めくるめくパウンド フォー パウンドを考える時我々はあらゆる事に直面する。
そうや!っちゅう人あれば
何かする時にそれじゃいけないよ! と それぞれ。
だが実際は後者が至極真っ当な事が多々ある
例えば
現行と過去の状況とを本質的であったり仮説的な秤を有した知識と判断で選りすぐり磨かれた情報にして大局観とでもいえる諸々の影響力などを考慮した実際的というか現実的な判断とでもいうべきデフォルメにかけるという正当とも不当ともなりえる裁判をする上で遭遇する様々な事があるっちゅう事。
それを検討し合う自分にも他者にも関係ない第三者にも、そして、彼等との関わりそのものの中にも存在している力学に大体皆んなが左右されている事に仄めかされている現実。
我々の意欲と同様にそれの存在しているテリトリーには凡ゆる意欲が働いている事。
現実を空間として捉えて次元を見出しそれを細分化しては神のみわざに酔い痴れているド玉に見舞われる打撃をも分析してしまう開き直りとも取れる後ろ向きの肯定と歩み
それは前向きか?
前進か?
否。
打ちのめされながらも続ける手ぶらり戦法からいつかお見舞い返すつもりのクロスカウンターは、いよいよという場面に集約される、何かでかい山を狙っている。
否。
打ちのめされながらも続ける手ぶらり戦法からいつかお見舞い返すつもりのクロスカウンターは、いよいよという場面に集約される、何かでかい山を狙っている。
何も手にせず救世主もどきよろしく浮浪者にも及ばぬ如き連中の政治利用に奉られたりそういう誤りの模倣を生業として胡座をかく事にしている連中とは違う眼差しの野良犬。
何故かドヤ顔の心のドヤ街の飢えた狼は虎穴に飛び込む思いでこの装置に飛び込むのである。
普遍的な社会の掟にはこうある。
手足は本能的でありつつ聞き分けも良い事!
親分の孤独は凡ゆる他者の理屈や理解を超えているが、言うこと聞いてほしいのは全部丸く治めるため。
実際には人間の真理とはこう言ってしまって事足りるのかもしれませんが、秩序を必要としながらもそれを憎む事を生きる情熱にするのも人間。
腹が立って頭に来た男は駆け出して、その道程で自分のやり方を認識し、それを分析したり理解しようとする。つまり自己認識に向かうが、己に向かう時にはその媒体たる対象から離れてゆくという前進する上での主観と外界のパラドックスの法則を前にキリキリ舞いしている間にその容易ならざる隙間は益々開いていく。
やがて落ち着くためにある意味での歩みは止まる。
こうして
確かに言葉は不粋かも知らんがあんたらも負けてないよと当たり前のことをお経する逆説的反骨を育んでしもうた てやんでぇ 達がうまれるのです。
こうして
確かに言葉は不粋かも知らんがあんたらも負けてないよと当たり前のことをお経する逆説的反骨を育んでしもうた てやんでぇ 達がうまれるのです。
さて、ここまでの前置きを要約すると
平等化と差別化の両立を図らざるを得ないプロスポーツのありえない平面化を実現すべく誌面の記述から発生したパウンド フォー パウンドは、同じ重さの時にでてくる価値が一番高いのはどれ(誰)?という格付けだが、ボクサー達の肉をそれぞれ1ポンド切り取って天秤に乗せて釣り合わせてからどちらの価値が高いかをケンカする、いわば拳の市場であり、金銀のように全時代を通して安定した価値をもつ発掘資源のような凡ゆる種類の才能と労働に支えられているところも、土地や民間に根ざした英雄像の再帰の劇場として支えられているところもある総合的な価値判断の、つまり、大真面目も馬鹿らしいが空虚であったならもっと怖ろしい、誰しもがもつ多分コイツが一番凄いと思うわランキングである。
言ってしまえば最も素直な試みなのかもしれません。
この戯曲の舞台で運動しているのは肉体であり精神であり資本であり
この戯曲の舞台で運動しているのは肉体であり精神であり資本であり
その普遍の流転の中で自然と浮き出る法則を捉えて不変の結晶を、神聖な金字塔を打ち立てようとする不届きさを科学と呼べば科学だし、常に変化する状況や状態のなかで苦難の海を渡る航海をする精神は、宗教と呼べば宗教です。
今年はまだ終わってないのでボクシング原理主義的PFPは掲示しかねますが、井岡vsシントロン楽しみです。
基本的にベニテスのような天才を除いてはゴメスやトリニダードやコットのように凄いパンチのボクサーパンチャータイプを出して来たプエルトリコではおそらく芽が出にくいであろうボクサータイプのシントロン。井岡的にも序盤のボクシングから打ち合い倒しに来た、よりパンチャーだったパリクテやアローヨ戦に比して、より終始ボクシングマッチになりテクニックを試される相手となりそう。
おまけ