いじめについて | ScrapBook

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我山に向かいて目をあぐ(詩編121)

時事問題などについて書くことは今までしたことがなかったのだが、ここ最近報道されるいじめを苦にしての自殺の報道を聞いていると、今の教育現場はどうなっているのか、と市井のひとりとして気になってしまう。というよりも頭にくる。

30日のnews23で女性キャスター(元NHKの方みたいだが、流石に名前までは知らないが)が、
「生徒の自殺が連続して起こっています。自殺によっていじめを糾弾することを、これらの報道が助長すること危惧しています」というコメントを流していた。
もっともなことだが、彼ら(報道機関)にとってはどんなネタであっても、そのネタをテレビで流し続けるのが飯の種なのだから、止めるわけにもいかないだろう。居酒屋で酔ったサラリーマンが「酒は体によくないねぇ」、などというのとさほど変わらないだろう。報道機関は彼らの正義をかかげて糾弾すればいい。それぐらいしてあげないと死んだ子供がうかばれない。

テレビ朝日のある報道番組では、コメンテーターが、
「学校は社会に出る前に社会とは何かを教える場所なのだ。つまり小さいとは言え社会である以上当然のこととしていじめはある」という旨のことを言っていた。公平な立場からものを言っているようだったが。中立=知識階級という考えからはやく抜け出ていただきたいものだ。だからなにが言いたいのだろう?有り体に言うと、いじめなどなくなるわけがない、というだけじゃないか。

とある学校では先生が主導していじめを行っていたと報道された。そしていじめに加担した生徒たちは「先生がしているからいいと思ってした」という。まだ十代の前半の子供がずる賢い理屈でもって保身をはかっているのを耳にすると吐き気がする。

いじめを行う連中の内側は低劣で、出来損ないで、コンプレックスのかたまりであり、結局事なかれ主義であり、寄らば大樹の陰、つまり事なかれ主義のずる賢いガキ達なのだ。こんな子供がそのまま大人になり、社会に出てもたいていはそのままの腐り切った人格を持って人に接するのだから、同じような汚物をそのあたりに垂れ流すだけだ。群れをなさなければなにもできない出来損ない達。とある報道では、いじめに加担した子供たちも自殺を知って傷ついていると言うが、馬鹿なこと言うなと言いたい。方や冷たく暗い世界にたったひとりで赴いた人間と、親や法の庇護の元ぬくぬくと生き残っている連中を同列で扱うな。

いっそのこと遺書を残して死を決意した子供たちが遺書の中で実名をあげて糾弾した連中ぐらい、法で裁くことはできないものか? 少年法など手ぬるいと思う。これは刑事事件ではなかろうか? 人が死んでいるのだ。夕方、テレビを見ているといじめた子供の両親が自殺した親御さんに御詫びに行ったと報道していたが、我が子を失ったご両親が紳士的にコメントをしているのを聞いていると、逆にこちらの胸が痛くなる。本当は自分の娘を死に追いやった連中の親にむかって糾弾し、罵倒し、つかみかかりたいぐらいの気持ちだったろう。憎しみの連鎖だとかなんだとマスコミは言うが、その連鎖を断ち切る、人が人をゆるすことなど、できるのだろうか? 心や体に負った傷をただひたすら表から見えないように隠し続けることしかできないのではないか?

いじめられている子供たちにはただ同情するしかないのだが、人間は決して平等ではないのだから、このような出来の悪い生き物が人類の中に混ざることも仕方のないことだと諦めるしかないだろう。学校がいやならやめてしまえばいいと思う。学校だけがすべてではないし、腐り切った環境の中でどんなに頑張っても、自らを追い込むだけなのだから。

大検というシステムが日本にはある。いっそのこと義務教育だけのシステムではなく、小学校卒業検定試験や中学校卒業検定試験を設けて、本当にガッツのある子供なら自分で勉強してそれらの試験を受けることのできる制度をつくるなどしてはどうか。みんながみんな同じ道を同じスピードで歩く必要もないだろう。自分が望みもしない馬鹿げた連中と一緒に歩くとなると。浅田彰はあまり好きではないが、「逃走線」とでもいうものをどこかに引いていないといけない時代だ。

一方で、履修問題を苦に自殺した高等学校の校長先生。死によって解決をはかることは……。などと僕のように汚らしく生き残るものが図々しく言えない。死を選ぶ人達は、あまりに生真面目でありすぎないだろうか。真面目に生きるから死を選ぶ。