何が善いことで、何が悪いことなのか。大人になれば、善悪の判断くらいできて当然。
そう、誰もが思っています。
しかし、本当に私達は、善悪の判断を正しくできているのでしょうか。
たとえば、容姿は美しく、性格は優しく、社会的に認められた仕事をしている恋人がいたとしましょう。
あなたは、その恋人のことを善い人だと思い、そんな善い人と付き合えたことに満足しています。
しかし、ある日突然、恋人に浮気相手がいると分かったらどうでしょうか。
あなたの心は、裏切られた悲しさと、浮気相手への嫉妬と、恋人への怒りで、いっぱいになるはずです。
その時に、あなたはまだ、その恋人のことを善い人だと思っていられるでしょうか。
そんなはずはありません。
善い人だったはずの恋人は、浮気が分かった瞬間に、悪い人へと変わってしまうのです。
ちょっと容姿が整っているくらいで、調子に乗って。誰にでも優しくするのは、下心があるからだ。外面だけは真面目そうなフリをして、何て不誠実な人なのだろう。
そんな風に、次から次へと、恋人への恨み言が沸いてくるのではないでしょうか。
しかし、本当のところはどうでしょう。
浮気が分かる前と後で、恋人は善い人から悪い人へと変わってしまったのでしょうか。
そうではありません。
あなたが恋人に対して、勝手に自分の理想を押し付けて、勝手に裏切られて、勝手に逆恨みをしているだけで、恋人は初めから何も変わってなどいません。元々、そういう人なのです。
変わったのは、恋人を見るあなたの心です。
このように私達は、善悪の判断を正しくできていると錯覚しているだけで、本当のところは、一瞬で善と悪がひっくり返ってしまうような頼りない判断基準しか持ち合わせていないのです。
私達が普段、何気なく使っている善悪には、必ず、ある枕詞が隠れています。
それは「自分にとって都合の」という言葉です。
私達は単に、自分にとって都合のいいものを善と言い、自分にとって都合の悪いものを悪と言っているだけなのです。
たとえば、あなたが宝くじを買ったとします。
抽選結果が発表され、見事、一等大当たり。今日から億万長者になったとします。
それは善いことでしょうか、悪いことでしょうか。
答えは決まっています。
それは善いことです、あなたにとって。
しかし、あなたが一等を引いたということは、ハズレを引いた、あなた以外の数十万人にとっては悪いことなのです。
私達はどんな時も、自分の都合というものを離れて、物事を客観的に見ることができません。
それにも関わらず、自惚れやすい私達は、自分こそが正しく世界を見ている、自分の判断こそが正しいと信じて疑いません。
たとえば、仏教を聞く機会を得て、この世界の原理原則は三世因果の道理だと聞けば、その法則の全てを理解したような気になってしまう私達なのです。
三世因果の道理を聞いて、果てしなく長い間、生まれ変わり、死に変わりを繰り返し、やっと人に生まれることを得たのが「今の私」だと知ることはできても、それが具体的に、どのような原因と縁によって起こった「結果」なのかを知る知恵は、私達にはありません。
それら全てを見通すことができる知恵を得ることを、さとりをひらくと言い、さとりをひらいた人を、仏と呼びます。
三世因果の道理の中で、複雑に絡み合う原因と縁と結果の法則を、何一つ欠けることなく承知できるのは、仏のみです。とても人の及ぶところではありません。
親鸞聖人は、どこまでも広く深い仏の知恵を、このような言葉で表現しています。
不可思議。
不可思議とは、思議(私達が思い計らうこと)が、不可(できない)と書きます。
仏の知恵とは不可思議なものであって、私達の理解の範疇に収まるようなものではないということです。
ましてや、全ての人を等しく救い取るという広大な願いを完成させた阿弥陀仏の知恵となれば、なおさらです。
そのような仏の知恵を、人の世界にある言葉で表現しようとすれば、不可思議としか言いようがなかったのでしょう。
しかし、自惚れやすい私達は、自分の理解の範疇を超えたものを信じることができません。
不可思議なものだと聞けば、途端に疑いの気持ちが起こり、反射的に、それを否定してしまうのです。
そのような私達の有り様を、親鸞聖人は、こう書き記しています。
【原文】
弥陀仏本願念仏
邪見憍慢悪衆生
信楽受持甚以難
難中之難無過斯
(正信偈:41~44行目)
【意訳】
自分の力を過信して、自分こそが正しく世界を見ている、自分の判断こそが正しいと自惚れている人が、不可思議な阿弥陀仏の本願に出会い、信心を得ることは実に難しい。
この世界で、これ以上に難しいことはない。