【原文】

(ねん)仏者(ぶつしゃ)無碍(むげ)一道(いちどう)なり。そのいわれ如何(いかん)とならば、信心(しんじん)行者(ぎょうじゃ)には天神(てんじん)地祇(じぎ)敬伏(きょうぶく)し、魔界(まかい)外道(げどう)障碍(しょうげ)することなし罪悪(ざいあく)業報(ごうほう)(かん)ずることあたわず、諸善(しょぜん)(およ)ぶことなき(ゆえ)無碍(むげ)一道(いちどう)云々(うんぬん)

 

【意訳】

親鸞聖人は、このように仰っていました。

信心を得た人は、南無阿弥陀仏の念仏に救い取られ 、極楽浄土へ往生し、さとりをひらきます。それを邪魔することは、誰にもできません。

なぜなら、南無阿弥陀仏の念仏とは、あらゆる神々が敬い、全ての悪魔がひれ伏す、阿弥陀仏の本願そのものだからです。

どれほど重い罪も問題にならず、どれほど優れた善も及ばないのが、南無阿弥陀仏の念仏の功徳です。

その念仏に救い取られたのであれば、往生の差し障りになるものなど、何もないのです。


【補記

たとえば重い病気を患って、どの病院へ行っても治療は難しいと断られ、体を襲う痛みに耐えるばかりの日々の中で、偶然に名医と出会い、魔法のように病院が治ったとしたら、私達は、どんなことを思うでしょうか。


きっと誰もが「救われた」と、名医の存在と、そんな名医と巡り会えた奇跡に、心から感謝することでしょう。


けれど、名医が救ってくれたのは、あくまでも病気に限った話であって、人生で起こる全ての問題を解決してくれた訳ではありません。


その時は「救われた」と感動の涙を流し、生きていることに素直に感謝できたとしても、時間が経てば、あっという間に感動は薄れ、日々の小さな出来事に腹を立て、愚痴をこぼし、得したとか損したとか、勝ったとか負けたとか、大騒ぎを始めるのが煩悩具足の凡夫である私達です。


果ては、その後の人生で起こる大きな苦しみを前に「こんなことなら、あの時、病気で死んでいた方がマシだった」と、名医のことを逆恨みするかもしれません。


病気が治っても、治らなくても、人として生きている限り、私達から悩みや苦しみが消えることはありません。


それは信心を得た人であっても、例外ではありません。


親鸞聖人が「念仏者は無碍の一道」と言っている、その無碍(差し障りになるものがない)とは、あくまでも極楽浄土へ往生することに限った話であって、信心を得ることができれば、仏のような穏やかな心を保ち続けられるという意味ではないのです。


信心を得ても、得なくても、煩悩具足の凡夫である私達がすることは、どこにいても、何をしていても、仏方の目から見れば、どうしようもなく愚かで、常に差し障りっぱなしなのでしょう。