ノックトアウトキング | ボクシング原理主義

ボクシング原理主義

ボクシングの原理原則に則っとりながら技術論や方法論を分析考察。技術や意識の向上を目指したい、いちボクサーの見識メモ。
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 「ノックアウトキング2の感想です。自分と世間の温度差を思い知らされる内容でした。

キース・サーマンはザベック戦に続き動くボクシングを見せ、最後には相手を倒してしまいその能力の高さをまた証明した。が、ますます戦う相手を探すのに困る事になりそうだ。

アンドレ・ベルトはもう引退だろうか?
正直、ベルトを誉める人の気が知れなかったが・・・そんな私にとってもなんだか悲しい幕切れだった。

荒川仁人選手は惜しくも敗れてしまったが、名前を売る事が出来たのではないだろうか。
ただダメージの方が心配で、キャリアをその身体から叩き出すような試合だった。

オマール・フィゲロアは・・・まぁ、デラホーヤ氏とワトソン一家の表情が全てを物語っていたね。
Wowowで御覧になる方は試合後、是非注目されたし。

商品価値を上げようという矢先に之だったので、良くて荒川選手と再戦。
ガンボアか、トップランクのクラウフォードとは絡まないだろうし、最悪、ブローナーをライトに舞い戻らせて調整で喰わせてしまうかも知れないね。

正直に言うと、サーマン以外の試合は自分にとっては興味のでるものでは無かった。
テストマッチとサバイバルマッチで、よりバイオレントな内容を売るものだったが、個人的には謎に思う事だらけだったからか・・・。

ソトカラスと荒川選手のパフォーマンスは選手の能力と試合に勝つために必要な事を合わせた大した物だった。

が、ベルトとフィゲロアの行動はそれぞれ相手にかけられた制限とは別に不可解なものばかりで、理解不能だった。

SMSの日本の声では、年間最高試合・興行という声が多いらしい。」
 

        「人に見せたくなるような試合だったじゃないか。 私は好きだったな。」



  「う~ん、僕はちょっとね。

多くにとって面白い試合だった事は確かだろうけど。


僕にとって引っかかるボクシングの性質に、例えばアルツール・ガッティが死後殿堂入りしてしまったように、実際能力としてはそうでないものを人気でどうにかしてしまうというのが在る。

一概にされがちな尊敬というものが、どうも正しい判断と、それ以前に感覚に対する解釈すら欺いている気がしてね・・・。

ところで、荒川フィゲロアの試合のコンピュボクスはとんでもない事になっていたね。


話は変わるが、人間というのは、理解も出来ず美しさも感じれないものを見るのを苦痛に感じるものだね。

機能を不全に陥らせる間違った発達を醜さと言うが、それは見る者に不快なだけでなく、本人にも多くの問題や苦痛を与えるものだ。

例えば、虫歯とかそうだろう。
潰れた鼻とか塞がれた目とかいう痛々しいものや、色んな人間の状態とかにもそういうのがあるんではないだろうか。

しかし人間、時として、いわゆる醜さや苦痛、苦悩、失敗・困難の中に美や学びを見出す事もあるし・・・むむ、なんだか真理にまた一歩近づいた気がする。

どうやら僕らも造詣が深くなって来たようだね、ワトスン君。」



「ボクシング美術主義。」

 

「まぁ、好みって分かれるもんだね。」
 
 

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