【原文】

親鸞(しんらん)父母(ふぼ)孝養(きょうよう)のためとて念仏(ねんぶつ)一返(いっぺん)にても(もう)したること(いま)(そうら)わず。その(ゆえ)は、一切(いっさい)有情(うじょう)はみなもって()()生々(しょうじょう)父母(ふぼ)兄弟(きょうだい)なり。いずれもいずれも、この順次(じゅんじ)(しょう)(ぶつ)()りて(だす)(そうろ)うべきなり。()(ちから)にて(はげ)(ぜん)にても(そうら)わばこそ、念仏(ねんぶつ)回向(えこう)して父母(ふぼ)をも(だす)(そうら)わめ。ただ自力(じりき)()てて、(いそ)浄土(じょうど)のさとりを(ひら)きなば、六道(ろくどう)四生(ししょう)(あいだ)、いずれの(ごう)()(しず)めりとも、神通(じんずう)方便(ほうべん)をもって、まず有縁(うえん)()すべきなりと云々(うんぬん)

 

【意訳】

親鸞聖人は、このように仰っていました。

私は今まで、ただの一度も、父母の供養のために念仏をしたことはありません。

全ての命は、三世因果の道理の中で、生まれ変わり、死に変わりを繰り返してきた道のどこかで、いつかの父であり母であり、また、いつかの兄弟であったことでしょう。

その道のどこかで、ばったりと阿弥陀仏の本願に出会い、それぞれ人が、それぞれのタイミングで、南無阿弥陀仏の念仏の功徳に救い取られ、仏に成っていくのです。

もしも自分の力で、人に念仏をさせられるのであれば、今の人生における父母を指名して救うこともできるでしょう。しかし、それは煩悩具足の凡夫である私達にとって、身の丈に合わない願いなのです。

そうであれば、自分の非力を受け入れて、南無阿弥陀仏の念仏の功徳に救い取られ、極楽浄土で速やかにさとりをひらくことを願うべきではないでしょうか。

三世因果の道理の中で、生まれ変わり、死に変わりを繰り返し、迷い苦しみ続けてきた私達であっても、極楽浄土へ往生し、仏の仲間入りを果たしたのであれば、その知恵でもって、自由自在に人々を救うことができるのです。

その人々の中には、今の人生において縁の深かった、あなたの大切な人も、きっと含まれていることでしょう。

 

【補記】

中島みゆきの「時刻表」という曲に、こんな歌詞があります。

 

誰が悪いのかを言いあてて

どうすればいいかを書きたてて

評論家やカウンセラーは米を買う

迷える子羊は彼らほど賢い者はいないと思う

あとをついてさえ行けばなんとかなると思う

見えることとそれができることは

別ものだよと米を買う

 

自分は安全な場所にいて、そこから見えることに、こうあるべきだと意見を述べることも、時には大切なことでしょう。

 

今、目の前にある課題に、どう対処することがもっとも良い方法なのか。冷静な判断をするためには、客観的な立場にいる第三者の意見というものが重要です。

 

昔から「対岸の火事」にたとえられてきたように、目先の損得に心を奪われやすい私達は、当事者という立場になってしまうと、すぐに冷静な判断能力を失ってしまいます。

 

友人の恋愛相談にはアレコレと正論を言えても、自分の恋人に対して、友人に言った正論通りの対応ができる人というのは、まずいないでしょう。

 

どんな人達と、どんな関係を保ちながら、どんな毎日を過ごしていたとしても、私達はみな、自分の人生の当事者です。

 

だからこそ私達は「こんな人だと思われたい」という願望や「本当の私とは、こんな人である」という思い込みに目を塞がれて、自分がどんな有り様をしているのか、どれほど愚かで醜い行動をしているのかが分からなくなってしまうのです。

 

当事者という立場にありながら、自分の姿を客観的に見て、どうすればいいかを冷静に判断し、正論通りの行動をしている人が、あなたの周りに一人でもいるでしょうか。

 

三世因果の道理の中で、生まれ変わり、死に変わりを繰り返し、溺れ苦しんできた身でありながら、自分が溺れていることにさえ気づかずに、日々、アレが欲しい、コレも欲しいと目先の欲を追いかけて、さらに溺れ苦しんでいる。

 

そのように溺れ苦しんでいる他人を気の毒に思うことはあっても、まさか自分自身が、同じように溺れ苦しんでいるとは夢にも思わない。

 

いつでも、いつまでも、自分だけは特別、自分だけは大丈夫と思い込んでいる、愚かで憐れな存在。

 

それが、さとりという広い視野を持った仏方の目に映る、ありのままの私達の姿です。

 

親鸞聖人が「父母の供養のために念仏をしたことはない」と言っているのは、亡くなった両親の冥福を祈る気持ちなどないという意味ではなく、それがどんなに大切な相手であろうと、自分以外の人を思い通りに救う力など私達にはないという意味なのでしょう。

 

自分自身が溺れているのに、溺れている誰かのことを助けたいと願っても、それは無茶な話です。

 

だからこそ親鸞聖人は、何よりも先に、自分自身が南無阿弥陀仏の念仏の功徳に救われることを急ぎなさいと勧めているのです。

 

南無阿弥陀仏の念仏の功徳に救い取られ、仏の仲間入りを果たすということは、阿弥陀仏と等しい知恵を得るということです。

 

それはつまり、自分自身が南無阿弥陀仏の念仏の功徳そのものになるということと、同じ意味なのです。

 

そうなれば、自分が救われた時と同じように、今度は、他の誰かのことを救うようになるでしょう。

 

阿弥陀仏が全ての人を等しく救い取るために完成させた救いの手立てが、南無阿弥陀仏の念仏であるのなら、早い遅いの差こそあれ、救いの対象に入らない人など、一人もいないのです。