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一つ目の疑問点は、法蔵菩薩が仏に成る前から、星の数ほどの仏が誕生していたにも関わらず、全ての人を等しく救い取るという願いを完成させた仏が現れなかったのはなぜか、ということです。

 

どうして星の数ほどの仏方は、それぞれの救いに例外を設けたのでしょうか。

 

その答えを知るためには、私達の生きている有り様が一体どのようなものなのか、その実態を知る必要があります。

 

私達は常に、何かを欲しがって生きています。この世に、欲の無い人などいません。


それは、お金や物に限った話ではなく、SNSのフォロワー数や組織内での評価、安全で健康な毎日を過ごしたいなど、あらゆる方面に向けられています。

 

その上、私達の欲には際限というものがありません。

 

たとえば、SNSのフォロワー数が100万人を超えれば、次は200万人を超えたいと思うのが人の心です。


何を手に入れてみたところで、それに満足していられるのは、ほんの一時の間だけ。砂漠に降る雨のように、すぐに乾いてしまうのが、私達の欲の実態です。

 

有れば有ったで、もっと欲しいと苦しみ、無ければ無いで、あれも欲しい、これも欲しいと苦しむ。有っても無くても、苦しむことを止められない。

 

このような有り様のことを、有無(うむ)同然(どうぜん)と言います。

 

そして、欲に代表される私達を(わずら)わせ(なや)ませる心のことを、煩悩(ぼんのう)と言います。

 

私達は生きている限り、ほんの一瞬であっても、煩悩から離れることができません。そして、私達の煩悩は、常に多くの矛盾を抱えているのです。

 

たとえば、嫌いな相手の悪口を言いながら、自分だけは周囲から好かれる存在でありたいと願ったことがないでしょうか。

 

たとえば、自分の置かれている環境に不満を言いながら、自分より不遇な環境で生活している人を見つけて、自分は恵まれている方だと安心したことがないでしょうか。

 

このような矛盾が、何の違和感も無く私達の中で成立してしまうこともまた、煩悩の仕業なのです。

 

いつも、いつまでも、煩悩に目を眩ませている私達は、自分の生きている有り様さえ、正しく見ることができません。私達はどこまでも、我が身が可愛くて、自分だけは特別で、自己中心的にしか生きることができないのです。

 

威圧的な人も、横柄な人も、穏やかな人も、人格者と呼ばれる人であっても、まったく関係がありません。日々の言動にどう表れているかの差こそあれ、心の中は常に煩悩まみれ。それが、私達の生きている実態です。

 

そのように、日々、煩悩に振り回されて好き勝手に苦しんでいる私達を、一切の例外を設けず、誰一人として見捨てることなく、等しく救い取るということは、星の数ほどの仏方の知恵をもってしても難しいことなのでしょう。

 

二つ目の疑問点は、法蔵菩薩が五劫という長い間、悩みに悩み、考えに考え抜いた末に完成させた、全ての人を等しく救い取る手立てが、どうして南無阿弥陀仏という念仏なのか、ということです。

 

全ての人を等しく救い取るということが、星の数ほどの仏方の知恵をもってしても難しいことなのであれば、膨大な数の経典や奇跡の力を秘めた仏像など、それを実現させるのに相応しい、価値ある「何か」が必要ではないでしょうか。

 

南無阿弥陀仏という、たった六文字の念仏で、本当に全ての人を等しく救い取ることができるのでしょうか。

 

その答えを知るためには、煩悩まみれの私達が、どのような時に仏の救いを求めるのか、その実態を知る必要があります。

 

たとえば、魚が食い食われながらも水の中が住みよい場所だと信じて疑わないように、鳥が殺し殺されながらも空が住みよい場所だと信じて疑わないように、煩悩まみれの私達もまた、奪い奪われ、傷つけ傷つき合う、欲にまみれた人の世界が住みよい場所だと信じて疑いません。

 

煩悩まみれの私達は、人として生きている間に起こることが全てだと思って、人として生きている間に、どれだけ成功するか、どれだけ楽しい思いをするか、そればかりに夢中になっています。

 

そのような生き方をしている間は、仏の救いなどには見向きもしないでしょう。

 

私達が、仏の救いを求める時。

 

それは、借金や人間関係に追い詰められて、人生に疲れ切っている時かもしれません。突然の事故や災害によって愛する人を亡くし、生きる希望を失っている時かもしれません。老いや病気によって生活が困窮し、日々の暮らしもままならなくなっている時かもしれません。

 

残念なことに、煩悩まみれの私達は、そこまで追い詰められない限り、心の底から、真剣に、仏の救いを求めようとしません。

 

今の楽しみが永遠に続くような錯覚を起こし、まだどこかに逃げ道があるように思っていられる間は、いつまでも人の世界で楽しく生きていたいと、そればかりに夢中になってしまうのです。

 

そうしている間に時は流れ、人生で起こる大きな困難に行く手を塞がれ、初めて私達は、人の世界で手に入る全てのものは、やがて儚く消えてしまう幻のようなものであり、永遠に変わらないものなど何一つ無いという当たり前の真実に気づきます。

 

それが、仏の救いを求める時です。

 

一滴、一滴と天井から落ちる水滴が、やがて大きな風呂桶を満たすように、阿弥陀仏は私達一人一人に合わせ、様々に姿を変えて、救いの手を差し伸べ続けています。

 

それは、煩悩まみれの私達から見れば、苦しみを伴う出来事や人生が一変する衝撃的な事件かもしれません。またそれは、親しい人との悲しい別れや新たな人との出会いかもしれません。

 

いずれにせよ、それぞれの人生で起こる、それぞれの事情のどこかで、阿弥陀仏に救われるための十分な条件が満たされる瞬間というものが訪れます。

 

その瞬間に、全ての人を等しく救い取るためには、余計なものは極限まで排除し、最小限かつ十分な功徳を備えた救いの手立てが必要です。

 

崖の際まで追い詰められた人を救う手立てが、十年かけても読み終わらない経典や限られた人しか見ることができない仏像では、とても間に合いません。

 

けれど、南無阿弥陀仏という念仏であれば、いつ、誰が、どこで、どのように仏の救いを求めても、一声で間に合います。

 

だからこそ法蔵菩薩は、五劫という長い間、悩みに悩み、考えに考え抜いた末に、数限りなくある救いの中から、自らが修行をすることで積んだ功徳を、南無阿弥陀仏という念仏に変えるという救いの手立てを選び取ったのでしょう。