それからしばらくして亜美は女の子を産んだ。


とても天気の良い日の午後のことだった。


智也によく似たその子に『菜穂』と名付けた。


愛らしいその笑顔は宝だと亜美はいつも思っていた。




春が過ぎ、夏が行き、秋が去り、木枯らしが吹き始めた。


そんなある日、来客のベルが鳴る。


「どちら様ですか?」


「佐々木です。」


急いで玄関のカギを開ける。


「どうぞ入ってください。


お元気ですか?」


「ありがとう、元気ですよ。


あなたも元気そうで良かったわ。


赤ちゃん、女の子なのね。


名前は?」


「奈穂です。」


「パパそっくりでとても可愛いわ。


初めまして、仲良くしてね。」


まるで自分の孫でもあやすように彼女は奈穂を抱き上げた。


「先週までパリにいたの。


帰って来ると、やっぱりすぐにあなたに会いたくて、急いで来たのよ。」


「気にかけて下さって、ありがとうございます。


私は毎日をのんびりと過ごしています。


やることはたくさんあってバタバタしていますが、時間はたっぷりありますから。


奈穂の寝顔に見とれていたり、一緒に泣いてみたり、奈穂をモデルに描いてみたり。


奈穂を産んでホントに良かったといつも思っています。」


「そう、それなら良かった。


でも無理はしちゃダメよ。」


彼女は亜美が会いたいと思っている頃にやって来てはしばらく話して帰っていく。


そういう人。


亜美の絵を良い絵だと褒めてくれたのも彼女だった。


そしてまた・・、チャイムの音が聞こえた。


「どなたですか?」

亜美は妊娠している。


自分の身体の中で一つの小さな命が育っていることが嬉しかった。


智也に知らせることをしないで一人で産むことを決めた。




ゆっくりと流れる時間の中で好きな絵を描いている。


南向きの大きな窓から冬の陽が入ってくる。


午後からは部屋の中はポカポカ暖かい。


智也を描いていた。


来客を知らせるベルが鳴る。


「こんにちは。


突然ごめんなさいね。


・・やっとあなたに会えた。」


あの時の婦人だった。


「元気?


もしかして赤ちゃん?」


「ええ。」


「それは素敵なことね。


おめでとう。


あなたをフランスに誘いに来たけど、今は無理ね。」


「フランスですか?


私がなぜ?」


「あなたの絵が好きだからよ。


この前貰った絵のお礼がしたくて。


私の好きな場所を見せたかったの。


あれ?


その人がパパなの?」


「はい。


離れて暮らしているから、この子が生まれてくる前に描いておきたくて。」


「本当にこの人のことが好きなのね。


こうやって絵を見ているだけでこの人を知ってる気持ちになる。


行ったことのない場所も懐かしく思える。


そんな絵に会えたことがとても嬉しくて、こうしてまた会いに来たのよ。」


ありがとうございます。


私は描くことが好きです。


迷いとか不安とかに押しつぶされてしまいそうな時、こうやって描く世界に入り込むことで助けられています。


これって逃げてるんでしょうか?」


「誰だって、いつも走ってばかりはいられないのよ。


歩いたり休んだりしながら前に進んで行くの。


それがあなたにとって描くことなのだと思うわ。」


婦人はそう言った。


そしてこう付け加えた。


「何か事情がありそうね。


でも、信じたことを貫くのが一番よ。


あなたにはそうやって生きて欲しいし、それが出来ると思うわ。」


「ありがとうございます。


話して良かったです。」


元気な赤ちゃんを産んでね。


また会いに来るわ。」


そう言って帰って行った。

次の日の昼過ぎ、亜美は戻ってきた。


翔平はその日、朝からずっとマンションの前で待っていた。


「ただいま。


私の心配なんてしなくていいのに。


自分のことだけで精一杯でしょ。」


亜美はそう言って翔平を見た。




あの夜、初めてあの店で言葉を交わしたあの時に、翔平は亜美に対して無意識に何かを感じていたのかもしれない。


そうで無ければ初対面の人に、あんなことを話したりしないだろう。


翔平にはわかっていた。


勝ち目のない恋だと。


気持ちよ、止まってくれ。


頭でいくらそう思っても感情は思うようにならない。


いつでも一生懸命、全力投球の亜美がほんの一瞬見せた弱さに気づいた時、切ない気持ちでいっぱいになる。


自分が守れる相手でないことも、彼女が求めている腕が自分の腕ではないことも全部わかっている。


でも、戻ることはできない。


彼女がいなくなって探し回ったのは自分のためだったのだ。


こんな内側の気持ち、誰にも話せやしない。




翔平たちの音楽は、ずっとずっと向こうに明かりが見えてきた感じだった。


ライブに少しずつ人が入るようになった。


翔平たちを目当てに足を運んでくれる人が増えたということだ。


そのことが、次の元気を生み出すエネルギーになった。


練習していても今までと少し違う気がするのは、そういう目に見えることが変わってきたせいだろうか。


これから先も続けて行けそうな気持ちになれた。


翔平の心には亜美がいる。


彼女は今頃何をしているのだろうか。


外は寒い。


それもそのはず、もうすぐクリスマス。


『足立智也』という人を知らなければ彼女に向かって行けだろうか。


自分の気持ちを告げることができただろうか。


遠慮とは違う。


翔平は彼のことも好きだった。


学歴とか職業とかそういうモノじゃなくて『足立智也』という人間が好きだったのだ。


通りの向こう側に亜美の姿を見つけた。


「望月さん。」


大きな声でそう呼んだ。


「・・・。」


辺りを見回す亜美にそこで待つよう合図して歩道橋を走って駆け付けた。


「一人ですか?


一緒に飲みませんか?」


「そうね、外で飲むのもたまにはイイね。」


二人の行き先は決まっている。


pp(ピアニッシモ)そう、マスターがいるから。


扉を開けると静かな笑顔で迎えてくれた。


「いらっしゃいませ。」


「こんばんは~。」


二人はカウンターの席に座った。


他に客がいなかったので三人はしばらく話していた。


珍しく今日はゆっくり話せそうだと言っていた矢先、数人の客がやって来た。


二人になった。


翔平は思い切って言ってみた。


「足立さんのこと、聞いてもイイですか?」


亜美が首を縦に振る。


「あの日、智也がフランスに戻った時、三年前の別れとは違うって言ったけど、自信が無くなってきたよ。


待ってるって言ったけど、最近は智也が恋しくてどうしょうもないの。


近くに居てくれたら・・って思うことが多くなってきた。


私、もう電池切れかな。


もう頑張れないのかな。」


いつに無く亜美の弱気な言葉。


その言葉に翔平の心は激しく波打つ。


溢れ出てしまいそうになる気持ちを必死に沈めようとしたのに・・。


「望月さん、俺じゃ、ダメですか?


足立さんの代わりにはなれないけど、俺じゃ、ダメですか?」


どうにも止められず言ってしまった。


「八木君、そんなこと簡単に言ったりしたらダメよ。」


「簡単なんかじゃありません。


俺は望月さんのことが好きです。


こんなこと言ったら困られると思ったから黙っていましたが、ごめんなさい、言ってしまいました。」


「ありがとう。


だけど、八木君の気持ちには応えられない。


智也を大切に想う気落ちとは別に八木君のことも大事だと思ってる。


自分を誰かの代りでイイなんて思ったりしないで。」


「・・・。」


翔平は黙ったまま首だけを縦に動かした。


「私が、あんなこと言ったからだね、ごめんね。」


この時、亜美は翔平の気持ちが嬉しかったのだ。


「ねえ、彼女いないの?」


「ええ、今はいません。」


「そっか・・。


どんな人が好き?


理想が高かったりするの?」


「俺ですか?


別に特に無いです。


自分から好きだと告白したことは無いし、彼女がいなくても別に欲しいと思わないです。」


「私は、智也に出会ってなければ本当に誰かを好きになるなんてこと無かったかもしれない。」


頷きながら黙って聞いている。


「俺も、足立さんのこと好きです。


初めて会った時、カッコイイなって思いました。


何も知らないのに、この人は俺の今まで知ってる人たちとは何か違うって思いました。」


「男の八木君が見ても魅力的ってことね。


不思議な人でしょ。


あのね、私しばらくまた留守にするけど心配しないでね。


この前の所だから、何かあったら連絡して。


これがそこの電話番号。」


「俺、遊びに行ってもイイですか?」


「ダメ。


しっかり音楽やってね。」



山道を歩く。


絵具とスケッチブックを持って。


亜美は描くことも好きだった。


大学に入ってからは音楽ばかりだったのだが、今こうして手にしている筆もパレットも亜美の手に馴染んでいる。


懐かしい。


緑の中で柔らかい太陽の光を浴びる。


空はどこまでも広く、風は優しく頬をなでる。


弱気になりかけている亜美の心にあたらしい風が吹き込む。


毎日を一生懸命過ごしてきた。


もしかしたら大事にしたい気持ちをどこかに置き忘れてきたかもしれない。


晴れた日に青い空を見上げて大きく息をすること、冷たい雨の降る日に傘をさして点滅する横断歩道を駆けること。


こんな普通の生活を妙に恋しく思う。


ある日、一人の婦人と出会った。


五十歳を少し過ぎたくらいだろうか、美しく上品な印象を持った。


「素敵な絵ですね。」


その人はそう言って亜美に声を掛けた。


「ありがとうございます。


上手くないですけど、描くことが好きなんです。」


照れくさそうに亜美が言う。


「絵を見ていると感じられます。


描くことを楽しんでいることや、あなたという人の芯の強さが。


他にも描いてるのなら見せてもらえませんか?」


「はい。


ここを少し下ったところなのですが、これからいかがですか?」


「お願いします。


とても嬉しいわ。」


婦人はとても懐かしそうに一枚一枚ゆっくりと見ている。


その中の一枚を手にして言った。


「この絵、私に譲ってもらえませんか?」


「えっ?」


亜美は驚いた。


「気に入ってもらえたのなら、どうぞ。


好きだと言って下さる方に貰ってもらえるなら私は嬉しいです。」


心からそう思っていた。


今まで自分の絵を褒めてくれた人なんて一人もいなかった。


上手く描くことよりも、ただ絵を描いている世界に居ることが心地よかったのだ。


「ありがとうございます。


大切にしますね。


あなたはきっと素晴らしい絵描きさんになれるわよ。」


「私は・・。」


亜美は次の言葉を飲み込んだ。




どれくらいここで暮らしたのだろう、絵は十数枚になっていた。


電池切れになっていた携帯電話を充電し電源を入れた。


ちょうどその時・・、


「望月さん、望月さん、今どこですか??」


翔平の声は探していたモノをやっと見つけ出したと言うような、そんな声だった。


「河口湖の別荘に居るのよ。」


「そんな・・。


こんなに長い間連絡取れなくて、ずっと気になっていました。」


「それは、ごめんなさい。


長く居るつもりは無かったんだけど、つい居心地良くて。


探してるなんて思わなかったから。」


「俺、すぐに行きます。


場所どこか教えてください。」


「来なくても明日帰るから。


今、準備してたところなの。」

「望月さん・・。」


翔平に呼び止められる。


「どうしたの?」


「突然ですみません。


相談したいことがあるんですけど、少し時間イイですか?」


「いいわよ。


じゃあ、行きましょうか。」


部屋の中は片づけられている。


隅の方に大きなスーツケースとバッグが二個仲良く並んでいる。


「いよいよですか?」


「うん。」


言葉は短く声は小さい。


無理して笑って見せる亜美に翔平の心が締め付けられる。


翔平にとって亜美はいつの間にか特別な存在になっていた。


自分たちの音楽を認めてくれた人。


それ以上の感情が生まれていた。


知り合ってまだそれほど時間は経っていないが、こういう時、過ごした時間の長さなど大きな意味を持たない。


翔平の中にこの気持ちに気づかない振りをしようとしている自分がいた。


亜美に対して真正面から向かい合うことを避けていた。


亜美は話し始める。


「フランス語って難しいね。


英語だって満足に話せないのに、暮らせるのかな?


学生の時、もっと真面目に勉強しておけばよかった。


でも、不安ばかりじゃないのよ。


行ってみたい場所もたくさんあるから、家に閉じこもってないで、出掛けてみようと思ってるの。」


そう言いながら亜美の目は見る見る潤んで今にも涙が溢れそうだ。


最初の一粒が零れないように必死に耐えているのが感じられる。


次の瞬間・・。


翔平は亜美を抱きしめていた。


なぜそんなことをしたのか翔平にもわからない。


だた、思わず抱きしめた。


亜美に掛ける言葉のたった一つも見つけることが出来なくて。


「大丈夫、きっと大丈夫です。」


そう言いたい気持ちがあった。


だけど、それを全部わかったように口にすることが許せなかった。


「ゴメン、変なところ見せちゃって。


大丈夫だから。


話があるんだよね、何?」


「いえ、今日はもう・・。


望月さん、俺なんかの話なんて聞いてる場合じゃないでしょ。」


「・・。」


「このままここに居ると俺・・、この次、足立さんに笑って会えなくなりそうだから帰ります。」


翔平はそう言って部屋を出た。


亜美は準備した荷物を車に積んで翌朝河口湖の別荘へと車を走らせた。