桃の種で卑弥呼に結びつける、思い込みの愚
(NHKWEB 2018年5月14日 19時00分)
邪馬台国の有力な候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった大量の桃の種の年代を測定した結果、女王・卑弥呼の時代と重なることがわかりました。邪馬台国の謎に迫る新たな資料として注目されます。
纒向遺跡は、3世紀から4世紀にかけての大規模な集落跡で、邪馬台国があった場所の有力な候補の1つとされています。
遺跡では、8年前、卑弥呼の宮殿跡との説もある3世紀前半の大型建物跡のそばで、桃の種が2000個以上見つかりました。この桃の種を、名古屋大学の中村俊夫名誉教授と元徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲さんが、それぞれ放射性炭素を使った年代測定を行ったところ、いずれも西暦135年から230年の間のものの可能性が高いことがわかりました。
卑弥呼は中国の歴史書「魏志倭人伝」で、3世紀前半ごろに邪馬台国を治めていたとされ、今回の結果は卑弥呼の時代と一部、重なっています。また、桃は古くから神聖な果物とされていたことから、卑弥呼が行った祭しで供えたのではないかという指摘もあるということです。
桜井市纒向学研究センターの寺澤薫所長は、「魏志倭人伝の記述にある卑弥呼の時代と重なり、纒向遺跡について考えるうえで重要な資料だ」と話しています。
邪馬台国九州説の研究者「卑弥呼 明確には結びつかず」
邪馬台国が九州にあったとする説を唱える、佐賀女子短期大学の高島忠平名誉教授は、「参考になる研究成果だが、邪馬台国の所在地や卑弥呼と結びつく明確な材料はなく、今回の成果で論ずるのは無理があるのではないか」と話しています。
この記事を見て、「思い込みがあると、どんなに緻密に分析しても、間違った結論に辿り着く」のだなあという感想を持ちました。
この情報から明確に言えることを整理してみます。
1.奈良県桜井市にある纏向遺跡は、3世紀から4世紀にかけての大規模な集落跡である
2.その遺跡から発掘された、3世紀前半の大型建物跡のそばで、桃の種が2000個以上発見された
3.放射性炭素を使った年代測定を行ったところ、いずれも西暦135年から230年の間のものの可能性が高い
ここまでは考古学的発掘調査と、現代技術で明らかになっていると見てよいでしょう。
問題はここからです。
4.桃は古くから神聖な果物とされていたので、祭祀で供えられたのではないか?
5.卑弥呼は中国の歴史書「魏志倭人伝」で、3世紀前半ごろに邪馬台国を治めていたとされる
1~3とのつながりは明らかではありませんが、それぞれの項目の情報は、正しいと見てよいでしょう。
そして次に注意です。
6.桃の年代測定によると、卑弥呼の時代と重なる
7.ゆえに纏向遺跡は、卑弥呼の都に違いない
いかがですか?
引用記事にあるそれぞれの情報をバラバラにして分析すると、4、5をステップにして1~3と6、7を結びつけようという思惑が見えてきます。
ゆえに纏向遺跡を『卑弥呼の都』と結論付けるには、証明が足りないと思います。
纏向遺跡の出土品から、卑弥呼の名を記した遺物が発見されるとか、一級資料と見なせる古文書等の記述と出土品から得られた情報と一致するとかがなければ、安易にそのような結論を出すべきではないと考えます。
以前に私は、大和朝廷の始まりとは3~卑弥呼は少なくとも大和朝廷とは無関係の存在という記事をアップしています。
そこで私は、『纏向遺跡は記紀(古事記、日本書紀)にある、崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の都の記載と一致している』と書きました。
年代についても、大和朝廷の始まりとは2~古代天皇の長寿命の謎についてで説明した通り、崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の年代と重なります。
(その記事で紹介した春秋二倍暦仮説を元に計算した年代による)
ことに第12代景行天皇については、古事記にはハッキリと『(景行)天皇の都は纏向である』と書かれています。
※福永武彦訳『現代語訳 古事記』(川出出版)P239、日本武尊が熊襲を伐つ章の記述にあります。
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日本史を長年研究している歴史家が、なぜこの記述をガン無視するのか、理解に苦しみます。
この点を無視している割には、古代において『桃が神聖な果物』という情報は、古事記などの記述によるものが元なのですが。
都合の良いところだけ古事記を根拠とした論理展開をするのは、おかしな話です。
そうした視点で古事記、日本書紀の記述を見るならば、今回の調査結果がそれらの記述の正しさを裏付け、少なくとも第10代崇神天皇以降の実在性が、改めて確かめられたと見てよいと思います。
もちろんこれは私の推論によるものですので、きちんとした情報を元に反論されるのであれば、承ります。
日本の古代史、大和朝廷誕生の謎にせまる意味でも、反論であっても大いに意見が出てくるのは大歓迎ですので、皆さんのご意見をお待ちしています。
ただしすぐに回答できるとは限らないことを、お断りいたします。
『大和朝廷の始まりとは』シリーズの続編がなかなか書きあがらなくて、4以降がアップ出来ていない状態ですので。
崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇辺りの記事は、予定では6以降位になると思いますが、捨て置けぬ情報でしたので、番外編として触れさせていただきました。
申し訳ありませんが、このシリーズの続編は、しばらくお待ちいただくように、お願いいたします。