【「煩悩具足の凡夫」それを識ることこそ菩提 】
親鸞ほど現実を直視した僧侶も他にはおりません。
親鸞は、自らのことを「愚禿釈親鸞(ぐとくしゃくしんらん)と名のり、その名のりのもとに生涯を送りました。「愚禿」とは、頭を剃った愚かな自分という意味です。わたくしは、そのような、自分に正直な愚禿釈親鸞が好きなのです。
今回は、この世の世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、虚言(そらごと)、戯言(たわごと)であり、まことのことは一つもない。と言い切っている、親鸞の深い現実直視から得た、「生きる人間の真実の姿とは何か」を、ご一緒に考えてみましょう。
わたしたちは日頃、いろいろな出来事に悩み戸惑いながら生きています。そんな中で、他の人に対して怒りや憎しみ、妬みなどの思いを感じることもしばしばです。而も、その思いは一瞬たりとも止むことがありません。難しいのは、自分の意志や努力によって、このような悪き感情を消し去ることが不可能なことです。
しかし、そんな問題を抱えながら、生きることを余儀なくさせられるのが、わたしたち凡夫にほかなりません。ところがわたしたちは、自分が抱える問題を、自らの力で解決できると安易に考えたり、逆にそれを直視せずに当然のこととして済ませていこうとします。
実はここに本当の「愚かさ」があるのです。
親鸞は二十九歳の時に、浄土宗の開祖法然と出遇います。先にお山(比叡山)を下野した法然が明らかにしたのは
「凡夫であるという事実に目覚め、ただ念仏するとき、全ての者が救われていく」
という教えでした。
お山を下りた法然のもとには、立場の違いを超えて様々な人間が集い、釈迦の説く「阿弥陀如来の世界観」である、すべての者が平等に救われる世界の実現を目指していました。
親鸞はこの出遇いを契機として、それ以降、凡夫である自らに向き合いながら生きていきます。
わたしたちは日々、様々な問題を抱えていながらも、それらを無視したり、外見では誤魔化して、自分ではない自分を演じて生きています。
親鸞が自らを「愚禿」と名乗ったのは、自らと真正面に向き合い、自らを偽らずに生きていこうとする、親鸞自身の決意の現れと同時に、その親鸞の生き方は、わたしたち一人一人に、「あなたは今どのように生きているのか」と問いかけ続けているのです。
実は親鸞は、自身の愚かさを知ったのではありません。仏(阿弥陀)を疑い、仏(阿弥陀)から逃げている親鸞をも、阿弥陀如来は包んでいるではないか。親鸞はその真実を知ったのです。
親鸞の告白が、現代(いま)に伝わり、響いているのは、凡夫の自分自身に出遇い、阿弥陀如来に救われた人の言葉だからなのです。
親鸞聖人は、自分(愚禿親鸞)のような、愚かなものが阿弥陀の救いの中にあるのだから、誰もが阿弥陀如来に救われると説いているのです。
わたくし(釈正輪)は、本当に煩悩の塊、凡夫の他なりません。しかし親鸞聖人の苦しみが、阿弥陀に救われたことを知ることで、わたくしも救われてよいのだと思えるようになりました。
合掌
悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)
誠(まこと)に知りぬ
悲しきかな、愚禿鸞
愛欲の広海に沈没し
名利の太山に迷惑して
定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず
真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを恥ずべし、傷むべし、と。
(『顕浄土真実教行証文類』信巻より真宗聖典251頁)
まことに知りました。
悲しいことに、この愚禿親鸞は、
愛欲の広い海に沈み没し、
名利心の大きな山に迷い惑って、
阿弥陀仏の浄土に入ることが約束されていることを喜ばず、真実のさとりに近づくことを快いとも思わず、恥ずかしいことです、傷ましいことです。
釈 正輪 拜
お知らせ
「目覚めよ日本人」釈正輪著 ヒカルランドより
4月25日 刊行
講話会
どなたでもご参加いただけます。
お気軽にお越しください。
◯4月8日(月)19時より
東京都中央区 新富区民館
◯4月9日(火)12時より ランチ講話会
横浜市青葉区あざみ野
4月6〜7日 一泊ツアーをします。
富士山の周りを巡ります。(河口湖泊)
あと3名募集します。お問い合わせ下さい。
記載責任者
シャムロッククリエイティブ株式会社
釈正輪 秘書 赤荻由那
http://www.shamrock-creative.com
info@shamrock-creative.com