【前編を読みたい方は、ここをクリック】


親鸞聖人が自分の名前に「鸞」の一文字を貰うほど尊敬していた曇鸞大師もまた、紆余曲折を経て、阿弥陀仏の本願という大きな船に乗った人の一人です。


そのことを親鸞聖人は、こう解説しています。

 

【原文】

本師(ほんじ)曇鸞(どんらん)(りょう)天子(てんし)

常向鸞処(じょうこうらんしょ)菩薩(ぼさつ)(らい)

(さん)蔵流支授(ぞうるしじゅ)(じょう)(きょう)

焚焼仙経帰楽邦(ぼんしょうせんぎょうきらくほう)

正信偈7376行目)

 

【意訳】

曇鸞大師は、(りょう)(中国南北朝時代の国)の()(てい)が「この方こそ、真の菩薩である」と尊敬していた人物です。

菩提(ぼだい)流支(るし)三蔵(さんぞう)から大乗仏教の経典を授けられた曇鸞大師は、(せん)(ぎょう)を焼き捨てて、阿弥陀仏の本願いう大きな船に乗りました。

 

大乗仏教に出会う前、曇鸞大師は大きな病を経験します。

 

このことをきっかけに、曇鸞大師は、長寿の法を探し求める旅に出ます。そして苦労の末に、仙経という長寿の法が記された巻物を手に入れるのです。

 

大きな成果を得て意気揚々と故郷へ帰る途中、曇鸞大師は、洛陽(らくよう)(当時の中国の首都)に立ち寄ります。そこで、菩提流支三蔵という経典の翻訳者と出会うのです。

 

曇鸞大師は菩提流支三蔵に向かって、このように尋ねます。

 

「私は、長寿の法が記された仙経を手に入れた。あなたの経典には、これより優れた教えが書かれていますか」


すると、菩提流支三蔵は唾を吐いて、曇鸞大師を一喝します。

 

「たかが一度の命を引き延ばす教えが何だというのか。三世因果の道理の中で、生まれ変わり、死に変わりを繰り返してきた命の繋がりを断ち切って、極楽浄土に救う大乗の教えとは比較にもならない」

 

この一言に衝撃を受けた曇鸞大師は、その場で仙経を焼き捨ててしまいます。そして、菩提流支三蔵に大乗の教えを乞うのです。

 

それが七高僧であれ、現代の私達であれ、人が信心を得るためには、二つの条件が同時に揃う必要があります。

 

一つは自分の本当の姿を知ること、もう一つは阿弥陀仏の本願に出会うことです。

 

自惚れやすい私達は、阿弥陀仏の本願に出会っただけでは、その有難さに気づくことができません。まるで、おとぎ話か都市伝説のように聞き流して、見向きもしないのです。

 

しかし、人生の大きな困難に直面して、切実に救いを求める時、人は、仏教という鏡に映る自分の姿を目にします。

 

そこに映っているのは、頭の中でイメージしていたものとは似ても似つかない、愚かで憐れな姿です。


三世因果の道理の中で、生まれ変わり、死に変わりを繰り返して、迷い苦しみ続けてきた身でありながら、今もなお、人の世界にある楽しみに執着して、さらに迷いと苦しみを深めている。どうにも救われる縁の無い悪人。

 

それが、自分の本当の姿です。

 

ここで言う悪人とは、法律や道徳に違反した人という意味ではありません。

 

それは、煩悩にまみれて、目先の欲を満たすことに夢中になっている人のことです。

 

それは、たかが百年しか続かない人生で得た知識や経験に自惚れて、何もかも分かったような顔をしている人のことです。

 

そしてそれは、自分の本当の姿を知って、私こそが悪人だったと気づいた人のことです。

 

そのような悪人を、弥陀(みだ)正客(しょうきゃく)と言います。

 

正客とは、阿弥陀仏が救いの対象として、お目当てにしている人という意味です。

 

今まさに、阿弥陀仏の本願という大きな船に、正式な客として迎え入れられようとしている人。

 

それが、弥陀の正客です。

 

自分の本当の姿を知らされ、そんな悪人を救おうとする阿弥陀仏の本願に出会う時、人は、仏の慈悲の広さ深さを思い知ります。そして、その有難さに自然と頭が下がるのです。

 

それが、信心を得るということです。

 

日本における浄土教の祖とされる源信僧都もまた、仏の慈悲の有り難さを身に染みて体験した人の一人です。

 

そのことを親鸞聖人は、こう書き記しています。

 

 【原文】

(ごく)(じゅう)悪人(あくにん)唯称仏(ゆいしょうぶ)

()(やく)(ざい)()摂取中(せっしゅちゅう)

煩悩(ぼんのう)障眼雖(しょうげんすい)()(けん)

大悲無倦(だいひむけん)(じょう)(しょう)()

正信偈105108行目)

 

【意訳】

源信僧都は、極めて罪の重い悪人こそ、ひたすらに念仏すべきであると教えました。

そして自身のことを、このように告白しています。

私(源信僧都)もまた、阿弥陀仏の本願出会い、その光明に照らされているけれど、(悪人である)私の目は煩悩に覆われていて、阿弥陀仏の姿を直接見ることができない。

しかし阿弥陀仏は、そんな私でさえも見捨てることなく、その広大な慈悲でもって、常に照らし続けていてくれるのです。


【目次は、ここをクリック】