誰でも、一日一度は鏡を見るでしょう。

 

髪型を整えたり、メイクをしたりと、それぞれに程度の差こそあれ、私達は毎日、鏡の前に立って身だしなみを整えるということをします。

 

その時、鏡に映っているのは、どんな姿をした私でしょうか。

 

同世代の人よりも若々しく、自信に満ちた姿でしょうか。それとも、シミやシワばかりが目立つ、年老いた姿でしょうか。

 

地位や名声を得て、貫禄に満ちた姿でしょうか。それとも、社会的弱者となった、みすぼらしい姿でしょうか。

 

私達が普段「これが私である」と認識している、その「私」とは、ありのままの正しい私の姿なのでしょうか。

 

お釈迦様は、私達が本当はどんな姿をしているのか、このようなたとえ話にして教えています。

 

【要訳】

ある時、一人の旅人が荒野を歩いていました。

道の途中で、旅人は、気性の荒いゾウと出会います。

ゾウは旅人を見つけると、猛烈な勢いで突進してきます。このままゾウに体当たりをされては、とても命はありません。

慌てた旅人は、近くにあった古い井戸に身を隠します。

井戸の中に伸びる木の根にぶら下がりながら、どうにかゾウをやり過ごし、ほっと一息ついたのも束の間、底の方から何かの気配を感じます。

目を凝らしてみると、巨大な龍が口を開けて、旅人が落ちてくるのを待ち構えているのが見えます。

上にはゾウ、下には龍。両者に挟まれて、旅人は身動きを取ることができません。

そこへ、黒と白の二匹のネズミが現れます。

二匹のネズミは、旅人がぶら下がっている木の根を交互にかじり始めるのです。鋭い前歯に削られて、木の根はみるみるうちに細くなっていきます。

このままじっとしていては、いつ木の根が千切れてしまうか分かりません。

旅人が恐怖に身を震わせていると、その口に、一滴、また一滴と、何かが滴り落ちてきます。

れは、木の根の途中にあるハチの巣から落ちてきたハチミツです。

旅人は自分が置かれている状況も忘れて、その甘い味にうっとりとしてしまいます。

そして、いつまでもハチミツを味わっていたいと思うのです。

仏説(ぶっせつ)()()(きょう)

 

【参考:黒白二鼠の図】

 

これを、黒白(こくびゃく)()()のたとえ話と言います。

 

アドベンチャー映画さながらの絶体絶命の状況下で、ハチミツの味にうっとりとして、我が身に迫っている危険を忘れてしまうことなど、本当にあるのでしょうか。

 

そして、お釈迦様は、黒白二鼠のたとえ話を用いて、私達の本当の姿とは、どのようなものだと教えているのでしょうか。

 

この話に登場する荒野を歩く旅人とは、三世因果の道理の中で、生まれ変わり、死に変わりを繰り返しながら、迷い苦しみ続ける私達です。

 

私達に突進してくるゾウとは、無常です。

 

全てのものは、生まれた時から、いつか必ず壊れる定めを背負っています。全てのものを壊してしまう存在、それが無常です。

 

無常から逃れて身を隠している井戸とは、私達の人生であり、その中に伸びている木の根とは、私達の寿命です。

 

寿命を削っている黒と白の二匹のネズミとは、時間です。黒は夜、白は昼を指します。それらが交互に木の根をかじることで、私達の寿命は削られていきます。

 

そして、最後に私達を待ち構えているものが、死(龍)です。

 

私達は誰でも、このような危うい状況の中で、どうにか今を生きています。

 

しかし、その危うさを忘れさせてしまうものがあります。


それが、ハチミツです。


私達にとってのハチミツ、それは欲です。

 

私達は常に、何かを欲しがって生きています。この世に、欲の無い人などいません。

 

欲が満たされた時、私達が味わうのは強烈な快感(甘味)です。

 

その味が忘れられずに、目先の欲を満たして快感を得ることばかりに夢中になっている人や自分を、どこかで見かけたことがないでしょうか。

 

いつ死んでしまうかも分からない危うい状況にありながら、そのことを忘れ、欲という甘味を求めて、日々、迷い苦しんでいる。


それが、私達の本当の姿です。

 

そのことを、親鸞聖人が尊敬する高僧の一人である善導(ぜんどう)大師(だいし)は、こう解説しています

 

【原文】

自身(じしん)(げん)にこれ罪悪(ざいあく)生死(しょうじ)凡夫(ぼんぷ)曠劫(こうごう)よりこのかた(つね)(もっ)(つね)流転(るてん)して、出離(しゅつり)(えん)あることなし

観経(かんぎょう)(しょ)(さん)(ぜん)()

 

【意訳】

欲から離れることのできない私達は、今もなお、罪を犯しては悪を作り続ける愚かで憐れな存在です。

三世因果の道理の中で、生まれ変わり、死に変わりを繰り返しながら、その身は常に、迷いと苦しみの中に沈んでいます。

そこから抜け出す力など、とても持ち合わせていないのが、私達の本当の姿です。

 

誰でも、一日一度は鏡を見るでしょう。

 

その時、このように愚かで憐れな自分の姿を目にしている人が、どのくらいいるでしょうか。

 

若々しく見えるとか、貫禄があるとか、自分の見た目や能力に自惚れていようと、老けて見えるとか、みすぼらしいとか、自分の見た目や能力を嘆いていようと、自分の姿を正しく見ていないことには変わりがありません。

 

私達は、毎日のように鏡の前に立ちながら、実のところ、これが私だと思い込んでいる「自分の中のイメージ」を見ているだけなのです。

 

そのような偏った見方をしている限り、三世因果の道理を断ち切ることは難しいでしょう。

 

延々と続く、迷いと苦しみの中から抜け出すためには、何よりも先に、私達の本当の姿がどのようなものなのかを知る必要があります。

 

自分の置かれている状況が、いかに危ういものであるか、そこで生きている自分が、いかに愚かで憐れなものであるか、それに気づいてこそ、今の一生で何をすべきか、人生で最も優先されることは何なのかという問題が、我が事として、切実に胸に迫ってくるのです。

 

そのような気づきの先に、確かな救いの道があることを、親鸞聖人は、尊敬する高僧の一人である道綽(どうしゃく)禅師(ぜんじ)の言葉を元に、こう教えています。

 

【原文】

一生造(いっしょうぞう)悪値(あくち)()(ぜい)

至安養界證妙果(しあんにょうかいしょうみょうか)

正信偈9192行目)

 

【意訳】

たとえ生涯、悪しか作ることのできない私達であっても、阿弥陀仏の本願に出会って信心を得れば、三世因果の道理を断ち切って極楽浄土へ往生し、さとりをひらくことができるのです。


 【目次は、ここをクリック】