学生時代に読んで感銘を受けた著者がいた。たまたま、書店でその人の近著があり、懐かしさも手伝って買って読んでみた。
でも、
何か違う・・・。
学生のときは、自分が何も知らないことを痛感して、この著者の博学さに感動したものだ。しかし、いまは単なる「物知り」にしか思えない。「この言葉の語源が○○・・・」とかと、その知識量には感嘆するが、「だから何なんだ」と今は思ってしまう。恐らく、この著者は、評論や著述に明け暮れてはいるものの、現実の問題に直面・解決を迫られるということはないのであろう。
かつて、元・マッ○ンゼー日本支社長を務めた人の著書も、コンサル時代のものは出色の出来だった。しかし、いまのその人の本を読んでも、単なる「情報通」にしか思えない。
現実のとの格闘を通じてのみ、本当に人を感銘させられるものができるのではないか。単に、情報を取りまとめて、「いまはこうだ!」と叫んでも、現実との葛藤が日々の仕事となっている人の心には届かない。いつも、現実と向き合っていることが重要なのだろう。
クリスマスの気分を味わおうと、銀座をぶらぶらしていた。とても多くの人が並んでいるところがあったので、行ってみると、「宝くじ」の売り場だった(なんと! 警察まで出て、行列の管理をしていた!)。今日は、大安吉日らしい。
これまで、宝くじに当たったことがなく、「宝くじは当たらないもの」と思い込んでいた自分には本当に驚きだ。クリスマス・イブに宝くじに並ぶというのも、何となく世相を反映しているような気がした。
宝くじに当たった人には、お金をもらうにあたって、「心得」が渡されるらしい。それだけ、「一攫千金」を手にして、身を持ち崩す人が多いということだろう。
小さくとも、少しずつ貯めていくこと。本当は、そのことのほうが大事ではないかと思うイブだ。
これまで、宝くじに当たったことがなく、「宝くじは当たらないもの」と思い込んでいた自分には本当に驚きだ。クリスマス・イブに宝くじに並ぶというのも、何となく世相を反映しているような気がした。
宝くじに当たった人には、お金をもらうにあたって、「心得」が渡されるらしい。それだけ、「一攫千金」を手にして、身を持ち崩す人が多いということだろう。
小さくとも、少しずつ貯めていくこと。本当は、そのことのほうが大事ではないかと思うイブだ。
最終的に、人を救うものは「言葉」である。ある人がどのような言葉を持ち、信じるかによって、その人の生き方が定まるといってもよい。
「一羽の蝶が地球の裏側で羽ばたくと、台風となってこちらにやってくる」 一つの小さな出来事が、さまざまなフィードバック・ループを通って、大きな変化となって現れることの例えだ。実際にコンピューターでシュミレーションすると、蝶の羽ばたきでも地球に大きな気圧変動を起こすことが確認されている。ニュートンがリンゴによって引力を発見したように、この羽ばたきから「複雑系」という理論が生み出された。
さまざまな局面に接し、ふと立ち戻る言葉があるとすれば、この「蝶の羽ばたき」に関するものだ。
「社会には、数え切れないほどのフィードバック・ループがあるので、それらの影響力を全て考慮して個人の行動を長期的予測することは、天気を厳密に予報するのと同じくらい難しいことです。したがってこのような緻密な社会で行動をとるとき、まわりの人々の顔色をうかがうのではなく、自分に誠実に行動することが大切になってきます。「バタフライ・パワー」が働く系は、個を全体からは切り離すことのできない系であり、瞬間瞬間がカオスの鏡を通して未来に反映していく系です。肯定的な影響力といったときの「肯定」とは、自分に誠実に行動することであり、その瞬間自分がどのような真実と向かい合ったかに基づいて行動することです。「存在とは、言葉で定義できるものではない」ということを十分認識しかねれば真実とめぐり合うことはできません。開かれた系で大きな力へと発展する「バタフライ・パワー」は自分に誠実に行動し、真実と向き合うことから生じるのです。(「バタフライ・パワー」、J. ブリッグス、F.D.ビート)」
自分の全くあずかり知らないところで、色々なことが起こっている。「ああすればこうなる」などと思いを巡らしても、全てを予測することは不可能だ。そんなことばかりを考えるより、「自分に誠実に行動すること」。そして、恐らく、できることはそれしかないのだ。
「一羽の蝶が地球の裏側で羽ばたくと、台風となってこちらにやってくる」 一つの小さな出来事が、さまざまなフィードバック・ループを通って、大きな変化となって現れることの例えだ。実際にコンピューターでシュミレーションすると、蝶の羽ばたきでも地球に大きな気圧変動を起こすことが確認されている。ニュートンがリンゴによって引力を発見したように、この羽ばたきから「複雑系」という理論が生み出された。
さまざまな局面に接し、ふと立ち戻る言葉があるとすれば、この「蝶の羽ばたき」に関するものだ。
「社会には、数え切れないほどのフィードバック・ループがあるので、それらの影響力を全て考慮して個人の行動を長期的予測することは、天気を厳密に予報するのと同じくらい難しいことです。したがってこのような緻密な社会で行動をとるとき、まわりの人々の顔色をうかがうのではなく、自分に誠実に行動することが大切になってきます。「バタフライ・パワー」が働く系は、個を全体からは切り離すことのできない系であり、瞬間瞬間がカオスの鏡を通して未来に反映していく系です。肯定的な影響力といったときの「肯定」とは、自分に誠実に行動することであり、その瞬間自分がどのような真実と向かい合ったかに基づいて行動することです。「存在とは、言葉で定義できるものではない」ということを十分認識しかねれば真実とめぐり合うことはできません。開かれた系で大きな力へと発展する「バタフライ・パワー」は自分に誠実に行動し、真実と向き合うことから生じるのです。(「バタフライ・パワー」、J. ブリッグス、F.D.ビート)」
自分の全くあずかり知らないところで、色々なことが起こっている。「ああすればこうなる」などと思いを巡らしても、全てを予測することは不可能だ。そんなことばかりを考えるより、「自分に誠実に行動すること」。そして、恐らく、できることはそれしかないのだ。
ソ○ーの友人と飲んだ。電機業界の危機感がヒシヒシと伝わってくる。サ○ズン、L○などの韓国メーカーやアッ○ルの新興など、かつての日本電機業界をとりまく状況は激変した。管理職への登用も「TOEICで900点以上が条件」となったそうだ。
「TOEIC 900点」は並大抵のレベルではない。しかし、韓国メーカーもほぼ同じかこれ以上を基準としているのであろう。この水準を、「今の」管理職に求めることは無理だ。
一方で、自社の学生向け会社説明会を傍聴してみた。予想以上に多くの学生が集まっていた。顔つきを見ても、いずれも締まったいい顔をしている。彼らであれば、恐らく「TOEIC 900」も頑張れば乗り越えられるであろう。
現在の意思決定者たちは、日本の高度経済成長時代を過ごした。さまざまな要因から、勝手に上げ潮に乗ったとも言え、お酒・麻雀・ゴルフによる人間関係が中心の経済で過ごしてきた。マネジメントについて学ぶ必要もないまま企業は成長・拡大し、ポスト・収入も増えた時代だ。一方の今の若手は、就業機会を得るため、(自分の時とは異なり)大学時代にもシッカリと勉強をし、資格等も身につけている。状況が悪いがゆえに身を修めなければならない状況に追い込まれた。
甕のなかに2種類の液体が入っているようなものだ。上にはドロドロとした油のような液体が浮き、下にきれいな浄水が沈んでいる。上澄みの油がなくなれば、甕は澄んだ水で満たされるだろう。時間がかかるが、その頃の日本の風景は今とは変わっているのかもしれない。
「TOEIC 900点」は並大抵のレベルではない。しかし、韓国メーカーもほぼ同じかこれ以上を基準としているのであろう。この水準を、「今の」管理職に求めることは無理だ。
一方で、自社の学生向け会社説明会を傍聴してみた。予想以上に多くの学生が集まっていた。顔つきを見ても、いずれも締まったいい顔をしている。彼らであれば、恐らく「TOEIC 900」も頑張れば乗り越えられるであろう。
現在の意思決定者たちは、日本の高度経済成長時代を過ごした。さまざまな要因から、勝手に上げ潮に乗ったとも言え、お酒・麻雀・ゴルフによる人間関係が中心の経済で過ごしてきた。マネジメントについて学ぶ必要もないまま企業は成長・拡大し、ポスト・収入も増えた時代だ。一方の今の若手は、就業機会を得るため、(自分の時とは異なり)大学時代にもシッカリと勉強をし、資格等も身につけている。状況が悪いがゆえに身を修めなければならない状況に追い込まれた。
甕のなかに2種類の液体が入っているようなものだ。上にはドロドロとした油のような液体が浮き、下にきれいな浄水が沈んでいる。上澄みの油がなくなれば、甕は澄んだ水で満たされるだろう。時間がかかるが、その頃の日本の風景は今とは変わっているのかもしれない。
大学浪人をして予備校に通っていた時、ある日本史の名物教師がいた。受験心得もテキストも関係なし。日本史の出来事を講談調に話して生徒を湧かせた。それも、受験には絶対に出てこないような事柄だ。常に教室は超満員。教壇には、元気づけにと、生徒からドリンク剤の差し入れがいくつも置かれていた。自分自身、この講義は欠かさず聴講し、その話の中身からはからずしも涙したこともあった。話される内容というより、日本史そのものが面白くなり、日本史の勉強に身が入った(本当はこうした授業の方がよいのかもしれない)。
今では、「講談」の内容まで記憶がない。しかし、その教師が最終講義で語ったある言葉が、いまだに記憶に残っている。「内観的時代」という言葉だ。
人生のさまざまな場面において、一人静かに自分と向き合う時間が、人間の成長のためにはどうしても必要ということだ。見た目は熱血漢の教師であったが、「必ず内観的時代を過ごしてください」と訴えた言葉は、折にふれて思い出される。
「深くて暗い井戸の底に一人でじっと座っているような時期がないと、人生に深みと広がりが出てこないような気がします(村上春樹)」のとおりかもしれない。確かに色々な人と付き合ってみて、気晴らしに終始している人は、底が浅く感じる。また、内観的時代を過ごした経験のない人は、調子の悪い時は他責し、良くなると傲慢になるといった傾向もあると思う。
一人の時間をもち、本を読んで内省するといった静かで透明な時間が、深みをもつ人間形成には必要なのだろう。
優れた人は静かに身を修め徳を養う
無欲でなければ志は立たず
穏やかでなければ道は遠い
学問は静から才能は学から生まれる
学ぶことで才能は開花する
志がなければ学問の完成はない (「誡子書」、諸葛孔明)
今では、「講談」の内容まで記憶がない。しかし、その教師が最終講義で語ったある言葉が、いまだに記憶に残っている。「内観的時代」という言葉だ。
人生のさまざまな場面において、一人静かに自分と向き合う時間が、人間の成長のためにはどうしても必要ということだ。見た目は熱血漢の教師であったが、「必ず内観的時代を過ごしてください」と訴えた言葉は、折にふれて思い出される。
「深くて暗い井戸の底に一人でじっと座っているような時期がないと、人生に深みと広がりが出てこないような気がします(村上春樹)」のとおりかもしれない。確かに色々な人と付き合ってみて、気晴らしに終始している人は、底が浅く感じる。また、内観的時代を過ごした経験のない人は、調子の悪い時は他責し、良くなると傲慢になるといった傾向もあると思う。
一人の時間をもち、本を読んで内省するといった静かで透明な時間が、深みをもつ人間形成には必要なのだろう。
優れた人は静かに身を修め徳を養う
無欲でなければ志は立たず
穏やかでなければ道は遠い
学問は静から才能は学から生まれる
学ぶことで才能は開花する
志がなければ学問の完成はない (「誡子書」、諸葛孔明)
ある関連会社に、社長含みで派遣された人から挨拶状が来た。「任期途中で交代するのは心苦しいが、○○で働くことになった」とある。意外感があって事情を聞けば、以下の通りらしい。
その人はコテコテの営業マン。いわゆる「ドブ板営業」で仕事を取ってくる人だ。派遣された企業は、今あるプロジェクトの一巡が見えており、新しい血を入れて新規ビジネスを広げようとした。
ところが・・・、
その人は、来るなり過去を否定して、新しい仕事に向けて社員を叱咤激励した。しかし、言われた社員たちはそのことが理解できない。上はハッパをかけるが、下は動かない。下から見れば、自分たちのことを理解もせずに命令・叱責ばかりする。両者の感情は完全に混じり合うことなく、遂に決裂して、その人は別の道を選んだ。
日本では、「改革」を性急にしようとすれば失敗する。いや、日本だけではなく、どこの世界においても、その組織の「民意」を得ることなく、大きな変化をなし得ることは不可能だ。
「公衆の感情がすべてだ。公衆の感情に支持されれば何でもできる。その支持なしには何事も成就しえない。公衆の感情を形成するものは、法案を作ったり、政策判断を下すものよりも、もっと深いところで人を動かすことができる。-エイブラハム・リンカーン(1860年)」
政治家にとっては「公衆の感情」だが、どんな組織でも、そこにいる「個々人の感情」を重視しなければ変革は挫折する。「危機感という土壌」で同じことを書いたが、危機感が醸成されていない場合には、意見をできるだけ聞いて、まず信頼関係を築くことが先決だ。
徳川家康は、「水はよく船を浮かべ、またよく覆す」と言ったそうだ。この場合、水は家臣であり、船は主人だ。「家臣は主人をよく支えるが、時にはひっくり返す(反乱を起こす)こともある」ということを伝えている。
このケースの場合、いきなり過去を否定して改革を実行するのではなく、まずそれぞれの人の言い分を聞き、議論に巻き込むべきだった。命令のみで、人は動かない。時間がかかってまどろっこしいようであっても、それが逆に近道となる。変革者は、下の人への配慮を欠くと「覆される」ことがあると、肝に銘じておくべきだろう。
その人はコテコテの営業マン。いわゆる「ドブ板営業」で仕事を取ってくる人だ。派遣された企業は、今あるプロジェクトの一巡が見えており、新しい血を入れて新規ビジネスを広げようとした。
ところが・・・、
その人は、来るなり過去を否定して、新しい仕事に向けて社員を叱咤激励した。しかし、言われた社員たちはそのことが理解できない。上はハッパをかけるが、下は動かない。下から見れば、自分たちのことを理解もせずに命令・叱責ばかりする。両者の感情は完全に混じり合うことなく、遂に決裂して、その人は別の道を選んだ。
日本では、「改革」を性急にしようとすれば失敗する。いや、日本だけではなく、どこの世界においても、その組織の「民意」を得ることなく、大きな変化をなし得ることは不可能だ。
「公衆の感情がすべてだ。公衆の感情に支持されれば何でもできる。その支持なしには何事も成就しえない。公衆の感情を形成するものは、法案を作ったり、政策判断を下すものよりも、もっと深いところで人を動かすことができる。-エイブラハム・リンカーン(1860年)」
政治家にとっては「公衆の感情」だが、どんな組織でも、そこにいる「個々人の感情」を重視しなければ変革は挫折する。「危機感という土壌」で同じことを書いたが、危機感が醸成されていない場合には、意見をできるだけ聞いて、まず信頼関係を築くことが先決だ。
徳川家康は、「水はよく船を浮かべ、またよく覆す」と言ったそうだ。この場合、水は家臣であり、船は主人だ。「家臣は主人をよく支えるが、時にはひっくり返す(反乱を起こす)こともある」ということを伝えている。
このケースの場合、いきなり過去を否定して改革を実行するのではなく、まずそれぞれの人の言い分を聞き、議論に巻き込むべきだった。命令のみで、人は動かない。時間がかかってまどろっこしいようであっても、それが逆に近道となる。変革者は、下の人への配慮を欠くと「覆される」ことがあると、肝に銘じておくべきだろう。
薮中三十二氏の「国家の命運」を読んだ。なかに、戦前と戦後の日本人についての記述があり、ふと思うことがあった。
戦前の日本人を個人的に知っているわけではないが、やはり「気骨があった」。「志があった」とも言える。今年は「龍馬伝」や「坂の上の雲」など、明治の人物が紹介される機会が多かったが、(ドラマということで課題表現があったとしても)人物の大きさが違うと言わざるを得ない。なぜ、戦後の日本人がそうでなくなったのか。かつてと違うものは何か。
まず、大きいのは「教育」であろう。母は、戦後60年もすれば日本は弱体化すると語った。日本史観における戦後の自虐的な教育をさしていたものと思う。また拠り所となる精神的支柱もなくなった。
日本の戦後教育は、過去を反省させる意味から自省的なものとなった。今ではなくなったが、一時は国歌・国旗に対しても侮蔑すると言ったことが行われていた(海外に出かける機会が多かった頃、何れの国も、自国・他国の国家・国旗に敬意をはらうのを見て、こうしたことが喧伝されているのを理解できなかった)。これでは、国に対する敬意を失わせ、ひいては自己卑下に通じる。自分や自分の所属するものへの気概がなければ、困難に立ち向かうのは難しい。
また、江戸から明治、そして戦前において、思想的な牽引役を果たした人は多い。吉田松陰、佐藤一斎、緒方洪庵などから明治におけるリーダーが輩出している。明治以降は、安岡正篤、中村天風などであろうか。多くの財界人が師事した。現在は、こうした思想的なリーダーを見出すことができない。書店に並んでいる本も安直な成功法則本やハウツーものが多く、内容的に厚みのある書籍は海外からのものが多い。精神の醸成という面で課題があるのだろう。
続いては、「視座」だ。明治のリーダーたちは、いずれも外国の事情に精通しており、知識も原書を通じて得ていた。いま、海外の知識を必死で吸収しようという人は減った。自分の時間に原書を読むということも少ない。経済発展を遂げ、慢心しているのかもしれないが、そもそも本が読まれなくなってきた。かつては、現場体験や書物を通じて、「世界の中の日本」という視点で物事を考えていたが、今は自分と接点のある人との関係が中心だ。
時代を牽引する「若さ」も違う。明治の時代には、30~40代の若手が活躍した。現在は、60~70代、極端な場合には80代まで表に出る。いい例が、日本の政治で、60歳以上が中心。これに対し、世界の元首クラスでは40代が台頭している。
いまだに海老蔵を報道し、「政治とカネ」ばかりに話を向ける内向きな現代日本。これに対し、①下地となる「教育」、②そして世界から日本を見るという「視座」、③更に年齢的な「若さ」、など、これから必要となるものは、こうしたものではないかと思う。
戦前の日本人を個人的に知っているわけではないが、やはり「気骨があった」。「志があった」とも言える。今年は「龍馬伝」や「坂の上の雲」など、明治の人物が紹介される機会が多かったが、(ドラマということで課題表現があったとしても)人物の大きさが違うと言わざるを得ない。なぜ、戦後の日本人がそうでなくなったのか。かつてと違うものは何か。
まず、大きいのは「教育」であろう。母は、戦後60年もすれば日本は弱体化すると語った。日本史観における戦後の自虐的な教育をさしていたものと思う。また拠り所となる精神的支柱もなくなった。
日本の戦後教育は、過去を反省させる意味から自省的なものとなった。今ではなくなったが、一時は国歌・国旗に対しても侮蔑すると言ったことが行われていた(海外に出かける機会が多かった頃、何れの国も、自国・他国の国家・国旗に敬意をはらうのを見て、こうしたことが喧伝されているのを理解できなかった)。これでは、国に対する敬意を失わせ、ひいては自己卑下に通じる。自分や自分の所属するものへの気概がなければ、困難に立ち向かうのは難しい。
また、江戸から明治、そして戦前において、思想的な牽引役を果たした人は多い。吉田松陰、佐藤一斎、緒方洪庵などから明治におけるリーダーが輩出している。明治以降は、安岡正篤、中村天風などであろうか。多くの財界人が師事した。現在は、こうした思想的なリーダーを見出すことができない。書店に並んでいる本も安直な成功法則本やハウツーものが多く、内容的に厚みのある書籍は海外からのものが多い。精神の醸成という面で課題があるのだろう。
続いては、「視座」だ。明治のリーダーたちは、いずれも外国の事情に精通しており、知識も原書を通じて得ていた。いま、海外の知識を必死で吸収しようという人は減った。自分の時間に原書を読むということも少ない。経済発展を遂げ、慢心しているのかもしれないが、そもそも本が読まれなくなってきた。かつては、現場体験や書物を通じて、「世界の中の日本」という視点で物事を考えていたが、今は自分と接点のある人との関係が中心だ。
時代を牽引する「若さ」も違う。明治の時代には、30~40代の若手が活躍した。現在は、60~70代、極端な場合には80代まで表に出る。いい例が、日本の政治で、60歳以上が中心。これに対し、世界の元首クラスでは40代が台頭している。
いまだに海老蔵を報道し、「政治とカネ」ばかりに話を向ける内向きな現代日本。これに対し、①下地となる「教育」、②そして世界から日本を見るという「視座」、③更に年齢的な「若さ」、など、これから必要となるものは、こうしたものではないかと思う。
企業には成長が必要だ。一般に、成長と言えば売上をイメージするが、この「成長」とは利益成長のことである。もし、利益成長が見込まれなければ、設備投資はできない、研究開発はできない、給料はあがらない、経費は削られる、ポストがなくなり人事がよどむ、と悪いことばかりが起こる。従って、経営の任に携わる者は、利益を定常的に創出し、かつ成長させる「義務」がある。
しかし、「人はパンのみにて生きるにあらず」である。
いわゆる上位者は、利益成長のみならず、「人間としての成長」を図らなければならない。企業は、禅寺や修道院ではない。しかし、如何に利益を出そうとも、働く者たちの人間的な成長を意図しなければ、結果的に利益成長も達成できない。従業員にとって企業とは、生活の糧を得る場であるとともに、人間として成長する場でもある。
「本当の貧困とは来る日も来る日も同じこと繰り返すのみの生活」と、元・世銀副総裁の西水美恵子氏は語った。毎日、水を汲み、 作物を作り、食事をし、寝て、また起きて、水を汲む。その繰り返しが、途上国での生活だ。勿論、貧しい故にそうせざるを得ない現実もある。しかし、仮に富豪となっても、同様に毎日同じことの繰り返しでは耐えていけない。人には、人間としての成長感を味わう機会がどうしても必要だからだ。
停滞する経済の中で、つねに上位者として考え続けなければならないのは、そこで働く人の成長を図ることである。
しかし、「人はパンのみにて生きるにあらず」である。
いわゆる上位者は、利益成長のみならず、「人間としての成長」を図らなければならない。企業は、禅寺や修道院ではない。しかし、如何に利益を出そうとも、働く者たちの人間的な成長を意図しなければ、結果的に利益成長も達成できない。従業員にとって企業とは、生活の糧を得る場であるとともに、人間として成長する場でもある。
「本当の貧困とは来る日も来る日も同じこと繰り返すのみの生活」と、元・世銀副総裁の西水美恵子氏は語った。毎日、水を汲み、 作物を作り、食事をし、寝て、また起きて、水を汲む。その繰り返しが、途上国での生活だ。勿論、貧しい故にそうせざるを得ない現実もある。しかし、仮に富豪となっても、同様に毎日同じことの繰り返しでは耐えていけない。人には、人間としての成長感を味わう機会がどうしても必要だからだ。
停滞する経済の中で、つねに上位者として考え続けなければならないのは、そこで働く人の成長を図ることである。
企業は、「労働」と「資本」を使って運営する。経営者は、人材市場から労働力を採用し、資本市場から資金を調達して、企業経営をする。
企業目的は、社会へ価値提供をすることだ。しかし、直接的な接点は「顧客」となる。つまり、究極的な目的は、社会への貢献であるものの、直接的には「顧客への価値提供」が主目的となる。これを実現させる手段として、「従業員」を活用し、得られた結果(利益)を「株主」へ配分することが企業の使命だ。
これまで日本企業は、(顧客を重視するのは当然としても)「日本型経営」と称して「従業員」を重視してきた。一方のアングロサクソン・モデルでは「株主」を重視し、株主利益を創出するために、従業員のレイオフも平然と行われている。資本市場がグローバル化する影響もあり、日本企業においても「株主」を重視するべきといった論調が出ている。自分自身、IR(Investor Relations)という職務を通じ、社内に「株主・投資家の重要性」をこれまで啓蒙してきた。
しかし、IRをやって4年。少し疑問に思うことがある。
会社法でも、企業は株主が所有することとなっている。また、これまで軽視され過ぎてきた株主への配慮が必要なことも理解できる。しかし、株主への還元をどう考えればよいのか。
外国の機関投資家の場合、巨額の資金を動かして利益をあげる。一般に欧米の投資家は、その都市の一等地にあるビルに入っている。事務所は最上階にあり、全面ガラス張りで素晴しいビューが楽しめる。架けられている絵画も一級品であり、広い受付・豪華な調度品・広々としたオフィスと御殿のようだ。事実、ゴール○マンは六本木ヒルズに、JRモ○ガンは丸の内TOKIAビルに、U○Sは大手町スクウェアビルに事務所を構えている。これが「資本」側の状況だ(個人も余裕資金を運用するのが中心)。
一方、工場で働く「労働」側はどうか。設備の近くで立ち作業をし、3交代勤務もある。部署によってはクタクタになるまで働き、怪我の危険もある。と、いって給料が資本側と比べて高いわけではない。日々、1円2円の原価低減を考え、サイクルタイムを1秒短縮する方策を論じている。「資本」側とは異なり、作業者は誰でも出来る仕事とはいえ、投資家たちの生活とはかなりかけ離れている。
メーカーは徹底的にコストを下げ、賃金や各種手当を凍結してでも利益を捻出する。その積み重なった利益をまとめて運用し、巨額のリターンを上げるのが株主・投資家なのかもしれない。もし、その企業が期待通りでなければ、退出(Exit)すればよいという存在だが、従業員はそうはいかない。IRをやっている身でありながら、本当に株主価値をあげることが必要なのか、疑問を感じる昨今である。
企業目的は、社会へ価値提供をすることだ。しかし、直接的な接点は「顧客」となる。つまり、究極的な目的は、社会への貢献であるものの、直接的には「顧客への価値提供」が主目的となる。これを実現させる手段として、「従業員」を活用し、得られた結果(利益)を「株主」へ配分することが企業の使命だ。
これまで日本企業は、(顧客を重視するのは当然としても)「日本型経営」と称して「従業員」を重視してきた。一方のアングロサクソン・モデルでは「株主」を重視し、株主利益を創出するために、従業員のレイオフも平然と行われている。資本市場がグローバル化する影響もあり、日本企業においても「株主」を重視するべきといった論調が出ている。自分自身、IR(Investor Relations)という職務を通じ、社内に「株主・投資家の重要性」をこれまで啓蒙してきた。
しかし、IRをやって4年。少し疑問に思うことがある。
会社法でも、企業は株主が所有することとなっている。また、これまで軽視され過ぎてきた株主への配慮が必要なことも理解できる。しかし、株主への還元をどう考えればよいのか。
外国の機関投資家の場合、巨額の資金を動かして利益をあげる。一般に欧米の投資家は、その都市の一等地にあるビルに入っている。事務所は最上階にあり、全面ガラス張りで素晴しいビューが楽しめる。架けられている絵画も一級品であり、広い受付・豪華な調度品・広々としたオフィスと御殿のようだ。事実、ゴール○マンは六本木ヒルズに、JRモ○ガンは丸の内TOKIAビルに、U○Sは大手町スクウェアビルに事務所を構えている。これが「資本」側の状況だ(個人も余裕資金を運用するのが中心)。
一方、工場で働く「労働」側はどうか。設備の近くで立ち作業をし、3交代勤務もある。部署によってはクタクタになるまで働き、怪我の危険もある。と、いって給料が資本側と比べて高いわけではない。日々、1円2円の原価低減を考え、サイクルタイムを1秒短縮する方策を論じている。「資本」側とは異なり、作業者は誰でも出来る仕事とはいえ、投資家たちの生活とはかなりかけ離れている。
メーカーは徹底的にコストを下げ、賃金や各種手当を凍結してでも利益を捻出する。その積み重なった利益をまとめて運用し、巨額のリターンを上げるのが株主・投資家なのかもしれない。もし、その企業が期待通りでなければ、退出(Exit)すればよいという存在だが、従業員はそうはいかない。IRをやっている身でありながら、本当に株主価値をあげることが必要なのか、疑問を感じる昨今である。
近所では、東横線「学芸大学」駅周辺が好きだ。常に商店街に改編があって、活気がある。お店の人は大変であろうが、売れない店舗は短い間に潰れてしまい、また新しいお店が営業を始める。この新陳代謝が、健全な商店街を形成し、いつもお客さんで賑わっている。
ここでふと考える。
もし、「学大商店街」という本部があって、そこに資金が集まり、互助会のように潰れない店舗を救済していたらどうなるのかと。
繁盛しない店舗でも安心して商売を続けられるだろうが、商店街全体は活気を失うはずだ。それぞれのお店が自分の力で資金調達まで含めて必死に商売を続けているから、全体でも活気が生まれるのである。
言い方はきつかもしれないが、なくなるべきものはなくなり、新しいものが生まれていかなければ、全体の活力は失われる。人間の体でも、個々の細胞が死んでくれるので、全体として健康でいられるのである。
いまの日本の経済は、この商店街とは異なる。「本部(国)」に資金を集めて、潰すべき事業体を温存させているため
、全体の活力がなくなっている。勿論、企業も同様。如何に低採算とはいえ、多くの企業では不採算部門が残されているのが実態だ。いずれも、「本部(国・本社)」が資金を管理して配分しているためで、商店街のようにそれぞれの店舗の力で資金調達を行っていないためだ。
本来は商店街的な運営が望ましい。もし、それができない組織体であれば、資金の振り向け先を厳密に、過去のしがらみや声の大きさに振り回されることなく行うべきであろう。
ここでふと考える。
もし、「学大商店街」という本部があって、そこに資金が集まり、互助会のように潰れない店舗を救済していたらどうなるのかと。
繁盛しない店舗でも安心して商売を続けられるだろうが、商店街全体は活気を失うはずだ。それぞれのお店が自分の力で資金調達まで含めて必死に商売を続けているから、全体でも活気が生まれるのである。
言い方はきつかもしれないが、なくなるべきものはなくなり、新しいものが生まれていかなければ、全体の活力は失われる。人間の体でも、個々の細胞が死んでくれるので、全体として健康でいられるのである。
いまの日本の経済は、この商店街とは異なる。「本部(国)」に資金を集めて、潰すべき事業体を温存させているため
、全体の活力がなくなっている。勿論、企業も同様。如何に低採算とはいえ、多くの企業では不採算部門が残されているのが実態だ。いずれも、「本部(国・本社)」が資金を管理して配分しているためで、商店街のようにそれぞれの店舗の力で資金調達を行っていないためだ。
本来は商店街的な運営が望ましい。もし、それができない組織体であれば、資金の振り向け先を厳密に、過去のしがらみや声の大きさに振り回されることなく行うべきであろう。