんな気分です。

 

先日お送りした「卵と壁」は、お読みになりましたか。結構有名なスピーチなんです。

「もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。」

昨日から、僕の頭をこの言葉がかすめています。

お元気ですか。

新型コロナウイルスという目に見えない存在に日常生活が脅かされる、奇妙な世界の中に生活することに、少しずつ慣れ始めた最近です。

 

昨日は、驚き、怒り、そして自分の無力を感じた一日でした。

僕が支援しているある男性は、身寄りがなく、認知症を患い、生活保護を受給しています。日頃から散歩が好きでかなりの距離をお一人でトコトコと歩いています。

が、ここ数日、そんな姿を見た市民から警察に「徘徊している」との通報が寄せられ、警察に保護されただけでなく、精神病院に医療保護入院させられようとしています。

認知症を患っても、介護サービスを利用しながら気ままに生活ができていたのに。

 

彼のことを何も知らない「行政」の役人が、「安全」の名の下に、ひとりの人生をいとも簡単にねじ曲げようとしている。

昨日は、そんなことがあり、ふと、村上春樹さんがかつてエルサレムで行ったスピーチ「卵と壁」を思い出しました。

 

警察や市役所は、巨大なシステムであり、大きな壁です。そこで働く一人ひとりの役人は歯車に過ぎません。そして、気がつくと我々自身その中に取り込まれていることさえ珍しくありません。

巨大な壁を前にして、ひとりの人間は無力である。そんな現実を突きつけられたのでした。

 

「私が皆さんにお伝えしたいことは一つだけです。我々は国や人種や宗教を超えて、同じ人間なのだということ、システムという名の硬い壁に立ち向かう壊れやすい卵だということです。見たところ、壁と戦っても勝ち目はありません。壁はあまりに高く、あまりに暗くて-あまりに冷たいのです。少しでも勝機があるとしたら、それは自分と他人の魂が究極的に唯一無二でかけがえのないものであると信じること、そして、魂を一つにしたときに得られる温もりだけです。(村上春樹「壁と卵」)」

 

いやなことはありますが、僕はおおむね元気に過ごしています。村上春樹さんも書いておられるように、僕も卵の側に立ちたいと思いながら。

 

五十歳を過ぎても、いまだにこんなことを思っているから、いつまでたっても子どもじみているのかもしれないです。

 

元来浮気性というわけでもないが、一冊の本を読みながらも、他の本のことがふと頭をよぎって仕方ないことが度々である。

そうなると、ふらふらと近所の書店に出かけては書架にある本の背とにらめっこし、気がつくと数冊購入しているということがしばしばであった。

それが、クリックひとつで気軽に書籍が購入できてしまう現代。ふらふらと渉猟ばかりしている僕にはとても危険に満ちた世界なのである。

 

朝の5時半か6時頃に起床し、小一時間ほど「ローマ帝国衰亡史」を読み、身支度が終わリ、出勤前になるとアランの「プロポ1」の一節を読む。帰宅して「ローマ帝国」の続きをといった生活に終始している最近でも、他に読みたいと思う本に気も漫ろになってしまうのである。

 

昨日購入しのは、プリンスの回顧録「The Beautiful Ones」である。表紙に写るプリンスは、なんとも地味な服装をしており、おまけにカメラまで抱えているではないか。まだパラパラと中身をめくっただけだが、珍しい写真が盛り沢山だ。本の作りもしっかりとしており、好感が持てる。もっとも、限定3000部とのことなので急いで購入した次第だけど。

DU BOOKSから2020年4月21日に刊行された物で、値段は本体3500円。

 

今日届いた一冊は、「ギボン自伝」。1994年10月20日に筑摩書房から刊行された。訳者は中野好之氏である。いうまでもなく「ローマ帝国衰亡史」を読んでいるうちに著者ギボンのことがとても気になり、購入した次第。Amazonのマーケットプレイスで探すと数百円という価格で販売されていたので、衝動的に購入したのであった。発売当時の価格は本体3689円。表紙がとても美しい。

数年来、老眼が進行しているので、少しでも大きな活字で読みたいゆえ、文庫本ではなく単行本を購入した。

我が国の出版界では、単行本で刊行してから数年ほどで文庫本とすることが一般的だ。が、人口の過半数が50歳以上という高齢社会であることを考えると、僕のように老眼を患う人も少なくなかろうから、文庫本を、廉価な電子書籍や四六判のソフトカバーで発行する流れとなってもよいと思うがいかがだろう。

 

こうして買ったはいいが、この二冊、読むのは当分先のことになりそうだ。最もThe Beautiful Ones」はパラパラとめくるだけでも楽しめそうだけれど。

では、「ローマ帝国衰亡史」の続きに取り掛かろう。

 

「だが、そう叫んだ瞬間だった、敵敗走部隊からの投槍と飛矢が雨の如く注ぎ、そしてその投槍の一本が彼の腕を掠め、そのまま肋骨を貫き肝臓の奥深く突き刺さった。帝はその凶器を脇腹から引き抜こうとしたが、鋭い穂先がその指先を切断、意識を失い落馬した」。

 

「背教帝」と呼ばれる、ローマ帝国皇帝ユリアヌス(332?ー363)は、キリスト教をローマ帝国の国教としたコンスタンティヌス大帝の息子たちが没した後、皇位を継承する。キリスト教が国教となったことから、その信徒は帝国内でますます増加し、政治や経済にも勢力を拡大し始める。一方、三位一体の解釈をめぐり、キリスト教内に置いて宗派が幾つにも分裂してしまい、お互いを異端と罵り貶めるだけでなく、追放や破門、果ては殺害してしまうといった騒ぎまで生じていた。それぞれの宗派は、政治的な後ろ盾を得ようと皇帝や宮廷に近づくのだが、そこに現れたのが、ギリシア・ローマ古来の神々を信奉する皇帝ユリアヌスであった。それまで対立していたキリスト教内の諸宗派は、共通の敵を見出し結束。一方、異教徒たちは、失地回復とばかり若き皇帝に夢を託すのであるが……。

 

ドグマを信奉する人たちの対立と協調という構図は、現代にも通じる、とても分かりやすい話である。ウィトゲンシュタインは、信じることと、知ることとの間に線引きをすることに意味はないと言った。なるほどそれらを区分することに意味や価値はなかろうが、それらは人間内において同じ機序で働くわけではない。とかく人は「信じたいことしか知りたがらない」が、「知りたいことしか信じたがらない」といった、内的な手順を踏むことはなかろう。

何かを信じている人に向かって、たとえ論理的な証明を交えて信仰の対象を否定するよう説得することなどできない。それは、説得をして信じ込ませるのが難しいことと同じだ。

盲信させるには、対象者を情報から遮断し疑問の余地がない状態まで同じ話を繰り返し、決して考えさせないことである。ありもしないものがあたかもあるかのように、循環する夢物語を刷り込む。考える時間を与えてはならない。共通の敵を作り出すこともよくある手法である。

それを思うと、古代ローマ帝国の時代でも現代でも、組織を作るためのコツは、さほど代わり映えしていないことに気がつく。

 

戦場にあっても宮廷にあっても彼は粗食であり、粗末な服を身につける。目が覚めている時には執務に従事するか、最前線で指揮をとり、ひとりになると思索に耽リ、少しだけ眠る。

古代イェルサレム神殿の再建を画策したリ、アレクサンドロス大王の冒険精神に習いペルシアの征服に乗り出したり(結局その戦場において斃れるのだが)、居並ぶローマ皇帝の中で飛び抜けて異色の存在なのである。

「バルザックに登場するグランデじいさんは、商談のときはわざと吃る。これは、自分自身の思惑は肝に秘めておき、相手の思惑のほうは、その相手が吃り言葉に早くけりをつけたいとやきもきしはじめ結果、思わずそれを漏らしてしまうという美味い手口なのである(「グランデ」アラン)」

 

先週から、時間があれば「ローマ帝国衰亡史」を読んでいるわけであるが、出勤前の数分間に限り、アランの「プロポ1(みすず書房から2000年に刊行された一冊。「1」と「2」とがある)から今日は一つ、明日も一つという具合に順に読み進めている。今朝読んだものは、上記の「グランデ」というものだった。

 

本書の訳者である山崎庸一郎氏の訳者あとがきによると、プロポを語源的に解釈すると「集中した考察のために、ひとがおのれのまえに措定した対象としての主題、さらに広くは、ひとがおのれに設定した目的、ないしは、立てた計画を指す」。「プロポは、新しい情報の伝達をめざすものではなく、多くは既知の平凡な事柄について論じる。したがってある独自の見方が問題になる」とのことだ。なるほど、分かるような分からぬような説明である。

 

著者アランは「わが思索のあと」の中で、便箋二ページという「短い記事のなかでは大見栄切ったことはできない。敏捷に走る。最終行まで到達するかしないかのどちらかだ」という表現している。

 

アランには体系的な著作ではない。彼が残した膨大な数にのぼるプロポは、誰にもで読めるが、誰にでも理解できるものではないといった類の文章である。彼のプロポに接した読者は、わずか「便箋二ページ」に練り込まれた思索の後を辿るために、いかに大変な集中力を要するか、如実に実感することだろう。逆説と諧謔とを交えた軽やかな文章に対して、散漫な精神状態で向かってしまっては、知らぬ間にプロポは終わりを迎えていることだろう。それは知らぬ間に指の間からすり抜けてしまっている。

 

グランデじいさんは、相手に自分の手の内を明かさず、一方、相手の持ち札のすべてを知っている、駆け引きにおける試合巧者であると言えるだろう。「吃りほどひとの注意を牛耳れる者はいないし、また、ひとがいつも手助けしてやりたいと思う者ほど、自分の言葉しだいで、相手の心を操れる者もいない。さらに流暢な弁舌家は警戒される」。

それだけでなく、「わざと吃る」グランデじいさんとは、自分の情念や思惑を制御し統制できる者のことだ。一方、「吃る」ことに苛立った相手は、自分の感情を統御できず、われを忘れてしまう者のことである。

 

便箋二ページほどの文章の描き出す広大な世界に魅せられてしまうと、カントやヘーゲルといった巨大な楼閣を築いた人たちがいささか野暮ったく見えてしまうのも、いたしかたないことだ。

「もともと民主政治なるものは、すべて粗大な雄弁、あるいは作為的弁舌により煽られることがある。時流的衝動とでもいうべき発言が矢継ぎ早に打ち出されると、いかにも冷静な人間も、またいかに堅固な理性も、思わず興奮し動かされるのだ。聴衆の一人一人がわれとみずからの感情に酔うことがあれば、また周囲の大衆のそれにより動かされる場合もある。」

 

先週から、読み始めた「ローマ帝国衰亡史」。いや読み始めては放擲、放擲しては手にとりを繰り返し、気がつくと十数年もの時間が経っていた。鎌倉市に住んでいた頃、大船駅前にある古書店(たぶんブックオフではなかったか)の書架に並べられていた本書の一巻から三巻が、数百円という値段で売られていたのを見かけ、何気に購入したのだった。よもや、この物語が全十一巻もの大著であると知らなかったのである。読み始めたばかりの頃に、どうせなら全巻買っておこうと思い立ち、Amazonのマーケットプレイスを利用して残りを購入したまではよかった。いざ読み進めると、文章のそこここに散りばめられた難読漢字にいささか閉口させられてしまったのである。自然、理解は進まず、話の筋も頭には入ってこない上に、途方もな数の登場人物と紛らわしい人名にも手こずる始末。

 

冒頭に引用した第二十一章の一部は、フランス革命が生じる前夜にあたる時代にギボンが表した、現代にも通じる民主政治における愚かな大衆の姿である。まるで彼が古代ローマ帝国で実見したかのような描きぶりである。

かつて、NHKのバラエティ番組「お江戸でござる」に出演していた、江戸時代の風俗へ研究家杉浦日向子さんを評して、「まるで自分で江戸時代を見たように話している」などと揶揄する向きがあった。

なるほど、ギボンにしても杉浦さんにしても、古代ローマ帝国の臣民でもなければ江戸時代に生きた庶民でもない。が、彼、彼女の目には、当時の人たちが生き生きと動いて見えたに違いない。数多の資料を読み進め、紙背にまで目を凝らしするうちに、過去に生きた人たちの話し声や足音が聞こえ、動き出した。

歴史を山に例えるならば、史家とは山を眺める人ではなく、自分の足で山に向かい情熱を傾け努力して登る人なのだ。傍観してるだけでは過去にはたどり着けまい。

ギボンの面白さはここにある。

 

まだ三巻目の終盤、西暦四世紀まで読み進んだに過ぎない。時はコンスタンティヌス大帝がキリスト教を国教とした頃のこと。当分は史家ギボンに手を引かれながら、古代ローマ帝国を散策することにしようか。

「今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」「どういうことです、誠実さっていうのは?」と、急に真剣な顔つきになって、ランベールはいった。「一般にはどういうことか知りませんがね。しかし、僕の場合には、つまり自分の職務を果すことだと心得ています(カミュ 「ペスト」)」

 

目に見えない感染症の恐怖。それに続く都市の封鎖。二月に武漢が封鎖されたとのニュースに接した際、ふとカミュの「ペスト」が頭をかすめた。そんなことがあり、十五年ぶりに「ペスト」を読んだのだった。当時、友人から勧められて初めて読んだカミュの作品が本作であった。

 

いざ再読しようと思っても、手元に文庫本がないので、しかたなく電子書籍で購入し読み始める。が、初めて本作を手にした時に受けた強い感銘(その大半は、医師リウーと、友人であるタルーに関するものだ)がわずかに蘇るばかりであり、細かなディテールまでは残念ながら記憶に残ってはいなかった。読み進めるにつれ、出口のない状況の中で最善を尽くす医師リウーの姿や、どこか浮世離れしたタルーのことが思い出されてくる。そしてふたりの友情と、死別も。

 

「ペスト」という物語の中で、医師リウーは一貫した仕事ぶりを示す。それは冒頭にあげた、新聞記者ランベールとの会話にある「誠実」という言葉で表されるものだ。自分の仕事を誠実に、つまり自分の職務を果たすことに誠心する。一方、偶然取材で訪れたオランの街から出られなくなったランベールは、恋人に再会するため、あの手この手で街を脱出する手段を探し続ける。そんな中、彼は、リウーの献身的な姿勢に、疑問や反感を抱きながらも次第に捕らえられていく。冒頭に引いた会話は、ランベールの転機となったときのものだ。

 

猖獗を極めたペストは多くの住民の命を奪うが、血清の開発とともに次第におさまり、そして、都市の封鎖が解かれ、人々は以前の生活を取り戻していく。そんな中、リウーは、病気療養中であった妻の訃報を知り、友人であるタルーはペストにより亡くなってしまう。これらの結末は、作品の末尾にあるという以上の意味づけはない。

「ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。おそらくはこれが、勝負に勝つとタルーの呼んでいたところのものなのだ!」

 

新型コロナウイルスに翻弄される毎日。人によっては、このウイルスの出現に、人類に対する警告であるとか、神のなんらかの意思を読み解く向きがあるが、僕は同調しかねる。疾患は疾患であり、それ自体はただ増殖する動きを示すだけの存在でしかなく、「意思」など持たない存在である。疾病に対して人間ができることは、科学的知見に基づいた手法で対処するだけである。

 

ふとリウーとタルーとのことを思い出してしまうことが、日々の仕事の心の支えになっているのが、最近の自分だ。