In A Silent Way | ScrapBook

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読んだ本についての感想文と日々の雑感、時々音楽のお話を

今、マイルスのIn A Silent Wayを聴きながら、この文書を書いている。ポストプロダクトジャズ。

マイルスの公式の録音は1945年から始まり、亡くなる年の1991年までの40数年間(途中数年のブランクがあるが)ほぼ休みなく続いた。
1945年のチャーリー・パーカーバンドでのビ・バップ、自身が率いたノネットによる「クールの誕生」にまとまった演奏、50年代初頭からジョン・コルトレーンを含むバンドで演奏したハード・バップ、モードジャズ、エレクトリックジャズ、プリンスとの共演に代表されるポップスへと。それら急激な変遷を簡単な数個の使い古された言葉で表したとしても、彼の全ての作品に接していない人には彼の激変を伝えることは難しいが、彼の音楽は常に変わり続けたということを、これらの言葉を通して伝えることはできるだろう。気分によってその日に着る服を変えるように、彼は時代に合った音楽を探し続けたのだろう。

先日、ウンベルト・エーコの「開かれた作品」を読んだ。彼が用いる「開く」と「閉じる」という言葉は、作品の受け取り手の解釈の自由度によって生じるのだという。果たしてそうだろうか?
例えば、カフカという奇異な作家が20世紀初頭に存在した。カフカの前にカフカのように書いた作家は存在しなかっただろう。つまり、彼の残した作品を享受した人類はカフカという一つのテキスト解釈の方法を会得したとするならば、現在に生きる人間は過去の人類よりも目の前に用意された「解釈」の選択肢が多いというだけの話ではなかろうか? その解釈の余地をして開かれたという表現を用いるとするならば、歴史は時代を積み重ねるごとに進歩するというただの進歩史観に堕することだろう。

現象学の祖であるE.フッサールが哲学とは目の前に広がる世界をいつも新しい目で見る態度だと(この記述は誰かがどこに書いていたように記憶するだけで、このようなことを書くことは原則、悪質な孫引きだが)どこかで読んだような? 原初的な目でものを見るということは大変困難なことだ。

歴史に名を残す芸術家がいるが、その中でも特に偉大な芸術家は自らの作品を超克していく。いや、行かざる得ない。彼らは朝、目覚め、誰か「知らない人」と鉢合わせする度に戸惑うだろう。彼らは習慣を失っているのだから。そうして彼らは「差異」を作り出さざる得ない。

E.ポーに始る象徴主義は気違いじみたミューズを如何にすれば地上に引き下ろせるかに苦心した実験であり、またそのための方法論の仮説であった。彼らは、骰子の偶然を信じないことにしている。その偶然に自らの晩年に驚嘆したのがS.マラルメであり、ヴァレリーは隠し通せた。ヴェルレーヌとランボーは不本意に文学史の年表の中で彼らの仲間に叙せられた。

マイルスの計算され尽くしたジャズを聴きながら、こんなことを考えてしまった。