平成の時代。
急速な国際化が相撲史における大きな変化だったが、外国勢初の横綱昇進というゴールをこじ開けたのが曙。
師匠高見山が初の関取、幕内、三役、そして幕内優勝を成し遂げた。
先輩格の小錦が大関になり、曙が入幕する頃には綱取りに迫っていた。
ところが、最高位を前に逆風が吹いた。外国人差別発言騒動で紛糾。
外国人を横綱にしていいのかというところから語る守旧派も普通にいた。
そんな内向きな議論を実力でふっとばしたのが曙。
大関わずか4場所。連続優勝で黙らせ、空位となっていた横綱に登り詰めた。
それでも若貴フィーバーにおける敵役の宿命は免れず。
脅迫状を送りつけられることも日常茶飯事。
それでも結果で圧倒し、平成5年に3連覇を果たしたときには完全に一強体制に入るかに思われた。
しかし、体重増加による下半身の負担が早くも体を蝕んだ。
時を同じくして貴乃花が台頭。完全に脇役に回り、やがて土俵を務め続けることが難しくなった。
それでも度重なる故障を乗り越えて復活。
平成12年には3年ぶりの賜杯を得ると、納めの九州も締めて7年ぶりの年間最多勝。
これを花道に、スパッと引退したのは近年稀な鮮やかさだった。
身長2メートル4、足の長い体型は相撲向きでないと言われながら、謙虚な立ち居振る舞いは日本人より日本人らしく、稽古場や巡業でも積極的に胸を出すなど横綱としての責任感は高く評価された。
皮肉にも弟弟子はなかなか育たず、二子山は2横綱1大関、武蔵川は1横綱3大関を擁する中、孤軍奮闘。
引退する年になって大卒の高見盛が入幕し、ようやく横綱土俵入りの脇を同部屋力士が担った。
帰化も果たし、将来は当然東関を継承と見られていたが、突然の総合格闘技転向。
故障持ちがブランクを経ての挑戦。惨敗が続いて酷評されたが、プロレスではそれなりに存在感を発揮した。
一方、東関部屋は高見盛が人気を博し、15年には朝青龍、武蔵丸から金星も得たが、指導役の曙がいなくなって勢いは止まった。稽古場で朝青龍に受け身の取れない技をかけられ肩を痛めたのが致命傷になったとも言われるが、これも曙がついていればと惜しまれる。高見山は裏切られたというような恨み節をこぼしていたが、一代年寄曙は平成18年初場所までで5年の期限が来る。師匠停年まで3年余りを繋ぐ年寄株の手配が必要で、繋いだとしても必ずしも東関を譲られるものではない。年寄株の譲渡というのは一子相伝の典型のような東関部屋であっても簡単ではなかった。
結局、平成21年に高見山の停年退職に際して元幕内潮丸が継承した。高見盛の引退後はなかなか関取に恵まれず、さらに師匠早逝の不運も重なり、高見盛が継承したが間もなく閉鎖となってしまった。
各方面でいまだ曙の退職を惜しむ声は多い。