お釈迦様の教えに、このような話があります。
 
【要約】
ある村に、キサーゴータミーという若い婦人がいました。
 
キサーゴータミーは、初めての子供を授かり、幸せ一杯の日々を過ごしていました。
 
しかし、ある朝。
 
最愛の我が子は、あっけなく息を引き取ってしまいます。キサーゴータミーの心は、深い悲しみに沈みました。
 
どうしても我が子の死を受け入れられないキサーゴータミーは、もう冷たくなった我が子を胸に抱えると、オロオロと歩き始めます。
 
「誰か、この子を生き返らせる薬を持っていませんか?」
 
あちらの村、こちらの村と、さまよい歩くキサーゴータミーは、まるで夢遊病者のようでした。
 
その姿に心を痛めた一人の村人が、キサーゴータミーに声をかけます。
 
「お釈迦様を訪ねてみなさい。きっと善い薬を下さるよ」
 
キサーゴータミーは、我が子を生き返らせることができるに違いないと思い、一目散にお釈迦様の元へ向かいます。そして、お釈迦様に懇願します。
 
「どうか、この子を生き返らせる薬を下さい」
 
キサーゴータミーの様子を静かに見ていたお釈迦様は、こう返事をします。
 
「分かりました。その子を生き返らせる薬を作ってあげましょう。その薬を作るためには、ケシの実が必要です。これから村の家々を訪ねて、ケシの実を貰ってきなさい」
 
これで我が子が生き返る。ケシの実を貰いに行かなければ。はやる気持ちを抑えきれないキサーゴータミーに、お釈迦様は、こう付け加えます。
 
「ただし、死人を出したことのある家のケシの実では、薬は作れません。死人を出したことのない家からケシの実を貰ってくるのですよ」
 
キサーゴータミーはお釈迦様の話を聞き終えると、急いで村へ戻り、家々を訪ね歩きました。
 
当時、ケシの実はどこの家にでもある品物でしたが、死人を出したことのない家など、どこにもありませんでした。
 
「一昨年、祖父が他界しました」
「昨年、主人が亡くなりました」
「一週間前、息子が病死したばかりです」
 
聞こえてくるのは、そんな声ばかりです。家々を訪ね歩き、疲れ果て、立ち尽くしたキサーゴータミーは、はたと気づきました。
 
死んでしまったのは、我が子だけではない。愛する者を亡くした悲しみを背負っているのも、私だけではない。人は必ず死ななければならない。
 
そう気づいたキサーゴータミーは、冷たくなった我が子を優しく埋葬すると、お釈迦様の元へ向かい、出家を願い出て、お釈迦様の弟子になりました。
(ダンマパダアッタカター)
 
キサーゴータミーが最初にお釈迦様の元を訪ねた時、お釈迦様が「人は必ず死ぬものですよ。人を生き返らせる薬などありません」と答えていたら、一体どうなっていたでしょうか。

人は必ず死ななければならないという真実に、キサーゴータミーが気づくことはなかったでしょう。
 
死人を出したことのない家からケシの実を貰ってくるという、一見無駄とも思える過程は、悲しみに沈むキサーゴータミーの目を覚まさせ、真実へと導いていくために、どうしても必要な過程だったのです。

お釈迦様は、それら全てを見通していたからこそ、キサーゴータミーにケシの実の話をしたのでしょう。
 
このように煩悩具足の凡夫である私達は、単に真実だけを聞いても、それを正しく聞くことができません。それが愛する我が子の死となれば、なおさらです。
 
人は必ず死ななければならない。そんな単純な真実でさえ、いざ我が事となれば、あっという間に正しい判断ができなくなってしまう。それが、煩悩具足の凡夫である私達です。
 
キサーゴータミーと同じ立場になった時、人は必ず死ななければならないと、我が子の死をすんなりと受け入れられる人がいるでしょうか。
 
そんな人は、一人もいないのです。
 
キサーゴータミーにケシの実の話をしたように、お釈迦様の教えには、煩悩具足の凡夫である私達を救うために、必要不可欠な過程を説いたものが数多くあります。
 

この必要不可欠な過程のことを、方便ほうべんと言います。

 
煩悩具足の凡夫である私達は、方便を通らない限り、真実の仏教に出会うことができません。その上、私達の心の有り様というものは人それぞれで異なりますから、説かれる方便もまた、一人一人に合った形に工夫する必要があるのです。

だからこそ、お釈迦様はその生涯の大半を、方便を説くことに費やしたのでしょう。

お釈迦様が仏の知恵でもって、煩悩具足の凡夫である私達一人一人に合わせて工夫した方便だけを取り上げて比較してみれば、そこに矛盾が存在するのは当然です。

方便という矛盾の中に、真実がある。それが、仏教です。そのことを親鸞聖人は、このように教えています。
 
【原文】

しんらざるによりて、如来にょらい広大こうだいおんどくめいしつす。

きょうぎょう信証しんしょう

 
【意訳】
(ほとんどの人は)真実と方便の違いを知らないことによって、広大な仏の慈悲に出会うことができず、いつまでも迷い続けている。
 
煩悩具足の凡夫である私達は、本願中の本願である第十八願だけを聞いても、それがどんな救いで、どうすれば救われるのか、真実に気づくことができません。

煩悩具足の凡夫である私達が救われるためには、どうしても方便が必要なのです。