ワールドカップで、ラグビー日本代表がベスト8という快挙を達成しました。
長らく低迷し続けた日本ラグビー界を盛り上げるため、何としてもベスト8まで勝ち残る。そのような明確な目的があったからこそ、選手達は一丸となって、厳しい練習を乗り越えることができたのでしょう。
人は、どんなに厳しい環境にあっても、明確な目的さえあれば、思わぬ力を発揮するものです。反対に、どんなに恵まれた環境にあっても、目的も無く過ぎていくだけの毎日では、虚しいばかりです。
私達の心にある虚しさと目的の関係について、親鸞聖人は、このように教えています。
【原文】
本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
(高僧和讃)
【意訳】
人として生きている間に、偶然にも阿弥陀仏の本願に出会えたのであれば、人生を虚しく過ごす人はいない。阿弥陀仏の本願とは宝の海のようであり、その広大な功徳の海に入ってしまえば、私達の煩悩の汚れなどは数滴の汚水と同じで、何の問題にもならない。
煩悩具足の凡夫である私達が、自分で決める目的には、必ず、次の目的が存在します。
ラグビー日本代表が、ベスト8という目的を達成しても、そこで目的が終わるということはありません。次はベスト4、次は優勝、その次は連覇と、さらに上の目的が作られるのです。
生きている限り、新たな目的を持ち続けることが大切だ。人生は、未完成だからこそ面白い。チャレンジすることに意味がある。常に目的を持ち続けることが、生きがいというものだ。そう言う人もいるでしょう。
しかし、どれだけ体を鍛えても、どれだけ健康に気を使っても、私達の命は永遠ではありません。有限である命が、無限に続く目的を追い続けていれば、どこかで必ず限界が来ます。
老い、病み、衰えていく体を抱えながら、思い通りにならない現実に打ちのめされ、人生が虚しいと感じた時、私達は一体、どんな目的に生きる意味を見出せばいいのでしょうか。
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願に出会えたのであれば、人生を虚しく過ごす人はいないと断言しています。それは、どういうことなのでしょうか。
お釈迦様は、全ての命は、過去・現在・未来という三つの繋がりの中にあり、その繋がりの中で起こした行為(原因)に合わせて、人や畜生や餓鬼や地獄へと生まれ変わっていく(結果)と教えました。
これを、三世因果の道理と言います。
その三世因果の道理の中で、生まれ変わり死に変わりを繰り返すことを、流転輪廻と言います。
お釈迦様は、流転輪廻を繰り返している限り、私達の迷いや苦しみが無くなることはないと教えました。
迷いや苦しみの根源である流転輪廻という鎖を断ち切って、もう二度と、迷うことも苦しむこともない仏という身に成ることを、さとりをひらくと言います。
宗派によって教え方に違いがあったとしても、仏教の目的は、さとりをひらくこと。ただ、それだけです。
しかし、煩悩具足の凡夫である私達が、どれだけ修行をしたところで、全ての煩悩を絶やし尽くして、さとりをひらくことなど、とてもできるものではありません。
親鸞聖人は二十年間、さとりをひらくために、比叡山で厳しい修行をしました。
しかし、修行をすればする程に思い知らされることは、一時も煩悩から離れることのできない、我が身の愚かさでした。
仏教の知識や経験が増える度に、自分が善い人・優れた人になったように思い、そんな自分を自慢したい、学んだ知識を披露したい、そして周囲から尊敬を集めたい。そのような欲を、何一つ止めることができない。いつでも、どこでも、煩悩まみれの存在。それが、真実の自己の姿だったのです。
親鸞聖人は、二十年にも及ぶ修行を振り返って、煩悩を無くすどころか、減らすことさえもできなかったと告白しています。
自分の力で修行をして、さとりをひらくことなど、とてもできない。そう思い知った親鸞聖人は、泣く泣く山を下りました。
そして京都の町で、浄土宗の開祖である法然上人から阿弥陀仏の話を聞き、阿弥陀仏の本願の力によって、信心を得ることができたのです。
阿弥陀仏は、人として生きている間に信心を得た人を、死後、必ず極楽浄土へ救い取ると約束しています。その上で阿弥陀仏は、極楽浄土へ救い取られた全ての人に、必ずさとりをひらかせると約束しているのです。
つまり信心を得たということは、仏教の目的が達成されたということとイコールなのです。
親鸞聖人は信心を得た時に、そのことがはっきりと分かったのでしょう。だからこそ、阿弥陀仏の本願に出会えたのであれば、人生を虚しく過ごす人はいないと断言することができたのです。
遥か遠い昔から、私達を迷い苦しめてきた流転輪廻という鎖が断ち切られ、もう二度と、迷うことも苦しむこともない仏という身に成れることが、人として生きている間に決定した。
既に、仏教の目的は達成された。いつ、どこで、どのように、この命が終わったとしても、死後は、必ず阿弥陀仏が極楽浄土へ救い取ってくれる。
そのことがはっきりと分かれば、生きる目的という点において、もう次の目的は存在しません。心はそこで安心し、満足します。それ以上を求める必要がないのです。
そのような目的を達成できた人生が、虚しいものであるはずがありません。
親鸞聖人は、煩悩具足の凡夫である私達に信心を与えてくれる阿弥陀仏の本願を、宝の海にたとえています。
それほどに広大な功徳をたたえた本願という海に入ってしまえば、私達の煩悩の汚れなどは数滴の汚水と同じで、何の問題にもならないのです。