今日は千手観音さんが来てくれています∑(゚Д゚)
千手観音さんと言いますと、大きな慈悲心を持ち、千本の手で人々を救うとされている観音さんですね。
そして、テーマは思うところがあって『犠牲からの卒業』ということで伺ってみようと思います。
このテーマは実は僕自身も、内面を通して6~7年前から取り組み続けていることです(´Д`)
潜在的な部分をしっかり見て行くと、キリがないぐらい深いテーマなのですよねぇ(;^ω^A
特にトラブルがあるわけではないですが、潜在的な感情を見つめては気付き、癒して…また見つめては気付きと、内省を繰り返しています
キリストさんやお釈迦さんですら、最後は犠牲的な亡くなり方をしていますので、あらゆる魂にとって相当に根の深いテーマであると言えるでしょうねぇ(´Д`)
ということで、今日は千手観音さんと話し合うことで、少しでもこの『犠牲からの卒業』ということについて深めていければと思いました。
僕自身も、疑問に思うところなど、千手観音さんから学ばせてもらおうと思います(。-ω-。)
では、千手観音さん、どうぞよろしくお願いします(^^)
千手観音さん「はい…。
『犠牲からの卒業』ですね。
このテーマを進める前にお伝えしたいのは『犠牲からの逃避』ではないということです。
そして、『犠牲』ということを否定的に見る必要はありません。
それは、自然な心の動きで、他者のために自らを省みず行動したいという方向性を意味しています。
人間は生きて行く中で、必ず『犠牲』を学ぶチャンスがあります。
それを正面から受け止め、チャレンジすることで、魂として前進することができるわけです。
しかし、『犠牲』について否定的な目線で見ていると、その学びを拒否する可能性があります。
ですから、まず最初にお伝えしたいのは、犠牲は悪いものではなく、時に必要なものであるということです。
そのプロセスを通して、人は深い優しさや、愛、幸せという感情を取り戻す場合も多いのです。
例えば、この世を恐れて自分の殻にこもっていると、徐々にこの世界の素晴らしさが見えなくなっていきます。
殻にこもることで、他者からの攻撃、否定も強く感じることは無くなりますが、その分素晴らしさや、美しさも感じられなくなるわけです。
この世には、まだまだそういう人が多くいます。
このブログの読者さん達は、今まで犠牲を生きて、そこからどう脱しようという人が多いのですが、世間一般を見れば、その様な『犠牲からの卒業』のタイミングの人はまだ少数派であることは踏まえておいて下さい。
全ての人に、必要な学びが必要なタイミングでやってきます。
けして、この記事が…私の言っていることが全ての人にとって正しいことではないのです。
心にピンと来なければ、手放し、自分の感覚を大切にすることが望ましいでしょう。
その上で、この情報を活用出来るようでしたら、そうして下さい。」
あ~、そっかぁ、そうですね(´Д`)
『犠牲』というと、どうも自分が虐げられたり、損をしたりというイメージが強いので、拒否しがちですけど、実はとても大切なプロセスなんですよね。
(この辺のことは「魂のプロセス 犠牲 」という記事でも触れています)
人は苦労することで、心が広くなったり、深くなったりと、心から溢れるエネルギーの量や質をパワーアップしていくことができます。
ただ単に虐げられるという現実だけみると、他者から犠牲にさらされているだけに見えますが、それでも心の奥で、たとえなんとなくでも希望を信じていたり、前向きさを失わなければ、苦しみながらも、その摩擦によって心が磨かれ、魂のエネルギー出力が上がっていくようなのです
そのため、苦労した人は心の力が強く、ゆくゆくは大きな幸せを手にすることが多いようです。
虐げられただけに見えても、その人の心の中で謙虚さや、忍耐、優しさなどが磨かれていることってあるのでしょう。
長期的に見れば、そちらの方がより本質的な幸福にたどり着ける仕組みなのでしょうね、この世界って。
千手観音さん「そうなのです。
それ故に、本当に優しい資質、深い愛を持った魂ほど、あえて苦労し、心を磨こうと意図して生まれてくるのです。
普通はそんな風に、大きな大きな苦労を得たいと思わないのが人間です。
しかし、こちらの世界、つまり魂の世界から見れば、苦労してきた人ほど心が輝き、美しい波動を放っているのがわかります。」
うーん、でもねぇ千手観音さん(´Д`)
苦労してきて、残念ながら心が完全に見えなくなってしまうケースもあると思いますよ?
例えば、日本では時々起こっている、「誰でもよかった」という殺人事件…(TωT)
あれは苦労に耐えきれず、心が見えなくなり、抱えたストレスが限界以上に到達したから起こるのではないでしょうか?
千手観音さん「まさしく、それもそうなのです。
ですが、悲しいことに着目する前に、その素晴らしさに目を向けてほしいと思います。
花は嵐にもめげず、そして、外敵にも臆さずに堂々と天に向かって開きます。
もし、嵐が来て花が閉じるとしたら、外敵を警戒して花が隠れるとしたら、花自体あそこまで美しいでしょうか?
あの形容は、花の恐れを知らぬ心からの美しさをそのまま現しているのではないでしょうか?
花は自分たちが脅威にさらされる可能性を知っています。
しかし、それを恐れるよりも花が大切にしていることは、ただ堂々と咲くということ、ただ自分らしく美しく在るということなのです。
今日せっかく咲いた花が、次の日には嵐にさらされて朽ちることもあるでしょう。
それは人間も同じなのです。
大きな善意を持ち、だからこそ大きな苦労と向き合う人生を計画して生まれてくる魂は数多くいますが、中にはその苦労に耐えきれず、恨みや怒りを大きくし、自らの可能性を貶めてしまう場合もあるのです。
しかしそれでも、私達は堂々とこの星に生まれたことを、その勇気と愛を評価しています。
ですから、たとえ悲しい現実を迎えたとしても、私達はその人を一切責めるつもりはありません。
むしろその経験から学び、自らの糧として、新たなる自分へと飛躍することを大切にしてほしいのです。
心とはそのまま美しく咲く花の様なものなのです。
花はやはり安全だと感じるタイミングで咲きます。
嵐の日のタイミングで咲く花はないでしょう。
だから、まずは心の安全を確保することも大切なことです。
あたたかな仲間や、家族、友人、もしくは別の形の協力者など、人が心を開くためには、それなりの環境が必要なのは言うまでもありません。
今、その様な環境にない人は無理に開くことはないのです。
嵐が過ぎ去り、安全を感じ、あたたかな日の光を感じたタイミングで、あなたらしさを発揮していけば良いのです。」
なるほど…。
確かに、悲しいことにフォーカスしてもしょうがないですね(´Д`)
この世には、苦しくて、心を開きたくても開けない人がたくさんいると思います。
優しいが故に、痛みを感じやすいこともあるでしょう。
そういう方はどうか無理をなさらないで頂きたいです。
やはり安全だと思うタイミングで、心を開いていくことも大切ですね。
もしかして、よくニートと言われるの方々も、そういうタイミングを計っているのでしょうかね?
千手観音さん「心が癒され、過去の怖れや、自己否定から脱するまでには時間がかかる場合も多いです。
ニートと呼ばれる人は、さまざまなケースがありますが、中には心が優しく、感受性が強いために、周囲の攻撃性に耐えられず、一時的に殻にこもるケースもあるようです。
それは、花で言うとここのつぼみの状態でしょう。
そのつぼみはいつ咲くのか…、無理に咲かせようとしても、それは本人でもコントロールすることはできません。
まず大切なのは、自分の心の怖れを手放し、癒していくことでしょう。
それによって、少しずつつその人が『世に奉仕しよう』という気持ちが湧いてきます。
その奉仕はどのような形でもかまいません。
その人に向いているものが望ましいでしょう。
前向きな気持ち、奉仕の気持ちはごく自然発生的に湧いてくるものです。
魂は生きることへの怖れを少しずつ消化していきます。
そのため、一人で殻にこもっている時は、生きることへの根本的な怖れと向き合っている時期とも言えるでしょう。
ですから、もしこのブログを読んでいる人で、殻にこもっている人がいるのでしたら、そんな自分を恥じなくていいし、責めなくてもいいのですよ。
安心して下さい。
あなたは必ずいつか咲く花です。
そして、花を持たない人はいません。
私はあなたを信頼しています。
全ての神があなたを信頼しています。
胸に宿る花を信じて、しっかりと自分の感情を味わいましょう。
なぜならば、その感情の奥に、あなたの眠れる資質が、花開くことを待っているのですから。
自分の奥にある可能性を信じましょう。
その信じる気持ちが、あなたの無限の才能を開かせます。
この世の中、誰かが秀でていて、誰かが劣っているということは実はありません。
過度に称賛される人、蔑視される人はいますが、それは誰もが心の奥を見ないが故に起こっていることです。
もし、全ての人に、心の奥の奥を見る目があるのであれば、全ての人が平等で、無限の才能と資質を持っていることに気付くでしょう。
ただ違うのはタイミングだけなのです。
根気よく、でも信頼して待ちましょう。
美しく、豊かな花が必ず咲きます。
あなたも、そして、この世に生きるあらゆる人にも。」
ああ…、千手観音さんらしい素晴らしいメッセージをありがとうございます(*´Д`*)
読んで下さった方の中には、勇気を得られた方もいらっしゃるかもしれません。
…あ~、ただテーマとちょっとズレているかなぁ…(;^ω^A
ということで、『犠牲からの卒業』のテーマで、千手観音さんとの対話は次回も続きます☆
ご覧くださりまして、ありがとうございました