治が難しは支配が易し、
それも出来ぬば放っておけ。
差す魔の来たるところ、
真理の処。
取澄ましに何があろう?
混沌こそ厳然たれば、
真理の兄弟。
哲人、木村だがや。
思うんですが、
日本の芸術というやつはまさに表現力ということに他なりませぬな。
結果としての表現に成功するという。
水墨画や枯山水などがありますが、表現方法として革命的かつ核心的で、
凄く日本的だなと感じます。
余白美や、
あえて描かないことでみる人の心の中に描き出されるといった巧みでいて簡潔な技法。
室町ルネサンスですな。
文学にしてもです。
太宰治なんかはまさに
俳句のような、流行歌の歌詞のような読みやすさ。
本当に誰にでも読みやすい。
感情移入しやすいといことでしょうか。
表現もなんだか芥川龍之介のような状況描写。
ただの小説のように心理描写というものに特化せず、
戯曲のように登場人物たちは必ず内面に裏打ちされた行動をとり、
話の世界の流れに作用する。
ゆえに内面と行動が剥離しない。
そのことによって、登場人物たちの動きに説得力が生まれ、
そこに読者は枯山水てきな余白美を感じ取るわけですな。
太宰作品の主人公の行動の後ろにみてとれるのは積極的惰性。
弛まぬ揚足取りに生来の天邪鬼を思わせず、人間と社会、内と外、
ひとつとなにかの問題や相克を思う人間の当所ない精神を思わせる。
しかし、
その全体は、誰かの一言で片付けられ払拭が可能な果敢なさに、
読者は自らの分別を実感するわけですな。
シェイクスピアの「ハムレット」にも積極的狂気の振る舞いというものがありますが、
太宰とシェイクスピアの違いは取り扱っている代材の違いでしょう。
ハムレットにおいて、
父の亡霊という超自然的なものに導かれ、
その仇である叔父に罪とは知らず妃であり続ける母という、悪や不義、無能さとの対決が存在する。
つまり、個人の執念に正義や道徳そして男性的な大局精神とでも言いましょうか、形而上的なものの見方すらが性質としてあります。
そして、そうした男性的なものが恋人オフィーリアのような犠牲すら出してしまう、そして男性的なものはその犠牲すらも決然と払ってしまう。
が、太宰作品はそうではない。
いかにも女性的な、生理的な、良く言えば肉体的な性質です。
目前的さ、都合、計算高さ、利口さ、抜け目なさ、無目的さゆえの犠牲と、
ハムレットとは対照的なものです。
この素材自体の卑俗さが文学的ではありえても芸術にはなれない所以ではないでしょうか。
私小説とか純文学とかいうやつですな。
いわゆる「恥を書く」というやつです。
しかし両者共通に人間の普遍的な精神や心理を肯定し同時に問題として表現している。
こうして状況が彼に働きかけ、
また、
彼が状況に働きかける事で物語を加速的に磨り減らしてゆき、
人間的で劇的な変化を描くわけです。
それは、個人の世界の変貌すら感じさせるほどです。
夏目漱石の「それから」などもそうですな。
主人公の青年知識人の精神性が、周囲の状況・環境に相容れない彼の言動や行動によって描かれますが、それがある内面的欲求と外的要因によって様変わりする瞬間が見事にその行動や言動によって表現されます。
ドストエフスキーなどは凄まじく。
自意識の問題などを分析しつつい物語にまでするという緻密さ。
でも読み易くは無く、ロシア文学はトルストイもそうですが、的を得た様に正当性を示しつつ割り切るので、まじまじとしていてあっさりしてる。コクがありつつキレがあるみたいな感じですな。
(日本の自意識を照らしたものでは、中島敦の 山月記 がとても良い)
なんにしてもです、
文学の取り扱うものは常に「人の過ち」であり、
そこから常に真実や真理的なものへ、
そこを突き放せば、不条理の文学へ。
・・・
なんでこんな事書いてるかって?
そんな事はな
・・・
我々が何処から来て何処に行くのかくらいな
・・・
でも
多分
イライラしたら
本でも読めってことだぎゃー
マザーファッカr。


