あなたは善人ですか、それとも悪人ですか?

 

そう聞かれたら、あなたは、どう答えるでしょうか。

 

100%善人です、とは言い切れなくても、まさか悪人ではないだろう。どちらかと言えば善人だ。そう思う人が多いのではないでしょうか。

 

親鸞聖人は、仏教という法の鏡を通して見た真実の自己の姿というものが、一体どんなものだったのか、こう告白しています。

 

【原文】

(まこと)()んぬ。(かな)しきかな愚禿(ぐとく)(らん)愛欲(あいよく)広海(こうかい)沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)大山(たいせん)(めい)(わく)して、定聚(じょうじゅ)(かず)()ることを(よろこ)ばず、真証(しんしょう)(さとり)(ちか)づくことを(たの)しまざることを、()ずべし、(いた)むべし。

(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)

 

【意訳】

本当に身をもって知った。悲しいことですが、愚かな親鸞は、どこまでも深い欲の海に沈み、果てしなく高い名誉や利得の山に迷い込んで、正定聚(しょうじょうじゅ)という立場になれたことを嬉しいとも思わないし、仏の知恵が得られる死の瞬間が近づいていることを楽しいとも思わないのです、恥ずかしいことです、痛ましいことです。 

 

阿弥陀仏は本願中の本願である第十八願で、阿弥陀仏を心から信じて、阿弥陀仏の国に生まれたいと願い、南無阿弥陀仏と念仏する全ての人を、苦しみの一切無い極楽浄土へ必ず救うと約束しています。

 

極楽浄土へ救われるために必要なものは、阿弥陀仏を心から信じる、信心のみです。他には何にも要らないし、どんな条件も付けない。それが、阿弥陀仏の救いです。

 

その信心が生きている間に定まり、死ねば必ず極楽浄土へ救われる立場になった人のことを、正定聚と呼びます。その正定聚の仲間入りができたことを、親鸞聖人は「正聚の数に入る」と表現しているのです。

 

それではもう一つの「真証の証に近づく」とは、どういうことでしょうか。

 

阿弥陀仏は四十八個ある本願の中の第十一願で、次のような約束をしています。

 

【原文】

(せつ)()得仏(とくぶ) 国中(くにじゅう)人天(にんでん) 不住(ふじゅう)定聚(じょうじゅ) 必至(ひっし)滅度(めつど)(しゃ) 不取(ふしゅ)正覚(しょうがく)

仏説(ぶっせつ)無量(むりょう)寿(じゅ)(きょう)

 

【意訳】

わたし(阿弥陀仏)が仏に成る時、わたしの国である極楽浄土に住む全ての人々が、正定聚となり、必ずさとりを得ることができないようなら、わたしは決してさとりをひらきません。

 

煩悩具足の凡夫である私達が、どれだけ厳しい修行をしても、全ての煩悩を絶やし尽くして生きている間にさとりを得るなど、とてもできることではないでしょう。

 

そのような煩悩具足の凡夫である私達を憐れに思い、煩悩具足の凡夫煩悩具足の凡夫のままでさとりを得られる道を示してくれたのが、阿弥陀仏という仏です。

 

阿弥陀仏は第十一願で、極楽浄土へ救われた全ての人に必ずさとりを与えると約束し、続く第十八願で、生きている間に信心が定まった全ての人を必ず極楽浄土へ救うと約束しています。


つまり、正定聚という立場になった人にとって、死の瞬間が近づいているということは、さとりを得られる瞬間が近づいているということと同じなのです。それを親鸞聖人は「真証の証に近づく」と表現しているのです。

 

しかし親鸞聖人は、本来、嬉しいはずの「正聚の数に入る」ことも、楽しいはずの「真証の証に近づく」ことも、ちっとも嬉しくないし、楽しくもないと告白しています。

 

なぜでしょうか。

 

親鸞聖人は、阿弥陀仏に救われ、正定聚という立場になった当事者です。

 

しかし、正定聚という立場になって見たものは「あれも欲しい」「これも欲しい」「もっと尊敬されたい」「もっと人生を楽しみたい」「死にたくない」と、いつもいつまでも人の世界に執着している愚かな自分の姿でした。

 

正定聚という立場になってなお、日々、煩悩に振り回されている自分自身の有り様を、親鸞聖人は「恥ずかしいことです、痛ましいことです」と反省しているのです。

 

煩悩具足の凡夫である私達は「救われた」という言葉を聞くと、心は常に穏やかで、幸せ一杯の人生が約束されたように思います。

 

しかし、正定聚という立場になっても、人として生きている限り、煩悩が無くなることはありません。煩悩が無くならないということは、苦しみもまた無くならないということです。

 

現実というものは、私達の希望をいちいち考慮してくれる程、生易しいものではありません。

 

慢性的な病気を患う人、身体的な障害を持つ人、自分を愛せない人、愛する人から愛して貰えない人、生活苦から抜け出せない人、重い罪を犯してしまった人、それぞれの人生で直面する現実は、すっきりと解決できるものばかりではないでしょう。重い足かせのように、死ぬまで付いて回る苦しみを、誰でも一つや二つ抱えているものです。

 

そのような苦しみばかりで渡ることが難しい人生という荒波の海を、安心して渡っていくためには知恵が必要です。

 

どうしようもない現実を、どうにかしようとする人は、同じ場所をグルグルと回りながら、延々と苦しみ続けることになるでしょう。

 

しかし、どうしようもない現実を、どうしようもないと受け入れて、そのような現実と上手く付き合っていく方法を探す人は、苦しみを和らげることができるはずです。もしかしたら思いもよらない方向へ、新たな道が開けるかもしれません。

 

「こんなこと、あってはならない」「こうあるべきだ」「必ず解決しなければならない」とガチガチに固まっていた眼球がふっと和らげば、視界は広がり、人生には多くの選択肢があるということに気づけるでしょう。

 

仏教という法の鏡を通して、真実の自己の姿を知らされた人は、煩悩具足の凡夫である憐れな自分の姿に驚愕します。しかし、あまりにもはっきりと現実を突きつけられると、人はそれを受け入れて、素直に反省するようになります。

 

同時に、そのような煩悩具足の凡夫であればこそ、救わずにはいられないのが仏の慈悲であると知らされ、その慈悲のあまりの広大さに、自然と感謝の気持ちが溢れてくるのです。

 

そのような反省と感謝の気持ちを知って、煩悩具足の凡夫である自分と上手く付き合いながら生きていけるようになることを「救われた」と言うのではないでしょうか。

 

親鸞聖人は、本当の意味で反省と感謝の気持ちを知っている人のことを、悪人と呼びました。

 

悪人とは、真実の自己の姿を知らされ、自分こそが煩悩具足の凡夫だったと思い知った人のことです。

 

反対に、親鸞聖人が善人と呼ぶのは、何でも解決できると自分の力を過信し、善悪の判断くらいできて当然と思い込み、自分こそが正義のヒーローだと自惚れている人のことです。

 

その上で親鸞聖人は、阿弥陀仏が救いの対象としてお目当てにしているのは、このような人だと教えています。

 

【原文】

善人(ぜんにん)なおもって往生(おうじょう)()ぐ、いわんや悪人(あくにん)をや。

歎異抄(たんにしょう)

 

【意訳】

阿弥陀仏の本願は、善人でさえも極楽浄土へ救おうとするのだから、悪人は言うまでもなく救われる。

 

煩悩具足の凡夫である私達は、その時の心の有り様一つで、いくらでも聞き方を変えてしまいます。

 

楽しい気分の時には、恋人の一言で胸をときめかせ、暗い気分の時には、恋人の一言で腹を立てるのです。

 

同じ一言でも、聞き手の聞き方次第で、どんな風にでも聞けてしまう。それが、私達の聞き方です。ですから、全ての人を等しく救い取ると誓った阿弥陀仏の本願であっても、それが正しく聞けるまでに必要な時間というのは、人それぞれで異なります。

 

すぐに聞ける人もいれば、何十年と仏教を聞いていても、肝心の本願がまったく聞けない人もいるのです。

 

そのような差があることを、親鸞聖人は「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と教えているのです。

 

親鸞聖人の言う善人と悪人の意味が分かれば、どちらがより救われやすいのか、自然と分かることでしょう。