お釈迦様は、全ての命の根源には、四つの苦しみがあると教えました。その苦しみとは、このようなものです。
生きていく苦しみ。
老いていく苦しみ。
病気になる苦しみ。
死んでいく苦しみ。
生老病死という四つの苦しみと、それに付随する四つの苦しみを合わせて、四苦八苦と言います。
どんな立場の、どんな人も、決して逃れることができない。全ての生きとし生ける命に定められた根源的な苦しみを、お釈迦様は四苦八苦と教えたのです。
しかし人類は、この四つの苦しみからどうにか逃れようと、経済や科学や医学を発展させてきました。
豊かな経済は安全で衛生的な生活環境を作り、科学はアンチエイジングを可能にする新たな技術を確立し、医学は不治の病と恐れられた病気の治療法を生み出しています。
それなら日本という経済大国に生まれた私達は、この四つの苦しみから逃れることができたのでしょうか。
確かに、現代の日本で行き倒れになって死んでいる人を見かけることはないでしょう。ある程度の仕事をしていれば、食べ物に困ることもありません。病院へ行けば、症状に合った薬を手に入れることができます。平均寿命は伸び続け、今や、人生は百年時代です。
しかしそれは、お釈迦様が教えた四つの苦しみを、なるべく遠ざけることができるようになったというだけの話です。決して、四つの苦しみが無くなった訳ではありません。
遠ざけているだけですから、それらの苦しみは、いつか必ず私達のところへ戻ってきます。その時に味わう苦しさは、普段、それらを遠ざけて暮らしている人の方が、かえって辛いかもしれません。
年老いて、治る見込みのない病気を患い、明日をも知れない命となった時に、私達は一体何を頼りとすればいいのでしょうか。
愛する人を亡くし、一人ぼっちで取り残され、生きる意味を見失った時に、私達は一体何を頼りとすればいいのでしょうか。
思い通りにならない人生に絶望し、生きることを諦めかけた時に、私達は一体何を頼りとすればいいのでしょうか。
お釈迦様がさとりをひらいた時、最初に説いた教えは「人生は苦なり」です。
現代の経済や科学や医学が、どれだけ暮らしやすい社会を実現しても、私達の命の根源にある苦しみは、お釈迦様の時代から少しも変っていないのです。
ですから、大きな困難に直面し、人生の何もかもに絶望して、悲しくて、苦しくて、泣いて、泣いて、泣き疲れて、流す涙も枯れる日というものが、誰のところにも必ずやって来ます。
生老病死という四つの苦しみは、生きている以上、どうしても避けて通ることができません。そのような厳しい現実と向き合っている時こそ、私達が本当の意味で、仏教を聞くことができる大切な機会なのです。
残念なことに、煩悩具足の凡夫である私達は、人生に絶望する程の大きな困難に出会わない限り、真剣に仏教を聞こうとしません。
目の前の楽しみが永遠に続いていくような錯覚を起こしていられる間は、いつまでも人の世界で楽しく生きていたいと、そればかりに夢中になってしまうのです。それこそが、煩悩具足の凡夫が煩悩具足の凡夫である何よりの証拠です。
そのような煩悩具足の凡夫に、仏教を聞かせるための方便として、大きな困難を与えることもまた、仏の慈悲というものなのかもしれません。
大きな困難に直面し、人生の何もかもに絶望して、生死の瀬戸際まで追い込まれ人を、一人として見捨てることなく救い取ってくれる教え。それが、仏教です。
全ての人を等しく救い取るという広大なセーフティーネットを、遥か遠い昔から、今も、これから先もずっと、絶え間なく張り巡らせているからこそ、大きな困難を与えることもまた、仏教を聞かせるための一つの方便となるのでしょう。
今の一生で、どれだけ苦しんだとしても、最後の最後は必ず救い取る。だから、安心してジタバタしなさい。そう、煩悩具足の凡夫である私達を常に見守り続けていてくれるのが、仏の慈悲というものなのです。