ダルマキルティ(法称)の認識論も、ディグナーガ(陳那)の認識論を基本的に引き継いでいると考えられます。認識は、「現量」(pratyaksa 直接知覚)と「比量」(anumana 推論、間接知)の二種類であり、あるいは二種類しかなく、「聖言量」(聖人などの教え、言説)などは、認識のベースとしては独立して認めないということだと思います。

 これに対応して、認識の対象(所量)も2つになります。「現量」の対象が「個物(自相)」であり、「比量」の対象が「一般概念(共相 ぐうそう)」です。

 ところが、ダルマキルティは、実際のところ、認識は「現量」のみで、認識の対象は「個物(自相)」しかなく、「一般概念(共相)」を認識する「比量(推論)」は、「錯乱」(誤った認識)の一種だと位置づけているようです。

ダルマキルティの認識論は下記の4つで構成されます。

 

(1)ダルマキルティは、認識の対象は「個物」のみと主張するが、その理由は、個物のみが「有効な働きのあるもの」と考えるからであるとします。にもかかわらず認識の対象を2種類としてしているのですが、その2種類とは下記のように考えられます。

  ①個物自身の相が現前することによって認識される場合

  ②概念化されて、個物が目の前にないが、”存在する”と推認される場合

 

(2)「個物」の認識には2種類(現量と比量)あるとして、ダルマキルティは下記の2種類を上げています。

  ①現前の個物を認識する場合

  ②現前にない個物を認識する場合

 

(3)現量と比量の区分け

  ①現前の個物の認識→現量(直接知覚)

  ②個物が現前にない時の個物の認識→比量(推論)による

 

(4)共相による認識

推論による認識は、個物の認識ではありません。それは、一般概念(共相)を”媒介”として、認識をしますから、ダルマキルティは”錯乱”の一種であるとしています。

例を挙げて試みに考えてみますが、

 火があって直接その火、炎を見るのは、現量(直接知覚)で認識することになります。しかし遠くの火、山の向こうの火は直接知覚することができません。ところが山の向こうから煙が見えます。「煙があるところに火がある」という一般概念から、個物である「火」がそこにあると認識することができます。しかしこれは、個物の自相そのものの認識ではないので、ダルマキルティは”錯乱”の一種と考えますが、結果的に人に有効な働きの能力のあるものを得させるから、認識方法としては”正しい”と考えます。

 

 なんとなくプラグマティックな響きを感じますが、プラグマティックな傾向は、釈迦時代からの仏教の伝統になるのでしょうか?

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)他