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【原文】

いずれもいずれも()(ごと)にて(そうろ)えども、()きつけ(そうろ)うなり。()(めい)わずかに枯草(こそう)()にかかりて(そうろ)うほどにこそ、相伴(あいともな)わしめたまう人々(ひとびと)()不審(ふしん)をも(うけたまわ)り、聖人(しょうにん)(おお)せの(そうら)いし(おもむき)をも(もう)()かせ(まい)らせ(そうろ)えども、(へい)(がん)(のち)は、さこそしどけなき(こと)(ども)にて(そうら)わんずらめと(なげ)(ぞん)(そうら)いて、かくの(ごと)くの()ども(おお)せられあい(そうろ)人々(ひとびと)にも、()(まよ)わされなんどせられる(こと)(そうら)わんとき、()聖人(しょうにん)(おん)(こころ)にあいかないて(おん)(もち)(そうろ)(おん)聖教(しょうぎょう)どもを、よくよく()(らん)(そうろ)うべし。おおよそ、聖教(しょうぎょう)には真実(しんじつ)(ごん)()ともに相交(あいまじわ)(そうろ)うなり。(ごん)をすてて(じつ)をとり、()をさしおきて(しん)をもちいるこそ、聖人(しょうにん)()本意(ほんい)にては(そうろ)え。かまえてかまえて聖教(しょうぎょう)を見みだらせたまうまじく(そうろ)う。大切(たいせつ)証文(しょうもん)ども少々(しょうしょう)ぬきいで(まい)らせ(そうろ)うて、()(やす)にして、この(しょ)()(まい)らせて(そうろ)うなり。聖人(しょうにん)(つね)(おお)せには、「弥陀(みだ)五劫(ごこう)()(ゆい)(がん)をよくよく(あん)ずれば、ひとえに親鸞(しんらん)一人(いちにん)がためなりけり。さればそくばくの(ごう)をもちける()にてありけるを、(だす)けんと(おぼし)()したちける本願(ほんがん)のかたじけなさよ」と ()述懐(じゅっかい)(そうら)いしことを、(いま)また(あん)ずるに、善導(ぜんどう)の「()(しん)はこれ(げん)罪悪(ざいあく)生死(しょうじ)凡夫(ぼんぷ)曠劫(こうごう)よりこのかた(つね)(しず)(つね)流転(るてん)して、出離(しゅつり)(えん)あることなき()()れ」といふ金言(きんげん)に、(すこ)しも(たが)わせおわしまさず。さればかたじけなくも、()(おん)()にひきかけて、(われ)らが()罪悪(ざいあく)(ふか)きほどをも()らず、如来(にょらい)()(おん)(たか)きことをも()らずして(まよ)えるを、(おも)()らせんがためにて(そうら)いけり。


【意訳

どれもみな同じことの繰り返しですが、いくつか心に残っていることを、ここに書き残しておきます。

年老いた私(唯円)ですが、この命がある間は、親鸞聖人の言葉をお伝えすることもできるでしょう。しかし、私がこの世を去った後は、さらに多くの「間違った他力の教え」が蔓延するのだろうと思い、何ともやるせない気持ちで一杯です。

もしも「間違った他力の教え」を説く人に心を乱されそうになった時は、人が言うことではなく、親鸞聖人が大切にしていた聖教(教えが記された書物の総称)に何が書かれているのかを、よくよく読み返してください。

その時に大切なことは、聖教には「真実」が書かれている箇所と、真実を聞くだけでは仏方の真意を理解できない私達のために説かれた「たとえ」が書かれている箇所の両方があるということです。

たとえから真実に気づき、最終的に真実の教えだけを人生の頼みとすることこそ、親鸞聖人が本当に伝えたかったことなのです。

他力の教えとは、大変に誤解を生みやすいものですから、聖教を読む時には、真実とたとえを読み間違えることのないよう、十分な注意を払わなければなりません。

その手助けになればと思い、大切な教えのいくつかを、ここに書き出しておきます。


親鸞聖人はいつも、このようなことを話していました。

本願とは何かということを、よくよく思い返してみれば、それは、どうにも救い難い身の上である私(親鸞)を、どうにか救うために、阿弥陀仏が大変に長い間、考えに考え抜いて完成させた『救いの手立て』だったのです。阿弥陀仏は、これほど愚かな私にも、救いの手を差し伸べてくれるのです。その慈悲の、何と有難いことでしょう」

この言葉を、私(唯円)なりに考えてみると、それは善導大師の「私達は、大変に罪深い存在です。果てしなく長い間、生まれ変わり死に変わりを繰り返し、その度に煩悩に囚われて、自ら苦しみを増やし続けています。それが、どれほど愚かで救い難い身の上であるかを知りなさい」という尊い教えと、少しも違っていないのです。

私達はいつも、自分の罪深さも知らず・仏方の慈悲の有難さにも気づかないまま、目先の欲を満たすことばかりに夢中になっています。

親鸞聖人が自分のこととして話していたことは、実は、私達一人一人の有り様そのものだったのです。

それを気づかせるために、親鸞聖人は、あえて自分のことを話したのでしょう。何とも有難いことです。


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