西国のお参りに和歌山へ
12月4日午後に家を出て
6:55、新宮市に到着
5日早朝から
8:00熊野本宮大社
8:40大斎原
9:10真名井社
10:10熊野速玉大社
10:40神倉神社
12:00那智の滝名物 熊野蕎麦
12:25熊野那智大社
12:40那智山 青岸渡寺
13:00那智の滝
最後の最後に、
もう一か所立ち寄りたかった寺院に
【妙法山 補陀落山寺】
国の史跡「熊野三山」の一部、
世界遺産
「紀伊山地の霊場と参詣道」
の構成資産の一部です。
以下、自分用の覚書に長々と
文章を書いてますので興味の無い方は
スルーして下さい。
仁徳天皇の治世にインドから
熊野の海岸に漂着した
裸形上人によって
開山されたと伝える古刹、
江戸時代まで那智七本願の一角として
大伽藍を有していた。
御本尊は
■十一面千手観音立像(重文)
平安時代からの1000年間にかけて
南海の果てにあると信じられていた
観音浄土(補陀落)を目指して
釘付けされた船に乗り旅立った
「補陀落渡海」で知られる寺。
石碑
世界遺産 補陀落山寺
補陀落渡海発祥の地
補陀洛渡海は、
日本の各地に40件を超える
記録が残っていて
そのうち25件がこの
この補陀洛山寺から出発、
渡海した僧侶25人の名前が
境内の石碑に名が刻まれています。
平安前期の貞観十年(868)から
江戸中期の亨保七年(1722)まで。
平安時代に5人
鎌倉時代に1人
室町時代に12人
安土桃山時代に1人
江戸時代に6人
境内に展示されている復元された
■渡海船
船上に造られた屋形には扉が無く
入り口は釘で固定される。
四方に4つの鳥居が建っていて、
「発心門」
「修行門」
「菩薩門」
「涅槃門」
の死出の四門を表している。
■補陀落渡海
(ふだらくとかい)
中世日本では、遥か南洋上に
「補陀洛」が存在すると信じられ、
これを目指して船出することを
「補陀洛渡海」と称した。
渡海僧が船に乗ると扉は釘で固定され
30日分の食料と
灯火のための油を載せて
北風が吹き出す11月に行われた。
渡海船は伴船に沖に曳航され、
綱を切られた後、
朽ちたり大波によって沈むまで漂流する。
補陀落渡海とは、
自らの心身を南海にて
観音に捧げる捨身行!
船が沈むさまを見た人も、
渡海者たちの
行く末を記した記録も存在しない。
江戸後期には、
既に死んでいる人物の遺体を
渡海船に乗せて水葬するという
儀式に変わる。
自分の命を観音様に捧げる捨身行
「補陀落渡海」
これが修行と言えるのでしょうか?
それはさておき
ちょっと興味が湧いて
長々とウンチクを書いてますが
全てWebからの情報を
コピーしたものです。
補陀落山寺の御朱印を頂きました
「園通殿」
妙法山 補陀洛山寺
和歌山県
東牟婁郡那智勝浦町浜の宮
☎ 0735-52-2523
拝観
通年 8:00~16:30