週刊さんでいリターンズ -18ページ目

週刊さんでいリターンズ

起業系コメントが面倒になったので(わしはまだ病院にいたいんだお)、コメントは承認制にしました。基本知ってる人のコメント以外は承認しませんのであしからず。1日10人も見にこないブログで営業しても効果は少なかろうになあ、ご苦労さま。まあ、頑張ってくれ。

父が死んだ。(お悔やみくださった方々、この場を借りて御礼申し上げます)

トイレに行った後、力尽きたそうだ。81歳だった。

オペ後13年、一度も入院せず施設も利用しなかったが、介助量が増えてきていよいよ夜間ヘルパーか、わしが泊まり込むかと相談していた矢先のことだった。

死んだ日の夜、枕元で線香番をしながら

「ここにいるのは父ちゃんの遺体であって、父ちゃんではない。もう地球上のどこにもわしの父ちゃんはいない」

と、ぼーっとビールを飲みながら考えた。不思議と涙はでなかった。覚悟するには十分な時間があったからだろうか。

それにしても目の前の遺体は、先週まで間違いなく父ちゃんだったのになあ。「来週も来るからね」と言った言葉は嘘にはならなかったが、そういう意味じゃなかったのに。人間死ぬ時はあっけないものだ。

いろいろ思うことはあるのだが、ありすぎてまだ上手く書けないや。


とりあえず、今回の父の死に方について。

恐らく、「自宅で妻に看取られながらの死」という最近で言うところの「理想の死に方」を迎えたのだろうと思う。
事前に往診のドクターも来ていたので警察も入らない「自然死」だった。

しかし、それはボケずにピンピンコロリとは程遠い、父の残存機能と、母の忍耐と、わしの仕事と近くの看護ステーションがたまたま上手く組み合わさった偶然の賜物だった。中でも一番の要因は、母の忍耐。

じゃあ、うちの母のように農家出身で家で死ぬことに慣れがある嫁を貰えば家で看取ってもらえるのかと言うと、今の農家は昔のような大家族ではないから農繁期に介護どころじゃなかろう。現に母より10歳近く若い叔父夫妻は両親(わしの祖父母)を病院で看取っている。

じゃあわしら医療・福祉系の嫁を貰えばいいのかと言うと、それも違う。うちらの業界ではかえって自分が出来ないと思ったことは早めに割り切って他人に任すことを考えるだろう。その中には、「今までの関係」というのが含まれると思う。仕事ならともかく、仲が悪かった人に血が通った介護を望むのは多分無理だよ。遠方に住んでいる相方の親に何かあったとしたら、時間と金と介護の質と自分のキャリアと今までの関係でバランスを考えて、親の望む場所(親の居住地かこちらか)でPTのバイトをしながら介護すると決めてるけどね、わしは。

わしの母が介護に耐えられたのは、たまたま母が両親を看取れなかったという後悔と、「他人に家に入られるのが嫌」という性格から来るものではあるが、同時に父が最後の防衛線・「トイレの自立」を守れたことが大きい。

これに関しては、初めから「トイレに行けなくなったら施設」と言い聞かせていたので、絶対に施設に行きたくない父は意地でも守り通したようだ。最後には自分の歳もわからなくなっていたぐらいボケていたのだが、強い目標を持つってすごい力になるのだなあ、と妙に感心した。普通に考えると、ボケずにおとなしくしてる人の方が介護しやすいのだが。多分、うちの父がもう少し動けなくなって施設に送ってしまったら「オムツしたから中にしていいよ」と言っても、オムツ外しして失禁するか、トイレに行こうとベッドから落ちる人になって、施設によっては預かり拒否されたかもしれない。

そうつらつら考えていくと、父の機能と母の忍耐、そして最終的に父が自然死をするために一番良かったことは、

「病院に行かなかったこと」

になるだろう。

(※注:父の最後の血液検査からの考察なんで、どんなケースでも自然死するには医者に行かない方がいいという意味ではないです。
それについてはこれ以上述べるつもりもないし、そういう立場でもない)

とりあえず、残された母の生活の質を守ることが長期目標、短期目標は父の墓探し。
それから、さぼり続けたジムの頻度を上げて、自分の体力増強が中期目標。

著者の熊谷晋一郎氏は東京大学医学部卒の小児科医にして、新生児仮死による脳性まひ(痙直型)による重度の身体障害をもつ方。
氏の実際のリハビリ体験が語られ、リハビリのもつ問題点が指摘されている。


氏の指摘するとおり、「リハビリ」は、医学の中に属しながら、本書に取り上げられたような神経発達学に基づくアプローチ法は統計学的に見て科学的根拠と一貫性に乏しい。そのためアプローチ法への評価も一定しない。氏が実際にリハビリを受け続けていた頃のように、リハビリによって「脳性まひは治る」と信じられた時代もあった。

そんな「治る」という親を含めた周囲の”思い込み”や、本書に登場するような「偽善の脂」の臭いをさせるボランティア、親身に接しているようであっても結局は「暴力的」に「まなざす」トレーナー(PTやOT?)等によって、長きにわたって氏は身体のみならず心も「見捨てられ」、傷ついてきたことが想像できる。

そして氏は、研修医時代に病院スタッフとの「拾い合い」の中で、リハビリでは獲得できなかった「身体外協応構造」を構築し、目的的動作(意味のある動作とでも言うだろうか)を獲得していく。

ついには一人暮らしを獲得するが、本書を書いた現在、氏は誰にでもやってくる「衰え」という新たな「敗北」を予感している。

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専門的な視点でありながら文学的かつ、4歳の子にムーンウォークを教えられるぐらいわかりやすい筆致で、脳性まひの追体験さえできるように生き生きと説明されている。その説明は、我々リハ職にとっては大変興味深く新鮮だ。しかし、リハ職につくものとしては、ある種の「敗北感」、氏の言葉を借りるなら、「ほどかれた敗北感」ではなく、「まなざされる敗北感」を感じざるを得ないぐらい反論は難しい。

本書の中でとりあげられた神経発達学的アプローチ法について私が学んで理解する限りでは、指摘された通り「正常」発達のシナリオをなぞっていることは否定しない。ただ、それが他人や物を含めた「他者」を排したものととらえられてしまったことは残念だ。最近では本人の体を周囲に「環境適応」させるように行い、周囲と調和しながら本人が快適な身体的な位置であったりモノであったり環境を探索するはず。だが私ほどの小者がこのアプローチ法を説明するのもおこがましい上に、正直上手く説明できないので止めておく。

私にとってのそのアプローチ法は、自分の病気ケアにおいても、他者にリハビリ介入する上でも役に立っていることが多い。

特に、成人の片麻痺患者へのアプローチにおいては、患者が自分の身体を一番支えられる場所に上手く誘導できると、自分の手にかかる相手の体重は明らかに軽くなり、口数が減り、視点は遠くなって自分の身体を大きく感じていることがわかる。本書の言葉を借りると「身体内協応構造」を再構築していることが共有できる。患者と融合してほどける鮮烈な官能を、介入者もまた味わう。最終的には「正常」な位置を目指すことには変わりないが(一般に正常パターンが一番余計な筋緊張を抑制し、二次障害を作りにくいと言われる)、その過程においても、介入者もまた気持ちよくないと困るのだ。リハ介入する中で、いらつくとしたら、正常にならない患者に対してではなく、目標とするところへ持って行けない自分の無能さにいらつく。それは我々リハ職の本能のようなものだ。その理由を今まで上手く説明できなかったのだが、本書を読んで思うに「融合という官能」を味わいたいから」かもしれない。

脳性まひの場合、「正常」という身体的概念がそもそも存在しないという点で、上記の後天的な片麻痺とは大きく異なる。
自分は小児のリハビリは実習でしか関わっていないので何か言えるものではないが、神経発達学的アプローチ法の優れた指導者が介入を続けたケースでは、介入しないケースと比較して、発達過程での異常な筋緊張亢進が抑制されることが度々示されている。しかし、同じ患者に同じ発達過程の間に介入しなかった場合と比較することは不可能なので、信頼度の高い統計分析ができない。その結果、発達過程におけるリハビリアプローチ法は低評価になってしまう。確かにこの手技においてはアプローチ法そのものよりも、介入者の技術によることが往々にしてあり、その介入者によって使う技法が違うなど、あいまいな点が多いことは否めない。しかし患者との融合を味わい官能を共有した経験を少なからず持った経験がある身としては、このアプローチ法の評価が低いことは残念に思う。

本書に登場した女性トレーナーについては同業としてむかついてしまうのだが、自分も経験が浅い頃、上からの「まなざし」目線で何かやらかしていたかもしれない。リハビリが持つ他者と関わる上で陥りやすい問題点や、目的の持ち方を考えるために、本書はリハ職にはお勧めだ。感覚を確かに共有できるだけの確かな技術を持っていない限り、リハビリを介入する側と、患者という関係においては、「まなざし/まなざされる」という関係からは抜け出せない、そう思う。

一方、脳性まひ児、しかも自分の意志を表すことができない障害児を持ち、リハビリを希望される親御さんにとっては、なかなか悩ましい内容かもしれない。「正しさ」や「発達」にこだわらず、と他人が言うのは簡単だが、親は希望を持ち続けるものだろうから。親とリハ職の関係については本書と関係ないので触れることは止めておく。氏も意図的に触れていないのではないかと思う。

自分も既に初老で病気を抱え、昨日の記事の言葉で言う「人生のダウンサイジング」を始めている身であり、また、父親が今まさに最終的な敗北を迎えようとしているので、氏の言う敗北感や、堕ちてしまえば楽かもしれないという甘美な官能については実感できる。働きすぎた後に痛みが出た体を抱えた夜や、その痛みやこわばりを引きずった朝には「やっぱり・・・」という悲しみと開放感の混じったじんわりとした気持ちを抱える。そして、前よりも思い通りに介入ができない、しかし「まだ働きたい」「もっと上手く介入できるはず」ともがき、融合の快感を求める自分が確かに存在する。そういう意味では私にとっての官能は、朝と夜よりも、仕事中の昼の世界にあり、「リハビリの昼」なのだ。

台風が思いのほか早く過ぎ去り(被害に遭われた方にはお見舞い申し上げます)、わしが通勤に使う経路は全く影響がなかったので、午前中は予定の1/3の仕事量でゆったり過ごした。

あー、午後からはCPX(運動負荷試験)の患者さん向け報告書を作る途中で、カルテや画像をひっくり返したり、熱血派女医さんに意見を求めた挙句に解析をしたお医者さんに、
「ねぇねぇ、これどんな処方?この病歴とこのバイタルにこの処方なんてどんな基準?」
とトントンしながら詰め寄るいやなPTになったりするから結局帰りはかなり遅くなったのだがw
(解析したドクターはCPX解析による運動処方は練習中なだけで、心電図や画像・診察のことはわしに親切に教えてくれる方です)

よほどの災害でもない限り普通の病院は入院患者のリハがあるので、出勤しないという選択肢はない。今回の台風のような事情で予めスタッフ数の確保ができないことが見込めれば、病院の近くに泊めてでも確保する。が、当科は循環器という性格上、いつでも出勤できる医師がいるからその他のスタッフには緩いようだ。

当科は病院内にあるが、厳密には「病院」ではない。そのためあらゆる面で普通の病院より緩い。だからこそ病人のわしでもやってけるのだが。
その緩さに対してわしが悪意なく病院の常識で突っ込んでしまうことに起因する騒ぎはさておき、労働力としてのわしのパフォーマンスは結構良い評価らしいので、正社員が云々言う話があった。しかしすぐに立ち消えになった。

立ち消えの理由はわしが病人だからと思っていたのだが、そうではないことが昨日わかった。
わしの学歴と職歴を照らし合わせて病院の規定通りの年収を払うと、科の予算をオーバーするらしい。

そっかー、わしって結構高い女だったのかー(笑)
長く外資系で働いていたので、その発想はなかった。部門の予算にemproyeeの年収を合わせるのが普通の世界だったから。

そしてわしらリハ職も、診療報酬の改定で点数が減っていることから収入は頭打ちだ。リハビリ部門の閉鎖等でレイオフされた20年選手は、再就職の際にかなりの年収ダウンを覚悟せねばならない、というか20年数年リハ職の前職給の高さに驚いた。わしら周辺の年代では、あと10年働いても年収500万を超えるのは難しいはず。(参考資料:当科に送信される求人オファーのファックス)。

ここ最近の日本人の平均年収は、男性500万台前半、女性250万だか280万だかぐらいとアメーバニュースで読んだような気がするのだが、そうはいっても、バブル周辺世代の年収はダウンサイジングされていないんだろうなあ。

だぁからわしの大学同期のように結婚後長く仕事から離れた後に、子育て終わったからちょっとなんかの資格をとってみて、

「フルタイムで働くなら年収400万欲しい」

と、若い子が聞いたら煮えくり返るようなことを言う奴がいたりする。自分の子供が就職する時にはその時の収入を見て自己評価もダウンサイズするんだろうけど、、、しないから子供の会社に電話かけてくるような親もいるのか・・・。

ともかくわしが働いているところについては、待遇を簡単にダウンサイズできない「所詮はお役所」の一言で片付いてしまうので、突然だが人生のダウンサイジングに話を変える。

・・・と書きかけたのだが、多分今読みかけの本を読み終えたら考えがもう少しまとまりそうなので後日にする。

とりあえず、「断舎利」とか「片付け」というのもある種の人生のダウンサイジングなんだろうな、と考えるといろいろ腑に落ちる今日この頃。

天気が良い日はTV体操が気持ちよいと思う今日この頃、いかがお過ごしですか。

てておやの介護について、リアルタイムで追報書こうと思いつつ、緩やかに下降してはいるが大きな変化はないので特記事項なし。
とりあえずリハとしては緩和ケアのようなものしかすることはない。それでもいいと思っている。

職場で親を看取った受付嬢(といってもわしの1学年下のおばさんだが)とまとめてみるに、介護というのはどちらかというと看取る側の気持ちの整理として必要な手順ではないかと思う。まー、もちろん現時点でtoo muchな介護をされている方にとっては”冗談じゃないバカ言うな”と思われるかもしれん。が、どーだろ、自分の親・連れ合いが大切であるならば、やはりある程度の心の準備はあってもいいのでは。

と、病院に丸投げしていた家族に限って、死に際に突然フルコースにするのを度々見てそう思うのね。それまで縁を切っていて「よほどの緊急でないかぎり連絡してこないで欲しい」とさえおっしゃっていたお子さんが、いざ緊急時にはフルコースに転換するのを見ると、寧ろ親に苦(ry

・・・。話を変えます。

病院と言えば、ここんとこなんだかしらんが病院のお医者さんがわしに親切。はじめは気のせいかと思ったのだが、そうでもなさそう。
いくらお医者さんはある種のコミュ障(言い方悪くてごめんなさい。でも、医学部の教育法に問題があると思う)とは言え、新しい職員に慣れるのに半年もかかるとは思えん。ということはわしに原因があるのだろう。しかしどちらかというと、悪気なく問題点を掘り起こしてしまう迷惑BBAなので寧ろ嫌われそうなものなんだが。

ひょっとして、(ry

・・・。このように、職場の話題はなかなか書けない。もちろん道義的にまずいことをしているからではない。

が、詳しくしようとすると守秘義務に抵触したり、専門的には必要で興味深い話題であっても一般ぴーぷるにとってはグロの範疇で、歪んだ興味を引く可能性があったり(例えば糖尿病で壊死した部分のセラピーとかね)、SNSでは書かない方がいいだろうなと思うことが多い。まー、その気になれば病院や大学の公式ページでいろんなものが見つかるが、個人で不特定多数に発信しちゃうのはなあ。

表現の自由とか、変な好奇心で検索する側には罪はないのか、などと問い始めると壮大な話になってしまう。それについては「興味がない」で済ませられない時代が来るような気もするのだが、とりあえず話題を変えよう。

そんなわけで(どんなわけだ)働きやすい職場で助かっている。

今の職場は高度な医療が提供できるところなので、病棟では当然難渋例のリハが持ち込まれる。
わしらは外来なので実際に携わることはないが、そんな死の淵から自宅へ帰られた患者さんと話をしながらリハすることは日常。当然わしらもオペ式やオペ後の管理についての知識は必要だ。

そう言えば、同業者と話していて、
「地域リハ、緩和リハ、それはもう散々やって重要さはわかってます、でも私今はVADとか胸郭オープンのままとか、命を懸けたリハをしたいんです」
と口走っていたことがあった。

今でも超急性期リハはしたい。何分「早ければ早いほどいい」になりつつあるし、亜急性→回復→維持、とスムーズに流れるには超急性期のリハは大事だと思う。

が、「リハ」を「恋」に替えちゃうとなんだか気持ち悪いな(←なぜ替えたし)
なんというか「中二病みたいな物言いのBBAだな」とちょっと思った。

ま、相変わらずですが、ちゃんと仕事してます。抄録締切まであと2か月、しばらく仕事最優先の方向で。

某有名文化人の言葉では、「リハビリは裏切らない」ということになっているが。

この仕事していながら申し訳ないが、その言葉には懐疑的だ。(ごめんなさい)
何故なら、リハの目標と内容が上手く合っていなければ、効果は出ない。

そして素人さんはどちらかあるいは両方とも間違えていることがある。リハスタッフの場合、その2つは間違えてなくても、刺激の度合いと種類など、方法を間違えていることもあるよ(ぼそ

最近のわしの例でお恥ずかしいのだが、引き続き、週に1度は父を見舞い、母親の腰椎捻挫およびその他のメンテナンスをしている。
3回目の治療で腰椎捻挫の痛みは完治したと言っていい状況になった。一番効いたと思われるのは2回目の治療での、足関節の運動学習とトレーニング指導であった。誉めたらとても真面目にトレーニングをしたようだ。さすがお金の精=わしの母。お金は寂しがり屋なだけではなく、勤勉なんですよ。

全然珍しいことではないのだが、足関節の治療後は腰部の運動学習が格段に進んだ。末梢と中枢の関係を考え直すよい機会であった。これだからPTは面白くて辞められない。なんてこと書いてると北海道の師匠に見つかったら、「今更何を言っているんだ。普通初回に気づくだろうよ、何年PTやってるんだ」とまた説教だよ、あーあーあ(∩ ゚д゚)・・・師匠、1単位(20分)でも気づかなくっちゃ、、、やっぱダメですよね、しょぼん。

まあ、いつもの自虐は置いといて。

話を戻すと、筋トレに関しては、目的は筋力増大と決まっている。適度な負荷と、適度な頻度。必要なのはそれだけ。それさえ間違わなければ、誰でも確実に筋力の増大という効果が出る。故に筋トレは裏切らない。

筋力増大させて何をしたいのかという目的がないと、ただの自己満足に終わっちゃうんだが。


そこで、またわしのことであるが、ひそかなリハ記録を付け始めた今年6月当初、レッグエクステンションは12.5キロで15×10セット(セット間は30秒以下)の150回でひいひい言って、訓練後階段を昇る時には足をひきずっていた。辛かった。8月末には同じことが17.5キロで可能となり、9月には最後の3回を20キロにアップしても可能となった。まあ、相変わらず辛いよ。最後の方は尿漏れするんじゃないかというぐらい腹圧もかかるぐらいきつい。だが、効果を出すためのトレーニングとはそういうものだ。・・・心リハ者としては、今度念のため一度血圧測りながらやってみようかと思う。しかしジムで血圧計と聴診器もって筋トレしてたら変な人だから、病院で患者さんがいない時にやろう・・・。

上肢は残念ながら負荷量に変化がない。寧ろ、フレンチプレスしながら臥位フリーで腱板が切れてないかを、肩関節フルレンジで確認した挙句、腱を痛めたりするので時々筋力ダウンしているが(バカですみません)、レンジだけは広がった気がしないでもない。今後は辛くても途中で止めないようにして筋力増大を図ろう。


ところで、わしの場合は何のための筋トレなのかというところだが。

基本的には仕事を出来る限り続けること。それには、筋力はできるだけあった方がいい。
それから下肢伸展筋群については、「筋力と生命予後は比例する」ことは、各種論文では既に常識なので「長生きするため」、それでもいいや。
後は、下肢筋力不足のため、エルゴ運動における脂肪燃焼や体力増強のための強度に達することができないので、そのためでもある。まずは、ちゃんと運動になっている運動をしないことにはなあ(嘆

結論としては、本日のエルゴは95W59分+175W1分だ。目標、レベッカ・ジェームス!(←嘘)


脈拍数のみなのでやや過剰評価であるが、確かに長時間軽負荷の運動をする体力には自信はあるよ。

が、



脂肪燃焼には109Wの強度、体力向上には131Wだと?しかもわしレベルの推奨活動度は1回90分週5日だ。

...無理とは言えまい、仕事柄。

しかし109Wはわしの心肺機能では、確実にAT越えてるんで、この強度で90分継続は運動生理学的に無理。だから痩せないんだわあ、と泣きながら90Wで漕ぐ50才の夏。

********************
あとで見直して、バカか、運動継続できないのはRC以上だろ!ATぐらいで継続できなかったらマラソン選手はどーするんだ。もういやだこいつ、

と、自分に突っ込んだ50歳の夏。(涙)


・・・バカですみません。



Android携帯からの投稿
この数字を見ると、オリンピックよりもCOPD(慢性閉塞性肺疾患)を思い出すのはどうみても職業病です本当に(ry

そう、COPDは2012年では日本の死因の第9位であるが、2020年には第2位(世界の死因第3位)になると予測されている。
参考:http://www.gold-jac.jp/copd_facts_in_japan/

思えば1964年、前回の東京オリンピック(生まれてはいたけどまだ1歳になってないお、とささやかな抵抗)周辺の、タバコがファッションだった時代のツケが、2回目のオリンピックの時に回ってくるわけか。感慨深いな。

・・・素直に東京に決まってよかったですね、といえ>自分


話はころっと変わるが、先週末から昨日、仕事がらみのトラブルでくたくた。
4か月前の、まだ仕事に慣れたか慣れないかの頃に上司の言うとおりに深く考えないで行ったツケが、いきなりトラブルとなって襲いかかってきた。おまけに経緯を思い出すのに時間がかかったので、やたら周囲を混乱に巻き込んだ。患者さんからクレームを頂いたこと(ご迷惑をおかけしたこと)よりも、先に起こり得ることを見通せなかった自分の浅はかさに超凹んだ。

このままではいつもの通り「バカはどこまでいってもバカ」という結論になってしまうのだが、もうその展開は飽きたし、バカのバカ自慢ってどーなのだろう。

例えばだ。

デブはデブなだけなら問題ない。が、「昨日立食パーティでさ、つい一切れずつ全部食べちゃった、、、今朝計ったら3キロ増えてた」とデブ自慢されると、
「一切れだけじゃなかっただろゴルア」と、あまり笑えない。まあ、この場合仕事が絡むからだが(苦笑)

病気は病気なだけなら気の毒だと思えるが、「久々にワイン1本飲んだら気持ち悪い、薬飲んだ後の副作用が強くなった」とか病気自慢されると、
「節子、それ副作用ちゃう。ただの二日酔いや」と、全然笑えない。まあ、この場合も仕事が絡むからだが(苦笑×2)

・・・。
ブスのブス自慢の例を考えようと思ったらなんか悲しくなってきたので止める。しかも仕事に関係ないからもういいや。

要するにバカ自慢してないで、ちったあ頭使えよ>自分、という話だ。2020年にボケてないようにだな・・・。
わしらの病気は過度の飲酒では病気の性質上も、薬剤との相互作用でも増悪する危険性が高いし、上記の理由もあるので学生時代にきのような飲酒量自慢はもうしない。

2020年にはまだばりばり現役のPTで働いていたいものだの。

日曜日は表題の「宇宙戦艦ヤマト2199」にはまっている相方みかんに連れられて映画のレイトショーを観に出かけた。

レイトショーでなくてはいけなかった理由が、日曜日の放送を観てからでないと、映画の方が先に行きすぎるかららしい。その情熱をもっと別のところにそそげよ、と思わんでもないのだが、現在相方の仕事は平和なので、こういうことになる。

例によってまた本題からずれたので話を戻す。

今作品は、オリジナルの矛盾点を回収しながらもできるだけオリジナルの設定を生かしているせいか、リアルタイムオリジナルをで観ていた層、つまるところ現在40代半ば~50代半ばの限局的な年齢層に受けているようだ。そのあたりはガッチャマンも同様なはずなのだが、両作の違いはガッチャマンは中途半端に若年層に媚びようとして、オリジナルの設定を無視して大コケした、と分析されている。

どちらも若年層に受けない理由は、たぶんもう”正義のために戦う”という基本設定が、平和尊重・戦争良くない=戦うなんてカッコ良くないと考える若者層には受けないんだと思う。現在のTVプログラム的に、戦うために必要なものは、葛藤や自己陶酔や恋であり、多分正義ではない。って、印象に過ぎないが。大義名分が必要なのはいつの時代もおんなじだろうがな。

また、今回のレイトショーは、開始が21:00台、しかも日曜という家族(子供)持ちには厳しいだろう時間帯という背景もあり、観客の入りは半分以下であった。

そして、見事なまでに

観客は40半ば~50代半ばと思しきおひとりさまのおっさんばかりであった。むしろおっさんしかいなかった。通常なら映画の後は女子トイレは混むのだが、わし含めて3人しか入らなかった。

映画が終わった後に、粛々とエスカレータに乗るおっさんの群れは不気味でもありながら、通勤ラッシュのような無機質さはなく、ある意味厳かな雰囲気であった。

相変わらず相方はいろいろ言っているが、わしはつきあい程度のことしか知らないので内容には深く触れない。


今作品では、実写版ではキムタクが演じたぐらい、オリジナルでもキャラが立っているはずの「古代進」が目立たない。エンドロールでも、一番初めに名前が挙がっているのは沖田艦長だ。

理由として、古代役の声優さんが、「しろくまカフェ」のラマさんだからだろうか、というのは冗談で、ひょっとして元ダンスィ・ヤマトファンの年代のせいなのだろうか、と思ったりした。製作側も、観ている側も沖田艦長の年齢の方が近い。オリジナルヤマトをプロデューサーの西崎氏が企画した時、39歳。監督の松本零士がデザインスタッフになったのが36歳。今作の2199の総監督・出渕氏が御年54歳。オリジナルの設定では沖田十三52歳、古代進17歳だ。

それはともかく、地球に還った日を12/8にしたのはいただけないなあ。
それ、真珠湾の日だからじゃなくて、出渕さんの誕生日だからだろ。やっぱりオリジナルの放映最終日通り、映画の終わる9/6にしとけよ。(←それはわしの誕生日だ)

あと、普通に考えると、軍隊で一尉が艦長代理はないだろうな。オリジナルほど好き勝手したら、世の中示しがつかん。

と、思ってみたりした。

わし個人の話だが、今週は代理出勤があるので今日これからの通院を含め、ウィークデイは全部病院だというのに日曜深夜まで遊んでいた件。今後も徹夜や深夜労働は論文や発表の前にはよくあることだから仕方ないが、深夜酒はいかん、病人なんだから。反省。不健康な生活を楽しむためには、最低限の健康が必要だ。病人が不健康を自慢するのは、不細工が不細工自慢をしているようなもんだ・・・。

ところである種の病人の機能回復について検討をしている今日この頃だが、すんばらしく胸熱な結果を叩きだすのは見事に40代半ば~50代半ばの「ヤマト世代」の「男性」だけなんだな。おっとこれ以上はまだ言えない。