若き日のDima | Добро пожаловать!

Добро пожаловать!

ありがとう、Dima
あなたの歌は永遠です

最近、Dimaの若い頃の録音や記事に触れることが多くなりました。

 

2003年から彼のファンになった私にとって、クラスノヤルスク時代やカーディフ優勝後1990年代初頭の活躍は未知の世界であり、その頃の彼を知ることは大変興味深く、幸せでもあります。

 

彼の生前は【今】の彼の歌に聴きなれているため、デビューアルバムなど30代前半の歌唱には物足りなさを感じ、あまり頻繁に聴くことはありませんでした。

 

しかし、最近1990年にボリショイ劇場で歌ったコンサートを録音したLPを手に入れ、彼が20代の頃から既に素晴らしいテクニックと飛びぬけた美声を持っていたことを改めて思い知らされました。

(LPの感想はこちら⇒

 

また、少しずつ更新しているファンサイトのデータベースも、現在1990年代を整理している途中ですが、その作業中に当時のインタビューやレビューを見つけることによって、私の知らない若きDimaを少しでも知ることができます。

 

Dimaはカーディフで優勝の翌年、1990年にはアメリカでリサイタルを行っています。

翌1991年にかけて行われた彼のアメリカツアーは、数々のレビューやフィーチャー記事によると大変センセーショナルなものだったようです。

 

1991年、People誌が選ぶ「最も美しい50人」にランクインしていることからも、彼が当時いかにアメリカで注目されていた人物であったかがわかります。

 

People誌に載ったDimaの写真

 

先日亡くなられたあのジェシー・ノーマンが、当時のDimaのことを“He’s beautiful inside and out.”と明言した…と記事にありました。

Dimaはあのノーマンをも魅了していたのですね。

 

接点がないような2人ですが、実はCD「カヴァレリア・ルスティカーナ」で共演しています。

 

 

1990年当時、Dimaはまだ英語が話せなかったそうで、インタビューは通訳を介して行われました。

横には当時の奥様、スヴェトラーナさん(2015年逝去)も付き添っておられたようです。

 

インタビュー前、「タバコを吸ってもいいですか?」と訊いたそうで、ヘビースモーカーのDimaらしい様子も伝わります。

 

タバコといえば、1998年のフィーチャー記事では、『彼は13歳からの習慣であるタバコをやめた』と書きつつも、電話の向こうで恥ずかしそうに笑いながら、「でも時々、仕事がない時、両親がいない時は今でも一服ふかしてるよ」という彼の言葉を紹介しています。

正直な人ですね。

 

トゥールーズ、カーディフと2年続けて優勝した彼は、「多分もうコンクールには参加する必要はないでしょう。チャイコフスキー・コンクールに参加したいけど…しないと思います。」と語っています。

 

もし彼がチャイコフスキー・コンクールに参加していたら、もし優勝していたら…。

彼の未来は違ったものになったかもしれません。

 

1991年、アメリカのオペラファンにDimaの存在を大きく印象付けるチャンスが訪れます。

リチャード・タッカー・ガラへの初参加です。

 

この時、あのパヴァロッティが「運命の力」から''Invano Alvaro"を初めて公に歌うということが話題になっていたようです。

また、1990年にリチャード・タッカー賞を受賞したルネ・フレミングもこのガラに参加したようです。

 

そのパヴァロッティが初披露するレパートリーのパートナーに選ばれたのがDimaでした。

テレビ放送されたこのコンサートから、貴重な映像がアップされています。

 

 

大スターであるパヴァロッティ相手に、当時まだ無名の新人だったDimaが全く物怖じせずに堂々と歌いきる姿には心を打たれます。

Dimaの言葉を借りれば、「人に分けてあげたいほどの自信家だった」時期かもしれませんね。

 

1998年のインタビューでは、36歳となった彼が容姿で騒がれる時期は過ぎたことを自覚し始め、自分のレパートリーについて色々考えていることを話しています。

 

ちょうどヴェルディの「群盗」でフランチェスコを歌って好評を得ていた時期で、「悪役が楽しい」「演技することが楽しい」「いい俳優になりたい」などと語り、「事務所がスカルピアのオファーを受けた」、「スカルピアを歌うことを楽しみにしている」と話していました。(しかし、彼は生涯スカルピアをオペラの舞台では歌っていません)

 

また、自分がワーグナー歌手ではないことは理解しつつもワーグナーに興味があること、マーラーはすでに準備中であるとも話しています。

(1999年「亡き子をしのぶ歌」をシカゴで歌っています)

 

“I only ever thought about two things—singing and women, not necessarily in that order. But I’m happily married now, so I’m a lot calmer.”

 

この彼の言葉からも、20代後半から30代のDimaは幸せな結婚生活を送り、仕事も軌道に乗ってスター街道まっしぐらの時期だったことがよくわかります。

 

私がファンになったころの彼はもう40歳になっていて、その後あまりレパートリーが広がることはありませんでしたが、若い頃はいろんなことに挑戦し、また、たくさんの夢を抱いていたのではないでしょうか。

 

若い時の彼は自信家でヘビースモーカー、アルコールでトラブルを起こすことも多く、いわば【やんちゃ】だったようです。

そんな彼は、生涯を通じて年上の女性に愛され、守られてきたというイメージがあります。

 

幼い頃は忙しい両親に代わり、おばあ様が彼の面倒を見てくれていたそうです。

彼はおばあ様からロシアの民謡・民話を教えてもらったと語っています。

 

おばあ様と子供時代のDima

 

また、クラスノヤルスク時代のエカテリーナ・ヨッフェル先生、彼を引き上げてくれたイリーナ・アルヒーポワさん、そして、METのパトロンでDimaに大きな愛を送り続けたアン・ジフ女史など…。

彼をスターダムにのし上げたのは、彼女たちの尽力も大きかったのではないでしょうか。

 

ヨッフェル先生と

 

アルヒーポワさんと

 

アン・ジフ女史と

 

 

最後に大変貴重な映像をご紹介させていただきます。

クラスノヤルスク・オペラ1990年、当時28歳のDimaが歌う「椿姫」のジェルモンです。

 

FBに投稿されたものですので、リンクを貼らせていただきます。

2幕1場のヴィオレッタとの二重唱が見られます。

こちらからどうぞ。