The Solo Sessions Vol.1 Bill Evans | ScrapBook

ScrapBook

読んだ本についての感想文と日々の雑感、時々音楽のお話を

本を読む、音楽を聴くという行為を暫し反省するならば、またその作品に心惹かれることを合わせて省みるならば、その作品に描かれ目に見える形で自分の目の前に表された「影」とでもいうものを自己確認する行為ではなかろうかと思える時が多い。

人間には必ず最終的な「死」が訪れる。また、他者に共感したと言ったところで、自分自身であることを止める事ができず、自分であり決して他者ではないというその一線を超えることなど不可能である。つまり、自分という存在は、他者と合一することなどできない以上、生まれた瞬間から死の瞬間まで人間は孤独であり続ける。自分であることを、ただ連綿と経験し続けるだけだ。だから、我々は迷い、迷走し、間違い、過ちを犯すと解釈する。それは理想とするモデルと比較しての話だが。モデルを持たない存在は、変化しない。石のように経年劣化することはあっても。想像力が欠如するとは動物的であるということだ。すべてを暴力で解決するとか、自己の身体の快感原則だけで存在し続ける様態は。

人が、自ら思考し、自らが想像するモデルと現在の概念化された自己との差異に気づく時(即自から対自に移った時)、人は、そのモデルが実現していないことに不安を覚え、うろたえる。「もう少し私の鼻が高ければ、私はもっと多くの人に愛されるだろう。だが、私の鼻は低い」。だから、サルトルの神の概念は「即自かつ対自」だ。うまいことを言うものだ。

どこかで想定するモデルと自己とを合一したいという欲求がある一方、それが不可能であるから人は不満をかかえ、自己の不完全を呪う。また人によってはその合一への行為を諦めてしまうだろう。今あるがままの自己を完全に、十全に受け入れる、許容する、受容するということは、たいへん困難な作業である。一歩間違うと機械のようになりかねない。また多くの人は自己を機械化することで、その差異から遠ざかろうとするのだ。人間は、裂け目を見続ける存在であることを宿命づけられているのだから。飛び越せない裂け目から目を背けるとは、文字通りまたある種のイメージを想像しないこと、想定しないことであり、とどのつまり理想を抱かないことだ。幸福を夢見る人間は、見ずから現在の自分が不幸であることを自己証明しているようなものだという突き刺すような感覚から逃れようとする。

ビル・エバンスのピアノを聴いていると、鍵盤から紡ぎ出される音の途切れる狭間から「影」が聴こえてくる、そんな錯覚を覚えてしまう。死ぬまでジャンキーであった彼の残し続けた「影」をまるで他者である自分が追体験しようとしている、自分の「影」をのぞき見ようとする、目に見え、耳に聞こえる外在的なものとして捕らえようとする自分の好奇心が、彼の演奏を聴く動機になっている。それがもっとも現れているのがこのアルバムではないだろうか?