山道を歩く。


絵具とスケッチブックを持って。


亜美は描くことも好きだった。


大学に入ってからは音楽ばかりだったのだが、今こうして手にしている筆もパレットも亜美の手に馴染んでいる。


懐かしい。


緑の中で柔らかい太陽の光を浴びる。


空はどこまでも広く、風は優しく頬をなでる。


弱気になりかけている亜美の心にあたらしい風が吹き込む。


毎日を一生懸命過ごしてきた。


もしかしたら大事にしたい気持ちをどこかに置き忘れてきたかもしれない。


晴れた日に青い空を見上げて大きく息をすること、冷たい雨の降る日に傘をさして点滅する横断歩道を駆けること。


こんな普通の生活を妙に恋しく思う。


ある日、一人の婦人と出会った。


五十歳を少し過ぎたくらいだろうか、美しく上品な印象を持った。


「素敵な絵ですね。」


その人はそう言って亜美に声を掛けた。


「ありがとうございます。


上手くないですけど、描くことが好きなんです。」


照れくさそうに亜美が言う。


「絵を見ていると感じられます。


描くことを楽しんでいることや、あなたという人の芯の強さが。


他にも描いてるのなら見せてもらえませんか?」


「はい。


ここを少し下ったところなのですが、これからいかがですか?」


「お願いします。


とても嬉しいわ。」


婦人はとても懐かしそうに一枚一枚ゆっくりと見ている。


その中の一枚を手にして言った。


「この絵、私に譲ってもらえませんか?」


「えっ?」


亜美は驚いた。


「気に入ってもらえたのなら、どうぞ。


好きだと言って下さる方に貰ってもらえるなら私は嬉しいです。」


心からそう思っていた。


今まで自分の絵を褒めてくれた人なんて一人もいなかった。


上手く描くことよりも、ただ絵を描いている世界に居ることが心地よかったのだ。


「ありがとうございます。


大切にしますね。


あなたはきっと素晴らしい絵描きさんになれるわよ。」


「私は・・。」


亜美は次の言葉を飲み込んだ。




どれくらいここで暮らしたのだろう、絵は十数枚になっていた。


電池切れになっていた携帯電話を充電し電源を入れた。


ちょうどその時・・、


「望月さん、望月さん、今どこですか??」


翔平の声は探していたモノをやっと見つけ出したと言うような、そんな声だった。


「河口湖の別荘に居るのよ。」


「そんな・・。


こんなに長い間連絡取れなくて、ずっと気になっていました。」


「それは、ごめんなさい。


長く居るつもりは無かったんだけど、つい居心地良くて。


探してるなんて思わなかったから。」


「俺、すぐに行きます。


場所どこか教えてください。」


「来なくても明日帰るから。


今、準備してたところなの。」