【補記】
阿弥陀仏は、自らが仏に成るあたり四十八個の約束をしています。

この約束のことを本願と言い、その二十番目の約束を果遂かすいがん」と言います。果遂とは「はたしとげる」という意味です。

阿弥陀仏が、果遂の願で「はたしとげる」と約束しているのは、このようなことです。

【原文】

せつ得仏とくぶ 十方じっぽう衆生しゅじょう 聞我もんが名號みょうごう ねん我国がこく じきしょ徳本どくほん 至心ししん廻向えこう 欲生よくしょう我国がこく 不果ふくわ遂者すいしゃ 不取ふしゅ正覚しょうがく

仏説ぶっせつ無量むりょう寿じゅきょう

 
【意訳】
わたし(阿弥陀仏)が仏に成る時、全ての人々がわたしの名を聞いて、わたしの国である極楽浄土に思いをめぐらし、心から南無阿弥陀仏の念仏をし、その功徳でもって、わたしの国である極楽浄土に生まれたいと願うなら、その願いを必ず果たし遂げさせてみせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりをひらきません。
 
阿弥陀仏は果遂の願で、南無阿弥陀仏の念仏をする人の「極楽浄土に往生したい」という願いを、必ず果たし遂げさせると約束しています。

ここで大切なことは、阿弥陀仏は、私達がする念仏に何の条件もつけていないということです。

それが、自力の念仏であれ、他力の念仏であれ、南無阿弥陀仏と念仏するのであれば、等しく極楽浄土へ救い取る。そう、阿弥陀仏は約束しています。

自力が大好きな私達は、この世のありとあらゆるものを良いことと悪いことに区別して、敵だとか味方だとか、勝ったとか負けたとか、得したとか損したとかと言い争って、その都度、大騒ぎをしています。

目先の欲に心を奪われやすく、狭い視野しか持ち合わせていない私達は、何の区別もつけない広大な仏方の救いというものを、容易には理解することができません。

それどころか、そんな非科学的なものなど信じられるはずがないと、聞く耳さえ持たない人が、ほとんどではないでしょうか。

どれだけ仏方が救いの手を差し伸べていても、肝心の私達が、自分の力を過信して、仏方の救いを拒み続けていては、信心が定まるはずもありません。

どうしても自力から離れることができない私達を憐れに思い、阿弥陀仏は、極楽浄土とは別に、信心が定まるまでの時間を過ごせる場所を、私達に用意してくれています。

その場所を、仮の浄土(辺地へんじ懈慢けまんじょう胎宮たいぐ)と言います。

この仮の浄土があることによって、自力の念仏をする人も、他力の念仏をする人も、みな等しく極楽浄土へ救われることができるのです。

自力の念仏をする人は仮の浄土へと救い、極楽浄土へ往生するために必要な時間を過ごさせ、他力の念仏をする人は、そのまんま極楽浄土へと救い取る。

それぞれの心の有り様によって、たどり着くまでの道のりに違いはあっても、最終的な結果(極楽浄土へ往生する)は、全て同じものになる。

そのように何の区別もつけない広大な救いが、阿弥陀仏の本願なのです。