最近、地上波のテレビを見なくなった。お笑い芸人ばかりのバラエティーや昔の映像を放映する番組ばかりで、知的に面白いものが少ない。新聞も、日経だけは仕事柄読むことにしているが、その他はパス。「今」を俯瞰・鳥瞰したものがなく、矮小化された記事ばかりだ。日本の既存メディアは、この点、欧米のメディアには到底追いつけない。
一方で、ツイッターを始め、ネット情報は新鮮だ。ツイッターをただ眺めているだけでも、リアルタイムで何が起こっているのかがわかる。既成の考えにとらわれることなく情報発信するので、「え?」と思うことも多い。
いまの10代は、「テレビをつけながら、PCを扱い、携帯を見る」という3作業を同時並行で処理できるらしい。残念ながら、こちらのCPUはそれほど高性能ではないので、1つの処理をするのが精一杯。よって、ネット派に傾いている。
ネット側に流れて行くと、既存メディアとの違いに気がつく。例えば、小沢氏についてだ。
新聞やテレビなどの既存メディアでは、「政治とカネ」の決着を国民が望んでいると昨年1月から流し続けている。菅政権を始め、民主党政治がうまくいかないのも、小沢氏が国民にきちんと説明していないからだと書かれている。小沢氏は天下の悪人であり、出れば叩かれる存在だ。
ネットではこれと真逆だ。元旦の朝生でも、ツイッターで集計した意見の6割は、「小沢氏の問題はどうでもいい」というものだった。ネット上では、小沢氏の政治思想や現場重視の姿勢、改革への実行力などを評価する意見が多く、「そんな些末なことは国民は望んでいない。もっと、TPPや成長戦略など大きな政策論争に時間を使ってほしい」というのが主流だ。多くの国民は本当にそう思っているだろう。
広報に携わる身として、上杉隆氏の指摘する記者クラブ問題、第四の権力、保護されている規制産業、としての既存メディアはしがらみだらけで、本当に自由な報道ができないことは理解できる。一方のネットは、保護されておらず、全てが役に立つ情報ではない、という欠点はあるが、自由に発信でき、珠玉の情報があることは確かだ。
既存メディアを中心に考える人と、ツイッターなどのネットを中心にする人とでは、小沢氏の問題に代表されるように、2極分化するのではないか。既存のメディアは今後も勢いを失い、ネット情報が主体になっていくだろう。レコード針がCDで廃れ、CD販売がiTuneで廃れ、書店がAmazonやiPadで廃れていくように。
人の本来の姿は女性と思う。遺伝子も、女性は「XX」で男性は「XY」。男性の方はアンバランスだ。その不整合のためか、出生率は男性の方が女性より多い。男の子は、「小さいころは体が弱く、(昔は)戦争などで死ぬリスクもある」ということから自然の摂理で男性のほうが多く生まれるそうだ。やがて、20歳前後でほぼ男女比が同数になるらしい(ただ最近は医学が進歩して男性が増える傾向)。
「子孫を残す」ということだけを考えれば、女性が存在すればOKだ。ただ、単一の遺伝子だと、病気が蔓延したときに全滅してしまう。2つの性を配合させ、さまざまな遺伝子を残すため、男性が生み出されたのだろう。この時点で、男性は女性に仕える性として存在する。
村上龍氏は、「すべての男は消耗品である」というエッセイを書いている。「男性は戦争で死んで1人になっても、女性が10人いれば子孫は維持できる。しかし、その逆はない。古来、男性は母体を守るため、狩りに出かけ、戦争をし、自らの命を犠牲にしたが、それは消耗品だからだ」と考え、このタイトルをつけたと記憶している。消耗品を消耗品として扱うのではなく、これを立てて「使う」ことができるのが女性の懐の深さだ。第1巻でこのことを読んで、妙に納得した覚えがある。
子孫を残す行為そのものも、男性が女性に尽くす(その逆もあろうが…)。「神は自らを認知してもらうために人間を創られた」とも言われているが、「女性は自らに快楽をもたらすために男性を生み出した」とも言える(これは、女性から反発がありそうだが…)。いずれにせよ、本来、男性は女性に仕える性なのだ。
学校では、コツコツと勉強する女性のほうが総じて成績がよい。女性の社会進出が進めば、「消耗品」である男性をしのぐことは難しくない。このまま平和が続き、ビジネスも体力勝負から智恵が重視されると、「女性の時代」がこれからやって来るのではないか。
<以上、かなり男性の独断と偏見で書いています>
「子孫を残す」ということだけを考えれば、女性が存在すればOKだ。ただ、単一の遺伝子だと、病気が蔓延したときに全滅してしまう。2つの性を配合させ、さまざまな遺伝子を残すため、男性が生み出されたのだろう。この時点で、男性は女性に仕える性として存在する。
村上龍氏は、「すべての男は消耗品である」というエッセイを書いている。「男性は戦争で死んで1人になっても、女性が10人いれば子孫は維持できる。しかし、その逆はない。古来、男性は母体を守るため、狩りに出かけ、戦争をし、自らの命を犠牲にしたが、それは消耗品だからだ」と考え、このタイトルをつけたと記憶している。消耗品を消耗品として扱うのではなく、これを立てて「使う」ことができるのが女性の懐の深さだ。第1巻でこのことを読んで、妙に納得した覚えがある。
子孫を残す行為そのものも、男性が女性に尽くす(その逆もあろうが…)。「神は自らを認知してもらうために人間を創られた」とも言われているが、「女性は自らに快楽をもたらすために男性を生み出した」とも言える(これは、女性から反発がありそうだが…)。いずれにせよ、本来、男性は女性に仕える性なのだ。
学校では、コツコツと勉強する女性のほうが総じて成績がよい。女性の社会進出が進めば、「消耗品」である男性をしのぐことは難しくない。このまま平和が続き、ビジネスも体力勝負から智恵が重視されると、「女性の時代」がこれからやって来るのではないか。
<以上、かなり男性の独断と偏見で書いています>
日本はもともと母系社会だったと思う。海に囲まれた農耕社会で、外的からの侵略もなく、慎ましやかな社会が作られていた。かつては、(諸説あるが)卑弥呼を始め、推古天皇・斉明天皇などの女性天皇もいたのである。その頃は、貴族たちが和歌を詠み、蹴鞠をし、周辺の武装はモノノフに任せていた。かつての男性は恋歌を詠み、よよと泣き崩れていた。当時は、女性的な文化面が重視された時代であった。
やがて、周辺からの侵略や領地を守るために武士が台頭し、幕府による支配が長く続く。近代になっても富国強兵、帝国主義などで戦う男性の支配がなされた。今でも、資源や領土を巡って、将来的に戦争が起こらないと否定はできない。しかし、かつてと大きく変わったのは、国際社会という目とコミュニケーション技術や輸送手段の発達で、国同士が疑心暗鬼のまま争いに突入することなく、国際協調をベースに冷静な対応がとられるようになったということだ。事実、尖閣問題然り、ヨンビョン島然り、ロシア大統領の国後島訪問然りである。かつてであれば、一触即発の事態になっていただろう。
ここでも、「理性」や「協調」といった女性的な智恵が発揮されている。国内では少なからずのデモがあったが、これが100年前であれば「焼き討ち」や抗議集会で日本中が大変なことになった筈だ。政治への無関心、ミーイズム、そもそも自分の生活で手一杯、などの理由もあろうが、民度が成熟し、より理知的になったためと思う。叡智というのも、武力・闘争とは異なり、女性的側面ではないだろうか。
民度といえば、これを計る尺度としてトイレをあげる人もいる(いきなり話は変わるが・・・)。中国のトイレには辟易するが、かつての日本もそうだった。駅のトイレなどとても使う気になれなかった。しかし、この10年前後をかけて、少なくとも東京のトイレはきれいになった。構造物としてきれいになったという点もあるが、これを汚さないという民度もある。その意味では、民度は圧倒的に成熟し、そして「心地よさ」を求めるようにもなっている。日本の展示会で外国人に圧倒的な人気があるものが「ウォシュレット」らしく、日本のこうした心地よさを追求するところは突出している。
話はそれたが・・・、
力ずくでの実力行使ではなく、叡智を働かせ、周囲の協力を得ながら平和的に解決を図ること。(男性の偏見と言われればそれまでだが)こうした女性のもつ特質がこれからますます重視されていくだろう。
やがて、周辺からの侵略や領地を守るために武士が台頭し、幕府による支配が長く続く。近代になっても富国強兵、帝国主義などで戦う男性の支配がなされた。今でも、資源や領土を巡って、将来的に戦争が起こらないと否定はできない。しかし、かつてと大きく変わったのは、国際社会という目とコミュニケーション技術や輸送手段の発達で、国同士が疑心暗鬼のまま争いに突入することなく、国際協調をベースに冷静な対応がとられるようになったということだ。事実、尖閣問題然り、ヨンビョン島然り、ロシア大統領の国後島訪問然りである。かつてであれば、一触即発の事態になっていただろう。
ここでも、「理性」や「協調」といった女性的な智恵が発揮されている。国内では少なからずのデモがあったが、これが100年前であれば「焼き討ち」や抗議集会で日本中が大変なことになった筈だ。政治への無関心、ミーイズム、そもそも自分の生活で手一杯、などの理由もあろうが、民度が成熟し、より理知的になったためと思う。叡智というのも、武力・闘争とは異なり、女性的側面ではないだろうか。
民度といえば、これを計る尺度としてトイレをあげる人もいる(いきなり話は変わるが・・・)。中国のトイレには辟易するが、かつての日本もそうだった。駅のトイレなどとても使う気になれなかった。しかし、この10年前後をかけて、少なくとも東京のトイレはきれいになった。構造物としてきれいになったという点もあるが、これを汚さないという民度もある。その意味では、民度は圧倒的に成熟し、そして「心地よさ」を求めるようにもなっている。日本の展示会で外国人に圧倒的な人気があるものが「ウォシュレット」らしく、日本のこうした心地よさを追求するところは突出している。
話はそれたが・・・、
力ずくでの実力行使ではなく、叡智を働かせ、周囲の協力を得ながら平和的に解決を図ること。(男性の偏見と言われればそれまでだが)こうした女性のもつ特質がこれからますます重視されていくだろう。
全く個人的に感じることだが、最近「ありがとう」という言葉をよく聞くようになった。勿論、これは勝手な主観なので、正しいかどうかはわからない。しかし、かつては、お礼を言う時にも、「すみません」と言っていたと思う。
感謝の言葉を口にしようという成功法則などとは関係なく、素直にみんなが口にするようになったと感じる。飲み会のあとなどでも、「楽しかったです。ありがとうございます。」といったメールをもらう。「楽しい」「嬉しい」「ありがとう」といった言葉が、衒いもなく使われている。
「すみません」は、「気持ちが済みません」ということから、何となくこちらが劣位になった時に使う。何かをしてもらった時にも、そのような気分から「すみません」とお礼代わりに言っていたのだろう。「すみません」の時は、男性的な上下関係がそこにある。しかし、「ありがとう」というのは「謝意」であって、立場の上下に関係ない。「楽しい」「嬉しい」と言った言葉も、自分のポジティブな気持ちを表現するものだ。
こうしたワーティングは、以前から女性が使っていたものだ。男性の場合、「貴重なお時間を頂戴し・・・」「大変光栄と存じます」など、どうしても上下をベースにした物言いとなる。
社会が十分に豊かになり、「戦争・闘争・競争」といった男性観の世界よりも、「平和・協調・協力」といったような女性観の世界に移りつつある。「権威・権力」よりも「平等・フラット」という価値観が芽生え、「感謝」や「楽しい」「嬉しい」といった素直でポジティブな気持ちを優先する社会。これはまさに日本文化の真骨頂だ。
政治や経済といった男性的な世界では日本は比較劣位にある。しかし、日本はドイツに次いで好感度世界第2位だ。これは、寿司を初めとした日本食、歌舞伎・柔道・浮世絵・日本画といった日本文化、アニメやゲーム・J-POPといった大衆文化、更に平和を志向する考え方などが、世界の人から素晴らしい国となって映るからだ。政治・経済とは別に、文化・平和の面で比較優位にあり、これらは女性的持ち味と言える。
これからは、「女性の時代」だ。既に、世界では多くの元首が女性となっている。女性の持つ平和的な価値観やポジティブなフィーリングなどが益々重視されていくだろう。男性は、論理的な面や長期的な捉え方などで、サポート役に回っていくのではないか。価値観の転換が必要な時期に来ていると思う。
PS
新春のNHK「クローズアップ現代」では、「ウーマノミクス(女性経済)」を特集するとのこと。ツイッターで意見募集をしていたので、投稿したが、140字以上のところをここで補足。
感謝の言葉を口にしようという成功法則などとは関係なく、素直にみんなが口にするようになったと感じる。飲み会のあとなどでも、「楽しかったです。ありがとうございます。」といったメールをもらう。「楽しい」「嬉しい」「ありがとう」といった言葉が、衒いもなく使われている。
「すみません」は、「気持ちが済みません」ということから、何となくこちらが劣位になった時に使う。何かをしてもらった時にも、そのような気分から「すみません」とお礼代わりに言っていたのだろう。「すみません」の時は、男性的な上下関係がそこにある。しかし、「ありがとう」というのは「謝意」であって、立場の上下に関係ない。「楽しい」「嬉しい」と言った言葉も、自分のポジティブな気持ちを表現するものだ。
こうしたワーティングは、以前から女性が使っていたものだ。男性の場合、「貴重なお時間を頂戴し・・・」「大変光栄と存じます」など、どうしても上下をベースにした物言いとなる。
社会が十分に豊かになり、「戦争・闘争・競争」といった男性観の世界よりも、「平和・協調・協力」といったような女性観の世界に移りつつある。「権威・権力」よりも「平等・フラット」という価値観が芽生え、「感謝」や「楽しい」「嬉しい」といった素直でポジティブな気持ちを優先する社会。これはまさに日本文化の真骨頂だ。
政治や経済といった男性的な世界では日本は比較劣位にある。しかし、日本はドイツに次いで好感度世界第2位だ。これは、寿司を初めとした日本食、歌舞伎・柔道・浮世絵・日本画といった日本文化、アニメやゲーム・J-POPといった大衆文化、更に平和を志向する考え方などが、世界の人から素晴らしい国となって映るからだ。政治・経済とは別に、文化・平和の面で比較優位にあり、これらは女性的持ち味と言える。
これからは、「女性の時代」だ。既に、世界では多くの元首が女性となっている。女性の持つ平和的な価値観やポジティブなフィーリングなどが益々重視されていくだろう。男性は、論理的な面や長期的な捉え方などで、サポート役に回っていくのではないか。価値観の転換が必要な時期に来ていると思う。
PS
新春のNHK「クローズアップ現代」では、「ウーマノミクス(女性経済)」を特集するとのこと。ツイッターで意見募集をしていたので、投稿したが、140字以上のところをここで補足。
年末・年始はたまっていた本を読んでいた。そのなかで、あるファンド・マネージャーが、「日経平均4000円、1ドル60円時代がくる」と予測していた。「如何な何でも、これはないでしょ?」といいたいところだが、この人は、リーマン・ショックやギリシア危機を以前から予測しており、信憑性は高い。
「コンドラチェフの波」という長期の景気変動(60~70年周期)のいまは谷間に向かっており、2012~2015年に大底を打つというのである。そして、その頃に上記のような悲惨な状況に落ち込むという予測である。
本来、日本で自浄作用が働き、「退場すべきは退場」となっていれば、そのようなことはない。しかし、結局、日本は自らの手では変革することはできず、市場の力によって追い込まれるか「外圧」によって変わらざるを得ない。そして、「外圧」として、かつての韓国がそうであったような「IMF勧告」もOne of themと予測している。こうなれば、公務員の給与・人員削減、消費税アップ、社会保険削減など、相当の嵐が吹くだろうが、そこまで行かないと日本は変われない。しかし、かつての日本の歴史が示すように、追い詰められて断続的な変革を迫られれば日本人はやっていけるともいっている。
俄かには信じがたいのではあるが、「何か外圧が加わらないと変わらない」「いったん底まで行ってゼロからスタート」という見方には同意できる。
日本では既得権者の声が大きく、変わることがなかなか出来ない。この既得権者たちが消え、声なき声の声が反映されるようにならない限り、本当の意味での変革はできないだろう。それには、IMFかどうかはわからないが相当の外からの圧力が必要かもしれない(残念ながら、現状では自ら変革することは期待できない)。
「自由企業体制は、既得権という雑草の攻撃を絶えず受ける繊細な植物であり、それを守り育てるためには手厚い心配りが必要である(「セイヴィング・キャピタリズム」、ラグラム・ラジャン/ルイジ・ジンガレス)」
いまの日本は雑草だらけの状態だ。雑草を根絶やしにするには、それ相当の力が必要となることは間違いない。
「コンドラチェフの波」という長期の景気変動(60~70年周期)のいまは谷間に向かっており、2012~2015年に大底を打つというのである。そして、その頃に上記のような悲惨な状況に落ち込むという予測である。
本来、日本で自浄作用が働き、「退場すべきは退場」となっていれば、そのようなことはない。しかし、結局、日本は自らの手では変革することはできず、市場の力によって追い込まれるか「外圧」によって変わらざるを得ない。そして、「外圧」として、かつての韓国がそうであったような「IMF勧告」もOne of themと予測している。こうなれば、公務員の給与・人員削減、消費税アップ、社会保険削減など、相当の嵐が吹くだろうが、そこまで行かないと日本は変われない。しかし、かつての日本の歴史が示すように、追い詰められて断続的な変革を迫られれば日本人はやっていけるともいっている。
俄かには信じがたいのではあるが、「何か外圧が加わらないと変わらない」「いったん底まで行ってゼロからスタート」という見方には同意できる。
日本では既得権者の声が大きく、変わることがなかなか出来ない。この既得権者たちが消え、声なき声の声が反映されるようにならない限り、本当の意味での変革はできないだろう。それには、IMFかどうかはわからないが相当の外からの圧力が必要かもしれない(残念ながら、現状では自ら変革することは期待できない)。
「自由企業体制は、既得権という雑草の攻撃を絶えず受ける繊細な植物であり、それを守り育てるためには手厚い心配りが必要である(「セイヴィング・キャピタリズム」、ラグラム・ラジャン/ルイジ・ジンガレス)」
いまの日本は雑草だらけの状態だ。雑草を根絶やしにするには、それ相当の力が必要となることは間違いない。
クリスマスを過ぎると、何故か交差点で聖書の言葉が流れる。何故かはわからないが、例年そうなっている。
通った幼稚園が、カトリック系だったというだけで、聖書は一通り読んだ。深い意味はなく、せっかくだから読んでおこうというものだ。さすがに2千年もベストセラーであり続けているだけあって、そこには意味深長なことが多く書かれている。
そのひとつが、「地の塩」というものだ。
「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取り戻されようか。もはや、何の役にも立たず、ただ、外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」
塩は塩辛いが故に必要とされる。もし、本当に味がなくなれば、単なる白い固体でしかなく、家に置く意味はない。さっさと捨ててしまうはずだ。このことは今でも通じる例えだ。
いままで研鑽を積んでこなかった中高年が、人件費の高騰とともに課題となっている。新しい価値を生み出すわけでもなく、単に「過去の業績がよかったから」「年齢が上だから」などの理由で安泰としている。しかし、塩の味は「いま」なくてはならない。「昔は塩辛かった」という理由で家の中に置くことはない。「年を重ねているから」ということも塩を置いておく理由にはならない(ワインならあるかもしれないが)。重要なことは、「いま」塩の味がすること、つまり社会に価値を「いま」提供できているかどうかだ。それができなければ、早晩「外に捨てられて、人々にふみつけられるだけ」である。厳しいとも言えるが、既に2千年も前から言われていることだ。
聖書には、もうひとつの言葉もある。「裁きの日は突然やってくる。」
自戒も込め、常に研鑽を積んで、新しい価値を生み出すよう心がけたいものだ。
通った幼稚園が、カトリック系だったというだけで、聖書は一通り読んだ。深い意味はなく、せっかくだから読んでおこうというものだ。さすがに2千年もベストセラーであり続けているだけあって、そこには意味深長なことが多く書かれている。
そのひとつが、「地の塩」というものだ。
「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取り戻されようか。もはや、何の役にも立たず、ただ、外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」
塩は塩辛いが故に必要とされる。もし、本当に味がなくなれば、単なる白い固体でしかなく、家に置く意味はない。さっさと捨ててしまうはずだ。このことは今でも通じる例えだ。
いままで研鑽を積んでこなかった中高年が、人件費の高騰とともに課題となっている。新しい価値を生み出すわけでもなく、単に「過去の業績がよかったから」「年齢が上だから」などの理由で安泰としている。しかし、塩の味は「いま」なくてはならない。「昔は塩辛かった」という理由で家の中に置くことはない。「年を重ねているから」ということも塩を置いておく理由にはならない(ワインならあるかもしれないが)。重要なことは、「いま」塩の味がすること、つまり社会に価値を「いま」提供できているかどうかだ。それができなければ、早晩「外に捨てられて、人々にふみつけられるだけ」である。厳しいとも言えるが、既に2千年も前から言われていることだ。
聖書には、もうひとつの言葉もある。「裁きの日は突然やってくる。」
自戒も込め、常に研鑽を積んで、新しい価値を生み出すよう心がけたいものだ。
会社の納会で、採用担当マネージャーと受付の女性と3人で立ち話をした。ご両人によれば、リクルーター訪問での受付の仕方で、「合否」の見当がつくそうだ。
・○○大学の○○と申します。 ←まず、自分を名乗る。
・××部の××さんと、 ←続いて、面談先をいい、
・△△時のお約束で伺いました。 ←事前にアポを入れていることを伝える。
これだけのことが言えるのは、だいたい六大学以上だそうだ。多くは受付台の前で、「××さん、お願いします」とか「××さん、いますか」とだけ伝えるらしい。相手が現れるといきなり丁重に振舞うらしいが、「まずは基本動作ができていないとダメ」と、受付さんは厳しい。
また、会社で開催する会社説明会へも、コートを着たまま、「説明会、どこっすか?」と受付に聞く人も多いらしい。丁寧に場所を説明しても、礼も言わずに行く人も多いそうだ。「会社の門をくぐったら、もう勝負は始まっている」と、ここでも受付さんは厳しい。
恐らく学生は、「リクルーターと会ってからきちんとすればいい」、「会社説明会でシッカリしていればいい」と考えているのだろう。私的な立場から公的なものに変わるのは、その目的の人物やイベントに接してからで十分と考えていると思う。つまり、「私的→公的」の転換点は、受付後の「目的(人)物」である。
しかし、受付さんの言うように「会社の門」で線を引くと、「私的→公的」な転換点は、受付前の「会社の門」だ。
労働基準法では、会社の門をくぐった後の従業員の事故・災害は事業主の責任とされる。恐らく、受付さんのいう「会社の門」が転換点として正解だと思う。しかし、実際には「会社の門」という抽象的なものより、「人・イベント」といった目に見えるものが基準になりがちではないか。
「目に見えないものを意識できる」ということが、ひとつの判断基準になるのかもしれない
・○○大学の○○と申します。 ←まず、自分を名乗る。
・××部の××さんと、 ←続いて、面談先をいい、
・△△時のお約束で伺いました。 ←事前にアポを入れていることを伝える。
これだけのことが言えるのは、だいたい六大学以上だそうだ。多くは受付台の前で、「××さん、お願いします」とか「××さん、いますか」とだけ伝えるらしい。相手が現れるといきなり丁重に振舞うらしいが、「まずは基本動作ができていないとダメ」と、受付さんは厳しい。
また、会社で開催する会社説明会へも、コートを着たまま、「説明会、どこっすか?」と受付に聞く人も多いらしい。丁寧に場所を説明しても、礼も言わずに行く人も多いそうだ。「会社の門をくぐったら、もう勝負は始まっている」と、ここでも受付さんは厳しい。
恐らく学生は、「リクルーターと会ってからきちんとすればいい」、「会社説明会でシッカリしていればいい」と考えているのだろう。私的な立場から公的なものに変わるのは、その目的の人物やイベントに接してからで十分と考えていると思う。つまり、「私的→公的」の転換点は、受付後の「目的(人)物」である。
しかし、受付さんの言うように「会社の門」で線を引くと、「私的→公的」な転換点は、受付前の「会社の門」だ。
労働基準法では、会社の門をくぐった後の従業員の事故・災害は事業主の責任とされる。恐らく、受付さんのいう「会社の門」が転換点として正解だと思う。しかし、実際には「会社の門」という抽象的なものより、「人・イベント」といった目に見えるものが基準になりがちではないか。
「目に見えないものを意識できる」ということが、ひとつの判断基準になるのかもしれない
Food for Thoughtは、日本語に訳せば「考えるネタ」だ。考えるためには、思考するための「言葉」がまず必要。続いて知識」や「経験」が必要となる。「経験」は、自分で体験するしかないが、それだけでは限界もある。
擬似体験をしたり、人の意見を拝借することを考えると、本を読むことが手っ取り早い「Food for Thought」になる。
「ミルクは草を食べなければ出てこない」の例え通り、インプットがなければ、アウトプットは出てこない。「1」のアウトプットには、数倍のインプットが必要で、ミルクと草の例えどおりである。そして、身体に食べ物が必要なように、心にも栄養が必要だ。心の栄養という観点では、友人との楽しい会話や家族の団欒もあろうが、自分にとっては本を読むことだ。
しかし、如何に栄養のある食べ物も、食べすぎはよくないのと同様、読み過ぎもよくない。知識を詰め込むばかりで、自分で考えることを放棄しがちなところが難点だ。それはいけないと思いつつ、本を読んでいないと不安になる。心に栄養を与えるためにも、十分な読書「量」が必要なのだろう。
擬似体験をしたり、人の意見を拝借することを考えると、本を読むことが手っ取り早い「Food for Thought」になる。
「ミルクは草を食べなければ出てこない」の例え通り、インプットがなければ、アウトプットは出てこない。「1」のアウトプットには、数倍のインプットが必要で、ミルクと草の例えどおりである。そして、身体に食べ物が必要なように、心にも栄養が必要だ。心の栄養という観点では、友人との楽しい会話や家族の団欒もあろうが、自分にとっては本を読むことだ。
しかし、如何に栄養のある食べ物も、食べすぎはよくないのと同様、読み過ぎもよくない。知識を詰め込むばかりで、自分で考えることを放棄しがちなところが難点だ。それはいけないと思いつつ、本を読んでいないと不安になる。心に栄養を与えるためにも、十分な読書「量」が必要なのだろう。
ある本を読んでいたら、第一次世界大戦後の、ドイツ参謀総長による敗因研究について書かれていた。その分析では、作戦的には間違っていなかったが、「不足していたのはリーダーである」という結論に達したそうだ。さまざまな意見をとりまとめ、人を動機づけてひとつの方向に向かわせる人材ということだろう。しかし、最も必要とされる資質は、勝つか負けるわからないどん底状態において「朗らかさ」を保てる奴だそうだ。戦争に「朗らかさ」というのは合致しないような気もするが、少なくとも職場においては、上位者の「朗らかさ」は重要だ。
「朗らかさ」というのに語弊があるとすれば、「鷹揚さ」とか「受容性」とも言えよう。
細かいことをネチネチ・ガミガミ言われていれば、部下のやる気など出るはずがない。ただでさえ成長が見込めず気分的に乗り切らないのに、更に追い討ちをかけられれば、やる気など起こるはずがない。いいところに目を向け、個々の個性を伸ばすリーダーのもとでは伸び伸びと仕事ができる。それが、全体の成果も上げるものだ。
根本的なところで「朗らかさ」がある人の元では安心して仕事ができる。失敗したときに、部下は必ず上位者の顔色を見る。その際、(内心はドキドキしていても)平然として処理をしなければリーダーである資格はない。人の上に立つ人は、たとえ不得手であっても、意識して朗らかにしていることは重要なことだ。
「朗らかさ」というのに語弊があるとすれば、「鷹揚さ」とか「受容性」とも言えよう。
細かいことをネチネチ・ガミガミ言われていれば、部下のやる気など出るはずがない。ただでさえ成長が見込めず気分的に乗り切らないのに、更に追い討ちをかけられれば、やる気など起こるはずがない。いいところに目を向け、個々の個性を伸ばすリーダーのもとでは伸び伸びと仕事ができる。それが、全体の成果も上げるものだ。
根本的なところで「朗らかさ」がある人の元では安心して仕事ができる。失敗したときに、部下は必ず上位者の顔色を見る。その際、(内心はドキドキしていても)平然として処理をしなければリーダーである資格はない。人の上に立つ人は、たとえ不得手であっても、意識して朗らかにしていることは重要なことだ。
パソコンがウィルスにやられ、ソフトを入れ替えたおかげで、「筆まめ」のデータが消滅(バックアップをとっておくべきだった)。「筆まめ」もバージョンアップ用しか残しておらず、今年はすべて手書きとなった。久しぶりに大量の文字を手で書くと、漢字も「あれ、こんな字だったかな~」と、やや新鮮な驚きがあった。
年賀状は年々配達数が減っている。恐らく、あと何年もすれば、メールでの年始の挨拶が増えるだろう(もう 、そうなっているのかもしれない)。いまどき、ハガキの年賀状をシコシコと書いているのは、何となく時代遅れのような気もする(それに結構、労力もいる)。ただ、こうして書くことに、それなりに意味を見出して毎年続けている。
年賀状は、一年に一度、個人に対してメッセージが送れる唯一の機会だ。お世話になった人への御礼、一緒に働くメンバーへの激励、友達への近況報告、と、それなりにメッセージを変えて送っている。特に、職場のメンバーには、あまり言う機会のないポジティブなフィードバックを送れるチャンスだ。面と向かってはいいにくい感謝の言葉も、年賀状だとさらっと書けてしまう。
恐らく、メールが発達しても、手書きのメッセージを送るチャンスとして、これからも年賀状は書くだろう。だんだんと時代からずれていくかもしれないが・・・。
年賀状は年々配達数が減っている。恐らく、あと何年もすれば、メールでの年始の挨拶が増えるだろう(もう 、そうなっているのかもしれない)。いまどき、ハガキの年賀状をシコシコと書いているのは、何となく時代遅れのような気もする(それに結構、労力もいる)。ただ、こうして書くことに、それなりに意味を見出して毎年続けている。
年賀状は、一年に一度、個人に対してメッセージが送れる唯一の機会だ。お世話になった人への御礼、一緒に働くメンバーへの激励、友達への近況報告、と、それなりにメッセージを変えて送っている。特に、職場のメンバーには、あまり言う機会のないポジティブなフィードバックを送れるチャンスだ。面と向かってはいいにくい感謝の言葉も、年賀状だとさらっと書けてしまう。
恐らく、メールが発達しても、手書きのメッセージを送るチャンスとして、これからも年賀状は書くだろう。だんだんと時代からずれていくかもしれないが・・・。