「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」。
本日発売の話題の新刊、読了。
読むのを楽しみにしている方に申し訳ないのでネタばらしはしない。
いわゆる「ハルキスト」(すごい名称だ)の方にとっては、多分期待ははずしません。ここ数作と比較しても”村上春樹度”が高く、85%(そのココロは本を読んでくださいな)に受け入れられるのではないかと。または、彼の示唆するところを「何を今更」と思う方もいらっしゃるかもしれない。
読後の感想を一言で言うと、いい本だと思う。
いい本の基準は人それぞれだろうが、わしがいい本だと思うのは、抽象的に言うと読んだ後に頭の中が広がるような感じを持てる本、もう少しわかりやすく言うと、言葉は簡単でありながら、人が生きる意味を考えさせてくれる本だ。
かつてのわし周辺の村上春樹を嫌いな人に限って言うならば、英語で言うとアウトキャスト側だった。つまり人が示す人生観を受け入れることを嫌う、かといって自分で人生観を組み立てられるかと言えば本人は組み立てているつもりなんだろうが、実はそう思わされているだけ。
他人の意見にケチつけるだけの「つくる」ことなんてできない人間だが、本人にはその自覚はない。まあ、わし自身がクズと呼ばれるアウトキャストすれすれの会社のいいなり人間か、会社の言いなり人間すれすれのアウトキャストだからなあ。類友だよ。
ところが、最近のわしってば、自分の身の丈を越えた「”本当に”自分の頭でものを考えられる」人間の群れに混じることが多くなり、そういう人たちを尊敬しつつ(嫉妬はしない、する余裕がない)自分はそうではないことを痛感する。これはなかなかに”きつい”。
そんなこんなを考えさせられた。
ところで、村上春樹が嫌いだと言う人の意見には、「何がよいかわからない」とか「そんなに女性がイージーにからむはずがない(ある種の妬みだ)」とか「淡々としすぎ」とかいろいろあると思うが、「何を言っているのかわからない」という意見は聞いたことがないと思う。ようするに、書いてある文章の意味は通る、正しく簡潔な日本語を使っている。多分、現存する日本人作家の中でも最高位にすんなり読める文章だと思う。そのため普通の本読みであればあっという間に読み終われるから、多分今日一杯で3回ぐらい読み直していろいろ考えている方がいると思う。わしもこれから2回目を読むつもり。
日本語を正しく使うのは、作家だから当たり前と思うかもしれないが、そうでもない。ここ数年の○○賞の××さんとか、同じ賞の△△さんとか。嗚呼、それは他の作家さんを貶めようという意味ではなく自分で論文を書いた上での反省ですよ・・・
最近のわしのブログってば、内容の薄さや偏りうんぬんよりも、読みにくいダメな日本語になりやすいから自己嫌悪を感じて時々過去の文章をいじったりするが、それでもまだまだ(涙)
「自己満足なんだから、自分の好きなように書けばいい」と言う意見もブログ上では目にするけどさ、”自己満足だからこそ”、あまりにみっともない糞文章をオンライン上残したくないね、わしならね。
でもって、人の書き捨てG行為を覗き見る趣味もない。だから自己満足の何だかわからん文章は全く読みたくない。そういう方には主義の違いと思って近寄らないし、わしのことをわかってもらえなくても全く構わない。
書き手がプロかどうかという問題ではない。つまるところ、わしは見せつけプレイも放置プレイも好きではない、非常にノーマル指向な人間なだけだと思っていたのですが、わしはひょっとして多数派ではないのか?と言う考えに至ったところがこの本から得た収穫かもしれない。
★本日の結論
論文のためにも日本語を勉強しないと、というわたしは確か日本文学科出身ではなかったか。