今回も陳那の認識論について、さらに考えていきます。
こうして認識論や論理学について考えていくと、認識論の全体や論理学の全体が気になってきます。特に、西欧の認識論、論理学、アリストテレスの体系はどうなっているのだろうかということや、認識論、論理学全体における仏法論理学の位置づけはどうなるのか、といったことが気になります。そういった世界も渉猟したいという思いも持ち上がってきて、時間を浪費してしまうこともありますが、現時点でそこまで広げる余裕はないので、将来課題として取っておきたいと思います。今は因明(仏教論理学、あるいはインド論理学)に集中していきます。
前回は、インド哲学の認識論における「現量」(直接知覚)と「比量」(概念知もしくは推理)について考えていきました。今回は「外界は実在するか?」
インド哲学の認識論に於いて「外界(=外境・げきょう)は実在するや否や」という問いは、非常に重要な問いといえます。常識的な立場に立てば、「何をバカげたことを言っているのだ。あるに決まっているではないか」という反論が返ってくるかもしれません。例えば目の前にりんごがあると認識すれば、そこにりんごが実在すると判断することに何ら疑う余地はない、という認識・判断プロセスで日常生活は回っていると思います。
しかしながら、よく考えてみると、こうした日常感覚としての認識は、必ずしも確固としたものではないのではないでしょうか?
りんごの存在について我々は、直接把握することはできません。五感の働きを経由して、りんごの存在を認識しています。りんごの外観・色を眼で見る(視覚)、りんごに触る(触覚)、りんごの匂いを嗅ぐ(嗅覚)、りんごをさくさくと食べる(味覚、聴覚)。しかしながら我々の五感は時としてあてにならない、ゆがんだ情報をもたらすということがしばしばあります。例えば、視覚で言えば、逃げ水のような、そこにないものをあたかもあるように認識してしまうこと。また心の内が苦しい時は世の中が鉛色、楽しい時はなんでもバラ色のように外部環境の見え方がまるで変ってしまうこと、などを仏教では例示として挙げています。
竹村牧男氏の「インド仏教の歴史」においても、次のような引用があります。
分子生物学者の利根川進は、立花隆との対談の中で、「ぼくは唯心論者なんです」と言っている。「…だから、この世がここにかくあるのは、我々のブレインがそれをそういうものとして認識しているからだということになる。…つまり、人間のブレインがそれをそういうものとして認識しているからだということになる。・・・つまり、人間のブレインがあるから世界はここにある。そういう意味で唯心論なのです」(精神と物質)
外界について、インドのバラモン哲学や、仏教においては、①外界は実在しない、②外界は実在する、③外界には認識のきっかけとなる「何か」があるが、認識したようには実在しない、という対立する考え方があるようです。誤解を恐れずに、ざっくりと整理すると次のようになると考えます。
①外界は実在しない=「唯識無境」、仏教の唯識派の主流となる考え方。「唯識」(vijinaptimatra)とは「ただ表象=識があるだけで、心の中に表象されるものが外界に存在するのではない」という原則に基づいています。従って認識は、対象の認識ではなく、自己認識になってきます。
②外界は実在する=バラモン哲学における勝論派(ヴァイシェーシカ派)および正理派(ニヤーヤ)の考え方。心の中の表象と外界の対象が一致するのが正しい知識という立場。外界に存在するものが、そのまま知識の中に写し取られることが正しい知識の在り方であり、外界の対象と一致しない場合は偽の認識という考え方に基づいています。正しい知識に基づけば、認識した通り外界に対象物は存在するということでしょう。この考え方は、仏教の説一切有部にも共通する面があるといえるでしょう。
こうした考えによると、概念知(比量)で知られる「火」と、直接知覚(現量)される「火」は、同じ実在としての「火」であるということになります。
③外界には認識のきっかけとなる「何か」があるが、認識したようには実在しない=仏教の経量部の考え方。従って外界の対象と認識の結果としての内容が食い違うこともあります。
陳那は、②は否定し①の立場に立つと考えられますが、③も否定しないということでしょう。
外界は実在するか、否か、五感を通じて外界を認識している以上、一般人(凡夫)にはその答えを出すすべがありません。
参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)