令和大相撲5年史 優勝争い分析④-2 決着状況 | 三代目WEB桟敷

三代目WEB桟敷

力士分析などを行う相撲研究サイト「大相撲パラサイト」のブログです。

令和の優勝争い分析、4つめの切り口は、優勝決定日。

 

最終的な星の差が小さくても、優勝決定後に負けて結果的に接戦に見えていることもある。

混戦模様を測るには、優勝決定のタイミングで比較するのが一番実態を表しているはずだ。

 

 

 

 

第2回は、千秋楽決着とそれ以前の決着、さらに直接対決による決着ケースの3パターン(決定戦、楽日相星決戦、楽日1差決戦)の時代ごとの多寡を分析する。

 

 

  千秋楽決着

千秋楽決着

平均決定日とほぼ同じような順位。13日目決定が多さを考慮しない分の入れ替わりくらいだ。5つの時代で3分の2以上が千秋楽決着となり、半数以下は平成21-25年と昭和40年代後半だけだった。年6場所でいえば、4場所ペースなら縺れている部類だが、3場所ペースだとかなりあっさりしているということになる。

 

令和は脅威の85%超え。昭和50年代前半は73%。

 

令和2年初場所から3年秋まで10場所連続千秋楽決着。平成11年初場所から12年夏まで9場所連続。平成9年春から10年夏まで8場所連続。昭和は40年以降では7場所が最長だが、35年九州から37年春まで10場所連続がある。関脇大鵬が初優勝してから佐田の山、栃ノ海が立て続けに優勝して大関に昇進するまで。横綱昇進前後の大鵬の4連覇を含むが、全て1差以内の競り合いだった。

 

千秋楽前の決着

千秋楽前の決着が続いたのは、昭和43年5月からと、昭和47年9月からの5場所が最長。前者は横綱大鵬と大関玉乃島、琴櫻。後者は横綱北の富士、大関琴櫻、輪島で記録した。個人では、朝青龍が7連覇のうちの前半4場所と、平成18年7月からの4連覇と2度記録。記録以上に独走の印象が強いのは、この連続独走記録によるところが大きい。

 

全体の10%に満たない稀有な13日目決着だけに、最長でも2場所連続だが、続くときは続くもので、昭和59年5月からの7場所では4度も出た。

 

最速のタイミングは、13日目の取組前。平成17年1月、朝青龍が12戦全勝。13日目に唯一の3敗だった小結白鵬が敗れると、朝青龍が敗れても残り2日で3差が残るため、優勝決定となった。もし白鵬が前日琴欧州に敗れていたら、最速の12日目で決着するところだった。

ちなみに15日制における最速決定は昭和14年夏、前場所69連勝が止まった双葉山が賜杯を奪還した場所。12日目を終えて全勝で後続とは3差だったが、当時は決定戦制度がなく同点の場合は上位者優勝。3差の力士が全て番付下位だったため、この時点で優勝決定となった。決定戦導入以降の最速は上記の例が最速である。

 

 

  直接対決の3パターン

決定戦

決定戦まで縺れ込む割合は、1、2位が30%で並んだ。安定のドングリ令和と肩を並べたのは平成6−10年。11勝から14勝まで。2〜5人まで取り揃えた決定戦のデパートだ。3位は昭和40年代後半。平均決定日は2番目に早かったのに決定戦はやけに多く、いざ千秋楽に持ち込まれると半数以上が決定戦になっている。独走と接戦が極端な時代だった。北玉同時昇進に始まり、大鵬最後の優勝、関脇対平幕もあれば、輪島の逆転連続下手投げ、最後は小結魁傑が横綱北の湖を破る波乱で幕を閉じた。これに続くのは2つの年代。昭和50年前半の輪湖決定戦は意外と1度だけだが、50年に貴湖、53年に北若が2回ずつ戦った。平成初期も、元年に北勝ー旭が2回。同部屋横綱対決、外国人対決と史上初のケースも。25年ぶりの巴戦は初の2巡目突入、同期生トリオの巴戦では若貴対決は実現しなかった。トップ5には、平均しても決定日は遅め、星の差は小さめの年代が並んだ。

最も少なかったのは昭和40年代前半。決定日は4番目に早く、星の差は2番目に大きかった時代だ。部屋別総当たりとなって決定戦しか見られなかった同門対決が日常的に見られるようになったからというわけでもないが、5年間で3度しかなかった。そのうち1回は昭和最後の巴戦。41年9月は、3場所連続で大鵬に1差の柏戸が挑む千秋楽決戦で、ついに柏戸が一矢報いた。逆転優勝はならなかったが、大鵬2度目の6連覇中最も危なかった、柏鵬時代後期の名勝負であった。もう1回は混戦の末に新大関清國が平幕藤ノ川を下している。次いで13%で3つの時代が並ぶが、いずれも決定日や星の差は中間クラスで、それほど相関性は強くない。

 

千秋楽相星決戦

決定戦はどんな組み合わせでも起こりうるが、千秋楽相星決戦は成立条件が限られる。本割なので、もちろん同部屋力士は当たらない。また、千秋楽の取組編成は不文律ながら上位から順に組まれるので、結びの一番は東正横綱ー西正横綱、以下少なくとも上位陣は番付上位から順に対戦が組まれる。特に最上位の力士の終盤戦は、西関脇から順に当てられて行くのがほとんどの時代においてセオリーだった。そのため、順当に2横綱時代の両横綱が強いと成立しやすいが、それ以外の地位の力士が絡む場合は、敢えて割を崩して仕組む場合もあるが、偶然によるところが大きい。

 

ダントツで最多割合となった昭和50年代後半には23%を占め、同時代の決定戦13%を上回っているが、それ以外は昭和60年代が並んでいるほかは、やはり決定戦よりは少ない。平成末期と昭和40年代後半は0。昭和40年代を通じて1例だけだった。50年代から急に増えたが、平成後半からまた減少傾向とトレンドがある。

 

例外的に多かった昭和50年代後半。やはり印象的なのは58年名古屋から4場所連続でぶつかった千代の富士対隆の里。隆の里が横綱昇進を掴み、さらに新横綱で全勝決戦を制し、得意の九州場所で千代の富士が一矢報いるが、年が改まって隆の里が賜杯奪回。56年には北の湖ー千代の富士も2場所連続で、雪辱を果たした千代の富士が横綱を掴んだ。両者は翌年にも横綱同士でぶつかった。決定戦は通算6戦負け知らずの千代の富士だが、大関から横綱前半期までの相星決戦は2勝5敗と苦戦している。特別接戦の多かった時代でもないが、なぜか相星決戦が多発。全て千代の富士絡みで、出場力士中番付の1,2番手の対決。複数の強豪が揃った時代ゆえ、一方が不調だと独走になる可能性も高く、大混戦の展開はまれ。平均するとそこそこ差がつく展開になるのも自明の理だ。

 

2番目に多かった平成11−15年は、対象的にカードの種類が豊富。武蔵丸ー貴乃花の横綱対決が2度あったが、横綱の休場により武蔵丸ー貴ノ浪、魁皇ー千代大海と大関対決も2カード。最後は大関栃東が横綱朝青龍を下したが、この場所は一人横綱朝青龍の対戦順を入れ替えて、直接対決を千秋楽まで延ばしたのが功を奏した。

 

1、2位の年代は決定戦と合わせて全体の30%程度となったが、3位の令和は決定戦だけで30%。さらに相星決戦が11%と、勝った方が優勝の一番が40%超え。相星決戦の成立しやすい2横綱並立の場所は殆どなかったが、3例実現している。横綱として入れ替わりになった白鵬と照ノ富士の全勝決戦は歴史に残るだろうが、貴景勝ー琴勝峰の大関平幕対決は、14日目打ち出し後に取組を編成するようになったことの産物だろう。後出しじゃんけんではないが、前日までの成績が確定してからの割を組むのであれば、混戦の結果最後まで対戦のなかった首位対決が組みやすく、番付順によらない千秋楽相星決戦は増加しそうだ。

 

※あくまで勝った方が優勝という状況での相星対決を対象とするので、千秋楽の首位同士の対戦でも、3人以上が首位に並んでいて、勝った方が決定戦進出という場合や、他の力士の結果待ちの場合は除く(平成13年春の魁皇ー武双山は、取組後に曙が敗れて決定戦にならず)。取組前に他の首位タイが全て敗れていた場合は、相星決戦とする(平成4年春の栃乃和歌、安芸ノ島が敗れた後の小錦ー霧島戦)。

 

 

千秋楽1差直接対決

千秋楽1差での直接対決。首位が負ければ決定戦、相星決戦と違って2番見られる。劇的な逆転優勝の可能性も、追っている力士が多ければ巴戦以上も見られる期待もある。あっさり優勝決定、相手は2差をつけられ準優勝ですらなくなる可能性もあるが、決戦に持ち込んだことには価値がある。そんな1差の直接対決も面白い。

 

1位は令和の37%、最少は平成16-20年の7%とかなりの差があった。

決定戦になったのが4例。うち逆転は2例で、巴戦に持ち込んだ阿炎は高安を再び下している。貴景勝ー照ノ富士は2度(大関と小結、大関同士)連戦となって互いに決定戦で雪辱を果たしている。

本割で決着したのが6例でその地位は多岐に富む。典型例のはずの横綱同士は鶴竜ー白鵬の1例のみ。横綱ー関脇、大関ー関脇、関脇ー新入幕、関脇ー幕尻・再入幕、そして平幕同士も。千秋楽なのに番付格差があるということは、当然急遽組まれた割ばかり。調子の上がらない大関戦を外すなど、審判部の好判断によって生まれた千秋楽対決もあった。前頭3枚目玉鷲と4枚目高安の好調同士を最後まで温存していたとしたら凄い読みだ。

 

単独の2位は昭和60年代の29%。双羽黒は、相星決戦2度に加えて、千秋楽1差で3度千代の富士と当たって2度は決定戦に持ち込んだが、ついに牙城を崩せず。1敗で臨んだ千秋楽決戦に敗れたのを最後に土俵を去った。63年は番付の妙で千代の富士と大関旭富士が2戦して優勝を分け合った。大乃国は北勝海との大関対決では突き放して全勝、横綱同士となっては連戦して逆転。(翌平成元年秋には横綱初の皆勤負け越しに追い込み、3年春は共に最後の優勝争い。令和6年には八角理事長が芝田山理事を執行部から突き出し?1歳違いの同郷横綱の長い因縁だ。)

 

最少だった平成16−20年は千秋楽決着が全体で2番目に少なく、1差対決は16年の2例しかなかった。いずれも首位朝青龍が勝って本割で決着。その後3年余り1差以内での千秋楽本割対決はなく、20年になってようやく青白両横綱の相星決戦が2場所連続で実現した。当時は朝青龍の対抗馬不在、大関陣の体たらくが嘆かれたが、いかに番付2番手(東大関)が最後まで競り合えなかったかを物語っている。