前回は、仏教を含むインド哲学における「認識の4つの構造」、すなわち①認識手段②認識対象③認識主体④認識の結果としての知識ーについて触れました。この枠組みそのものは、特定の宗教・哲学を離れて、一般的な枠組みとして受け入れられるのではないかと思います。

 

 このうち、①~③については前回ある程度踏み込んで考えました。④は認識というプロセスを経て、“私”(仏法では我の実在を否定するので、認識という活動をしている存在を“私”として仮に措定してみます)のうちに生じた知識・情報・意味そのもののことであると考えられます。

 

 4つの構造のうち、①認識手段と②認識対象ーはお互いの関連性、結びつきが深く、また仏法とバラモン哲学・正理派のあいだにおいて、その主張が対立するところです。このエリアを少し考えてていきたいと思います。

 

【現量と比量】

 

 前回も触れたように、陳那(ディグナーガ)は、認識手段として「現量」と「比量」の二つを挙げており、正理派などが主張する「比喩量」「聖言量」などこれ以外の認識手段を認めていません。「比喩量」「聖言量」などは、独立した認識手段というよりも、「比量」に入るとの判断なのでしょう。

 

【現量】

 

 では、「現量」とはどのようなものでしょうか。

 

 「現量」は、直接知覚であるといわれます。これは視覚、聴覚、触覚など感覚そのものが、当てはまると考えられます。陳那は著書「因明正理門論」の中で「現量は分別を除く」「現量は唯内証にして言を離る」と指摘しています。

 

 「分別を除く」とは、 認識対象についての思惟や概念規定をしていない状態、思惟、概念規定から離れているということでしょう。「唯内証にして」は純粋に直接体験であるということ、「言を離る」は言語によって概念化する以前のことと考えられます。「分別」とは、それ自体としては言語で言い表すことができない直接知覚したものを、言語に結び付けることでしょう。これは「比量」の領域に入ることでしょうが、その前に、「現量」が概念化・言語化される以前のものとしてあると考えられます。

 

 「現量」の認識対象は「自相」(個別相)であり、それ自体を全体として言語で表すことは不可能です。

 

  例えば、犬が現量(直接知覚)されるとき、知覚されるものはある特定の犬、例えば自宅の犬小屋で寝ている茶色の犬・ポチであって、これはもちろん猫や馬とは異なるし、他のどんな犬とも異なる犬です。しかし、「犬」という言葉は、この特定の犬以外のどのような犬に対しても適用されますし、もし「犬」という言葉を、この直接知覚された特定の犬を指し示すことに適用するとすれば、他の黒い犬や白い犬、室内にいる犬、散歩している犬などを指し示すことができなくなります。「犬」は犬一般を指し示しているのですが、犬一般というものそれ自体は、現実の世界には存在しません。「犬」という言葉が指し示すところの犬一般は、分別(思惟)により作り出された「普遍」(=共相。共相は「比量」の認識対象)としての概念であるといえます。

 

 

 「現量」(直接知覚)には、4種類あると陳那は「因明正理門論」の中で指摘します。その4つは①「五識身」②「五俱意識」③「自証分」④「修定者の現量」です。

 

  ①「五識身」は、眼耳鼻舌身の5感官より生ずる外界の対象の認識のことです。

 

 ②「五俱意識」はいわゆる「意識」(manas マナス、内官)による認識。仏教における意識は、

  現在一般的に使われている意識の意味とは異なり、五感とともに生起して、五感を統一す

  るもので、西洋哲学で「統覚」に相当するものと言われています。五感官による直接知覚と

  いうのは納得できると思いますが、「統覚」による直接知覚というのはどういう状況か、や

  や腑に落ちないところがあります。しかしながら仏教(ことに説一切有部)では、「意識」は

  すべてのダルマ(法、この場合は森羅万象、存在の要素という意味でしょう)を対象にしう

  るとしているので、理論的にはそういうことかもしれません。「意識」が外界の存在を直接知

  覚するという状況はどのようなイメージなのか・・・?

 

 ③「自証分」は、外界に対する知覚ではなく、自己自身に対する知覚、自己認識です。

 

 ④「修定者の現量」は、修行によって解脱した人の直接的体験、外界の対象の純粋直観の

  ことであり、仏教にとっての真理である「四諦」の直観なども含まれるといいます。逆に言え

  ば①、②は(いまだ解脱していない)一般人の「現量」ということになります。

 

 仏法論理学は純粋に理論を追求するのではなく、解脱、悟り、成仏を目的としていることを前提にしていると考えられます。陳那が「現量」について上記4種を掲げたことについて、末木剛博氏は解脱に向かう認識のプロセスを

 

前合理性(現量、解脱前の現量①、②、③)→合理性(比量)→超合理性(解脱者の非合理性、現量④)

 

のように整理されています。

 注目されるのは、解脱の非合理性(悟りの直接体験)に到達するためには、比量(合理性、あるいは概念化)を経る必要があるというところです。

 

【比量】

 

 では次に、「比量」について考えたいと思います。「比量」は思惟による概念、判断、推理のことです。「比量」の認識対象は「共相(ぐうそう)」であり、いわゆる「普遍」にも通じる概念でしょう。「比量」においては、「現量」によって知覚されたものを、「名」「種」「性質」「作用」「実体」の五種の要素に結び付けて、言語によって表示します。

 

 例えば、「現量」のところで例示した犬ポチで言えば、「名」はポチであるし、「種」は犬、「性質」は茶色、「作用」は犬小屋で寝ている・・・ということになるでしょう。「犬一般」(概念としての犬)は現実の世界では実在しないし、「茶色一般」も実在しません。現実の世界で実在するのは、思惟から離れ直接知覚された「それ」(自相=個別相)だけです。

 

 頭の中で概念化、言語化した共相をいくら積み上げてみても、直接知覚された「それ」=自相そのものを、正しく認識、表示することはできません。「それ」ではなく「そのようなもの」として近づいていくしかないのでしょう。

 

 「比量」によって概念化、言語化したものが、あたかも実在していると思い込んでしまうところに、妄念が生ずる原因があるのでしょう。

 

 続きは次回に。

 

 

 

 

 

 

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)