昔日の想い | ボクシング原理主義

ボクシング原理主義

ボクシングの原理原則に則っとりながら技術論や方法論を分析考察。技術や意識の向上を目指したい、いちボクサーの見識メモ。
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 「ところでワトスン君。」


 

「どうしたホームズ?」

 
 「そろそろ昔の君に戻ってくれよ。

僕は淋しいんだ・・・

というわけで、今回は昔についてだ。

・・・皆さん、ボクシングで昔と聞くといつ頃を想われるでしょう。

私なら70年代以前。 ある人は80年代、そして90年代という人もいるんではないでしょうか。

(JBCのウェブページに日本ボクシングの歴史についてが載ってある
http://www.jbc.or.jp/info/howtobox/history.html )


ところで、巷にはボクシングは常に進化していて、モダン・ボクシングはクラシック・ボクシングよりも優れているというペーパーな考え方がある。 

オールド・スクールファンとしては、実にいただけない意見だ。」

「全くだ。」

 
 
クラシックというのは原理的であるために普遍的なものだ。

モダンというは新しいもの。
しかし、新しいというのが原理を忘れたモノならば、それは古いものよりも優れているとはいえない。 機能美的観点からしても、競争の性質が変化していく中で進化してきたものであるならばそれは環境に適応した訳であって、原理的なものがより可能性を広げた状態とはいえない訳だ。 

そういったモノは寧ろロマン的であって、あらゆる時代に存在すると共に過ぎていく流行のようなもの。つまり我々や根本現象を媒介にはするが、時代という空間的な条件を原因とするストレスや欲望、情熱に憧れといったものが生んだ偏執的でいながらもその場しのぎなものだ。我を忘れさせ、恐怖を伴わず、超克を必要としない幻想的ものだと思う。ゆえに純粋な楽しみや快楽としても軽薄なものなんだね。

昔という言葉を使うとき、その時代のロマン的なものを指して言う人がいると感じる時がある。
彼が想う昔日とは、徒労で、みすぼらしく、悲しい結末を持っていながらも温かいノスタルジックな憧れがある分、自己の中ではとても純粋な部類に入る数少ないモノだ。
そういう訳でこういうのを好む人もいるし、そういうのを嫌って常に先進的であろうとする人もいる。

まぁ、こんな勝手なステレオタイプで人を判断するのはいけませんが。」


「つまり何が言いたいんだ?」

 
 
「昔という言葉を割り切って軽視して欲しくないという事ですな。
前に進むためには、何事も形格化して認識してゆく事は必要ですが、形骸化させるのは良くない、というか悪い。絶えず人間は生まれ変わっている、だから何事も再度会得されねばならない。
 
・・・歴史を知らぬものは~・・・いいや、むしろ、歴史は繰り返すですよ。

勇気の目覚めと決起という人間の歴史がね。」


 「・・・僕は恥ずかしいよ。本当の自分を忘れて夜もサングラス、いつでもフランスパンを抱えていた自分が!仕事も片手間だった。」

 「いいや、ワトスン、恥じちゃいけねぇ。 お前はきっとサングラス越しに見える景色や、フランスパンを抱える事に美しさを感じていたんだ。そこには理由があった。ロマンだってないがしろにしちゃいけねぇ。流行にお前が見出した何かを掴み取れるのはお前自身しかいないんだ。後悔なんてつまらねぇ真似はよしてくれ。」
 

 
「  何というメンター。

では僕のボクシング・メンター、麗しのオールド・スクール・ボクサーイザード・チャールズジョー・ウォルコットの映像です。
御二方とも全盛期ならあのロッキー・マルシアノにだって不覚はとらなかったであろうに・・・彼らもバレラ・モラレス顔負けのライバルだった。 

それにしてもジョールーイスは全盛期であった筈の時期を軍隊の慰問に費やして、カムバック後も金銭面で止められず、晩年ですらとてつもない試合をしていた。IRSファック・ヒム・アップなんだったが、あのマックス・シュメリングが後に援助してくれたという・・・目にゴミが入いったか、歴史はペーパーではなく生き様だな!」


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