大人の対応という言葉があるがどんな対応のことをいうのだろうか?


人によって感じ方はもちろん違うだろうが嫌なことがあっても感情的な言動を慎んだり些細なことは水に流したり、心の落ち着きがある人のことを言うのではないだろうか?


自助会などで相談を受ける中でアダルトチルドレン(以下AC)の困りごとによく対峙するが、周りを自身の思い通りにしたい欲求ばかりで彼らが結局のところどのような状態に落ち着きたいのかが全く見えないことがほとんどだったりする。


そんな時によく思うのが「大人の対応」である。


もちろん大人の対応ができないからACなのであって、仮に大人の対応を目指したところでそうは簡単に体現はできないだろうが自身の最終的な目標の像を持つことは決して悪くはないはず。


多くのスポーツキッズは憧れの選手像を目指して毎日励んでいるだろうが、明確な目標がある人とそうでない人の差は決して小さくないはず。


同様にACの人は自身の周りいる大人の対応が得意な人を観察することから始めてはいかがだろう?何かに気づけるかもしれない。


私が思う大人な人というのは関係が悪い人とも問題なく付き合える人なのだと思う。少し気に食わないことがあって安易にキレているようでは全くの子供状態であることを晒しているだけだよ。


さあ先ずはモデル探しから!

コップに半分の水が入っている。


よく用いられる例題。そう、物事を肯定的に見れるか否か。この例題を出すとほとんどの人が半分水が残っていることを肯定するだろう。


だって答えを知っているから。


それでは100万円の貯金を半分騙し取られたらどうだろう?半分残っていて良かったと思える人はどれほどだろうか?


きっと幸せな人は50万円失った嘆きがあっても半分残って良かったと思えるのだろうね。いや、全てを失っても借金せずに済んで良かったと思えるのだろう。逆に不幸な人たちはほんの少し失っただけでも心が囚われて先が見えなくなるのだろうね。


同様に給料が半分になったらどうだろう。多くの人がこれでは生きていけないという。しかし、職に就きたくても就けない人から見ると半分でもあるだけ良いじゃないかって思うんじゃないかな?そういう風に俯瞰的な視点で捉えると給料が下がっても肯定的に見れるのだろうね。


金銭だけでなく人間関係に於いてもこれは同じではないだろうか?別れは悲しいものだが、その別れが悲しいと思えるほどの喜びが過去にあったからではないだろうか?別れの悲しみと同時にそれまで当たり前とさえ感じれる喜びが与えられたことに感謝すれば肯定的な視点がもてるんじゃないかな?


私はいつも思う。幸不幸という物は物質的なものではなく、心の物差しであると。物質的に囚われている人は不幸になり、どんなに物質的に貧しくとも心に感謝を持てる人が幸せではないかな?


何かを失ったときに現れる悲しみはその裏にある感謝を知り得るビッグチャンス。心が囚われていてじゃそれを知ることはできない。失ったものをコップの水に例えてみるとよいかもね。