【原文】
経釈を読み学せざる輩、往生不定の由のこと。この条、すこぶる不足言の義といいつべし。
他力真実の旨をあかせる諸々の聖教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほか何の学問かは往生の要なるべきや。まことに、この理に迷いはんべらん人は、いかにもいかにも学問して本願の旨を知るべきなり。経釈を読み学すといえども、聖教の本意を心得ざる条、もっとも不便のことなり。一文不通にして経釈の往く路も知らざらん人の、称え易からんための名号におわします故に易行という。学問を旨とするは聖道門なり、難行と名付く。誤って学問して名聞利養の念に住する人、順次の往生いかがあらんずらんという証文も候うべきや……
【意訳】
仏教について書かれた本を読み、仏教を学ばないことには、極楽浄土へ往生することはできないということについて。これは、根本的に間違った教えだと言わなければなりません。
そもそも他力本願の教えとは、極楽浄土へ生まれたいと願い、南無阿弥陀仏の念仏する人を等しく救い取るという阿弥陀仏の本願を根本としています。
極楽浄土へ往生するために必要なものは、南無阿弥陀仏の念仏だけであって、他に何の学問も必要としないのが、阿弥陀仏の本願です。
このことが分からないで迷っている人は、それこそ真剣に仏教を学んで、阿弥陀仏の救いには、どんな学問も必要ないということを、身をもって知るべきではないでしょうか。
どれほどの仏教書を読んだとしても、そこに書かれている仏方の本意が分からないのであれば、何とも気の毒な話です。
文字の読み書きも知らず、仏教書に触れたことすらない人であっても、何一つ区別することなく、救いの手を差し伸べてくれるのが阿弥陀仏の本願です。
ですから、南無阿弥陀仏の念仏によって救われようとすることを、易行道(さとりをひらくという結果に行き易い道)と言い、仏教を学ぶことによって救われようとすることを、難行道(さとりをひらくという結果に行き難い道)と言うのです。
仏方の本意が分からずに、仏教を学び、知識を増やすことばかりに気を取られている人は、そのような道では救われないということが他力本願の教えの中に説かれていることを、よくよく学ぶべきではないでしょうか。